ドナルド・E・ウェストレイク



『天から降ってきた泥棒』
 (ハヤカワ文庫
 1997年6月刊
 原著刊行1985年)

●ひとしきりグチる


 不運な泥棒ドートマンダーを主人公とした一連のユーモアミステリシリーズの一作で、休止期間を経ての再開第一弾。
 らしいんだけど、これ、あんまし感想書きたくないんだよなあ。だって、これ、ミステリファンには有名なシリーズだし、僕よりも詳しく感想が書ける人なんていっぱいいるでしょう。で、だからといって、いきなり一般論と違うところから感想書いて受け入れられるほどみんな読んでるような作家でも作品でもないんだよね。
 この中途半端な立ち位置の作品というのは、どうにも感想が書きづらいんだけど、まあいいや、そこは開き直って好きなように書くということで。

●運転手はいらない


 ドートマンダー、と訊かれても、まあブレーキ踏めば止まるんじゃないの、と詰まらないことしか言えない僕がいるわけだが、まあそれはさておき、この作品自体は面白かった。面白かったよ、うん。
 でも、ネットでこの作品の感想を探すと、「爆笑」とか「笑いが止まらない」といった言葉が散見されるのだが、いやあ、どの程度の笑いを爆笑と呼んでるのか知らないけど、そりゃあ言い過ぎってもんじゃあないのと僕としては言いたい。まあ、シリーズを通して読んで初めてわかる笑いが多い、という言及もあったので、シリーズ初見の僕では笑えないということなのかもしれないが、もしもこれを初見で大爆笑できる人がいたとしたら、あんたこのお笑いブームの真っ只中で何やってんのと忠告申し上げておこう。

 ドートマンダーシリーズは、天才的な計画能力を持つ泥棒ドートマンダーが、難攻不落のターゲットを盗み出すという筋書きのシリーズ。まあ、本邦には『ルパン三世』があるから、あれだと思っておけばいいと思う。もちろん細かい部分は違うけど、構図としては似たようなもんだ。
 で、今回は多国籍企業の本社ビルに、シスターを助けに行くということになっている。このシスターは多国籍企業の社長の娘で、父親の意に背いてシスターなんかをやっているので、父親に軟禁されたわけだ。泥棒ドートマンダーは、囚われのお姫様がいれば助け出す、これすべて泥棒のお仕事なんです、というわけで助けに行く。
 正確にはそのシスターが籍を置いている教会のシスターから頼まれて、仲間をかき集めて助けに行く。

 仲間は長年の相棒のアンディー・ケルプ、運転手のスタン・マーチ、小山のような大男で喧嘩にはめっぽう強いタイニー・バルチャー、金庫破りのプロのウィルバー・ハウイーの4人。この4人とドートマンダーで、いかにして万全の警備体制を敷くマンハッタンの巨大ビル最上階へ潜入するか、というのが一番の読みどころということになる。
 ただし今回、シリーズ的に古株のケルプとマーチはあんまり目立たなくて、タイニーとウィルバーの2人がやたらと目立つ。喧嘩っ早いタイニーと50年近い刑務所暮らしで金庫やぶり以外の実用知識がすっぽり抜け落ちているウィルバーは、性格的にもアクが強い。もっともこの2人はどちらかと言えばボケであって、彼らだけでは話が前に進まないから、ツッコミというかなだめ役としてケルプやマーチはいるわけだが、しかしそれにしても2人は要らなかった気がする。どっちか一方でよかった。大体、じっくりと時間をかけての高層ビルへの潜入で運転手って要るかなぁ?

●体力とロジック


 まあ細かいことはよろしい。
 急造チームがそれぞれの能力をいかしてセキュリティを突破。宝石店で獲物を物色する仲間たちと分かれて、そこから単身、シスターを救出に行くドートマンダーは、例によってアクシデントにぶつかることになる。
 なんか文句ばっかり言ってるように受け取られても困るんでフォローの意味も込めていっておくと、こうした本筋は、けっこう読みごたえがあるのだ。ギャグは空回り気味だ、というのは末節だと思うし、空回りしていたとしても、それがあることで読みやすくなっているとも思う。
 ただ、それはなんというか、力業と呼ぶべき作業だろうとも思う。スッキリとはまとまっていないが、そこを筆力で押し進めている。
 旺盛さというか健啖というか、以前にオーソン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』の感想を書いたときに感じたような、ある種の体力と呼ぶべき資質によってなされたものなんじゃないかと。
 エンターテイメントの作家にとって、精神面での体力というのは重要な資質で、これがないと自己撞着に陥った際に脱出できずに行き詰まることが多い。アメリカのエンターテイメント小説業界というのは、とにかく作家の数が多いから、ちょっとやそっとの腕ではまたたく間に埋没してしまう。そうした層の厚さが業界としての強みでもあるわけだが、反面、そこでひたすらトップ組にいつづけるウェストレイクのような作家は、やっぱりそう簡単には沈んでいかないよう、体力的な資質を自然と養われるものなのかもしれない。

 反面で、これは本作にのみ言えるのか、ドートマンダーシリーズ全般に言えることなのかは知らないけれども、ユーモラスである一方で、ミステリとしてはロジカルな要素に欠ける憾みがある。
 そこを筆力でどうにかしてしまうのもまた精神的体力のなせるわざだとは思うが、ユーモラスさと論理とは必ずしも相反する要素ではないので、やっぱりミステリの看板を掲げる以上は、ドートマンダーの卓抜な計画能力をもっと前面に押し出してほしい。そうしたロジカルな部分と体力で押してくる部分の歯車ががっちりかみ合っていたら、これは傑作になると思うんだけど。
(2005.12.31)


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『斧』
 (文春文庫
 2001年3月刊
 原著刊行1997年)
★ネタバレ注意★

●パルプ・ノワール≒フィルム・ノワール


 ウェストレイクという作家については、僕は何も語るところを持たないので、作品の印象批評的な感想になってしまうことと、そしてネタバレするということを、あらかじめご了承されたい。
 さて、これを読んでいる人で、リストラにあった人、あるいは父親ないし肉親の誰かがリストラされた人というのはどれくらいいるだろうか。
 10人に1人か、20人に1人か、あるいはもっと少ないのかもしれないが、いずれにせよリストラというのが、もはや完全に他人事で済ませられる時代でないのは、もはや明白である。もしもリストラにあったらどうやって次の仕事を見つけるか、それは現代のサラリーマンにとっては、頭の隅ででも考えておかねばならない課題のひとつになってしまった。
 本作は、製紙会社に25年勤め、生産ラインの主任として家庭を持っていた男がリストラされ、新たに職を得るために奮戦する小説だ。ただし、彼の奮戦はちょっと変わった形をとる。彼が選んだのは、別の製紙会社への再就職にあたり、ライバルになりそうな人物をリストアップして、彼らを一人ずつ殺していくという方法だ。

 犯罪映画のことを「フィルム・ノワール」という呼び方をすることがある。そこからとったのか、それとも元からある用語であるのか、文春文庫の帯には「パルプ・ノワール」の文字が躍っていた。文春文庫では、他にもいくつかの作品を「パルプ・ノワール」というシリーズというかブランド名の元に上梓しているらしい。
 犯罪をあつかった映画でも、例えば「ゴッド・ファーザー」をフィルム・ノワールとは呼ばないし、「パルプ・フィクション」も違うだろう。じゃあどういう作品をそう呼ぶか。割に新しいところでしか名前を挙げられないが、「ユージュアル・サスペクツ」や「LAコンフィデンシャル」なんかは、その系譜に連なるとされる。
 要するに、40年代頃に発生した、犯罪を扱い、時代に逆行するようなモノクロームトーンの映像を特徴とし、派手な銃撃戦の中に隠された人間の孤独を浮き彫りにするようなスタイルの映画のことをそう呼ぶのだが、困ってしまうのは、スタイルの問題だけに、どこまでがそうなのか、という範囲は人によって違うということだ。
 しかし、映画について語るのが本稿の趣旨ではないので、日本映画を例にとって、わかりやすい境界を引くことにしよう。つまり、「仁義なき戦い」はフィルム・ノワールではないが、「その男、凶暴につき」はフィルム・ノワールなのだ。
 そして本作「斧」は、そうしたスタイルを紙に転写したような小説である。

●偏執狂の論理


 主人公バーク・デヴォアが、再就職のための連続殺人を思いついたのは、求人広告に応じて履歴書を送り、そして無視されるという、うんざりするほど先の見えない生活を送っていたときだった。業界紙に目を通していた彼は、そこに載っている好況の製紙会社で、自分の専門分野と同じ仕事をしている人物についての記事を目にする。
「どうしてわたしじゃなくてこいつなんだ?」
 スキルでは自分と同等か自分以下であるだろう彼が、自分がしていてもおかしくない仕事をして、給料をもらっている。
 彼が死ねば、会社は彼の替わりとなる人物を募集するだろう。そして、自分がそこに応募した求職者の中でもっとも優秀なら、ということはつまり、自分より優秀な、同じようなスキルを持った近在の失業者を殺してしまったなら、自分は再就職できるはずだ。
 デヴォア氏はそう考え、そしてそれを実行に移していく。

 それは確かに狂気なのだが、しかし非常にロジカルな狂気だ。
 自分には仕事がない。しかし家族を養う必要がある。殺人によって就職口を求めることができる。だからそれを決行する。
 「家族を養い、仕事をする」という目的があって、そのために全ての手段が正当化される。そして、例えば別の職種を探すとか、ひとまず離婚するとか、そうした選択肢はいっさいが閑却されてしまっている。
 小森陽一は「〈ゆらぎ〉の日本文学」で、牧野信一の小説を「酔っぱらいの論理を描いた」と書いたことがあるが、それに倣って言えば、ウェストレイクは本作で、パラノイア(偏執狂)の論理を描いたわけだ。
 殺人者の狂気といえば、殺人享楽者が思い浮かぶが、デヴォアは殺人を楽しんではいない。2人目の犠牲者を手にかけたとき、思いがけずその犠牲者の妻も殺す羽目に陥り、かつそれがとてもスマートとはいえないような残酷な殺人となってしまったこと、そして3人目の犠牲者と心ならず少しうち解けたあとで、彼を殺すことになってしまったことなどが、彼をして「殺人は嫌だ、人殺しなどしたくない」と常に思わせている。
 しかし彼にとっては、「でも家族との生活を守り、仕事を得るためにはしょうがない」のである。
 もちろん、ドストエフスキーの言うように、「毎日お茶にことかかないなら、世界が滅んだって知ったことか」というのは真理だ。しかし、「しょうがない(から殺す)」と「知ったことか」の間の距離は、どれだけ肉体的な実感が伴うかという点で、地続きではあるにせよやはり大きく隔たっていると思う。
 普通の人間は「あいつが死ねばいいのに」とは思っても、「だから殺す」ことはまず滅多にしない。
 そのパラノイアティックなロジックは、人によっては受け入れられないだろうし、人によってはさほど抵抗感がないかもしれない。だが、それは大して問題ではない。
 重要なのは、ウェストレイクという作家が、その論理をそのように描いたという事実だけなのだ。

 デヴォアはもちろん、いつ逮捕されてもおかしくない。
 パルプ・ノワールである以上、彼が報いられる保証はどこにもないし、たとえ逃げおおせても、彼が大事にした家庭や生活がそのときまで存在しているかどうかはわからない。だからこの小説には、ほとんど常に、緊張感が充満している。その緊張感を、読者はデヴォアとなかばわかちあいつつ、反面で「どんな酷いことになるのか」と期待している。
 それは読者が、勧善懲悪という定型にどれだけ縛られているかという証左でもある…といったら言い過ぎだろう。映画「ユージュアル・サスペクツ」のように、最後でぐるりと世界を反転させるような爽快感であっても、それは問題なかった。とにかく、そこで何らかの転換があることを、期待してしまうのは無理からぬところという気がする。
 そんなわけで、僕としては、このラストは、いささか拍子抜けというところがあった。どうなのよ、その幕の落とし方は。

 ちなみに、ちょっと余談だが、木村二郎氏の訳が、どうも所々、ウェストレイクの意を伝えきれてないのでは、と思われるところが散見された。原文を見ていないから何とも言えないが、作者の底意云々でなく、単純に意味が通らない箇所があるのはどうなんだろうなあ。
(2003.9.14)


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ドナルド・E・ウェストレイク

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