月のうさぎ 9 - 12
(9)
賑やかな室内からは見えない、開け放たれた障子の陰にアキラはひっそりと膝を抱えて
夜空を見ていた。手にした小さなススキが、白い脛の上でゆらゆら不規則に揺れている。
「アキラくん」
緒方の声に、切り揃えられた真っ直ぐな黒髪がくるんと振り返る。
その瞳には、ほんの少し不満なような寂しいような色があった。
それには敢えて気づかないふりで、緒方は言った。
「お寿司とお団子、食べないのかい。・・・美味しいよ」
自作の手巻き寿司二つと、白黒の月見団子を一つずつ載せた取り皿を恭しく差し出してやると
アキラは一瞬目を輝かせ、「ありがとう」と両手でそれを受け取った。
「・・・オレも、アキラくんの隣で飲んでいいかな?」
緒方の申し出に、皿を自分が座っている脇に両手で下ろしながらアキラがこっくりと頷いた。
夏の名残りの蒸した夜気の中を、水のように澄んだ空気の流れが時折音もなく通り過ぎていく。
室内で人声に取り囲まれていた時には気づかなかった、確かな秋の気配を緒方は感じた。
アキラが手巻き寿司を頬張るもそもそ、パリパリという音だけがしんとした夜の庭に静かに響く。
――つい最近まで、ミルクしか飲めない赤ん坊だったような気がしたんだがな。
柔らかな口の中に真珠のような白い歯が生え揃って、自分でものを食べられるようになって、
小さな手はいつの間にか父親と同じように碁石を握ることを覚えていて。
そうしてすぐにまた、アキラがいつの間にかこんなにも大きくなっていたのかと感慨深く
思う日が来るのだろう。
その時アキラと自分はまだ、こんな穏やかな関係のままいられるのだろうか。
この同じ月の光を、いつまで、あと何回、こうして並んで眺めることが出来るだろうか。
「――アキラくん、兎、見えたかい?」
アキラが皿の上のものを全て腹に収める頃を見はからって、緒方は今一番アキラの心を
占めているだろうことを質問した。
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振り向いたアキラの表情が一瞬、それは嬉しそうに明るく輝いた。
自分が気にしていることを、緒方も忘れず気にかけていてくれたことが嬉しかったのだろう。
だがその素直な反応を緒方が眩しく思う暇もなく、すぐにその顔はしゅんと曇ってしまった。
「うさぎちゃん、まだいないみたい・・・ボク、ずっとお月さま見てたんだけどなぁ・・・」
呟きながらまた月を見上げ、食事中は手放していたススキをもう一度取り上げて
月に向かって呼びかけの合図のように振ってみせる。
「それとも、ボクがここに来る前に、うさぎちゃん帰っちゃったのかなぁ・・・?」
帰っちゃったの「か」の部分を上擦らせて、アキラはサクランボの唇を尖らせた。
一心に天を見上げる澄んだ瞳にますます輝きを加えようとするかのように、清明な月の光が
アキラの双眸に一杯に映って満ちている。
「もしかしたら、今日は忙しくて出て来られないのかもしれないね」
アキラに麦茶のコップを渡してやりながらふと月を見上げてみて、緒方はギクッとした。
明るく輝く満月の中には、透きとおるような黒い隈がある。
その形が餅を搗く兎に似ているから月には兎がいると昔の人は考えたらしい、そのことは
若い緒方もなんとなく通念として知っていた。
だがこれは、今自分が見ている月の中に浮かぶあの隈は、さっきアキラが見せてくれた
本のイラストの兎とあまりにも形が似通い過ぎているのではないか。
月の隈など意識して見たことがなかったから今まで気づかなかった。
もしアキラが、月には兎が生活しているのだと信じて疑わないアキラが、あの隈の形と
イラストの兎との相似に気づいてしまったら。
月の兎とは餅など搗きはしない、搗いた餅を食べることもない、単に兎の形をした影に
過ぎないものと悟ってしまったら。
冷たい緊張感に全身を硬くした緒方をよそに、アキラは「うさぎちゃん・・・」と
思いつめたように呟きながらじりじりと尻で前に這い、裸足の足を地面に伸ばして
夜の庭に降り立とうとした。
(11)
「アキラくん!?」
緒方が慌ててアキラのパジャマの端を引っ張り引き留める。
今にも地面に達そうとしていたアキラの爪先がくるんと宙を掻き、軽い体が緒方の腕の中に
倒れこんできた。代わりに小さなススキが、縁側の向こうにパサリと落ちた。
「・・・お庭、行っちゃダメ?」
緒方の胴から膝の部分にかけて小さな頭と背中を凭せかけた体勢のまま、アキラはぽつりと
聞いた。いつ眠くなってもいいようにと夕方に風呂に入れられたその体からは、
清潔で甘い匂いがふんわりと漂ってくる。
「庭に、どうして行きたいんだ?」
「ン・・・もっと、お月さまの近くで見たい・・・」
いつまで経っても兎が出てきてくれないことが諦め切れないのだろう。アキラは空に浮かぶ
月から目を離さないまま答えた。
――近くと言っても、縁側と庭先でせいぜい数歩分しか距離は違わないだろうに。
緒方はアキラを縁側の縁にしっかり座らせると、自分は少し先に揃えてあった
大人用の庭履きサンダルをつっかけ、アキラに背を向けて低くしゃがみ込んだ。
「・・・なぁに?」
「なるべく近くで見たいんだろう?乗っていいぜ。・・・肩車だ」
傍らの地面に落ちていたススキを拾い上げ、後ろ手でアキラに渡した。
「わぁっ、すご・・・っく高いねぇ!」
「どうだ?肩車して、良かったろ」
「ウンッ!」
初めアキラは恥ずかしがってなかなか深く跨ろうとしなかったが、ぐらぐらと不安定な
肩上の恐怖に腹を決めたらしい。今ではパジャマに包まれた脚で緒方の首や肩をぴっちりと
息苦しいくらいに締め付け、緒方の頭につかまりながら器用にバランスを取っていた。
ずっと縁側に出ていたせいか、小さな裸足の足はすっかり冷たくなっている。
緒方はそれをアキラが驚いてバランスを崩さない程度にさりげなく、そっと掌に包み込んで温めた。
願わくは今夜、アキラがあの月の隈の秘密に気がついて、兎の夢を永遠に失ってしまうような
ことにならないようにと念じながら。
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「そこからだとよく見えるか?」
「ンー・・・あんまり変わんない」
緒方はカクッとよろけそうになった。確かにその通りだろうが、子供は正直だ。
「あそこの枝は、さっきよりずっとよく見えるのになぁ・・・?どうして・・・」
納得がいかない様子で、アキラはとりわけ背の高い庭木の梢をススキで指差した。
「それは・・・あそこの木に比べて、月のほうがずっとアキラくんの遠くにあるからだよ」
「えー・・・?」
「月はあんまり遠くにあるから、人間がちょっとくらい背伸びしてもほとんど距離は
縮まらないんだ」
アキラは黙っている。まだ少し難しかったろうかと緒方は一瞬後悔した。
だが、アキラは緒方の髪を掴んでもしょもしょと手繰りながら考え考え言った。
「・・・夏休みにねぇ、お父さんとお母さんと、熱海のりょかんに遊びに行ったんだよ。
そしたらね、ボクはどんどん富士山に近づいてるはずなのに、富士山はなかなか大きく
ならなかったの。・・・それと一緒?」
緒方は大きく頷いた。
「そう、それと一緒だな。月は富士山より、もっと遠いからな」
「そう・・・だったら、うさぎちゃん遠過ぎて見えないのかもね」
「え?」
「だって、富士山に登ってる人がいても、下からは見えないでしょ?
・・・だから、お月さまのうさぎちゃんは、ボクには見えないんだねぇ・・・」
憧れて夢見るような口調でアキラは言った。
その言葉に魔法をかけられたように、一瞬、実は本当に月には兎が隠れ住んでいるような
気がした。
――いつも、遠過ぎるから見えないだけで。
夜空にまるく光り輝く月を緒方は眩しく見上げた。
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