宮部みゆき



『模倣犯』
 (新潮文庫・1〜5巻
 2005年12月〜
 2006年1月刊
 原著刊行2001年4月)
 えー、どうも、ご無沙汰というかなんというかでございまして、まあ、あんまりリアルタイムで更新の都度に読んでいただいている方というのは少ないんだろうなとは思うんですけれども、実にここ半年で2回目の更新であります。
 いやあ、僕がたまたまここに飛んできたとしても、確実に「死んでる」サイトなんだと判断するところでしょうねえ。まあ、リアルタイム性を売りにしたサイトじゃないから、今みたいな状態でも、1日に2、3人くらいは訪れてくれる方もいらっしゃるようですが。
 これだけ更新の間が空いたというのは、まあ、めちゃくちゃ忙しかったとか、他にはまりこんだものがあったとかいう理由もあったんですけれども、この『模倣犯』という小説も、あんまり感想を書きたくなるような小説じゃなかったというのがありまして。

 いやー、なんてんですかね。
 意欲作だと思うし、賞も取ってるらしいし、映画にもなったし、宮部みゆきという作家の代表作のひとつと見なされてるみたいですけど、僕個人としてはあんまし面白くなかったんですよね。
 この小説において、作者がもっとも描き込みたかったのは、真犯人であるピースなんじゃないかと思うし、少なくとも僕はそうあるべきだと思うんですが、そこが全然描けてないと思うんですよ。
 作者の意図がどこらへんにあったのかというのは、まあどうでもいい。しかし、少なくとも被害者と加害者を等価に描こうとしているように思えるし、それは面白い試みだと思います。
 ところが、それを大衆小説の延長線上でやってしまっているという気がする。それがすべての敗因なんじゃないか。

 どういうことかって言うと、答えが最初から見えてるんですよ。残酷な殺人鬼に家族を殺されて、昏い苦闘の生活を強いられる市井の人々。こっちはイイモノですよ。なーんも悪いことしない。カワイソーな人たち。
 で、かたや天才を自称する殺人鬼たち。残酷で、頭はそこそこ切れるけれどもそのくせ妙に幼稚で、被害者をいたぶった末に殺しちゃう。幼少時のトラウマのオマケつき。
 これで、最終的に犯人たちの幼稚さが明るみに出て、彼らが逮捕されるっていうんだったら、別にそんなもん問題作でもなんでもない。お涙頂戴の浪花節じゃないですか。でも結局そうなるんだよね、この小説。

 読んでいて一番面白かったのは文庫でいうと第2巻で、これは1冊丸ごと通して、加害者であるピースとヒロミの立場から書かれている。
 これは、パルプ・ノワールというか、犯罪小説として、よくできていると思いました。趣向が凝らされていて、1巻で展開された殺人事件を裏側から描いている。読んでいてすごく楽しい。
 ところが、問題は被害者たちとか事件を追うルポライターたちの側で、もう、なんでしょうね、いかにも無辜の被害者でございますというオーラが出ている。特に有馬義男と塚田真一の2人については、ひどい事件に巻き込まれたけど頑張って生きて、怒りをまき散らすのではなく冷静さを保って、事件に向き合っております、みたいな書かれようでね。
 僕は、こいつらいつ殺されるんだろうと、それを心の支えにして読んでましたけれども、結局、殺されませんでしたね。後半はすごいフラストレーションがたまりました。
 宮部みゆきが、この2人を悪意的に描いてるんだとしたら、それはすごいと思うけども、そうじゃないんでしょうね。

 僕の性格がゆがんでるのかもしれませんけど、この手の「真面目に生きている小市民が突然襲ってきた悪意に立ち向かって勝利する」みたいな、結局は真面目にコツコツ生きてるのが一番だみたいな落としどころは、あんまり好きじゃない。
 そんな愚にもつかない説教されるために小説読んでるんじゃないんですよね。
(2008.3.15)


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『あかんべえ』
 (新潮文庫・上下巻
 2007年1月刊
 原著刊行2002年3月)

●「霊験お初」+「今夜は眠れない」?


 時は江戸。海辺大工町に新たに料理屋を出すことになった太一郎と多恵の夫婦とその娘おりん。
 ところが12歳になるおりんは、この料理屋「ふね屋」に移ってすぐに高熱を出し、生死の境をさまようことになる。どうにか回復したおりんだったが、回復したとき彼女には不思議な力が備わっていた。それは幽霊が見える、という力。
 「ふね屋」には5人の幽霊が住み着いており、その5人を見、話すことができるようになっていたのだった。そして、「ふね屋」が迎えた最初の宴席で、その幽霊の一人が刀を抜いて暴れ回るという事件を起こしてしまう。前途多難な「ふね屋」の船出に、さらに様々な霊現象が襲いかかる。

 時代物で、子供が主人公で、霊能力と怪現象が主軸になったストーリー展開である。
 宮部みゆき氏の愛読者なら、なぁんだ「霊験お初捕物控シリーズ」(1)(2)と「今夜は眠れないシリーズ」(1)を足して二で割っただけじゃないか、とつい言ってしまいたくなるのではなかろうか(それとも愛読者というのはそういうひねくれたことを言わないもんなのか)。
 僕も最初はそう思ったのだが、でも、それは実は何も言ってないのに等しい。
 たしかに、その2シリーズの要素を発展的に組み合わせたのが本書であるには違いないけれど、でもそれを指摘したところで、別に新たな読みの可能性がひらかれるわけでもなければ、本作に対する評価が決まるわけでもないからだ。重要なのは、それを組み合わせたことによって、どのような物語が可能になっているのか、ということだ。

●子供であるということ、大人であるということ


 主人公が子供である、という設定は、本作においては非常に明快な意味合いを持つ。
 それはつまり、主人公の外部性と無力性だ。
 すでにたとえば『今夜は眠れない』の主人公たちがそうだったように、子供たちは大人の世界での出来事には無力なのである。物語の中枢となる事件は「大人たち」の世界で起きていて、子供たちはもちろん関係者ではあるのだけれども、しかしそこに直接的にはタッチできない。
 本作の場合、物語の核をなすのは「ふね屋」での幽霊騒ぎだが、これは直接的には「ふね屋」の営業に、ということはおりんの父母である太一郎と多恵、それに彼らの後見人である七兵衛にダメージを与えている。これらの身近な人々が困る、というのはおりんにとっても嫌なことであるには違いないが、しかしおりんは子供であるがゆえに、七兵衛のように「ふね屋を”お化けの出る料理屋”として売り出せ」「禍を転じて福となすってやつさ」といったアドバイスをして、具体的に経営に口を出すことはできない。せいぜいが幽霊である玄之介のアドバイスを受けて、裏の水路でとれる鰻やら泥鰌やらの魚料理を作ることを提案するくらいだ。それも夢でお稲荷さんがお告げをしてくれたと嘘をついてのことである。
 そしてこのおりんの提案は、物語の中では具体的に実を結ばない。実を結ぶ前に次の幽霊騒ぎが起きるというストーリー展開の都合上、とも言えるが、むしろ構造的におりんにはそうした方面に力を及ぼすことはできない、ということなのではないかと思う。

 上巻のp.158では、七兵衛が上記の提案を太一郎たちにした後、キワモノ的な売り方に難色を示す太一郎に、料理屋というのは贅沢商売であり、それを主として切り回すためには清濁併せ呑む度量と根性を持てと説くのを聞き、おりんが「なんだか心寂しいような気持ち」になるというシーンが出てくる。
 国語のテストにおける模範解答風に言うなら、この「心寂しい気持ち」は、その少し後に出てくる「七兵衛おじいちゃんを遠くに感じた」という部分と対応しており、さらにこの気持ちのために、騒ぎのもとになっている幽霊を実はおりんは見ることができるのだ、ということを結局、七兵衛には打ち明けない、という行動につながっている。
 太一郎たちは独立する前、七兵衛の賄い屋で下働きをしていたのだが、そのころには七兵衛はおりんをたいそうかわいがってくれたのである。そのころ、おりんにとって、隠居然とした七兵衛は頼りになる味方であり、同じ世界の中で見守っていてくれる庇護者であり、つまりその頃ならば、おりんは七兵衛に自分の能力のことを打ち明けたはずなのである。ところが太一郎が独立して、七兵衛が後見人のような立場になってみると、実際には七兵衛はおりんのような子供たちの世界の住人ではない、ということがはっきりとする。むしろこの物語では、大人たちの世界を代表する存在であるということが認識されているわけだ。
 本作において、七兵衛の位相はおりんの意識の中で激しく変動する。優しく頼もしい「おじいちゃん」から、大人たちの世界の代表者である存在へ、そして、まっすぐな心根のゆえに霊を見ることができないほとんど唯一の存在として。本作は、七兵衛とおりんとの距離が、どのように遠くなっていくかの物語でもあると言えよう。そしてその懸隔は、おりん自身がみずからを、この一連の事件のなかでどのように位置づけるかというアイデンティティーの確立によって拡がっていくのだ。

●狭間での事件


 少し話をはしょりすぎたようだ。
 まずは、本作がどのような世界観の上に成立しているか、そこから語るべきかもしれない。
 といっても、ベースになっているのはいつもの宮部式時代小説の世界観であるが、本作のメインファクターである幽霊の取り扱いについては、これまでよりも明確に、意識的な切り分けがなされているととらえてよい。
 幽霊というのはつまるところ、死後、あの世へと行けずに彷徨っている霊体のことを指す。本作に登場する幽霊は7人。まずふね屋に住み着いているのが、遊び好きの若侍である玄之介、色っぽい姐さんのおみつ、按摩の爺さんである笑い坊、おりんにあかんべえをする少女お梅、そして宴席で暴れた蓬髪の浪人おどろ髪の5人、プラス、物語の後半になって外からやってきて騒ぎを起こすのが1人と、事件の根元となっている黒幕的なのが1人である。
 彼らは普通、人間には見えないが、その霊をこの世にとどめることになっている心残りに通じるものを心に持っている人間には、見えたり、話をしたりすることができる(ことがある)。
 男に対する横恋慕の情を持っている女には、同じような悔いを残して死んだおみつが見えたり、病気を抱えた人間には、按摩の仕事が好きな笑い坊が見えたりする。笑い坊はちょっと特殊な霊で、病を按摩で治療をするのが好きなので、幽霊としては例外的に生きている人間に触れることもできるのだという。
 彼らは死んではいるけれども、しかしあの世の住人ではない。何らかの事情でこの世につなぎ止められているわけで、つまり、あの世とこの世の境界にいる存在と言ってよいだろう。
 そう考えると、おりんがいつも玄之介と会うのがふね屋の二階座敷に上がるための「階段」であることの意味もはっきりする。つまり、1階でもなければ2階でもない、その境界としての階段こそは、幽霊が出るのに都合がよいという意味合いが込められていると見ていいであろう(「怪談」に引っかけた駄洒落…ではいくらなんでもないと思う…)。

 おりんもまた、ふたつの世界の境界の住人である。太一郎たちのように「大人の世界」に住まうには幼すぎ、「筒屋の丸ぼう」のように完全に「子供の世界」だけで暮らすには歳をとりすぎているのが12歳というおりんの年頃だからだ。彼女は大人たちの世界においてはまだなんの力も持たない存在である。だがそれゆえに大人たちの世界にとらわれない。そのことで、霊視の力を得る資格を持っていると考えていいだろう。
 おりんが幽霊を見ることができるようになるのには、高熱にうなされて三途の河原に迷い込み、そこの水を飲んだから、という理由づけもなされる。これもまた、三途の川という「あの世」と「この世」の境界での話である。
 そして彼女は、その力を得たことで、「幽霊たちの世界」と「物質世界」のはざまを生きることになる
 このように、この物語では意識的にふたつの世界が対置されてる。「あの世」と「この世」、「物質的な世界」と「霊たちの世界」、「現在」と「過去」。そして、事件は常にそのはざまで起きる。
 象徴的なのが、最初のお化け騒ぎの後、ともに霊視能力があると自称する娘の能力比べをおこなう浅田屋と白子屋の「お化けくらべ」だろう。この宴席には、浅田屋は黒い料理ばかりを、白子屋は白い料理ばかりを出せと注文をつける。白と黒というはっきりとした対比がなされているわけだが、土台、そんな白黒はっきりしたところにはあらわれないのが本作の幽霊なのである。つまるところ、能力比べをする2人の娘はいずれも騙りであって、それはこんなところからもわかる。

●おりんの位相


 こうした世界観は、怪談やファンタジーなど、この世ならざる者を扱った物語においては、比較的しばしば散見される代物ではあるかもしれない。特に幽霊という存在の取り扱い方についてはそうだろう。
 だがおそらく、「霊験お初捕物控」シリーズや「あやし」といった宮部みゆきの過去の怪異時代小説では、幽霊や妖怪はもっと、日常の中にするりと紛れこんでいたはずなのである。たとえば「霊験お初捕物控」の2冊目「天狗風」では、怪異が招いた神隠し事件について、南町の奉行である根岸が、幻視の能力を持つお初に捜査を依頼することになる。これはつまり本作でいえば、七兵衛がおりんに相談を持ちかけるようなものだ。ふたつの世界というような区分が措定されないと、あの世とこの世は入り混じってしまうのである。
 本作では、そうしたことは起きない。物質世界は物質世界であり、あの世はあの世だ。物質世界の純然たる住人である七兵衛が幽霊話を信じられないのは、相手が子供であるおりんだからではない。彼はたとえば女房であるおさきなど、自分にも幽霊が見えたという大人たちに対してさえ、「頭は大丈夫かというような目で」見るばかりでその話を信じない、いやむしろ信じることができないのである。必然的に、幽霊たちの世界、ないし過去で何が起きていたのかが焦点となってくる物語後半部になると、七兵衛の存在感は希薄になる。

 ここで普通に考えると、かわっておりんが大活躍、ということになりそうだが、直接的にはそうはならない。
 おりんの役割は確かに大きくなる。幽霊たち全員と話ができるのはおりんだけだからだ。だが、彼女は幽霊を見、話すことができるだけであって、悪霊と対決する、というような能力は持っていない。いざ対決となると頼りになるのは玄之介であるし、最終的に黒幕的な悪霊を退治したのは少女の幽霊お梅だった。
 しかし、おりんはもちろん、重要な役割を果たしている。それは、過去に何が起きたのか、そして今、幽霊たちの世界で何が起きているのかを、幽霊たちから聞き出すという役割だ。そして、彼女がそれを語ることで、彼女の言葉を信じる周囲の大人たちと、そして我々読者は真相を知ることができる。そしてまた、記憶を失っていた玄之介たち幽霊も、おりんの媒介によって過去の記憶を取り戻すのだ。
 すなわちおりんとは、物質世界と霊的世界との通訳であり、橋渡し役なのである。

 「通訳としてのおりん」という主人公像は、この物語の魅力と限界とを同時に創出している。
 本作が、これまでの「霊験お初捕物控シリーズ」ないし『あやし』などのような怪異時代小説とは少し趣を異にしているのは、このおりんという少女があってこそだ。
 「通訳」が必要となる物語というのは、たとえば推理小説がそうだろう。推理小説とは、犯人が事件というリドルを出し、それを探偵という通訳が、謎解きによって我々の言語に翻訳しおわったところで幕が下りる物語形式であるということもできるはずだ。
 だとすると、本作もまた、一種の推理小説なのだといっても過言ではない。ただ、通常の推理小説なら解き明かされるのは犯罪のトリック(いかにしてそれがおこなわれたか)だが、本作でおりんが解き明かしてくれるのは、幽霊の存在理由(なぜ彼らが幽霊になったか。かれらの心残りとはなにか)だという違いはある。
 そのように考えると、幽霊の一人である「おどろ髪」が途中退場した理由も、そしてなぜ彼が冒頭、「ふね屋」の最初の宴席で刀を振り回して暴れたのかも理解できるようになる。

●語られなかった謎はどこへ行く


 実は一読した際、おどろ髪がなぜ最初に筒屋の祝いの宴席で暴れたのか、それがわからないままだった。で、どうも書ききれていないのかなとおもっていたのだが、この書評を書くに際して、幽霊がなぜ出てくるのか、それを解き明かすことが、この小説にとってはもっとも重要なポイントなのだということに気づき、それなら絶対に、なぜおどろ髪が暴れたのかも書かれているはずだと思って、宴席のシーンの前後を読んでみた。
 すると、案の定というか、まあこの場合は最初に気づいてなかった僕が鈍いだけなのだが、そのあたりのことも書かれていたのである。
 鍵は、おどろ髪が成仏するシーンで漏らす、こんな言葉だ。

「ひとかどの、家に、生まれた、けれども、俺は、妾腹の子で、厄介者、らった」
(中略)
「生まれた、ときから、俺は、ろこにも、いるところがなかった。だから、俺は−−兄上が、うらやまし、かった」
「あんたには兄さんがいたの−−」おどろ髪と向き合い、彼の顔に見入りながら、おゆうが尋ねた。
「あんたと、同じら」おどろ髪は、かすかに笑った。「己が、悪い、わけらないのに、いつも、厄介者、らった。俺は、みんな、憎かった。俺を嫌う、父上が。俺が、持っていないものを、みんな持ってる、兄上が」
(下巻p.231−232)


 「厄介者」という言葉の前後が読点で区切られるのは、おそらく理由がある。「厄介者」とは生前のおどろ髪自身を縛っていた自意識であり、この直前でおゆうという女性に言う「もっと早く、他所へ、行けばよかった」という彼自身の言葉がかけられるべき、もう一人の人間でもある。「厄介者」として生まれたことはしかたない。だが、なら「厄介者」ではなく扱ってくれる「他所」へいけばよかったのに、という悔恨が、この読点の間に込められていると読んでも深読みにはあたらないだろう。
 ともあれ、ここで吐露されている兄弟間の軋轢は、筒屋の婿入り当主である角助についての次のような昔話と呼応することになる。

 だが角助はためらっていた。長男である自分が婿に行けば、弟妹たちを捨てることになると、頑に思い詰めているのだった。太一郎は心配になり、角助には内緒で彼の家を訪ねてみたが、彼の家族はみんな、彼のこの縁談を喜んでいた。今までさんざん自分たちのために苦労してきた兄ちゃんに、やっと運が向いてきたのだ。何も遠慮することはないと、弟たち妹たちは、こぞってそう言うのだった。
(上巻p.60−61)


 ここだけ取り出して読むと、ただのちょっといい話なのだが、おどろ髪はおそらく、ここに描かれている角助の弟たち妹たちへの罪悪感にひかれて出てきているのだ。角助の弟たちは別段「厄介者」ではないが、材木問屋の見習いから大きくはなくとも商家の若旦那に婿入りした角助が「持っていないものを、みんな持ってる、兄上」としておどろ髪の目に映ったとしても不思議ではないだろう。また、生真面目な角助に、そうした負い目がこの婿入りから年月が経ても残っていただろうことも類推できるのではないか。

 筋道立てて考えると理解できるこうしたことが、一読しただけでは理解しづらいのには理由がある。ここでは、おりんが明快な通訳をしてくれないからだ。
 たとえば、先に引用したおどろ髪とおゆうのやりとりに続けて、「だから、おどろ髪さんは弟たちから離れて婿入りした角助さんを見て、筒屋のお祝いの席で暴れたのね」といった感想をおりんが漏らしてくれれば、この関係性はたちどころに理解できるはずなのである。
 ところが、おりんはそこまで親切ではない。なぜなら、おりんはまだ子供だからだ。
 子供だから、生前のおどろ髪が持っていた恨みを完全には理解できない、とも解釈できるし、おどろ髪の恨みと筒屋の一件とを結びつけられるほど勘がよくないとも解釈できる。
 しかしいずれにしろ、おりんが子供であるという設定は、おりんが必ずしも自分一人で一から十まで解決する名探偵でなくてもかまわない、という前提を含むのである。おりんがあくまで通訳という役柄にとどまることができるのは、彼女が子供だからなのだ。

●もろともに流す


 この小説は、読み終えてもなお、語られなかった部分が残る小説である。余韻と言ってもいいし、奥深さと言ってもいい。
 それは、おどろ髪がなぜ暴れたのか、という理由だけにはとどまらない。おみつが生前に残してしまった禍根とはどのようなものだったのか。黒幕だった幽霊は心の中にどのような暗闇を抱いていたのか。語られなかった事柄は多いが、名探偵ならぬ通訳の身のおりんは、それを積極的に語ったり解き明かそうとしたりはしない。
 こうした余韻の残し方には、賛否両論あるかもしれない。たとえば、それはすでに『今夜は眠れない』で試みられていたことの亜流ではないか、とか。
 だが、時代小説、それも怪異テイストの小説でこの手法を発展的に取り入れたことは、「解かれなかった謎」を「あの世」へ、そして「過去」へと押し流すことにより、さらに大きな効果をあげていると思う。『今夜は眠れない』と違って、『あかんべえ』での解かれなかった謎は、おりんが大きくなればわかることなどではない。それはもっとずっと遠くに封印されてしまったのである。
 世の中、そうそう推理小説のように、名探偵がすべての謎を解いたからすっきり解決、とばかりはいかない。世の中とか、人の心の暗さやひずみから生まれてきたのが幽霊であるとするなら、彼らが成仏するとき、そうした暗さやひずみもいっしょにあの世へ流されていくのである。そのとき、その暗さやひずみが他の人間に説明されているかどうかは、ひとまず関係ない。
 本作のラストで、幽霊たちは古井戸に飛び込んで消えていく。これはつまりあの世へと帰る、のか、行くのかはわからないけれども、ともあれ彼らは、語られなかった謎ももろともに、あの世に旅だって行くのである。後には生者たちが残され、そしてまた日々の暮らしへと戻って行かなくてはならない。
 これはまさしく余韻と呼ぶべきものであって、妙な感動がここに残ったのだ。
 宮部みゆき氏の時代小説はたくさんあって、良作も多いと思う。だが、僕としては今現在、本作をそのナンバー1に推したい気分になっている。なんとなれば、こうした感動はこれまでの時代小説では味わえなかったもののように思うからである。
(2007.12.15)


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『淋しい狩人』
 (新潮文庫
 1997年2月刊
 原著刊行1993年10月)

●理不尽な文句をつけてみよう


 刊行されてからずいぶん後になって読んで、それでこういう文句をつけるというのはあんまりお行儀のいいことではない。
 それを承知の上で言うけれど、この本を一言で言うなら、ちょっとひねりのきいた連作短編人情話風味といったところで、正直なところ、こっちはそんなもんには飽き飽きしてるんだよコンチクショウ、なのである。
 この本が上梓されたのは1993年のことで、そのころだったら、まあ、それほど飽き飽きしてはいなかっただろうから、作者を責めるのは僕のお門違いである。とはいえ、宮部みゆき氏は今でもこういう類の作品をときどき書いているように思うので、あえて苦言を呈してみた。
 まあ、あと宮部だから、というのもある。これが乃南アサとかだったら言わないですよ。よく書けまちたねえ、あんたみたいなもんが、ってなもんで。この『淋しい狩人』みたいな路線というのはそこそこ手堅いと思うし、芸風として書き続けるのは悪くないと思うけど、それでも5年に1冊出すくらいで十分じゃないかしら。作家としての体力には折り紙付きだと思うので、書けるうちにもっとチャレンジしてほしい、という気がする。
 こういうのとか、『ブレイブ・ストーリー』みたいなのとかは、言っちゃ悪いけど流して書いてると思うですよ。言い方を変えると、まあ、冒険してないというか、自分のテリトリーに既にあるもので話を作っているというか。だから、ひねりは確かにきいているけれども、どっか箱庭的というか牧歌的なんですね。それはそれでニーズがあるんだろうけど、でも宮部ならもっとやれるはず、という気もする。繰り返すけど乃南アサだったらこんなこと言いませんよ。マラソン大会でびりっけつ走ってるでデブにオリンピック出ろとは言えないもの。

●まあ、面白いんだけどさ


 で、最初に文句をつらつら並べましたが、もちろんつまらないわけではない。
 どこにでもあるような小さい町の古書店(神田神保町系の書店ではないところがミソですな)を舞台に、持ち込まれた本が絡まっての人情話風ミステリが展開されます。読んでると面白いし、なんか考えさせられる気になるけど、読み終わると特に何も残らない、とか書くとまた愚痴になるけど、それで人生観変わっちゃうような、「うわー、すごいもん読んだー」という本読みにとっての醍醐味は求めてはいけません。だって、そういうコンセプトの本なんだもの。
 僕が前段で述べた愚痴というのは、そのコンセプトの妥当性を問題にしているのであって、そのコンセプトに従った作品という意味ではこれは必要十分だと申し上げてよいでしょう。
 大森望氏の解説も、なんかちょっとどう評していいやら困りながら書いてる雰囲気でありますが、ま、暇つぶしにはもってこいです。
 ちなみに『淋しい狩人』は、この連作の中の一編。そのタイトルをそのまま表題にしているわけですが、実際の作品の中身にマッチしてはいないので、なんだか微妙な気分になります。だってなんかハードボイルドみたいなタイトルだもん。人情もののタイトルとしてはそぐわない気がしますね。
(2007.10.9)


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『今夜は眠れない』
 (中公文庫
 1998年11月刊
 原著刊行1996年10月)

●力は抜いても面白い


 うーん、どういう言葉で表現すればいいのか、非常に判断に迷う一作。
 これほど作家の野心を感じさせない小説も珍しい。これを書くことが宮部みゆきという作家のキャリアにとって、ほとんどまったくプラスにならないだろうことは明白だし、それはたぶん本人が一番よくわかっているだろうと思う。
 実際、この作品に投入されているアイディアは決して目新しいものではないし、あるいは宮部みゆきという作家の力量を考えれば、これとまったく同じ内容を、短編として展開することもできたのではないかと思う。それはつまりアイディアとか作品の構成の密度自体はものすごく薄いということだ。そういった部分では、言っては悪いが、力を抜いて書いていると思う。
 それでも、宮部氏は1996年にこれを書くことを選んだのだし、そして何より重要なのは、その力の抜き具合にもかかわらず、これがまた読んでいる時はとても面白い小説だということだろう。そこに、アイディアや構成とは別の部分でのこの作品の価値がある。

●「坊つちやん」と雅男と成長主題
   〜あるいはマンガ的ストーリーテリング〜


 中学1年生の主人公緒方雅男の視点を借りた一人称で語られる本作は、緒方家に、かつて雅男の母に命を助けられたという男の巨額の遺産が突如として転がり込んでくるところから幕を開ける。で、その巨額の遺産をめぐってのトラブルが緒方家を襲い、その顛末が描かれる。でも本当にそれだけだ。
 意外な真相が語られるわけでもない。どんでん返しとおぼしい意趣はあるが、読者がそれによって驚くかというと、そうそう驚きはしないだろう。
 少しそれらしく見えるのは、まさにこれがそのトラブルに巻き込まれる当人である雅男の一人称によって書かれているからで、もしもこれが三人称で、いわゆる神の視点から書かれていたとしたら、あらすじはぐっと単純になる。
 実は中学1年生の彼が関知する領域の外側で、大人たちにはそれぞれの思惑があったという種明かしで、これは漱石の「坊つちやん」の最近の読解に近い。実は坊っちゃんは、もともと学校内にあった赤シャツ派VS山嵐派の権力闘争に巻き込まれただけで、彼自身はむしろ事件全体の流れからすれば端役であった、というあれだ。それを宮部氏が意識したわけではないだろうが。
 雅男は本編の主人公ではある。でも、この事件の主人公ではないし、せいぜいが脇役であって、しかも実際のところ、そう重要な脇役ですらないのかもしれないのだ。
 それで面白い小説になるのか。なるんですなあ。それは「坊つちやん」が名作とされていることでもわかる(もっともあれは本作と違って、現代の中学生高校生が読んで面白い作品じゃないが)。

 こうした形式を面白くする条件のひとつは、主人公が、自分が事件の脇役であるとは考えもせず、主人公気取りでいつづけられる人物であるということだ。読者が彼に感情移入し、共に事件を追いかけていけないようではダメなのである。その牽引力を(勢いと言ってもいいが)持ち合わせていなくてはならない。
 その点、この雅男くんは合格だ。友人として登場する島崎くんは、この時点でアウトである。幼く見えるくせして、そこらの大人よりも知恵がまわり、正月の書き初めに「権謀術数」と書いてしまう彼は、自分(と雅男)がいかに事件全体の中で端役に過ぎないかを知りすぎている。自分にできることは雅男を励まし、彼とともに探偵役をつとめることくらいだと(そしてしかも決して事件全体を解決できないだろうということをさえ)知ってしまっている。
 この小説を面白くするキーマンは何と言ってもこの島崎くんなのだが、彼はそうした理由で、雅男より探偵役にふさわしい頭脳を持っていつつも主人公にはなれないのである。
 この島崎くんの導きにより、雅男はこの事件の中で彼ができる最大限の役割を果たし、そして最後には、彼自身、端役でしかなかったことにおそらくは気づいてしまう。それはつまり雅男くんはこの小説の中で成長したということであり、本作が「少年の成長物語」という主題を包含していたということだ。

●力は抜いても手は抜かない


 成長という主題は、確かにうまく料理されている。例えるなら雅男は孫悟空であり、島崎くんは亀仙人であって、亀仙人の導きにより、悟空は「世界にはまだまだ強ええやつがいるんだなぁ」と思い知ったわけだ。
 で、うまく料理されてはいるんだけれども、でもこれが宮部みゆき氏の全力投球では絶対にないのも確かな話だ。
 宮部みゆき氏が作家としてすごいのは、そういう緩めのボールであっても時には投げる必要があるということを知っているところであり、なおかつそこで丁寧に投げる必要性をも知っているというところなのだろう。本作は、力は抜いているが、手は抜いていないのである。エンターテイメント作家としての矜持のようなものをそこに感じる。
 そしてまた、主人公と他者との関係性なども含め、これが『ドリームバスター』『ブレイブストーリー』へと繋がっていくわけだろうから、宮部氏自身しっかりとその中で得るものは得ていると言える。そうしたしたたかさも、この人の力量なのだろうと思う。
(2005.8.28)


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『ぼんくら』
 (講談社文庫
 2004年4月刊
 原著刊行2000年4月)

●コスチュームとしての時代小説


 バロックワークスのNr.2で、ってそりゃボン・クレーである。しょっぱなから何をつまらないボケをかましているのか。
 そういえば宮部みゆきを読むのは久しぶりであったなあ、と思って読んでいたが、このホームページでの感想アップ日付で調べてみたら実に1年半ぶりだったらしい。ボン・クレーも出てくるわ、そりゃ。もっと頻繁に読んできてたような印象があったけど、そうでもないんだねえ。意外に間がひらいてた。

 個人的な感想で、特に根拠のある指摘じゃないのだが、宮部みゆき氏は、むしろ現代小説よりも時代小説の方を楽しんで書いているような気がする。
 なんというのか、このひと、そういうコスチューム・プレイが好きなのではないか。「時代小説」の約束事を踏まえて、人情噺を展開しているようで、その実、もうひとつ深いレベルで何か企んでいる。そういう作品が多い。
 裏でたくらみをなすための「隠れ蓑」にできる物語の「型」をコスチュームに使いつつ、それだけでは終わらないように企みをめぐらせる。そういう人の悪いコスチューム・プレイ。
 もっとも、以前にも何度か書いたように、宮部みゆき氏はどんなにコスチュームを凝らしていても物語の核を個人の精神にしてしまう傾向があるわけで、それを菊池昌典氏じゃないけれど、借景と呼びたくもなる。コスチュームだからこそ、それに凝ることが作家としては楽しいのではないか、というのはうがちすぎた見方だろうか。

●セルフパロディとしての第6章


 長編小説であるこの『ぼんくら』は、あたかも短編小説集のようにして始まる。
 最初の話は、長屋で起きた殺し。老いて病んだ父親と兄妹のうち、兄の方が殺される。以前に長屋の差配に逆恨みして殴り込んできたごろつきが、今度は兄に逆恨みしてやったのだ、と妹は証言するが、どうもこれには裏があって、という味わい深い短編である。これが第1章。
 続いての第2章は、博打狂いの父親とその娘をめぐる、これも味わいのある短編。
 『初ものがたり』『本所深川不思議草紙』のように、主人公やシチュエーションを固定した連作短編集というのは、宮部氏が得意とするところで、なるほどこれもその伝で、と思っていると、第5章「拝む男」あたりから、どうも雲行きが怪しくなってくる。
 続く「長い影」は短編どころではなく、上巻の後半ほとんどと下巻のほとんど全部をこの章に費やしている、ほとんどこれだけで長編小説と呼べる体裁である。そこで描かれているのは、そこまでの5章において同じ長屋を舞台にして起きていた事件を貫くある思惑を、昼行灯然とした同心井筒平四郎が追いかけていく過程だ。

 で、これって多分、セルフパロディのような形で発想されているのだろうと思う。
 つまり、「そんだけひとつの長屋で事件が起きたら、そら長屋の住人も逃げだすっちゅーねん」であり「味わい深い以前に、それだけ事件が頻発するならなんか裏があって当たり前」という発想だと考えてよいのではないかと。
 だから、悪く言えば、そのアイデアだけで書いてしまったと言えないこともない。が、実際のところこの小説が面白くなっていくのは、「長い影」に入ってからであり、それまで「どうせただの味わいのある話」という予想のもとに読者が登ってきた梯子が、すこんと外されてしまってからのことなのだから、僕自身はそれをそう悪いこととばかりは言えないと思っている。もっとも、宮部みゆきという作家の地力があってこそ面白くなった話であって、そこまでの芸がない作家だと惨めなことになっていた感は否めない。
 まあ、宮部氏にしたところでキャラクターの強さで持たせているというところはあって、うるさくあらを探すならそこは言わなくてはならないだろう。
 でもどうなのだろう、こうなるだろうと侮っていた予想が裏切られて、真相を探る平四郎たちにどきどきして、最後に歯切れこそよくなくとも味わいのある落ちをつけてもらって、エンターテイメントとしては、それ以上に望むものが何かあるか。
 全くの新しい小説、というものを常に期待したいというのでないかぎり、これは非常に質の高い娯楽であると評価して納得すべきなのではないだろうか。
 いいやそれでも、と言いたくなるのは、こうして感想なんかを書いている人間の悪いところだと自戒しつつ、擱筆。
(2005.8.14)


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『蒲生邸事件』
 (文春文庫
 2000年10月刊
 原著刊行1996年10月)

●個人の物語から歴史へ


 かつて、『ドリームバスター』の感想を書いた際、僕は、いくら華麗に異世界での冒険譚が繰り広げられようとも、「宮部みゆきは、その作家自身の本質として、それら全てを「個人の問題」へと回収してしまう」と書いて、それを不服とした。
 それはつまり、そこまでの展開にどんな怪事件が絡もうとも、宮部みゆきという作家は、トラウマや悩み、鬱屈といった「個人の問題」をカメラのレンズがわりに、人間が本来的に持っている不気味さとか暗さに焦点を合わせ、そこに向けてすべてを畳み込んでいく作家である、というくらいの意味合いだ。
 『火車』ももちろんそうだったし、現代物よりもむしろ僕自身としては愛好している「霊験お初捕物控」シリーズなどの時代物にしてもそうだった。超能力などを題材としたものであっても、いや、むしろ非現実的な事象を扱った作品であるほど、そうした傾向が強いようにも思われた。(それはおそらく、作者もそう意図しているだろうし、また、そういうSF・ファンタジーなどが、ミステリなどよりも大きく風呂敷を広げなくては成立しえないために、広げきった設定や世界観を一度に結末まで畳み込む勢いがそれだけ強いということもあるのだろう)
 『ドリームバスター』よりも以前に書かれたこの『蒲生邸事件』も、たしかに、そうした側面もないではない。最終的に物語の結末で焦点が絞り込まれていく先は、貴之やふき、珠子ら「歴史の先」を知ってしまった人間が、または平田らタイムトリッパーが、その後、どう生きていったか、ということであって、それはたしかに、時間旅行というガジェットを人間の生き方という部分へ収斂させたという意味合いを持っている。
 だが、どうもそれで畳みきれていない部分、というより正確に言えば、作者が畳みこまなかった(のであろう)部分が残されているのである。それが、「歴史」という概念は何なのか、未来を生きる人間にとって、そしてまた歴史の中を生きた人間にとってどういった概念であるのか、という問題だ。

●登場人物の位相


 物語の見取り図を描こう。
 大学受験で泊まったホテルから2・26事件前夜へとタイムトリップする主人公の孝史、これは、「解説」で関川夏央も指摘しているように、ただのカメラのレンズである。「要するに素直な青年」であって、「この場合無知であることは、歴史的事情にいたずらに介入したり評論したりしないという意味で、頭がいいことと同様、語り手の条件となる。」という関川の言葉は、詰まるところ、孝史が歴史に積極的な介入をしたり、あるいは論評したりはしないし、またできないが、歴史的事情を見届け、十全な形で読者の前に提示することはできる、ということを示している。
 より正確に言うと、孝史は色々な出来事に遭遇する都度、それなりの価値判断を下してはいる。それが、単純に目の前の出来事のみを評価して、その出来事をそうならしめた「歴史」に対しての価値判断ではない、というところが重要なのだ。
 なお、孝史が「頭がいい」というのは、少し問題がある。というのは、作者に都合がいい場面でだけ頭を働かせるきらいが、彼にはあるからだ。しかし、今はそうした問題には目をつぶって、他の登場人物を見てみよう。

 次に、「歴史」への価値判断を行う者、として、2・26事件当時の人物である蒲生憲之大将がいる。
 彼は未来を見ることによって、彼がいる時代がどのような悲惨な運命を辿っていくかを知っている。しかし人間の力では歴史の大きな流れは変えることが出来ない、ということにこの物語ではなっており、いかに時代の重要人物であれ、彼もまたその例からは漏れない。
 そこで彼は、予言めいた遺書を残し、自分のいた時代がいかに間違っていたかを指弾する。しかし、その指弾は、あらかじめ帰結を知った上での指弾であり、決して誤ることのない価値判断だ。すなわち、彼は自分の理性と論理によって「情勢」を指弾しているのではなく、結末を知る人間の特権性によって「歴史」そのものに価値判断を下そうとしているのだと言える。
 また、清水義範風のパスティーシュの試みとしてはさほど成功していないが、冒頭に出てくる深夜番組の軽薄なトレンド評論家、藺草なども、一応、蒲生大将と同様だと言っていいだろう。現代版の蒲生であり、歴史に対して責任を負うことなく歴史を語ろうとするという意味合いでは、両者は等価である。

 そして、その上位に、タイムトラベルの能力を持つ平田と、彼の伯母である黒井がいる。彼らは、自分自身の意志でいかようにも未来を覗き見ることが可能であり、その覗き見るということの意味をもまた思い知っている。すなわち彼らは「歴史」を評価するというのみならず、「歴史を評価する」ということを評価することができるメタな立場にいる。
 そもそも彼らは、実際に生まれた生年月日と出身地こそあれ、これから原始時代にタイムトリップしてそこで暮らすことも、未来へ行ってそこで暮らすこともできるわけだがら、実質上「この時代の人」という形で、自分が所属する時代を持っていないも同然なのだ。
 途中まで僕は「実は平田は現代の人間ではなかった、というオチもありかなぁ」と思っていた。それはそれでメタで面白いと思うけれども、きりがなくなって焦点がボケることになるかもしれない。
 少し話がそれたが、最後に貴之、珠子、ふみなどは、というと、これは、「歴史」に対して評価を下さずことを潔しとしない立場だと言っていいだろう。ただし、その内実は様々で、貴之などは「あえて評価しない」立場だろうが、ふみなどは「そんな難しいことはわからない」というところではないだろうか。小林秀雄言うところの「黙って事変に処した」大衆なのである。
 僕としては、小林の言うような言説を容認しない立場を取っているのだが(ただの思考停止を称揚するのはインテリのセンチメンタリズムに過ぎない)、しかし、貴之らはその立場ゆえに、「歴史を評価する」立場の者を非難することができる、とされている。ともあれ、彼らは歴史を責任を持って背負ったのであるから。

●わりきれなさ


 こうした構造の上に立って、関川は、貴之らの立場を「過去を過去だという理由で差別せず、いまある歴史、いま流れて行く時間に責任をとる」ものとして、人間はそうあるべきだとする宮部みゆきの思考を読みとっている。
 だが、どうもそれではもどかしい部分が残る。宮部みゆき自身、その結論に対しては、若干の保留をしている節があるように思えるのだ。
 というのが、ラスト近く、タイムトリッパーとしての能力を捨てて、226事件後の東京で生きていくのだと語る平田の、叔母である黒井や蒲生大将についての次のような台詞があるからだ。

「叔母も私と同じ、まがい物の神だ。だが、叔母はそうであることを肯定していた。喜んで受け入れていた。(中略)それはそれで、幸せだったろうと思う。(中略)大将は未来を知った上、同時代の人たちを批判する文書を残そうとしている。貴之くんが言ったとおり、それは抜け駆けだ。その時代その時代を手探りで生きている人たちを、高所から見おろす行為だ。やっていいことじゃない。だが、叔母はそれを自分に許していた。まがい物の神である自分を喜んでいたから、許すことができた。(中略)今の私には、大将を責める資格も、許す資格もない。ただ同罪だというだけだ。だが、そこで気づいたんだよ。いや、その立場から抜け出す手段はあると」
(p.616〜618「第5章 兵に告ぐ」より)

 平田自身は、この時代に残り大衆のひとりとして生き抜くことで、時間旅行者の自分との断絶をはかり、貴之らと同じ立場となったとき、はじめて黒井や、時間旅行者としての自分自身の行為を責めたり、あるいは許したりできるだろう、と考えている。
 テーマとしては、確かにキモの部分である。
 だが、これというのは結局、何か歴史にどう処するのがベターであるのか、ということよりも、先に述べたような、歴史に対するスタンスの差異を整理しただけのことなのではないのか。そして、その中で、平田自身にとっての「救い」がどこにあるかということを示したに過ぎないのではないのだろうか。
 もっとぶっちゃけた言い方をすれば、平田は単に自分の特権性から逃げて、下層階級へと身をやつすことで、責任逃れをしたにすぎないのではなかろうか。それって、蒲生大将や黒井の立場とどう違うのだろう。貴族の若様が「平民はいいなぁ」と呟くようないやらしさが、そこにはある。実際に平民になってから、それなりに大変な苦労はあったにもせよだ。
 平井の取った選択をよしとするような形で、それなりに結論めいたことはほのめかされている。しかし、作者の筆致の中にさえどうも、「この立場が一番だ」という信念からは、ちょっと距離を置いた部分があるような気がするのである。

 そもそも、ふみ達のように黙って事変に処するというのはどういうことを言うのか。それは、自分が実際に背負って生きた時代にしか価値判断を下さないということだ。「記憶」の中にある時代の歴史に対してしか、よしあしの判断を下さないということだ。そうやって誰もが歴史というものを「記憶」の形でしか顧みなくなったとき、それでも「歴史」とはなにがしかの意味を持ちうるのだろうか。
 これは「歴史」というものに対する位置づけをどうとるかという、かなりの難問なのである。
 また、平田がこの時代を選んで定住しだというのはなぜなのだろうか。黒井たちとの関わりもあるにせよ、それではなぜ現代に帰って現代で生きるという選択は取りえなかったのか。その後、タイプトリップの能力を封印したとしても、すでに平井自身は、太平洋戦争へと突入していくこの時代の行方を「知っている」というアドバンテージを持っているのだということは見過ごせない。
 わざわざ苦しい時代を選んで、それでも逃げなかった。しかしそれはあらかじめ「苦しくなる」ことを了解済みだったからではないのか。
 色々な問題が残るのである。しかし、その問題の残るところが、読者に対して開かれているところであるとも言える。
 小説自体としても、面白いには違いないが、内容の割には話が長すぎるとか、主人公の孝史がレンズ役であるせいで、この青年にからっきし魅力がないとか、そもそもちっとも過去の世界に孝史が馴染んでいかないとか、色々と傷がないわけではない。
 だが、そうした点をひっくるめても、歴史というテーマに挑んだ宮部みゆきの果敢は、ひとつの進歩として賞賛すべきだと、僕は考えている。

 余談だが、若干陳腐ではあるものの、「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」を彷彿とさせるラスト近くは結構ほろっと来るものがあって好きだ。弱いんだよなぁ、こういうの。
 もひとつ余談ついでに付け足しておくと、本作から「歴史」というテーマを切り落として「高みから見られる者の怒り」を物語の焦点に据えると「R.P.G.」になる。ただしこちらは駄作だ。
(2003.12.16)


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『あやし』
 (角川文庫
 2003年4月刊
 原著刊行2000年7月)
 亡くなった星新一は、生前、作家には短編向きの作家と長編向きの作家がある、ということをしばしば書いている。  例えば太宰治は短編向きの作家で、だから長編など書かなければ、もっと悩みも少なくて長生きできたろう、というのだが、では、宮部みゆきの才能は長編向きか短編向きか、どちらなのだろう。
 「火車」をはじめ、長編にも傑作が多い作家であることには異論ないが、「本所深川ふしぎ草紙」「かまいたち」「初ものがたり」など、特に時代物において、短編集にきらりと光るものがあるのも見過ごせない。
 僕としては、特に「R.P.G」など、比較的近年の長編作品で、短編のテンションのままで長編を書いてしまってグダグダになっているケースがあることもあり、むしろ短編向きなのではないかというふうに思う。長編を書く力量がないわけでは、もちろんない。しかしきっと、良い長編を書くには、ある程度の期間、じっくりと腰をすえて(長編モードに切り替えて)書く必要がある作家なのではないか。長編と短編を同じモードの中で書き分けて、なおかつそれぞれに傑作を生む、ということはできていない。
 現代物の長編の合間に時代物の短編を書き、雑誌でビデオのレビューまでする、といった今の多忙な状況の中では、なかなかひとつの長編に腰をすえてかかるといったことが難しいだろうし、そうすると、スピード感とキャラクターの掛け合いでどうにか間が持っているだけの書きとばし的な作品も出てくるのではないかと思う。それだったら、同じ時間で短編を書いてもらった方がいいものが読める予感がするのだ。

 さて、前置きが長くなったが、2003年4月に角川書店から文庫化された本作は、時代物の短編集である。タイトルが示すように、江戸の町人たちの生活の中にまきおこる怪異的な事件を描いた9編が収録されている。
 「堪忍箱」などと同じタイプの話を集めたものだと思っておけば間違いないだろう。新味自体はあまりないが、手がたい。
 宮部みゆきの手がたさは、超能力や妖怪、怪現象の類を登場させておきながら、結局、それは一種の小道具で、話の主題は人間が持っている心の闇の部分とか生き方の部分に収めてしまうということにある。
 そうした闇の部分から、因果応報的な結末を通じて「真面目に働こう」「人に意地悪はしないようにしよう」といった、なんだか言葉にしてしまうとひどくつまらない教訓を引っ張り出してくることができてしまうのは、僕のようなひねた読者には退屈な部分でもあるのだが、そうした常識的な価値基準に最終的に依拠していくことが、娯楽小説作家としての宮部みゆきのセレクトなのだろう。
 それにそうやって油断していると、時々、びっくりするほどの深い闇の部分で足下をすくわれたりもする。
 そこが宮部みゆきという作家の奥深さだと思う。

 本作の中で比較的味わい深かったのは、結末が何とも言えない居心地の悪さを感じさせる「灰神楽」と、ややありきたりな感じもしないではないが、一番怖いところを作品の背後に塗り込めた抑制が光る「時雨鬼」あたりだろうか。
 「蜆塚」などは、狙いすぎていてあざとい気がした。
 「梅の雨降る」「安達家の鬼」「女の首」など、怪異小説なのに読後感が割に明るいものが多かったのも特徴で、あまり深い闇の部分までは書かずに、一時の恐怖を最後にカラッと晴らす内容が多い点は、「堪忍箱」などよりも、本質的に明るいカラーの短編集になっている。
(2003.11.29)


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『震える岩 -霊験お初捕物控-』
 (講談社文庫
 1997年9月刊
 原著刊行1993年9月)
★ネタバレ注意★

●惜しいっ


 「霊験お初捕物控」のサブタイトルが示すように、お初を主人公としたシリーズの、長編第1作となる。シリーズには他に「かまいたち」所収の短編や、長編第2作の「天狗風」などがある。刊行は1993年で、名作「火車」が山本周五郎賞を受賞したのと同年。作者の気合いが乗っているのが感じられる時期だ。
 しかし、読み終わったとき、「えーっ」と思ってしまった。宮部みゆきの、割に初期の頃の作品なのだが、最後の最後で逃げに走ったかな、という気がする。ものすごく「惜しい」ところなんだけれども。

●二つの世界


 具体的にどこがそうなのか。
 まず、指摘しておきたいのは、この作品では、2つの階層の論理が対置されているということだ。
 それは主人公であるお初に代表される町人たちの階層と、事件のバックボーンとなる「忠臣蔵」の世界が代表する武士たちの階層との論理である。この2つの世界の論理は、対立はしていないが、ズレはある。ズレがあるというのは、一方の世界から見ると、もう一方の世界のありかた、慣習、しきたりに違和感が見いだされるということだ。主人公であるお初が町人なのだから、この場合、違和感を持って眺められるのは、必然的に武士の世界ということになる。そんなことでたくさんの人が切腹することになるなんて、おかしいじゃないの、というわけだ。
 ただし、町人の世界の論理は、本作においては「町人」という階層の論理というよりも、人間一般の持っているごく自然なありかた、つまり「人情の世界」という形にまで敷衍して描かれている。
 実際には、江戸時代の町人たちには、「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」という慣用句にもあらわれているように、町人の世界なりのしきたりやおきてがあり、そこから一歩踏み出してしまえば、「東海道中膝栗毛」の弥次喜多のように旅人となって長屋を追われるように逃げ出さざるをえなかった。それは決して、人間が自然に持っているものだけで構成された世界ではないのだが、本作では、その「町人の世界」を「人情の世界」という形にまでひきのばして、町人の世界なりの「異常さ」には目をつむるようにしているわけだ。
 これには、本作が捕物帖のならいとして主人公であるお初の視点から描かれていること(お初自身は、彼女が所属する町人の世界の論理に疑問を抱いていない)、また、読者の側にも江戸の町民生活に関しては落語や時代小説、時代劇による基礎教養があるので、そうした敷衍がさして不自然とは見えないことなど、複合的な理由がある。
 しかしさしあたって、本作ではお初から見た侍の世界のしきたりへの違和感が問題となることが重要だ。

 霊視のような超能力を持つお初は、兄である岡っ引きの六蔵から、一度死んだ人間に死霊がついて甦るという「死人憑き」があったという話を聞き、その事件を調べるうち、その死人憑きが犯人と思われる殺人事件に遭遇する。その背景を調べるうち、浮かび上がってくるのが、100年前の赤穂浪士による討ち入り事件にまつわる怨念話だ。
 そこでこの討ち入り事件のことを調べてみると、どうやら「忠臣蔵」の歌舞伎で知られているのとは、真相が異なっているらしいことがしれてくる。
 すなわち、浅野内匠頭は吉良の嫌がらせへの遺恨からでなく、ただの乱心で殿中抜刀におよんだのであり、しかも、それを時の将軍綱吉が乱心と認めなかったため、浅野の動機として存在しなかったはずの「遺恨」が措定される。そして赤穂藩士はありもしない主君の「遺恨」を晴らさざるをえないような立場に追い込まれた、という一種の新解釈である。
 その真相を知ったときのお初の反応を見てみよう。

 お初は、公方様(引用者註:綱吉のこと)のなさりようで、世の中に波風が立つということを考えた。が、どう思いをめぐらせても、胸にしっくりとはこなかった。そんなことなど、ありそうにないような気がした。公方様が怒ったり乱心したりするよりも、米河岸の米問屋がそろって米の値をつり上げたり、上方からの品を運んでくる船が江戸湊に寄り着かなくなってしまったりすることのほうが、よほど大事になるような気がする……。
 百年の昔、と、もう一度考えた。
 お侍の考えることは、やっぱりあたしにはわからない、とも。

(p.262「義挙の裏側」より)

 最後の「お侍の考えることは、やっぱりあたしにはわからない」という言葉が、端的にお初の立場を示している。
 どうして「わからない」のかというと、お初が属する町人の世界が公方様(将軍)と離れているからというだけではなくて、それを町人の世界に置き換えてみても起こりえないことだからだ。誰か上の人が乱心したからといって、他の誰かが切腹したり、したくもない仇討ちをしなければいけなくなったりといったことは、町人の世界、人情の世界では起こらない。だからお初には、なぜ綱吉のミスジャッジ、あるいは乱心が、討ち入りのような大事件を引き起こすか「やっぱりわからない」のである。
 それがズレであり、違和感だ。
 このお初の反応に先立って、同席した六蔵が「前に自分があつかった事件でもこんなことがあったが、それの例にならって言えば浅野内匠頭はやっぱりただの乱心じゃなく遺恨があったのでは」と意見を述べ、真相を語る平田源伯という医師に「かもしれないが、当時ただの乱心だと証言した人もいるというのは事実だ」と突っぱねられるというのも、同じ意味合いである。
 六蔵は、「町人の世界ならただの乱心ではそんな結果にならない」と言い、平田は「侍の世界ならありえるのだ」と言っているわけだ。
 そして、この「人情」と「侍」のふたつの位相を持ち合わせている人物として、古沢右京之介の存在がクローズアップされてくる。

●右京之介の位相


 本作以後、「霊験お初」シリーズのレギュラーキャラクターとなる古沢右京之介は、与力である父親の嫡子でありながら、算学に焦がれ、叔父である遊歴算家の小野重明と同様に算学の道で生きていきたいという憧れを抱いている。しかし、父親を含め、彼の身の回りの者は、父の後を次いで与力になってもらいたいと考えている。
 そこにあるのは、個人の心情よりも家名や家柄が重要視される「侍の世界」の論理であり、右京之介の「算術家として生きたい」という希望は、この侍の世界の論理からの逃走願望に他ならない。
 本人の希望のために自分が生きている世界を捨てることは、町人の世界、人情の世界の論理では、やや変わり者と見なされこそすれ、別に恥ずかしいことではない。しかし、侍の世界の論理においては、これは異端的な発想であり、同時に罪ですらある。
 なぜなら、侍の世界とは、「イエの論理」を中核として、その外縁に忠君思想を置くことで成立している世界だからだ。個人の都合でイエを抜けたり潰したりすることを許せば、それはすなわち江戸幕藩体制そのものの崩壊へと連鎖反応式ににつながっていくことになる。
 江戸時代の身分制度は、実際は現代の我々がすぐに連想するようながちがちのカースト制度ではなかったらしい。農民だろうが町人だろうが、それなりの金さえ積めば名字帯刀を許されるいっぱしの侍になることができる、割に融通のきく制度であったようだ。その場合、同時に家系図も買い入れることになるケースがしばしばある。つまり、もとからある侍の家系に組み入れてもらう、あるいは勝手にそう名乗る形である。
 そんなもんなのか、と呆れそうになるが、しかし、逆に言えば、金で身分を買うといったことがおこりえるのは、それだけ侍にとっては家名というものが重要であった証拠でもある。郊外の豪農などが大枚をはたいて武家株を買うのも、侍になるということがステータスとしてそれなりに意味があったからだ。そして家系図が売買されるということもまた、家名というものがそれなりに意味を持っていたという証拠でもある。
 だからこそ、侍は家を守ろうとし、家を守るためなら個人を捨てることを厭わない。
 個人よりも家が大事。それが侍の世界の論理の大前提なのである。

 だからこそ、なかば世襲に近い形で手に入れることができるはずの与力という職よりも算術家になりたいという右京之介は、仲間の与力見習いから「そろばん玉」の渾名で馬鹿にされなくてはならない。
 右京之介としても、そうした侍の論理がわかっていないわけではない。
 だから、父に頭が上がらないから、という以外の理由でも、与力の職を実際に捨てるのには、煩悶がある。
 煩悶という形で、「侍の論理」と「町人の論理」を一身にかかえこむ右京之介と、岡っ引きの妹とは言え純然たる町人に他ならないお初が組むことで、そしてまたこの2人が、100年前に「侍の論理」が引き起こした悲劇を禍根として持つ事件を調査するということで、2つの論理は鮮やかに対照され、「侍の論理」の非人情性がやや批判的な色合いで眺められることになる。
 この構成はなかなか見事だ。
 それは、最終的には決して混じりあうことのないふたつの階層の論理の、まさにその混じり合わない点が、ある種の悲劇性のもとで照らし出されているからだと思う。
 そこに哀しみを見るのは、おそらく間違いではないはずだ。

●論理回収の破綻


 しかし、物語も終盤、クライマックスの一歩手前で、右京之介はついに父である古沢武左衛門と対決し、その後、自分と父との確執について、ひとつの隠されていた事実を明らかにする。自分には母と叔父(小野)との不義の子ではないかという疑いがあり、過去にはそれを武左右衛門が疑ったことで、武左右衛門は非人情的に母と自分に暴力を振るい、刀を抜いたことさえあるのだ、というのである。
 そして、クライマックスでお初が指摘するところが正しいとするなら、父である武左右衛門は、その自分自身の逆上に恐怖して心を閉ざしていたのだという。
 僕が「えーっ」と思ってしまったのはここなのだ。
 それって、侍的な「非人情」を、侍社会というシステムではなく、あくまで個人の業の中に回収して、そこに禍根を見いだすということなんじゃないか。
 確かにそういう風呂敷のたたみ方は、いかにも宮部みゆき的だが、ここまで侍と町人の論理のズレでもって維持してきた緊張感のようなものが、ここでぷつんと切れてしまっているように僕には思える。
 結局は個人のおこない、ということになってしまうと、100年前の赤穂浪士討ち入り事件の蔭で起きた悲劇が、個人の心性次第でいくらでも回避できたものになってしまう。悲劇というのは、回避不可能なものだからこそ悲劇であると僕は思うのだが、やや狭量というものだろうか。
 このクライマックスでの風呂敷のたたみ方が、もとから予定されていたものなのか、「ふたつの階層の論理のズレ」という路線ではうまく風呂敷がたためずに、途中で方針を変更したものであるのか、そのあたりは僕にはしかとはわからない。
 だが、もしも後者だとしたら、それは作者が、自分の得意な方向に逃げをうったということだ。
 作品としては「天狗風」よりも数段上だと思うのだが、かえすがえすも、このクライマックスが、僕には残念でならない。「惜しい」ところだったのである。
(2003.11.27-28)


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『ドリームバスター』
 (徳間書店
 2001年11月刊)
 さて、ハードカバーでありながらも、アクション・ファンタジーを銘打ち、刊行元は徳間書店、表紙イラストには山田章博を起用、と、ライトファンタジーを強く意識した体裁の本書ですが、その内容はと言えば、やっぱりライトファンタジーを意識したものになっています。
 人間の悪夢の中に入り込み、ついにはその人間を乗っ取ろうとする、意識体となって異世界から逃亡してきた凶悪囚人たち。その囚人たちを捕獲するべく、同じ異世界からやってくるドリームバスターと呼ばれる賞金稼ぎ、金髪に赤いはちまきの少年シェンとその師匠であるマエストロ。彼らが悪夢の中で出会う、この日本で様々な心の傷を抱えて生きる人々…。
 あらすじだけを抜き出せば、コバルトかスニーカーかに入っていてもおかしくありません。実際、ライトファンタジーの主購買層である少年少女(特に少女)をにらんでのことでしょう。シェンの人物造形は、育ちは悪いが無造作にハンサムであり、口調は礼儀正しくないがあくまでソフトであり、堅苦しくなりがちな話を茶化すだけの茶目っ気も備えている、という、ま、言っちゃなんですがヤオイ向けに非常に正しい代物になっています。
 これはまぁ、決してけなしているわけではなくて、それは類型的であるかも知れないけれども、十分に魅力的であるということで考えてください。
 では、この本がスニーカー文庫に入らない理由は、というと、大きく分けて3つあります。

 まず、著者が宮部みゆきという、すでに地歩を確立した大御所であること。
 次に、一般書としてハードカバーで売りに出したとき、十分に採算がとれる話題性とクオリティを備えていること。
 最後に、読者を幅広く取れるようなつくりになっていること。

 出版業界というのはどこの国でも、作者の知名度や話題性が出版部数や判型を決定する仕組みになっていますから、最初の2つは、まぁ、無理もないところでしょう。最後のひとつは、というと、これはつまり、シェンとマエストロが悪夢の世界で出会う人々が、普段、宮部みゆきが現代小説で描くような、一般の日本人(それも社会人)であるということを指します。しかも、この本の中で登場する、そうしたこちら側の世界の被害者2人のケースについては、いずれも、こちらの世界の人間の側に視点を置いて書かれている。
 ファンタジーとかSFというのはなかなか因業なもので、読者は感情移入の入り口になるキャラクターを求めます。それはつまり、素の状態で物語の世界に出会った僕たちに近い人間像ということです。例えば「グイン・サーガ」第1巻のリンダとレムス、「星界の紋章」のジント、もっと原型に近づければ「不思議の国のアリス」のアリスは、キャロルが話を聞かせた1人の少女をモデルとしていたはずではなかったでしょうか。物語世界について、出来るだけ無知である彼らの視点を借りながら、僕たちはこの世界とは違った世界のあり方に慣れることになる。
 しかし、例えば「ロードス島戦記」のパーンはどうか、「指輪物語」のフロド・バギンズはどうかと尋ねられるかも知れませんが、あれらの世界の場合は、世界自体が非常にオーソドックスなファンタジーであると言うことをベースとします。つまり、ある程度、読者の側に下地があれば、「昔あるところに1人のホビットが…」と話し始めてもついていけるわけです。
 ところが、おじさんおばさんにはそれが出来ない。下地がないからです。しかし、彼らを読者層に取り込まない限り、出版社が望むようなベストセラーにはなりません。中学生が1600円のハードカバーを買おうというのは、なかなか勇気が要るものです。
 そこで、宮部みゆきの戦略としては、「入り口」に被害者であるこちらの世界の人間を置こうということになってくるのではないでしょうか。そして、世界観になじんだであろう頃合いの第3話「D・Bたちの”穴”」で、初めてシェンたちの世界での物語(これにはこちらの世界の人間は登場しません)が展開されることになる。このへんの仕掛けは、なかなか巧みです。
 さて、基本的には荒唐無稽である基本設定にある程度のリアリティを与えるべく、設定部分はなかなかしっかりと作られています。しっかり作ってあるというのは、SF的に疑似科学的な説明が非常に凝ったレベルで与えられているということではなく(そういう説明もなくはないですが、理論的な部分は、おそらく故意に説明を省略しています)、むしろ様々な事象にそれぞれ、名前がつけられていると言うこと。「ビッグ・オールド・ワン」「ドリーミングパーソン(DP)」「ドリームバスター(DB)」「バレンシップ」「先行波(ビット・ウェーブ)」といった用語が錯綜することで、世界はそれなりにそれなりに実在感を増し、かつ、最初は「夢の中の話だから」と言わんばかりに「何でもあり」だったのが、SF的な容貌を帯びてきます。
 そのSF的な容貌がもっとも顕著なのが、先ほども言ったように第3話「D・Bたちの”穴”」です。
 この話は、基本的には異世界をベースにした冒険もので、「星界の紋章」の第2・3巻、シティアドベンチャー部分と似た趣を持っています。この話は、SF活劇として、アクション・アドベンチャーの名に恥じない出来を持っていると思うし、僕自身が見るところでは、収められている3話の中でも最も良くできていると思われます。
 しかしながら、それではそこにいたるまでの2話はどうか、というと、僕はこれには少なくともSFとしては疑問符をつけたいのです。

 そもそも、SFにしろファンタジーにしろ、わざわざ異世界を用意して物語を展開しようというのは、その物語形式の根底に、「この世界」の文明批評としての性格が潜んでいるからです。
 むろん、それももう過去の話であり、現在では「文明批評としてのSF/ファンタジー」というのは、この日本ではほぼ存在しないと言ってもいいでしょう。そしてそこにこそ、この「ドリームバスター」のような物語が発生してくる余地がある。
 ですが、SF的な意匠を凝らし、荒唐無稽でありながらも魅力的な世界を構築し、そしてその中で華麗にアクションシーンが描かれていながら、宮部みゆきは、その作家自身の本質として、それら全てを「個人の問題」へと回収してしまう。
 第1話で道子が単身赴任の夫と再会を果たし、第2話で伸吾が人生の新たな一幕を開けようとする結末を迎えたとき、というのはつまり、事件が解決したとき、ということですが、そこにいたって、それまで展開されてきたアクションファンタジーは、コスチュームの位置へと後退することになる。普通のSFなりファンタジーであるなら、そこで残るのはむしろ異世界の豊饒さであるはずが、「ドリームバスター」では、むしろ個人の問題の解決という出口に世界が畳み込まれてしまう。
 これはたしかに、作品としての重大な落ち度ではないかもしれません。その証拠に、本作「ドリームバスター」は快調な売れ行きと多大な好評を博しているそうです。読後感には、いつもの宮部作品を読みおえたときと同じような感触が広がり、それがまた宮部みゆきファンを安心させもするのでしょう。彼女はこれまでも、超能力や怪事件を題材にしつつも、それを最終的には個人の問題に収斂させる手法をとってきました。
 しかしそれは、果たして本当に、一般に言われるような「宮部みゆきの新境地」であるのか非常に疑問であるし、それはもしかするとファンタジー/SFというおかずをくっつけて、いつもの宮部節を展開しましたよ、というだけのことではないのか、とも思えます。
 いずれにせよ、作者が超能力ものを書くときにしばしば引用される「能力を持ってしまったゆえに知らなくていいことまで知ってしまう苦しみを描きたい」といった言葉にはまだあったような、ある種の真剣さが、第1・2話には無いと言えるでしょう。
 ただ、それだけに第3話の味わいは胎動のようなものを感じさせます。第3話で女性を抱いたようなことを匂わせるシェンもようやく、キャラクターとして生きたものになってきた感がありますし、もしもこの先、この話が第3話のような味わいを持って展開していくのであれば、それはそれなりに、宮部みゆきもの持っている魅力の一端を、新しく開示することにはなるのかもしれません。続刊予定はすでにあるようですから、最終的に全てがシェンの過去に収斂されるようなことにならないよう祈りつつ、行く末を見守りたいと思います。

 しかしまぁ、正直、作品の出来ということだけでいえば、スニーカー文庫なんかに入っているものでも、ハードカバーになっていていいものが他にあったような気はしなくもありません。ライトファンタジーって差別されてるよな。
(2002.1.1)


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『R.P.G.』
 (集英社文庫
 2001年8月刊)
 インターネットで家族を演じていた集団の中の「お父さん」が殺害された。被害者の実の娘をマジックミラーの後ろに置いて、残った「仮装家族」の面々への取り調べが始まる。
 といったようなあらすじです。実際、300ページ中のおよそ2/3は、取調室の中でのやりとりで埋め尽くされており、解説の清水義範は「舞台劇が原作だったものを映画化した作品」を思い出すと言って、取調室が主な舞台でありながら完全な密室劇でもないこの作品の印象を語っています。清水義範が思いだしていたのは、もしかすると『12人の怒れる男たち』なのかも知れませんが、僕としては、そのパロディである三谷幸喜原作の『十二人の優しい日本人』を思い出していました。その「まるで舞台劇のような」という印象は、2作品のどちらかを見た人には共通に感じられるものではないでしょうか。
 昨晩は11時頃からこの本を手に取り、2時頃までかかって一気に読み通した、と書くと、「それじゃあよっぽど面白かったんだ」と思われてしまうかも知れません。しかし、一気に読み通させるだけの牽引力を持っているということと、作品として面白いということは、重なる部分もないではないけれど、それでもやっぱり別のことです。
 「ネットで演じられる家族」というような仮構を4重(いや、5重かな)に重ねている本作は、タマネギの皮をむくように剥いても剥いても仮構が顔を覗かせる物語を作ってみたらどうだろう、という、インターネットの仮構性に触れた物書きならだれでも思いつく着想を、そのまま作品にしてしまった安直さを内包しています。
 だからこそ、仮構の皮を1枚1枚と剥いていく取調室でのやりとりの最中でさえ、そのやりとりのスリリングさではなく、むしろ真犯人がだれであるかの方に興味がそそられていく、といった現象が起きるのだし、また、人物造形についても、ある種の紋切り型が顔を覗かせていることは否めないところです。
 真犯人の意外性、ということでも話題となったこの作品ですが、作者が割と懇切丁寧にヒントを出してくれるので、半分あたりまで読めば、勘の鋭い人は真犯人に気づくでしょう。実際、勘の鈍い僕がそのあたりで気がついたので、もっと早くに気がつく人だっているかもしれない。
 仮に真犯人の正体探しで興趣を引っ張っていく、本格派の推理小説であるのだからこれでいいのだというのなら、なぜ、取り調べる側に『模倣犯』の武上刑事と『クロスファイア』の石津刑事を配置したのか。作者はあとがきで「かなり異なった世界設定」の2作品から主人公を引っ張って来ることに抵抗があったことを認めつつ「短時間ながら、取調室内で父親・母親的な役割も果たしてもらう必要」があったためであるという理由を、我々に教えてくれます。しかしながらこれはつまり、「推理小説としての犯人探しの興味だけで引っ張っていく」というより、そこに「家族」というテーマを合わせ盛りにしなくては、物語の牽引力を保てなかったことの吐露ではないか。そしてその「家族」というテーマ性が、この300ページ中、ほとんど読者を引きつけてくれないのは、これはやはり、作品として安直に作られすぎているからではないかと思います。
 買ったときについていた帯に、宮部作品の中ではかなり出来の悪い方になる短編集『地下街の雨』の広告が載っていたのは、たまさかの偶然ではあるにしても、やっぱりある種の巡り合わせというものでしょうか。宮部作品の中では、2・5流に位置する作品であると思います。
(2001.12.31)


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『天狗風 -霊験お初捕物控〈二〉-』
 (講談社文庫
 2001年9月刊
 原著刊行1997年)
 霊験お初捕物控の第2弾ということである。それを見たからこの本を買ったわけだが、江戸時代の超能力者、お初を主人公としたこのシリーズに僕が初めて触れたのは第1弾である「震える岩」ではなく、その前段階として短編で成立していた『かまいたち』に所載の「迷い鳩」と「騒ぐ刀」であった。その頃から、奇妙に引きつけられる設定を持ったシリーズであったのが、この「天狗風」でも存分にその魅力を発揮している。
 捕物控と言うから捕り物になるかと思っていると、そういうことはなくて、実はもののけとの対決を描いた、一種の伝奇ものであると思っておいた方がいい。なるほど、ここから『ドリームバスター』の方向に進むものですか、と、ちょっと道筋が見えた気がする。
 話自体はまずもって良い出来と言えると思う。神隠しに遭った2人の娘の捜索を通して、江戸社会に潜む女の妄念と、そこから生まれ出たもののけに、お初は出会うことになる。清原康正が解説で手際よくまとめている中にもあるように、キャラクターは魅力的であり、食べ物や街の風景など、江戸情緒のガイドもしっかりとつとめてくれるし、怪異譚を通してのぞき見られる人の心の不気味さにも、ちょっと考えさせられるものは(あくまでエンターテイメント的に触りを入れるくらいではあるが)ある。
 ただ、それだけ詰め込んだがゆえに、詰め込みすぎの感は否めない。実に本編だけで564ページもあるこの文庫版であるが、正直、2/3程度でまとめれば、もっとしまりのある話になったかなという気がしなくもない。食べ物の描写に関して言えば、口中に唾を湧かせるという点で池波正太郎には遠く及ばないし、キャラクター同士のかけあいも、ともすれば冗長になりがちである。
 そして何よりも、この長さが、「捕物帖もの」としての、推理がじわじわと進展していく快感を阻害している。
 先に「捕物控というより一種の伝奇もの」と書いたが、それはつまり、本来は両義的であるはずだった物語が、この長さがあることで捕物控としての畳みかけるようなテンポの良さを失い、ただの伝奇ものになりかけているということでもあるのだ。
 「それでも一篇の小説として面白かったんでしょ?」と問われれば十分に面白かったと答えなければなるまいし、そこが宮部みゆきの才能のたしかさでもあるのだが、もう少し、切り捨てるべき時は切り捨てる、という決断力を発揮してもらいたかった、という気はする。
 つまるところ、彼女の作品の中では一・五流であろう。
(2001.12.30)


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『堪忍箱』
 (新潮文庫
 2001年11月刊
 原著刊行1996年)
 時代小説の短編集。
 「かどわかし」の冒頭では、畳職人の箕吉が、得意先の大店の坊ちゃん小一郎から「おいらをかどわかしてくれ」と頼まれる。戸惑いをはらんだやりとりの中に、こんな一節が出てくる。

「坊ちゃん、おいくつです」
「十二になったよ」
「あっしは四十八です。坊ちゃんはあっしよりよっぽどおつむりがよくできていなさるんだろう。策を練るなんざ、あんた」
 いや、この「あんた」は単なる合いの手であって、小一郎を指して呼んだわけではない。

 畳みかけるようなやりとりで緊張感が盛り上がり、少し息苦しいような気さえしかけてきたそのとば口で、ちょっと軽口を挟んで気分を仕切り直す。この地の文の入り方が、まさしく落語である。それもうまい落語家の語り口だ。先に亡くなった志ん朝というよりも、むしろ上方落語の重鎮、米朝のものに近い。
 時代小説を書くとき、宮部みゆきは意図的にこうして落語をとりいれる。それは、われわれにとって江戸時代の風景が、落語か時代劇でしか見ることの出来ないものだからだろう。だから宮部は小説で、それを入り口に使って、木戸の敷居を低くするのだ。

 宮部みゆきの小説、それも短編においては、主人公が出くわす奇怪な事件や現象が、その時1回限りのものではない、という設定であることが多い。
 例えば表題作である「堪忍箱」では、火事で焼け出されたお駒が、家に代々受け継がれてきたという「堪忍箱」という箱を受け継ぐ。漆塗りで喪の花である木蓮が螺鈿であしらってあるが、この箱の中を見たら、災いが降りかかるという禁忌がかかっている。禁忌とは、物語において「破られるためのもの」でしかない。宮部はその物語の持つ構造を逆手にとって、お駒が禁忌を破るか破らぬか、という、その葛藤自体を物語に仕立てる。この堪忍箱が代々受け継がれてきたものだということは、代々の投手が皆、お駒と同じ葛藤を味わってきたということだ。その連環の中で、お駒は主人公としてクローズアップされているとはいえ、「その中の一人」でしかない。
 「お墓の中まで」や「謀りごと」では、出会う事件が代々受け継がれたものではないが、何人かの登場人物に同じ圧力で降りかかってきているという設定である。
 これは時代小説に限った話ではなくて、現代小説でも、例えば『鳩笛草』に収められた「朽ちてゆくまで」や、『人質カノン』の「過去のない手帳」「八月の雪」「生者の特権」などといった作品でも、我々はその中に同様の構造を発見することが出来るだろう。もちろん、現代小説では家に伝わる奇怪な箱などというリアリティのないものは登場しない。代わりに、連続殺人や、同じような体験を持つもの同士の出会いや、小さい頃の体験や、そうしたものが連環を形成する。
 そうして、事件を通じて形成される共同体、とでもいうべきものをまず想定し、その中の一人を主人公としてクローズアップする。だから、主人公が出会う謎は、決して主人公という特殊な人間一人の特殊な体験にとどまらない。その連環自体を物語の中で主人公に、そして読者に意識させることで、謎は物語の中核の座から滑り落ちて、その謎に対して主人公が「連環の中の一人」としてどう対処するかに核が集約される。
 そうした構造を発見するたび、僕はまたかと思いつつも、そうすることで話に深みが生まれることを思い知らされて、その物語へと引きずり込まれるのである。
(2001.12.29)


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『人質カノン』
 (文春文庫
 2001年9月刊  原著刊行1996年)
 何が良いかと言って、まずタイトルが良く、そして装幀がいい。某ゲームのおかげで、今やサーチエンジンで入力検索すると表示されるページ数が日本語の中でもトップクラスであるというくらいに知れ渡ったカノンとは追走曲の意であり、「人質カノン」とはそれすなわち、1篇の作品を曲に見立て、「犯人−人質」という構図が輪唱のように数珠繋ぎとなっていくという意であろうかと推察される。
 一方、純白の地の中央に右向きの女性を印象的な色使いで描き、その人物の左右に、下品にならない程度の大きさと文字間で「人質カノン」「宮部みゆき」と角ゴシック文字を配した装幀はほぼパーフェクト。本屋でこの表紙を見て、少しでも注意を払わない人がいたら、その人には美的センスが欠けていると断言しても良い。

 内容はミヤベ節のうなる短編集。表題作の「人質カノン」は、深夜のコンビニの匿名性を巡る犯罪というミヤベ的な味つけが、おっちゃん・おばちゃんには受けるかなという程度の代物で、丁寧には書いてあるがさして面白いわけでもない。むしろ、電車の中で拾った手帳を元に、五月病の大学生がその手帳にあった名前の人物を捜していくという、名作「火車」と似た最重要人物と最重要事件が隠蔽された構成を持つ「過去のない手帳」。いじめが元で交通事故にあって右足を失った少年が、祖父の死後、文箱の中から発見された、数十年前に書かれたとおぼしい遺書から、2・26事件の青年将校の1人だった祖父の過去を発見し、対話するという「蒲生邸事件」を思い起こさせる「八月の雪」。自分を振った男へのあてつけに自殺を画策していた女性が、深夜の学校に忍び込もうとしていたいじめられっ子と一緒に、教室の宿題を取りに行くための小冒険を敢行するコメディータッチの「生者の特権」、という、この3編が、いつも通りの味わいもあり、かつ、ひねりもきいていて面白かった。この本に収められている話は7編だから、面白かった率は3/7。といって、残る4編がつまらなかったというわけでもなく、かなり良い部類の作品集にはなると思う。
 宮部みゆきが本領を発揮するのは、一定のリアルな素材(「火車」のクレジットカードなど)を取り巻く人間関係の構造を、何らかの事件が持っている構造と連結させるときだと思う。ミヤベの魅力はいくつかあるが、ひとつには落語を思い出させる、切れ味がよいのに人なつこいその語り口があり、そしてもうひとつには、「リアルな素材」の構造と「犯罪」の構造とを併置して両義的な意味合いを持たせていく、その洞察力がある。
 「素材」と「犯罪」とがあまりに近い関係だと、それが単なる道具立てに終わってしまって、いささか啓蒙小説のような面白くない話になってしまいがちだ。それは例えば、本作で言うと「人質カノン」なのだが、これが一定の距離感を置いて描かれると、自分たちが生きているこの世界が、まるで犯罪を生きているかのようであることに気づかされて、少しドキリとするのである。
 しかし、昨今はキレるキレると話題に上る少年犯罪だが、一昔前には次から次へと、まるで何かのトレンドのようにいじめで自殺しまくっていたのであった。当時に死んだ子供たちは、今だったら、多分死ななかったんじゃないかなぁと思う。ニュース(と言うかワイドショー)でそういう事件が頻繁に取り上げられたことが、いじめられる側の共同体意識というようなものを形成してしまったという部分は多分にあった。そこらへんについて、メディアの側もいささか無責任でありすぎ、かつ無自覚でありすぎたが、そういう共同体意識に寄りかかるようにして自殺した側にも、それ相応の安易な考え方(もちろん無自覚な)はあったんじゃないかという気がする。もっとも、それは子供なんだからしょうがないと言えばそれまでの話だけどさ。
(2001.11.3)


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『鳩笛草/燔祭/朽ちてゆくまで』
 (光文社文庫
 2000年4月刊
 原著刊行1995年)
 ミヤベやなぁ、という感じの中編3本。超能力モノとしての、能力の意味を問いかける主題を軸にして、推理小説の味つけを施し、微妙にひねくれた不安感で読者をあおりながら、最終的には「ああ、これでおさまりがついた」というサゲを用意して読者の溜飲を下げさせる。
 娯楽小説としてのクオリティの高さは、もはや言うまでもないところで、それはどこか彼女の時代小説と通じる、定型的な安定感に新鮮さを感じさせる技量をミックスしたものと言えなくはない。
 実際、宮部みゆきの才覚なら、こういう手のものを二、三十も並べるのは造作もないことだろう。しかし、時代小説ならともかく、現代物でそれをやることに、今ひとつ晴れない思いは残る。
 時代小説は、ひとつの仮想の過去を舞台として設定することで、道具立てなどにリアリティを保証する。天水桶・稲荷神社・岡っ引き・堀端。それは一種の共同幻想ともいうべきものであって、そこに歴史観への懐疑や小林秀雄が言うような歴史の怨念は存在しない。
 もちろん、娯楽小説である以上、それはそれで全然問題ないけれども、今度は推理小説をその共同幻想の衣装とするのなら、そこには火曜サスペンス劇場まがいの、グレーの壁に覆われた捜査一課や微妙にタイアップの絡んだ携帯電話の使用シーンや、あるいは登場したところで何のインパクトもない職場での男女不平等があらわれてこざるをえない。そこにある種の胃もたれを感じる。
 宮部みゆきはそれなりに周到な作家でもあるので、その胃もたれは作品を読んでいる間に感じる手合いのものではないけれど、でも、僕はやっぱり、それは評価しない。
(2001.5.9)


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『長い長い殺人』
 (光文社文庫
 1999年6月刊
 原著刊行1997年)
 宮部さんのいいところというのは、ひねくれた手法で素直なテーマを扱っているところだというのが再確認できる1冊で、『火車』よりは劣るとしても、以前に読んだ短編集『地下街の雨』なんかよりは遙かに面白かったですね。
 長編ミステリなわけですが、実際の殺人事件のあらましだけを後から抜き出すと、これは実に素直な(この場合、「平凡な」というより「素直な」と表現したくなるものを持っています。一般大衆の愚かさを指摘しながら、その愚かさも含めてふっくら包み込むような視点とか)もので、何の手法もなければ、平坦な運びの小説にならざるを得なかったのではないかと、ふと疑念が浮かびます。
 しかしそこを、刑事からゆすり屋、探偵、目撃者、犯人といった、本筋の事件と微妙に、あるいは時には密接に関わった人々の財布、という無機物を語り手にすることで、ミルフィーユみたいな重層的な重なりあいを持った、複雑な味のある小説になっているようです。
 語り手が財布であるところが味噌で、刑事や探偵や、といったそれぞれの立場の人間だと、ちょっと視点が近すぎてぼやけるところを、うまく1枚、フィルターをかけて、読者にすっきりと要諦をわからせるように仕掛けてある。
 解説の日下三蔵は、宮部の技巧のたくみさを絶賛していますが、その中で、同じく技巧の作家である都筑道夫との類似を、同種の趣向である、という一点から、ごく簡単に指摘しています。都筑道夫は、星新一との対比で「大技の星、小技の都筑」と呼ばれたことがある、と他ならぬ星新一の短編集の一冊に寄せた解説に記していますが、宮部を技巧と趣向で読者を引き込む「小技」の作家とすれば、大胆なストーリーそのもので読者を引き込む「大技」の作家は、この場合、やはり高村薫なのでしょうか。
(2000.1.15)


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『幻色江戸ごよみ』
 (新潮文庫
 ****年*月刊)
 手堅いね。きちーっと押さえるとこを押さえてあって面白い。
 読んでて、時代小説にありがちな泥臭いとこが無いな、と思ってたんだけど、おそらく、江戸前落語を現代風に仕立て直したような文体に加え、基本的に江戸の内だけを舞台にするという構造が影響してるんじゃないかなー、と。
 普通の時代小説は、下敷きにある語りが講談なんだけど、宮部みゆきは落語。それに加えて、百姓を描かずに町人を描き、超能力とか幽霊だとか、SF小説的な主題も取り込む。
 だから、かなり悲惨で貧乏な境遇も描いてるんだけど、泥臭さがあんまし無い。むしろ、落語(人情噺)風味というフィルターが1枚かかってるから、遠めがねを通して話が展開されてるような感触がある。臨場感があるのに、身に迫ってくるという感覚じゃないんだなぁ。
 そのあたりも。ミヤベが受けている要因のひとつでしょうね。だから、普通の時代小説は読まないけど宮部さんのは読むっていう手合いの読者、結構多いと思う。
 普通のSFは読まないけど星新一は読む、というのと一緒ね。

 色々といい話があったんだけどもねぇ。
 第8話、「小袖の手」。主人公の家の隣に住む、古着を反古にして小袋を作って売るのが商売の男。古着屋で買ってきた小袖の袖口から、夜になると白い手がにゅーっと出てくる、という話なんだけど、これ、昔、水木しげるの「日本の妖怪大百科」みたいな本で同じような妖怪の話を読んだことあるんで、おそらくは何か元になった話があるんでしょう。
 しかし、物語の最後、それまで、隣の家で、楽しそうに小袖と話していた男が、小袖を背負って家の外に出て、小袖と一緒にお月見をするのを、主人公の一家が天水桶の物陰から覗く。そのあと、主人公家の差配が、どうして男はあんなにたのしそうだったんだろう、と問われて「三造は、寂しかったのだろうな」と答える。
 このあたりのペーソスのつけ方・アレンジの仕方が、宮部さんの持ち味ってヤツなんだろうな、と思います。独創性の作家ではなくて、定番ものの心の琴線に触れてくるのが巧い作家って感じ。
(1999.2.17)


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宮部みゆき

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