松本人志



『松本裁判』
 (ロッキン・オン
 2002年3月刊)
 お笑いというのは、ある程度、世代によって「自分はこの世代だ」というのが分かれてくるものだと思います。何かに憑かれたように笑い転げられる時期に、特にどの笑いが好きだったか、という部分で。
 例えば、僕が中1くらいの時に、とんねるずが「みなさんのおかげです」をやり始めたんですが、この時代に高校高学年から大学生くらいだった人なら、とんねるず世代だという気がするし、そこから少しさかのぼると、ビートたけし世代があって、MANZAIブーム世代がある。逆に下ると、ウンナン世代があって、ダウンタウン世代があって、そこから多分、ナイナイ世代、ネプチューン世代という感じになるんでしょうね。
 僕は、ダウンタウン・ジェネレーションの中核を担った世代の一員だと自分で思ってるんですが、ジェネレーション的にそうですよ、というだけではなくって、もともと、ダウンタウンの笑いに親和性が高かったような気が、自分ではしています。それは、中学生くらいの時、ウンナンが「やるならやらねば」とかで天下を取ってた時期、友達が「ウンナン面白いねー」って言ってる横で、「いや、絶対にダウンタウンの方が面白いって」と言っていた、という程度のものですけどね。
 別に大阪生まれではないから、「4時ですよーだ」あたりから、ずっと見てきたってわけではない。ただ、それまでの、たけしさんとか欽ちゃんとか、そこから下ってとんねるずとかウンナンとかを見ているよりも、何かこう、圧倒されつつも、ああ、絶対にこっちだなぁ、という何か確信のようなものがあって笑ってたんですね。
 で、そのダウンタウンの笑いを産んできた松本人志の、インタビューと精神分析をおこなったのが本書です。

 インタビュアーは、部分的には渋谷陽一がやっているようですが、ほとんどは斎藤環がやってます。斎藤環は、元から、松本人志に対して結構興味津々の様子だったので、願ったりかなったりという感じなんでしょうか。精神分析にもなかなか力が入っております。
 印象的だったのは、学生時代に友達を笑わせたりというレベルでも、やっぱり主な対象は男友達だったと語っているところ。
 例えばウンナンの番組とかは、家族とか恋人とかと見ても、別に変じゃないと思うんですよ。だからこそ、「未来日記」とか、ああいう企画も出てくる。別に笑いどころがあるわけじゃないんだけど、それをやれば喜ぶ人が、自分たちのファン層の中にいるっていうことなんでしょうね。僕は実は15分くらいしか見たことないんですけど…。なんか、「今さら、『たけしの元気が出るテレビ』みたいなことをやられてもつらいなぁ」という部分もあったしね。同じ理由で「ハモネプ」も20分くらいしか見てない。
 で、少し話がそれましたが、たとえば、最盛期の「ごっつええ感じ」のような、ゴールデンで20%以上の視聴率を取るような番組でも、ダウンタウンの番組は、家族とか恋人とかと見るものじゃない、という意識が僕にはありまして。それは、ダウンタウンの笑いが、より男性であるダウンタウン自身の主体性に基づいて構築されているからだと思うんですよね。
 女の子にはわかんないんじゃないのかな、という笑いが、結構ある。「ガキの使い」なんかを見ていても、会場のお客さんには女性が多いけど、本当に全部わかってるのかな、と番組を見た後で思うことって結構あるんですよね。
 そうした笑いの構築は、「僕、よく言うのは、自分の番組をテレビで観てる、もう一人の自分を考えながらやるんですね。ブラウン管の中の僕が何を言うと、あいつはテレビの前で喜んでくれるかなと。僕が何を言うと、あいつが一番意外がるかなっていうようなことを考えながらやりますね。」という方法論から出てくるんだろうと思いました。
 松本さんというのは、何が面白いか、何が意外か、という基準を自分に置くんですよね。そして、その基準値である自分に絶対的な自信を持っている。それが「こんだけ面白いことを言える俺が『面白い』と言うとんのやから、面白くないわけないやろ」という感じの発言になってくるんです。ただ、その基準が自分であるというのは、笑いのレベルが高い、という点だけを抽出して引っ張ってきて当てはめてるわけではない。おそらくは。
 その基準である松本人志という人間自体が男だから、当然のように男性的な機微でものごとを「面白い」と感じる。そこらへんも全部ひっくるめたところで、基準点が自分であるということなんでしょうね。だから、女性にはわかりづらいかな、という感じの笑いが生まれてくる。
 松本さんの自信というのは、だから「その自信は、僕じゃなくて、『松本』に対してのものですね」って本書でも言ってるんですが、演者としての絶対的な自信というよりも、その基準値をここに設定すれば、当然こうなるという自信だと思うんですよ。バーの高さを常に「自分」に設定する。2メートルの高さにあるバーが「跳べたよ、OKだよ」と言っているなら、その跳躍は2メートルより下のものであるはずがない。そういう理屈だろうと思います。
 松本さんにとっては、こちらの方が、ウンナンのようなマーケティング的なバーのセットよりも確実に感じられるんでしょう。ただ、「未来に起こり得る出来事に怯えたり、憧れたりする方向性がある」という斎藤環による精神分析の結果からすると、そういう「オレ基準」が実は全然、確実性とか普遍性を持っているものではない、というのを深層心理ではちゃんと知っているというような気が、僕はします。
 橋を渡るとき、「橋が途中で落ちることはないだろう」と理論的には判断できても、「でも絶対に落ちないということはないし、いつかは落ちる」と感じるというようなものではないでしょうか。松本さん自身は、先の分析結果を「売れなくなるという怖さですか?」と解釈していますが、売れる売れないというのは、また別の話になると思いますね。

 僕のような、ダウンタウン・ジェネレーションの人間というのは、実際、そのバーのセットに対して、常に「OK」と言ってきたわけです。そこに、ある種の共同体意識のようなものもあったし、松本人志個人を、何か神様のように信仰してしまいがちであるというのは、そのへんが原因だと思う。
 一昔前、新潮社が「若者たちの神々」とか言うタイトルで、筑紫哲也とかビートたけしとかに対するインタビュー集をまとめたことがありましたけど、ちょうどそういう、全肯定ではないんだけど、絶対に否定はしない、という共通了解がある、もしくはあったんじゃないかな、と思います。
 「一人ごっつ」のあと、「一人ごっつ2」「松ごっつ」と番組がレベルアップすると、笑いとしてはどんどん高次になっていって、笑うというよりも、ひたすら感心する番組になっていったような気がするんですが、それでも、「もうついていけないから」とは、僕は思ってなかったんですよね。視聴率的には落ちていったようですが、数字が低いからダメ、ということではなくて、信頼感のようなものは常にある。ただ、それを実際に見るかどうかはまた別で、理解できないと、やっぱりつらいんで、というところはあるでしょう。ただ、それは「つまらない」というのとはまたちがうよなぁ、と思うんですが。
 で、僕としては、この先、ずっとそうやって個人崇拝を僕たちの世代(というか僕)はやっていくのかなぁ、というのがちょっと気にかかっているんですが、ただ、正直、「笑う犬」が「発見」になってがくっとつまんなくなっちゃってて、他の番組で観ても、そんなには「これは」という部分がない以上、ネプチューンの笑いへの親和性はもしかすると高くないんじゃないかという気がします。「笑う犬の冒険」は、かなりはまりこんでたんですが。
 そう考えていくと、この先、ずっぽりとはまりこむ形でお笑いに入れ込める対象がどれだけ出てくるか非常に微妙なところだと思うし、だったら、ダウンタウンの影というのは、常に僕たちの上に降り続けていくのだろうなと、そんなことを思いました。
(2002.3.31)


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