座敷牢中夢地獄 6 - 10
(6)
目を離している間に、あのくれないの傘は何処かへ消えてしまっていた。
「風に飛ばされでもしたんだろう。代わりにこれを使いたまえ」
先生はアキラの迎え用に持参したものらしい細身の傘を俺に渡しながら、
アキラを自分の傘の中へ手招く仕草をした。
それまで俺の隣にいたアキラが嬉しそうに父親のもとへ駆け寄り、寄り添う。
先生はそんなアキラのほうを見ずに、俺の顔を見、行燈の灯を示して言った。
「キミ。この光を見失わないように、ついて来なさい。道中でキミが迷っても
責任は取れないから」
そう言って背を向け歩き始めた先生の傘を握る手に、
アキラの白い手が少しためらってからそっと添えられた。
行燈の灯がくらりと揺らめく。
そこに大きな影が蠢いたような気がして、俺は一瞬二人の後ろ姿を見ながら立ち尽くした。
が、すぐに我に返り、濡れた砂をさくさく蹴って二人の後を追った。
光を、見失わないように。
雨に包まれた道すがら、先生は自分たち父子の事情をぽつりぽつりと語ってくれた。
自分と息子のアキラは東京で棋士としての生活を送っていた。
だが一年ほど前にアキラが体調を崩し、その療養のため自分たち父子はこの土地で
二人きりで暮らしているのだと。
狐に抓まれたような気持ちでその話を聞いているうちに、俺たちはその家に着いた。
(7)
古風で重厚な日本家屋の造りは、東京にあるはずの先生の邸宅に少し似ている。
ガラガラと引き戸を開けて、先生は玄関の電灯を点け、行燈の灯を消した。
俺はそのまま上がり込むのも何となく気が引けて、声を掛けられるまで外で立っていた。
「そう言えばまだ名前を聞いていなかったな。キミのことは何と呼べばいいのかね」
「・・・緒方です。緒方精次」
「緒方くんか。まあ上がってくれたまえ。・・・どうしたのかね」
釈然としない気分でその場に突っ立っている俺に代わりアキラが答えた。
「お父さん、ボクたち靴の中まで水が入ってびしょびしょなんです。何か、拭く物・・・」
「おお、そうか。とりあえず二人とも、中へ入って待っていなさい。今タオルを取って
くるから」
先生が廊下に消えた後、俺はアキラに促されて玄関に足を踏み入れた。
ずっと暗い所にいたから、電灯の光が眩しい。
目を細める俺の後ろで、クシュンと小さなくしゃみが聞こえた。
「アキラくん、海で身体が冷えたんじゃないのかい。大丈夫か」
「大丈夫です。ボクは自分で入ったんだから、風邪を引いても自業自得です。それより、
緒方さんが・・・」
「俺は大丈夫だ。鍛えているからな、キミみたいな細っこい男の子と一緒にして
もらっちゃ困るぜ。・・・は、・・・・・・っ、・・・くしゅんっ!・・・う〜」
言っている端から鼻の奥がむずむずしてきて、堪え切れずにくしゃみが出た。
最後の「う〜」は中年臭かったか・・・と悔やみながら視線を上げると、アキラが目を
丸くしてこちらを見ている。
「・・・・・・」
どちらからともなく、ぷっと吹き出した。
(8)
「緒方さんて、なんだか話しやすい・・・初めて会ったのに・・・」
アキラの言葉に笑いが引っ込む。
そう、何故かこのアキラや先生にとって、俺は初対面の人物ということになっている
らしい。それに俺が知る限り、アキラが一年も体調を崩して療養した事実などない。
――どうなってるんだ?一体。
「緒方さん、さっき海で、自己紹介もしていないのにボクの名前を呼びましたよね。
どうしてご存知だったんですか?」
「さてね・・・何故だと思う?」
アキラは首を傾げ、澄み切った黒い目で俺を見つめた。
アキラが生まれたての頃初めてその目が開いたところを見て、世の苦しみや汚れを
まだ知らない赤ん坊の目というのはこれほど濁りなく美しいものかと、小さな感動すら
覚えたものだ。
だがあれから十数年が経ち、アキラが綺麗なことばかりではないこの世の現実を
幾らかは見知ったはずの今も、その目の澄明な美しさは少しも変わることがなかった。
――俺は先生の弟子で、キミが生まれる前から知っている。
そう教えてやったらどんな顔をするだろうかと思った。
だが今ここでそんなことを言ったとしても、きっと信じてはもらえないだろう。
悪くすれば妄想狂の怪しい男の戯言と思われて終わりかもしれない。
かといって辻褄を合わせるために適当な嘘をついて、今まで確かに積み重ねてきた
はずのものをなかったことにするのも嫌だった。
「・・・囲碁雑誌か何かに載っているのをご覧になったんですか?」
まあこの状況でアキラが導き出せる答えと言ったらこんなものだろう。
曖昧に笑ってお茶を濁しているところへ、先生がタオルを手に戻ってきた。
「アキラ、足を拭いたら奥で乾いた服に着替えなさい。緒方くん、キミはこちらへ。
風呂を沸かしてある」
風呂なら先にアキラくんに、と断ろうとしたが威厳のこもった眼差しで「キミが先だ」と
告げられてしまった。
アキラのことも気がかりではあったが、ここは大人しく好意に甘えることにした。
(9)
海水で濡れた服を体から剥がすようにして脱いでいく。
そうしながら俺は、この奇妙な状況についてつらつらと考えてみた。
――海で探し物をしていたアキラ。
俺を知らない先生とアキラ。
俺の知らない先生とアキラの事情。
それらを合理的に説明するどんな理由も浮かばなくて、そうか、もしかしたらこれは
夢なのかもしれない。と思いついた。
夢だとしたらどこからどこまでが夢なのか。現との境目はどこだったのか。
・・・・・・
どうせ夢なら、いつか覚めてみればわかることだ。
ならば終わりが来るまで、夢の中の展開に身を任せていればいい。
肌着から首を引き抜いた拍子に布の端が口に入り、海の塩辛い味がした。
そう言えば夢のアキラは何を探していたのだろう。
あの、塩の味がする水の中で。
衣服を全て脱ぎ終え眼鏡も外して、脱衣所から風呂場へと全裸で足を踏み入れようと
した時、背後でカラカラと引き戸の開く音がした。
振り向くと先生が立っている。
眼鏡を外しているせいで先生の表情はよく見えない。
何か言ってくるのかとしばらく待ったが、先生はただそこに立ったままこちらを見ている。
よくわからないが、全身をじろじろと隈なく眺め回されているような気もする。
「・・・あの。何か?」
さすがに不快さと羞恥を感じて俺が声を発すると、先生は我に返ったように言った。
「ああ、すまないね。風呂の使い方を言いに来たんだ」
湯加減の調節の仕方とシャワーの出し方を手短に説明すると、先生はまたカラカラと
引き戸を閉めて戻っていった。
(10)
釈然としない思いはあるものの、海で冷えた体に熱い湯が生き返る心地だった。
風呂から上がり廊下に出ると、心地良い涼気が体を包んだ。
先生やアキラはどこにいるのだろう。
と、左の方向からぼそぼそと低い話し声が聞こえる。あちらが居間だろうか。
声のするほうへと進み、灯りの洩れる部屋の中を何とはなしに覗き込んだ。
だがそこで目にした光景に、俺はぎょっと固まってしまった。
「お父さん・・・でも・・・」
「・・・他に方法があるのか?あるなら私とて・・・」
俺のよく知る二人が、ぴったりと抱き合いながら話をしていた。
正確に言うと、座った先生の膝にアキラが横向きに乗り、先生がそれを抱く形で
二人は話していた。
先生は小さな子供を寝かしつける時のようにアキラの体を軽く揺すったり叩いたりし、
アキラはそんな先生の首に両腕を回してしがみつきながら目を閉じている。
親子と言うよりは恋人同士が睦言を交わしているのかと見紛うような雰囲気にドキリとする。
それと同時に、俺の位置からちょうど良く見えるアキラの、せつないくらい幸福そうな
安心しきった表情に心臓を抉られた。
なんだこれはこんなものを俺に見せるな。見せないでくれ。頼むから。頼むから。
――脇腹に鋭い痛みがある。
頭を抱えて死にたくなるような気分に襲われて、思わず身を縮こまらせると
足の下でミシリと音がした。
その音で気づいたのだろう、先生がこちらを振り向いて「ああ上がったのかね。
こちらに来たまえ」と穏やかな声で呼びかけた。
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