tournament 6 - 9
(6)
オッチーと対戦することになったトーマスはかつてシンドーやオッチーと共に、互いにその腕を磨き
合った仲間でもあった。
しかし、最近のトーマスは、シンドーの成長ぶりに、その才に、恐れを抱いていた。
トーマスにとってシンドーは最初は面倒を見てやらなければならない可愛い後輩だった。それなのに
今でははっきりとシンドーが自分を追い抜いていってしまっているのがわかる。彼の読みの深さに、
その才に、はっとさせられる。自分はシンドーには敵わない。そう思うのは悔しいと思う。けれど悔しい
と思いながらも、敵わないと思う気持ちが捨てられない。トーマスはシンドーを恐れた。
そして、ヤシロの話はホンダから聞いていた。斬新な手でホンダを撹乱した上に勝利を奪ったと言う
ヤシロに、トーマスは恐れを抱いた。
だから、対戦表を目にしたとき、トーマスは安堵に胸を撫で下ろした。
トーマスにとっては恐ろしい相手であるシンドーもヤシロ、その二人のどちらとも自分はぶつからない。
自分の敵となるのはオッチーである。オッチーとなら、五分五分だ。勝利のチャンスはある。
シンドーとヤシロは勝手に潰し合ってくれればいい。
そしてヤシロが、姫の寵愛深いシンドーを倒してくれれば尚都合がいい。
姫の寵愛を巡って戦うに当たって、恐るべき相手はシンドーただ一人だから。
ここで負ければ姫もシンドーなど見放すだろう。シンドーも姫に合わす顔があるまい。
今度の戦いに当たっての姫とシンドーとの小さな諍いを漏れ聞いていたトーマスは、そんな事を考えた。
暗い笑みを心に抱いて、トーマスはオッチーとの戦いに挑んだ。
(7)
笑顔の愛くるしい少年だった騎士は、いつの間にか凛々しい青年へと変わりつつあった。
負けるという事を知らなかった姫を、初めて打ち負かしたのが、この騎士であった。
その時から姫は彼の虜となったのだ。
初めは素直に彼を追い、けれど裏切られ、忘れようと思いながらそれでも忘れられず、出会って
からというもの、姫の心を一番に捕らえて放さなかったのが、騎士、シンドーという存在であった。
姫にとってはシンドーは運命の相手であった。
だが、姫とシンドーがいかにすれ違い、追い、追われながらも互いを認め合うまでに至ったかまでは、
それは別の物語である。その物語については、今は多くは語るまい。
兎にも角にも、その数奇な運命を辿り、そして今、姫の寵愛を一身に受けるのがこの美しく
成長した騎士、シンドーであった。
姫は彼の光り輝くような碁の才を、そして、明るく無邪気なその性質を誰よりも愛した。
他の者にとっては、この高貴で美しい姫は、軽々しく口を利くのも恐れ多いような存在だった。
だが、シンドーにとっては違った。彼は姫を他の友人たちと同じように扱った。
実のところ、姫にとっては自分を特別扱いしない彼のその態度が新鮮で嬉しくて、それゆえに
姫の彼への愛はますます深まるのだった。
同年代の友人を持たなかった姫にとって、彼は唯一の友人でもあった。
だがその態度は一部の側近には不遜で思い上がりも甚だしいと、不興を買っていた。
年相応にシンドーと戯れ、時に口喧嘩して、意外な子供っぽさを見せる姫を、微笑ましく見る者も
いたが、逆に、至高の存在であった姫が、礼儀知らずの少年騎士によって、下々の者どもと同じ
ような扱いをうけるのを、苦々しく思うものもいた。その筆頭がキタジマであった。
(8)
今回の親善試合の事を始めて耳にして、シンドーは新たな好敵手と戦えるであろうと、喜び勇んで
姫にその話をした。だが、姫は一人、最初から国際親善試合に出ることは決定していて、残りの2つ
の席を、その他の者どもで争わねばならぬと聞かされて、彼は真っ先に「不公平だ」と思った。
なぜ、姫だけが一人、特別扱いされるのかと、口を尖らせて、不平を言った。
それを聞きつけたキタジマは頭に血が上った。
特別であるべき姫を、普通の人間のように扱い、自分と同等であると信じて疑わないシンドーを、
高貴で口を利くのも恐れ多い姫と、乱暴な口を利きながら無邪気に戯れるシンドーを、キタジマは
許せないと、ずっと思っていた。けれど姫の心情を配慮して今まで大目に見ていたのだ。
それなのに姫が特別扱いされるのがおかしいだと?姫が特別でなくてなんだというのだ。
それともそこまで、自分も特別な存在だとでも言いたいのか?
怒りの余り、キタジマは彼を弄り、こんな言葉を投げつけた。
「姫様と対等ぶるなんて百年早いぜ!」
その言葉は騎士の若き自尊心を酷く傷つけた。
姫からならともかく、こんな奴にそこまで不当に貶められる謂れはない。
一度二度ならいざ知らず、キタジマの言動はいつもいつも彼を苛立たせていた。
シンドーとて、もう、我慢の限界だった。
「もう来ねぇよ!」
そんな捨て台詞を残して、彼は城を出て行き、その言葉の通り、それ以来城にやって来ることはなかった。
その結果に最も心を痛めたのは、他でもない姫自身であった。
本当は追い縋って彼を引き止めたかった。けれど周りのギャラリーの目が、それを許さなかった。
残された姫に目もくれずに出て行ってしまった騎士のことを思うと、悲しみに心が引き裂かれそうだった。
けれど。
彼が「来ない」と言ったのは期限付き。永遠に会えないわけではない。
彼が戦いに勝って、公にも姫のパートナーの座を獲得しさえすれば、彼を不快に思う臣下でさえ、もう
あのような口の利き方はできまい。その時が来るのが待ち遠しかった。
姫は、最愛の騎士、シンドーの勝利を、信じて疑わなかったから。
だが実は、臣下の目を盗んでちゃっかり二人が会っていたという事を、キタジマは知らない。
シンドーにとって姫と、姫の打つ碁はやはり憧れの対象であり、姫の対局を何度も観戦しに行った。
対局を終えて、そこにシンドーの姿を目にしたときの姫の心中や、その後の二人の行動などは
未だ明かされてはいないが、推して知るべし、と言う所であろう。
(9)
久しぶりに彼に会えるという喜びを胸に、姫は供の者も連れず、一人と試合会場へ赴いた。
姫は愛する騎士の勝利を信じて疑わなかった。
だから、勝負の終わる頃にゆっくりと現ればいい。
そして勝利を掴んだ騎士の手をとり、この先、共に戦える喜びを分かち合いたい。
試合を観戦するためでなく、愛する騎士の勝利を確認するために、姫はこの場所まで足を運んだ。
と、姫に声をかける者があった。年長の騎士・クラタであった。
姫はにこやかな笑みを浮かべ、クラタとたわいのない会話を交わしながら、軽い緊張と期待を胸に、
ゆっくりと試合会場へと歩を進めた。
彼の勝利を疑いはしない。けれど、この目で結果を確認するまではわからない。
姫は緊張に胸が高鳴るのを感じた。
会場に近づくと、観戦者のざわめきが聞こえてきた。観戦者たちは試合の様子に興奮し、高い声を
抑えきれずにいた。その言葉のひとつが姫の耳に届き、姫の足が止まった。
「…でも、惜しいですね。」
「もったいないな、コイツ、これだけ打てるのに―」
姫の顔色が変わった。
まさか。
それまでの冷静さをかなぐり捨てて、姫は愛する騎士の下へ走った。
心の中で彼の名を呼ばわりながら。
息を切らして駆けつけた姫がそこに見たものは。
何かをこらえているようなシンドーの蒼い顔。
必死に喰らい付くようなヤシロの形相。
手順の予想もつかぬ盤面。
果たして、勝負の結果は…
WJ連載『ヒカルの碁』第165局「2手目天元」 より曲解
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