月のうさぎ 6 - 10


(6)
それは中国の伝説らしい。
月には兎が住んでいて、杵と臼で薬草を搗いて薬を作っているのだという話が
子供向けの文章で簡単に紹介され、イラスト――満月の中で兎が一羽、臼の前で杵を
搗き下ろしている――が添えられている。
「でもこれ、変なんだよ。学校で習ったお歌では、お月さまのうさぎちゃんは
お餅を搗いてるの」
「この本では、薬を作ってるって書いてあるね」
「そう。どっちがホントなのかなぁ?」
小さな指先を該当する文章の活字の上で何度も往復させながらアキラが首をひねると、
真っ直ぐな髪が本のページに当たってサラ、と音を立てた。
「・・・両方作っているのかもしれないよ。月に薬しかなかったら食べる物がなくて死んじゃうし、
お餅しかなかったら、病気になった時薬がなくて困るだろう?」
我ながらうまい理屈だと思った。だがアキラは不満そうな声を上げた。
「えー・・・?そんなの、お餅だけでいいのにね」
「え、なんでだい?」
「だって、お薬よりお餅のほうが美味しいでしょ・・・」
アキラは風邪を引いても薬が嫌いで飲みたがらなくて困る、と以前明子夫人が
笑って話していたのを思い出した。

「でも・・・ねぇ、緒方さん。うさぎちゃん、本当にいると思う?」
アキラが急に内緒話のように声を潜めた。眉根を寄せ、真剣な目をしてこちらを見ている。
少しばかり動揺を覚えながら、緒方は逆に聞いた。
「うーん、どうだろうな。アキラくんはどう思うんだい?」
月に生物などいないと、緒方はもう知っている。だが、幼いアキラが月の兎の存在を
信じているなら、その夢をここで壊してしまいたくはなかった。


(7)
しかしアキラは自信なさげに肩を落とし、「わかんない・・・」と呟いた。
「わからない?」
「ン・・・だって、このご本読んでからボク毎日お月さま見てるのに、一度もうさぎちゃんが
いるの、見たことないんだよ。緒方さんは見たことある?」
「それは・・・ないな」
「そう・・・」
アキラはがっかりしたように言うと、また本のページに目を落とした。
「・・・だが、オレはそんなに毎日気をつけて見ていたわけじゃないからな。兎がいるのに
オレが気づかなかっただけかもしれないぜ」
あまり気落ちしているのが見ていられなくて、緒方は急いで付け足した。
「そう?・・・だったら、今日うさぎちゃん見えるかなぁ」
「え?」
「今日は一年中で一番お月さまが綺麗に見える日だって、お父さんが言ってたよ。
だったらうさぎちゃんも、よく見えるかも・・・」
言いながらアキラは、月の中の兎のイラストを指でなぞった。

「見えるといいね」
緒方が布団の脇の畳に片肘をついて横になりながら優しく言うと、アキラは「ウン」と
頷いて本を閉じ、枕元のススキを取ってもぞもぞとタオルケットの中に潜った。
「今日、ススキの原っぱ、綺麗だったねぇ・・・」
眠気と楽しい思い出が混じり合っているのか、アキラはうっとりとした声で言った。
そうだね、と囁きながら、緒方はアキラの眉間を円を描くようにそっと撫でる。
アキラを寝かしつけるにはこれが一番効くのだった。
アキラは自分で自分をあやすように、ススキを握っているほうの手を布団の上でゆらゆらと
不規則に動かし、そのたびに白っぽい綿毛のような穂が、赤みの差した頬やふっくらとした
小さな耳たぶ辺りを撫でている。くすぐったくないのかと思うが、眠そうで気持ち良さそうな
アキラの顔から判断するに、そのくすぐったさが快いのだろう。

ススキの動きが次第にゆっくりになり、止まる頃には、アキラはスースーと健やかな寝息を
立てていた。
それを確認してから小さな肩の上までタオルケットを掛け直し、忍び足で緒方は居間へと戻った。


(8)
夕刻になると門下生や招待を受けた棋士がぞろぞろと参集し、塔矢行洋の音頭による
乾杯の合図で月見の宴が始まった。
二つの三宝に山形に盛られた月見団子は碁石に因んで片方は白、片方はすり胡麻をまぶした黒
とするのがこの家の慣わしだった。
丸い籠に芋や果物が盛られ、花瓶には昼間取ってきたススキと秋の草花が凛と活けられている。
明子夫人の言葉どおり、しばらく水に漬けられた草花はしゃんと元気を取り戻し
会場に華やぎを添えていた。
客人の前にはずらりと並んだ酒に、花のように彩り豊かな手巻き寿司。
部屋の隅では既に一局囲んでいる者もある。
あちらでもこちらでも酒をとぽとぽ酌み交わす音と、碁打ち同士の談笑の声が聞こえる。
まるで竜宮城だと緒方は思った。
「キミが今度入った芦原くん?塔矢先生から話は伺っているよ、まあ一杯やんなさい」
「えっ。オレ、未成年もいいとこですよ〜」
「なーになに、緒方くんもキミぐらいの年にはぐいぐいやってたもんだよ。ねえ緒方くん」
「はは・・・そうでしたっけ?」
にこやかに調子を合わせ、酒癖の悪い先輩に捕まった不運な芦原を残して緒方はそっと
席を外した。

「あら緒方さん、どうかなさって?」
盆を片手に台所と会場を忙しく往復していた明子夫人に呼び止められた。
「アキラくんの姿が見えないようなんですが・・・もう自分の部屋に?」
乾杯の時は大人に混じってジュースのコップをちょこんと掲げていたアキラだったが、
いつの間にか姿を消していた。
明子夫人は「ああ」とにっこり笑い、塞がっている両手の代わりにアキラとよく似た
繊細な顎で縁側のほうを指し示しながら言った。
「あの子なら、お月さまが見たいって言って縁側にいるわ。子供なのに、なかなか風流よね」


(9)
賑やかな室内からは見えない、開け放たれた障子の陰にアキラはひっそりと膝を抱えて
夜空を見ていた。手にした小さなススキが、白い脛の上でゆらゆら不規則に揺れている。
「アキラくん」
緒方の声に、切り揃えられた真っ直ぐな黒髪がくるんと振り返る。
その瞳には、ほんの少し不満なような寂しいような色があった。
それには敢えて気づかないふりで、緒方は言った。
「お寿司とお団子、食べないのかい。・・・美味しいよ」
自作の手巻き寿司二つと、白黒の月見団子を一つずつ載せた取り皿を恭しく差し出してやると
アキラは一瞬目を輝かせ、「ありがとう」と両手でそれを受け取った。
「・・・オレも、アキラくんの隣で飲んでいいかな?」
緒方の申し出に、皿を自分が座っている脇に両手で下ろしながらアキラがこっくりと頷いた。

夏の名残りの蒸した夜気の中を、水のように澄んだ空気の流れが時折音もなく通り過ぎていく。
室内で人声に取り囲まれていた時には気づかなかった、確かな秋の気配を緒方は感じた。
アキラが手巻き寿司を頬張るもそもそ、パリパリという音だけがしんとした夜の庭に静かに響く。
――つい最近まで、ミルクしか飲めない赤ん坊だったような気がしたんだがな。
柔らかな口の中に真珠のような白い歯が生え揃って、自分でものを食べられるようになって、
小さな手はいつの間にか父親と同じように碁石を握ることを覚えていて。
そうしてすぐにまた、アキラがいつの間にかこんなにも大きくなっていたのかと感慨深く
思う日が来るのだろう。
その時アキラと自分はまだ、こんな穏やかな関係のままいられるのだろうか。
この同じ月の光を、いつまで、あと何回、こうして並んで眺めることが出来るだろうか。

「――アキラくん、兎、見えたかい?」
アキラが皿の上のものを全て腹に収める頃を見はからって、緒方は今一番アキラの心を
占めているだろうことを質問した。


(10)
振り向いたアキラの表情が一瞬、それは嬉しそうに明るく輝いた。
自分が気にしていることを、緒方も忘れず気にかけていてくれたことが嬉しかったのだろう。
だがその素直な反応を緒方が眩しく思う暇もなく、すぐにその顔はしゅんと曇ってしまった。
「うさぎちゃん、まだいないみたい・・・ボク、ずっとお月さま見てたんだけどなぁ・・・」
呟きながらまた月を見上げ、食事中は手放していたススキをもう一度取り上げて
月に向かって呼びかけの合図のように振ってみせる。
「それとも、ボクがここに来る前に、うさぎちゃん帰っちゃったのかなぁ・・・?」
帰っちゃったの「か」の部分を上擦らせて、アキラはサクランボの唇を尖らせた。
一心に天を見上げる澄んだ瞳にますます輝きを加えようとするかのように、清明な月の光が
アキラの双眸に一杯に映って満ちている。
「もしかしたら、今日は忙しくて出て来られないのかもしれないね」
アキラに麦茶のコップを渡してやりながらふと月を見上げてみて、緒方はギクッとした。

明るく輝く満月の中には、透きとおるような黒い隈がある。
その形が餅を搗く兎に似ているから月には兎がいると昔の人は考えたらしい、そのことは
若い緒方もなんとなく通念として知っていた。
だがこれは、今自分が見ている月の中に浮かぶあの隈は、さっきアキラが見せてくれた
本のイラストの兎とあまりにも形が似通い過ぎているのではないか。

月の隈など意識して見たことがなかったから今まで気づかなかった。
もしアキラが、月には兎が生活しているのだと信じて疑わないアキラが、あの隈の形と
イラストの兎との相似に気づいてしまったら。
月の兎とは餅など搗きはしない、搗いた餅を食べることもない、単に兎の形をした影に
過ぎないものと悟ってしまったら。

冷たい緊張感に全身を硬くした緒方をよそに、アキラは「うさぎちゃん・・・」と
思いつめたように呟きながらじりじりと尻で前に這い、裸足の足を地面に伸ばして
夜の庭に降り立とうとした。



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