座敷牢中夢地獄 51 - 55
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アキラと会っていない間の自分の生活と思考の全てを写し取ろうとするかのように
手紙は回を追うごとに異様な長さとなっていき、これを毎日自筆するだけでも
日常生活に支障が出ていたのではないかと思われるほどだった。
それと同時にあれほど達者で端正だった筆跡が乱れを見せ、文章の内容もアキラと
会えないことへの不安やアキラもまた自分に会いたがっているという妄想に傾いていく。
「・・・一人の人間が崩壊していく過程とは、こういうものかと思ったよ」
男の手紙が変調をきたし始めた時期と、アキラの帰宅が遅くなったり明子夫人が
アキラの体に痣を見たりした時期とはちょうど重なっていた。
消印の最後の日付は、アキラが最後に指導碁に出向いた日の前日のものだった。
その頃になるともう手紙の内容は目を覆うばかりで、これを事前に読んでいたら
絶対にアキラをそれ以上男に会わせになど遣らなかっただろうと、便箋を持つ先生の手が
震えてくるほどのものだった。
最後のページはそれまでのどのページとも趣が違っていた。
それまでは文章が主体で時折それに小さく挿絵が添えられている体裁だったのが、
最後の一通の最終ページだけは真ん中に大きく一人の男の絵が描かれていた。
絵の男はよく見るとナイフで自分の胸を裂き、ハート型の心臓を取り出してこちらに
向かって差し出している。絵が稚拙なせいもあるが、男の表情は苦しんでいるとも
微笑んでいるとも、どちらとも取れる。
付された説明文によればそれは男の自画像であり、自分の気持ちはこの絵の通りだと云う。
アキラに自分の全てを捧げる。
死ぬほど愛している。
アキラと会える時だけが自分の生きている時間で、それ以外はたとえ心臓が動いて
呼吸していても、自分にとっては死んでいるのと同義なのだと。
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それらの手紙は確かに、人格者と呼ばれた男の内部に潜む狂気を感じさせるものだった。
だがその中に、消えない純情がある。
アキラの父親として、男のした行為は決して許せるものではないが、アキラを想う
あまりに男が精神の安定を失い破滅への道を転がり落ちて行ったと思うと不憫でもあった。
と同時に、男を自殺にまで追い込んだ責任の一端は自分たち親子にもあると感じた。
もしかしたら脅されたりしていたのかも知れないとは言え、アキラが男の誘いに応じて
指導碁に通い続けたこと。
親の側もそれを不審に思いながら、止められなかったこと――
男の内に潜んでいた暗い資質に加え、自分たち親子のそうした対応のまずさもまた、
男の狂気を深めこの事態を招いた一因ではあったのだ。
「逡巡した末、私はその手紙を今一度アキラに返すことにした」
アキラの部屋を訪れて文箱を置き、一通り目を通すだけでいいから読んでおくようにと
先生は言い渡した。
一連の事件によって心身に深い傷を負ったであろうアキラにそれらを読ませるのは
酷かとも思ったが、たとえ子供であっても自分がしたことの責任の重さはきちんと把握
させるべきだというのが先生の考えだった。何しろ、人一人死んでいるのである。
それに、おかしな話だが――と前置いて先生は、私はその時、男に同情する気持ちにすら
なっていたのだよ、と言った。
男が人生の残り時間を削って毎日書き続けた手紙を、アキラは一通も、封を切ってすら
やらなかった。
心臓を取り出してアキラに捧げるほどの情熱も、たまたま先生が開封しなければ
誰の目にも触れず闇へと葬り去られるところだった。
アキラに顧みられることのなかった手紙の束が憐れで、それをアキラに読ませてやる
ことは男の供養にも繋がるのではないかと先生は思ったのだという。
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翌朝アキラはもう一度文箱を父親に渡して、全部読みました、とだけ言った。
それだけでいいと先生は思った。
手紙は発端となった葉書も含め、全て塔矢家の庭で火にくべた。
男の想いが天へ昇っていったか地に還ったか、それは知らない。
「そんなことが・・・あったんですか」
うむ、と先生が重々しく頷いた。
「ですが、それは――それはその男だって気の毒かもしれませんが、一番被害を受けた
のは、やっぱりアキラくんだ。男は自業自得でしょう」
「そう思うかね」
「当然でしょう。アキラくんはまだ中学生だ。年端もいかない子供に熱を上げて、
関係を強要するなんて――相手のほうが悪いに決まっている。同情の余地などない」
自分の口から出る言葉が全て自分に跳ね返ってくるのを感じながらも、俺は言葉を止める
ことが出来なかった。
アキラがそんな風に他の人間に危害を加えられたと知ったら、俺なら電話で縁切りを
宣告するだけでは収まらない。
その足でその人間を探しに行き、二度とアキラに近づこうなどと思わなくなるくらい
痛めつけずにはおかないだろう。
「強要――ではなかった」
「え?」
「男が、アキラに強要したのではなかったのだよ。つまりその、・・・関係をだ」
「合意だったとでも?アキラくんはそんな――」
「・・・手紙を燃やしてしまってからは、禍々しい出来事は全て終わり元通りの日常が戻って
きたかに見えた。だが、何一つ終わってなどいなかったのだ。・・・私が事件を忘れかけて
いたある日のこと」
先生は言葉を切って、深く深く反響する声で言った。
「我が家で、門下の棋士が一人刺された」
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――そんな話は俺は知らない。
そう思ってから、これは夢だったと思い出す。
身体のどこかがひどく痛む。
先生の声をどこか遠いもののように聴いている。
「刺されたのは、もう十数年来私の門下で目を掛けてきた青年だ。
私が今までに取った弟子の中でも、将来有望と言ってよい棋士だった。
刺したのは、その事件が起こるほんの三月かそこら前から時折私の研究会に顔を見せる
ようになった青年だ。若手の中ではなかなか光るものを持っていたのだが
誰にも師事していないと聞いて、惜しく思ってね。才のある者は独力でも頭角を現すが、
師匠や切磋琢磨出来る同門の棋士がいるのといないのとでは、やはり長い間に
差が出てくるものだから」
自らと同年代の棋士の中に同等の実力を持つ相手がついに現れなかったせいも
あるのだろうか、先生は見込みのありそうな若手棋士を見つけては門下に引き入れ、
育てたがる癖があった。
それはやがて自分と同じ棋士としての道を歩むであろう息子のために、
生涯を共に高め合ってゆけるような好敵手を自らの手で育てておいてやりたいという
願いからだったのかも知れないし、或いはアキラのことより何より、
自分自身の好敵手となり得る相手を探し求めてのことだったかも知れない。
俺などはアキラが生まれる前に先生の門下に誘われたのだから、後者の可能性も高い。
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ともあれ、偉大な師の下につくということは己の矮小さを思い知る機会にも
恵まれるということだ。
俺が先生の弟子になった後だけでも、先輩・後輩合わせて幾人もの門下生が
才能の限界を悟り、或いは自らが信じる才能と現実とのギャップに苦しみ、
盤上の戦いから退いていった。
彼らの多くは先生のもとへ最後の挨拶に来た際、――それは塔矢邸に棋士の来客が
あった時の習慣のようなものだったが――玄関先までアキラに見送られて去っていった。
その場に何度か居合わせたことがある。
彼らのうち、ある者はアキラの頭を撫でて微笑み、ある者は振り返りもせずに去った。
頬を濡らす者もあった。
彼らはそれぞれどんな思いでアキラの最後の見送りを受けたのだろう。
嫉妬か。
名残り惜しさか。
挫折感か。
夢破れた己の分まで輝き、碁界に名を残して欲しいという願いか。
――彼らが門を出て行き見えなくなっても、アキラはいつも暫く玄関先に佇み、
澄んだ目でじっと彼らの去った後を見つめていた。
甘い世界ではないから、そこには当然苦悩も争いもある。
俺も研究会でいつも穏やかに接してくれていた兄弟子に手合いで勝ってしまった時、
普段のその人からは考えられないような激しい怒りをぶつけられたことがあった。
だがどんな怒りも憎しみも、全ての決着は盤上で付けなければ収まらないのだと
いうことを俺たちは皆痛いくらい知っていた。
だから時に門下生同士の諍いの話を耳にすることはあっても、
刺したとか刺されたとか、そんな方向へ事態が発展したなど聞いたこともない。
――どうも荒唐無稽な夢を見ているものだ。
先生の言葉の続きを待ちながら、心のどこかで所詮夢だと高を括っている自分がいる。
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