無題 第3部 6 - 10
(6)
「あ、ああ…っ!」
熱い飛沫を手の中に吐き出して、突然アキラは我に返った。
今、ボクは何を考えていた?何をしていた?
呆然として、手の中を、そして自分が撒き散らした白濁液を、見た。
あんな風に緒方さんを責めておいて、今ボクのしていた事は何だ?
ハハッ、同じじゃないか、ボクも。
最低だ。人の事なんか、言えやしない。
―いやだ、塔矢、やめてよぉ…っ!
ボクの想像の中で進藤はそう言って、泣いて、助けを求めていたのに。
それは益々ボクを高まらせ、もっと泣き叫ぶ顔が見たいと思った。
どんなに泣いて許しを請うても、聞き入れたりなんかせずに、彼を責め続けた。
ほら、キミの泣き顔を思い浮かべただけで、ボクはまた熱くなる。
アキラの中心がまた、ドクンと熱く脈打った。
(7)
「打掛にして下さい。」
その声が響いてヒカルは顔を上げた。
そして、アキラの方をふりむいて、びっくりした。
アキラがこちらを見ていた。思いがけず視線が合ってしまってヒカルはどぎまぎしたが、
心の動揺を抑えながら、声をかけようとした。
「とう…」
だが、その呼びかけを断ち切るようにアキラはヒカルから視線を逸らし、立ち上がってヒカル
に背を向けて部屋を出て行こうとした。
「塔矢…!」
ヒカルはその背にもう一度声をかけ、振り返ったアキラの表情に次の言葉を飲み込んだ。
無表情な冷たい目。まるで知らない人間を見るような無感動な表情。
だがそれにもめげず、ヒカルはアキラに話しかけた。
「あの…あのさ、一緒にメシ食いにいかねぇ?」
「…悪いけど。対局の途中では食事はとらないんだ。それに一人でいたいから。」
冷たい声で応えて、そのまますたすたとアキラは立ち去った。
「何だよ進藤、元気ねぇじゃねぇか。」
そんな風に声をかけて来た和谷にも曖昧な返事を返す事しか出来なかった。
突然変わってしまったアキラの態度にヒカルは困惑していた。
―オレ、アイツになんか悪い事しただろうか。
どうしていきなりオレの事無視するんだろう。
それとも、それとも、オレがアイツの事をどう思っているかバレてしまって、それでオレの事、
嫌いになったんだろうか…?
(8)
対局予定表を見た時から、気分がズッシリと重かった。
いつもよりも遅く行ったのもヒカルと顔を会わせたくなかったからだ。
それなのに、対局部屋に入った時には、無意識に彼の姿を探していた。
対局しながらも、意識の半分は斜め前にいるヒカルの事ばかり気にしていた。
そうして彼を見ていたところを突然振り返られて、目があって、心臓が止まるかと思った。
だが、ヒカルの真っ直ぐな視線が、アキラには痛かった。
ヒカルの明るさに惹かれる反面、その真っ直ぐさに負い目を感じてしまう自分がいた。
彼が示す素直な好意が嬉しい。だが自分はそんな真っ直ぐな好意を受け取る資格なんか無い。
そんな風に感じて仕方がなかった。
彼に触れたい。あの細い身体を思い切り抱きしめたい。
けれど、触れたら彼を壊してしまう。汚してしまう。
屈託のない明るく無邪気な笑顔が、アキラには眩しすぎて、正視する事が出来なかった。
気付かなければ良かった。こんな事。
知らなければ良かった。こんな気持ち。
けれど、気付いてしまったら、もう知らなかった時には戻れない。
「…疲れたな、今日は」
アキラは小さく独りごちた。
なんだかすごく疲れてしまったのに、これ以上悩んだりするのはもう嫌だ。
ベッドの上に仰向けになって転がって、天井を眺めた。
(9)
授業を受けている間も、アキラの事が頭を離れなかった。
アキラに嫌われたのかも知れないと思うと、不安でならなかった。
昨日も自分の対局が終わった時にはアキラは既に対局を終えて帰ってしまった後だった。
でも、こんな風に一人で考えていてもどうにもならない。
せめて、もう一度、会いたい。会って、話をしたい。
そして、なぜオレを避けるんだと問いたい。
どうして急にそんなに冷たい態度に変わってしまったのかと。
今日は多分、塔矢も学校に行っているはずだ。海王中に会いに行こう。
だけど制服のまま用事も無いのに別の中学に行くのはヘンかも知れない、と一瞬ヒカルは
ためらった。だが、いや、そんな事はない、と思い直した。
だがヒカルは、アキラが葉瀬中にヒカルに会いに何度か来た事があったのを思い出した。
そのたびに、オレは追い返してしまったり、逃げてしまったりしたけど、ホントはオレは
嬉しかったんだ。
あいつはそういうヤツだ。周りがどう思うとか、気にしたりしない。
いつだって痛いくらい真剣で、真っ直ぐに自分の目標に向かって進んで行く。
オレはアイツのそういう所が好きなんだ。
だから、オレだって周りの目なんか気にしない。オレがあいつを好きで、何が悪い?
男だからって、何だって言うんだ?そんなの関係ない。そうだ。好きなものは好きなんだ。
そうして意気込んで海王中へ行ってみたものの、既にアキラは帰った後だった。
さすがに囲碁の盛んな中学だけあってヒカルの顔を知っている生徒もいて、ヒカルは無理
矢理囲碁部の部室に連れて行かれてしまった。
(10)
「あら、緒方先生、お久しぶり!」
市河の声にアキラは驚いて顔を上げた。
市河に軽く挨拶してから、緒方はまっすぐアキラの方へ歩いてきた。
「それは、この間の十段戦の予選の時の?」
アキラが並べている棋譜を見て、緒方が尋ねた。
「一局打たないか。」
二人は終始無言で対局した。
非公式な対局とは思えないほどの、真剣勝負だった。
周りで見ていた者達が言葉を発するのを控えたほどだった。
―これまでか。やはり、簡単に太刀打ちできる相手ではない、この人は。
アキラは盤面を見詰めながら、唇を噛んだ。
「ありません。」
アキラの声に、周りから溜息が漏れた。そして堰を切ったように、口々に今の対局について
好き勝手な検討を始めたが、それはアキラの耳には入ってはこなかった。
アキラは大きく息をついて、それから顔を上げた。
対局相手が、今の対局を、彼の追撃を称えるような笑みを浮かべていたので、思わずアキラ
も同様に笑みを返した。
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