スタンダール



『赤と黒(上・下)』
 (岩波文庫
 1958年6〜8月刊
 原著刊行1830年)

●ツンデレの始祖としてのスタンダール


 この作品に対して僕が言っておきたいことは基本的にはひとつだけだ。
 それはつまり、マチルドってツンデレだよね、という、まさにそこである。170年前のツンデレ。この一事を見てもスタンダールの先見の明が証されるところであろう、って言ったらスタンダールファンからは石を投げられるだろうか。
 少なくとも当分、真面目な研究者とか文芸評論家から「マチルドツンデレ説」が提唱されることはないと思うので、これ最初に言うたん俺やねんで、ということだけは宣言しておきたい。
 でも、パリの大貴族の令嬢で、その美貌でサロンではまさに主役。でもサロンに集まる貴族の子弟よりも頭がいいものだから、周囲を軽蔑しきっている。そんなプライドの高い彼女が、父の秘書として新たにやって来た下層階級出身のジュリアン・ソレルに、サロンの男たちにない知性を見、しかもジュリアンが自分のことをまったく歯牙にもかけないところから彼を気にしはじめ、しまいには彼がつれない態度をとりはじめると、プライドを投げ打って自分から叫ぶようにして告白したあげくに気絶してしまうほどのベタ惚れっぷり。
 これをツンデレと言わなかったら、いったい誰をツンデレと呼ぶのかという話ですよ。スクラン沢近ですか? ネギまエヴァンジェリンですか?
 いやちがうと。やっぱお嬢様というからには「ド」が名前と名字の間にはいるくらいの貴族っぷりじゃなきゃいかんでしょう。いや沢近さん好きですけど。でも、マチルド・ド・ラ・モールという、これでもかってくらい貴族的な名前はインパクトでかい。しかも尋常じゃない高慢っぷりに尋常じゃないメロメロぶり。
 この落差に19世紀のパリジャンたちも萌えたのかと思うと感慨もひとしおというものだろう。

●ファブリスとジュリアン


 『赤と黒』という小説は、基本的に、主人公ジュリアン・ソレルの性格設定の斬新さで知られている小説だと言っていいと思う。
 1830年に書かれた当時、世人にも文壇にも全くと言っていいほど理解されなかった小説だが、スタンダール本人の「1880年および1935年に読まれるだろう」という高潔な自負の言葉の通り、彼の没後に評価が高まり、19世紀を代表する小説のひとつとして現在では屹立している。
 書かれた当時、読者の理解をえられなかったのは、ジュリアンの人格造形の「自然さ」「率直さ」といったものが、当時の小説界では描かれていなかったものだからであり、心理のレベルにおいて造形されたこの主人公が、いわゆる物語の「型」からは外れていたからだとされる。
 とはいえ、その「自然さ」「率直さ」という面においては『パルムの僧院』の主人公ファブリス・デル・ドンゴの方がまさっていて、たとえば大岡昇平氏などが指摘するように、ジュリアンはもうちょっと複雑な人物に描かれていると言っていい。ジュリアンを複雑にしているのは、ファブリスには絶えてなかった「出世欲」というファクターだ。

 貧乏な材木商の息子として育ったジュリアンは、同じく貧乏な身の上から皇帝に成り上がったナポレオンを崇拝し、彼のように成り上がることを心に期している。そのために、軍人に替わって出世の道となった僧侶階級へと身を投じ、地方貴族の家に家庭教師としてあがりこむ。
 そこで生涯の思い人となるその家の夫人、レナール夫人と恋に落ち、それが露見しそうになるとパリへ。パリでは神学校での修行の後にラ・モール家の秘書として取り立てられ、そこでマチルドと恋に落ちるが、レナール夫人が過去の関係を讒言したことがマチルドとの破局を導きそうになり、レナール夫人を刺して投獄され、ついには死刑となる。
 こうしたジュリアンの経歴において、その出世の武器になるのが、彼の美貌と才知だった。
 と、書くとなんだか狡猾な嫌なやつのようではあるけれど、ちょっと意外なのはこの人、その才知の割に世慣れていなくて、けっこう失敗するんだよ。出世のためにこの女を恋人に、とかは考えるけれども、そのつど本気になってしまって結局コケる。もちろん、レナール夫人やマチルドの助けなんかもあって、失敗をどうにかリカバリーし、その後は失敗しないように徐々に世慣れていくんだけれども、現代的なキャラクターの類型に照らしてみても、こういう才色に優れていながら失敗しまくりのキャラというのは珍しいんじゃないかなと。

●再びツンデレとしてのマチルド


 話はマチルドに戻る。
 ジュリアンは結局、死刑がきまって投獄された段になって、もう一度、レナール夫人に乗り換える。マチルドが彼の助命のためにかけずり回っているんだけれども、それをうっとうしく思って、逆に冷たくしたりして。
 それでも彼に尽くすマチルドの姿に、読者としてはあの高慢なマチルドお嬢さんがねえ、というような感慨を抱いて萌えてしまうわけだが、実は発表当時、ジュリアンと並んで不評だったのはこのマチルドの性格だったらしい。実は19世紀のパリジャンはツンデレ萌えではなかったということだ。
 個人的に本作で一番面白いのは、この最後の場面だと思う。投獄されたことで、ジュリアンの「出世欲」がポロンと剥げ落ちて、結局あとに残ったのはレナール夫人への愛情だけだ。その彼を、これまでと同様、女たちが救おうとする。
 ちょっとロマンティックだと思うんだけどどうだろう。
 にしても、大貴族の地位を捨てる覚悟までしながら、最後の最後でジュリアンに捨てられてしまうマチルドさんはちょっと不憫だと思う。
(2005.7.19)


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『パルムの僧院(上・下)』
 (岩波文庫
 1952年5〜6月刊
 原著刊行1838年)
 読み終わってみて、日本文学の側から見たスタンダール受容についての問題とか、主人公ファブリスと白井喬二の『富士に立つ影』における熊木公太郎との比較、およびその両者を比較したときの大岡昇平の視野の問題、はたまた、「源氏物語」との比較を通した文化論など、色々と連想が働くところは多いのですが、さすがにそれを逐一書くだけの時間はなさそうです。まぁ、一読しただけで様々な方向に心が馳せるのは、さすが大小説というべきなんでしょうか。

 スタンダールについては、多分、大正期あたりから、日本文学の中で読解の系譜のようなものが存在していると思うんですよね。ルソーの「ラ・コンフェッシオン」から方法論的なものを継ぐ日本的私小説と対照される、もう一本の文学の筋道として、読まれているという部分もあるんだろうと思いますが。
 そのあたり、少し突っ込んで考えてみると、なぜ日本文学の中でスタンダールは『赤と黒』の作者としてよりも『パルムの僧院』の作者として知られているのか、といったような問題にも漂着すると思います。当然、そのあたりは読者論に踏み込んだところでの問題なので、学問的に見ると少し立証困難な部分に入っていってしまっていると思うんですけど、しかし、日本文学の作者たちというのは、鴎外以後、一貫して外国文学の読み手でもあったわけで、その受容の態度といった部分を考えることは、彼らの意識の問題に無関係ではいられないと思うわけです。
 日本でのスタンダール受容史については、河出のスタンダール全集の月報に、大岡昇平がまとめたものが載っているそうですが、これは残念ながら未見。大正期に『赤と黒』の佐々木孝丸訳が出たのが、最初あたりになるようです。こっからしばらくして、桑原武夫が出てくるんですね。今回読んだ、「パルム」は生島遼一訳の岩波文庫版ですが、その生島さんと桑原さんで共訳して、やっぱり岩波文庫から『赤と黒』が出る。で、これで一気に名前が広まると。
 「なぜ日本文学の中でスタンダールは『赤と黒』の作者としてよりも『パルムの僧院』の作者として知られているのか」というふうに書いたのは、まず頭の中に横光利一の「純粋小説論」があったわけですが、横光が「純粋小説論」で「赤と黒」よりも「パルムの僧院」をあげてきたというのは、やっぱり故なきことではないんだろうと思うんですね。というのは、「赤と黒」のジュリアン・ソレルよりも、「パルム」のファブリスの方が、生島さんの解説の中での言葉を借りれば「自然児」としての原形をよくとどめている。ジュリアンの方は、もうちょっと陰影がついていて、それだけ近代的な人物造形である。
 その違いが、あの時代に横光をして「パルム」に目を向けさせる要因だったんじゃないかなぁと。それはつまり、政治陰謀劇という「赤と黒」の一側面を、戦争中という時局から避けたということよりも、もっと素直に、その自然児としての人物造形に魅力を感じたという意味合いです。
 白井の「富士に立つ影」の公太郎も、同じ理由から支持されるんだろうと思う。つまり、時代がより快活さに飢えていたんだと思うわけです。
 横光は、その躍動感と、そして「パルム」を流れる政治学のリアリティとを称揚しつつ、私小説からの脱却を説いたということになる。それはやっぱり、私小説との距離感を保つ上においても、有効な手法だったんだろうと思うんですわ。まぁ、卑近な言い方をすれば、私小説では、ジュリアンの内面は描けても、ファブリスの内面は描きづらいからね。近代的な自我が追いついてくるよりも先に行動してしまうのがファブリスなわけだから。
 そういう躍動感に、当時の日本文壇としてはロマネスクなものを感じないわけにはいかないと思うんですよね。歴史的な改変が行われていることをもって単純に捨て去れないだけの内容を持っている。政治学的なリアリティの保ちかたは日本の小説にはずっと見られなかったものだし、心理の描き方の精妙さは「源氏物語」と通じている。それでいてロマネスクな内容であると。
 となると、日本的な私小説との距離感は、むしろロマネスクな部分を陰影の中に塗り込めている「赤と黒」よりも、むしろ「パルム」の方が大きい。この日本の小説との距離感というのが、当時の読者にとってはやっぱり重要なことであったろうと思うんです。それはつまり、目標であり、同時に憧れの対象であるわけです。だから、より遠くのものの方が望ましい。そこに、日本でのスタンダール受容史を考える上で、見逃せないキーポイントがあるんだろうと思うわけなんですね。

 ところで、これはちょっとした思いつきですが、大岡昇平って、『パルムの僧院』を原文で読んだのがスタンダリヤンになるきっかけなんですよね。で、「パルム」って、伝記とか歴史小説のような枠組みを取りつつ、実は舞台になる時代よりももっと過去に生きていた人間をモデルとして、ナポレオンの時代によみがえらせるという構造を取っている。
 とすると、これは井上靖との「蒼き狼と白き牝鹿論争」における、「歴史上の人物に現代的な内面を与えて描くことは是か非か」という問題に、かなり重なってくる部分を持っているんじゃないかなと。まぁ、思いつきでしかないんですが。
(2002.3.2〜4)


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