座敷牢中夢地獄 54 - 55


(54)
――そんな話は俺は知らない。
そう思ってから、これは夢だったと思い出す。
身体のどこかがひどく痛む。
先生の声をどこか遠いもののように聴いている。

「刺されたのは、もう十数年来私の門下で目を掛けてきた青年だ。
私が今までに取った弟子の中でも、将来有望と言ってよい棋士だった。
刺したのは、その事件が起こるほんの三月かそこら前から時折私の研究会に顔を見せる
ようになった青年だ。若手の中ではなかなか光るものを持っていたのだが
誰にも師事していないと聞いて、惜しく思ってね。才のある者は独力でも頭角を現すが、
師匠や切磋琢磨出来る同門の棋士がいるのといないのとでは、やはり長い間に
差が出てくるものだから」
自らと同年代の棋士の中に同等の実力を持つ相手がついに現れなかったせいも
あるのだろうか、先生は見込みのありそうな若手棋士を見つけては門下に引き入れ、
育てたがる癖があった。
それはやがて自分と同じ棋士としての道を歩むであろう息子のために、
生涯を共に高め合ってゆけるような好敵手を自らの手で育てておいてやりたいという
願いからだったのかも知れないし、或いはアキラのことより何より、
自分自身の好敵手となり得る相手を探し求めてのことだったかも知れない。
俺などはアキラが生まれる前に先生の門下に誘われたのだから、後者の可能性も高い。


(55)
ともあれ、偉大な師の下につくということは己の矮小さを思い知る機会にも
恵まれるということだ。
俺が先生の弟子になった後だけでも、先輩・後輩合わせて幾人もの門下生が
才能の限界を悟り、或いは自らが信じる才能と現実とのギャップに苦しみ、
盤上の戦いから退いていった。
彼らの多くは先生のもとへ最後の挨拶に来た際、――それは塔矢邸に棋士の来客が
あった時の習慣のようなものだったが――玄関先までアキラに見送られて去っていった。
その場に何度か居合わせたことがある。
彼らのうち、ある者はアキラの頭を撫でて微笑み、ある者は振り返りもせずに去った。
頬を濡らす者もあった。
彼らはそれぞれどんな思いでアキラの最後の見送りを受けたのだろう。
嫉妬か。
名残り惜しさか。
挫折感か。
夢破れた己の分まで輝き、碁界に名を残して欲しいという願いか。
――彼らが門を出て行き見えなくなっても、アキラはいつも暫く玄関先に佇み、
澄んだ目でじっと彼らの去った後を見つめていた。

甘い世界ではないから、そこには当然苦悩も争いもある。
俺も研究会でいつも穏やかに接してくれていた兄弟子に手合いで勝ってしまった時、
普段のその人からは考えられないような激しい怒りをぶつけられたことがあった。
だがどんな怒りも憎しみも、全ての決着は盤上で付けなければ収まらないのだと
いうことを俺たちは皆痛いくらい知っていた。
だから時に門下生同士の諍いの話を耳にすることはあっても、
刺したとか刺されたとか、そんな方向へ事態が発展したなど聞いたこともない。
――どうも荒唐無稽な夢を見ているものだ。
先生の言葉の続きを待ちながら、心のどこかで所詮夢だと高を括っている自分がいる。



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