大人は判ってくれない? 6 - 9
(6)
アキラは天井に向けて大きく溜息をつくと、なんとか気を取り直して前を向いた。
(この朴念仁には、ボク自ら引導を渡してやらねばなるまい。今後この人に乗り続けるためにも、
ボクがやらなくては……)
そう自分自身に強く言い聞かせ、切れ長の目尻をキッと吊り上がらせる。
その身体はワナワナと怒りに震えていた。
「Examine Your Zipper!!」
アキラは吐き捨てるように言い放った。
「ほう……さすがだな、アキラ君。完璧な発音じゃないか」
ネイティヴスピーカーさながらのアキラの発音に、緒方は大いに感動した。
(さすがは全国有数の進学校、私立海王中学校に通うだけのことはある)
アキラの優秀さがまるで我が事であるかのように満足げに微笑している。
しかし、緒方が悠長に感慨に耽る暇など本来あろうはずもなかった。
「……おや?」
ようやく気付いたらしい。
緒方は自身の股間にゆっくりと視線を落とした。
「XYZ............Examine Your Zipperか……」
忘れていた。
緒方はすっかり忘れていた。
"XYZ"──"Examine Your Zipper"──カクテルの名称でもなければ、『もう後がない』でもない、
もう一つの重要な意味を。
(7)
「…………」
緒方はガックリと項垂れた。
その視線の先には、エロティックなシルクサテンの小さな布がささやかに盛り上がっていた。
(我が人生最大の不覚……)
オフホワイトのスーツ、ブルーのワイシャツ、イエローのネクタイによって構築される
見事なハーモニーを完膚無きまでにブチ壊すバイオレットの下着が、股間でこれ見よがしに
テラテラと光っている。
だが、不幸中の幸いとも言うべきか、どうやら中身ははみ出していないようだ。
緒方は小さく安堵の溜息をついた。
しかし、果たしていつから御開帳だったのかは全く記憶になかった。
「……表に出ている、か……ハハ……」
緒方は羞恥に震える手でファスナーに右手をかけた。
そこに飛んできたのは、突如現れた市河の場違いなまでに明るい声だった。
「緒方先生、指導碁お願いします」
予期せぬ出来事に、緒方の手が止まった。
「グッ……!!」
呻き声を上げるや否や、緒方は机に突っ伏してしまった。
(……何事!?)
緒方の様子に、市河は大きな瞳をただぱちくりさせるばかりだった。
緒方はピクピクと小刻みに身を震わせていた。
それは、まさに往生際の悪いゴキブリさながらの見苦しさだった。
「緒方先生……どうかしましたか?」
口調から察するに、どうやら市河は事態を把握していないらしい。
「……わ…わかった。すぐに逝くから、市河さんは戻ってくれ……」
辛うじて声を絞り出す緒方は、本当に逝きそうな様子だった。
だが、上げようとしたファスナーの間に股間の物体が挟まったとは──下着だけならいざ知らず、
その下のデリケートな皮膚までもがファスナーの餌食になっているとは──口が裂けても言える
はずがない。
それだけは、緒方の矜持が許さなかった。
市河は不審そうに緒方を見遣りながらも、渋々受付へと戻って行った。
(8)
一部始終を眉ひとつ動かすことなく眺めていたアキラだったが、やがて何食わぬ顔で盤上の碁石を
ジャラジャラと片付け始めた。
碁石を碁笥に仕舞い終えたところで、突っ伏した机からようやく身を起こしかけた緒方と視線が合う。
(さて、ここできっちり手綱を締めておくか)
アキラは唇の片端を吊り上げた。
冷酷非情な笑みを浮かべ、緒方を睨みつける。
今や緒方は獰猛な肉食獣の標的にされた哀れな被食動物でしかなかった。
「こんな時間からボクに恥ずかしいことを言わせないでくださいよ、緒方さん」
「…………」
無言の緒方は、悲壮感漂う表情で強く唇を噛み締めた。
机に突っ伏した衝撃で僅かにずれた緒方の眼鏡越しに覗く色素の薄い2つの瞳は、明らかにアキラに
慈悲を請うている。
しかし、そんなことに構うことなく、アキラは涼しい顔で更に畳みかけた。
「ところで緒方さん、今夜は……わかってますよね? 今度こそボクを失望させないでくださいよ」
緒方を見下ろすアキラは、まるで比類なき美貌と頭脳を有する若き裏社会の支配者のようだった。
一分の隙もないストイックな詰め襟の制服のせいだろうか、私服の時以上に鬼気迫るものを、緒方は
ひしひしと感じていた。
(9)
股間の物体を挟まないよう慎重にファスナーを上げ、ずれた眼鏡を直しながら、緒方は心の中で
滂沱した。
そして、諦めきったように力無く肩を落とす。
「ああ……好きなだけ乗ってくれ。思う存分な……」
緒方を睥睨するアキラは、満足そうに「フフッ」と薄く笑った。
期待に満ちたその瞳は淫靡な輝きを放ち、此見よがしに乾いた唇を舐める舌は妖しいまでに艶めかしく
濡れている。
その姿に緒方は激しい目眩を覚えた。
(そんな扇情的なキミに、オレは一生逆らうことなどできないわけか。フッ……アキラ君、キミには
悪魔すらも魂を売りに来るだろうよ)
「ああ、カクテルはちゃんといただきますから、そのつもりでいてくださいね、緒方さん」
アキラの言葉に頷き、へなへなと立ち上がる緒方の背中は心なしか丸い。
席を後にするその姿を、アキラは振り返りもしなかった。
「さて……と」
アキラは制服の胸ポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
高ぶる気持ちを抑えて静かに紙を広げると、炯々とした眼差しで一カ所をじっと見据える。
それは、若獅子戦のトーナメント表だった。
(名前が並んでいるだけで、まさか対等になったと思っているんじゃないだろうな、進藤)
アキラは焼け付くような視線を印刷された『進藤ヒカル』の名に向けていた。
その息が微かに荒い。
やがて、アキラは熱い思いを込めて呟いた。
「相手が誰であれ、上に乗るのはボクだ。キミもわかっているだろうな、進藤」
塔矢アキラ、兎にも角にも乗りたい盛りの13歳だった。
【終】
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