谷川渥



『廃墟大全』
 (谷川渥[編]
 中公文庫
 2003年3月刊
 原著刊行1997年)

●廃墟文献案内人


 以前に読んだ谷川氏の『廃墟の美学』には、巻末に「私的文献案内」として廃墟に関する参考文献案内が付されていた。
 文献案内とは言いながら、ただの書名の羅列にとどまらない、それ単体でもかなり読みごたえのある面白い文章なのだが、これはこの『廃墟大全』に収められている「十七編の論考を導きの糸として」「これまでの論述を補う意味で、文献案内を兼ねながら、ありうべき論点を拾い上げてみる」という趣旨の文章だったのだ。つまり、「廃墟」というテーマには非常に多くの論点・切り口がある。それを谷川氏一人で網羅的に取り上げるのは無理があるので、『廃墟大全』での17人の論客の視座を借りよう、というのである。
 「廃墟」をテーマに、種村季弘・日野啓三・中野美代子といった重鎮中の重鎮から巽孝之・小谷真理・永瀬唯といった気鋭の評論家まで、多種多様な切り口での論考が17本。それだけでもそそるものがあるのに、おまけに編者の谷川氏自身が「書肆の解散のためにいまは入手しがたくなっているこの幻の名著(と信じる!)」とまで言うのだから、興味を引かれるのはやむをえないだろう。
 もし僕がツンデレキャラだったとしたら「べ、別にアンタが言うから読んでみたわけじゃないんだからねっ!」とでも言うところだが、僕は別にツンデレではないので素直に言わせていただこう。この紹介があったからこそ本書を読んだのである。

●超豪華評論アンソロ同人誌


 でまあ、面白いには面白かったんだけど、思っていたのとはちょっと違ったなあ、というのも正直なところである。
 どう違っていたのかというと、うーん、ちょっと説明の仕方として適当かどうかはわからないのだが、こういうことだ。本書はつまり、「廃墟をテーマにした超豪華な評論アンソロジー」なのである。だから原稿の発注の仕方も「アンソロ作るから、廃墟に引っかけてなんか書いて」的なものだったのではないかと。いや、もうちょっとちゃんとしてるだろうけど、大意においては。
 つまり、「廃墟」という概念そのものをテーマにしなくてもよく、巽孝之氏はソローの小説『ケープ・コッド』をテーマにしているし、滝本誠氏は映画の中の廃墟モチーフについて書いているし、永瀬唯氏は『新世紀エヴァンゲリオン』で一本書いている。無論、それぞれが取り上げている主題が、「廃墟」というモチーフと縁深く結びついていることは間違いなく、それを詐術だと言うつもりは毛頭ない。それに、それぞれ面白いし。
 うーん、でもそれって、「超豪華版の同人誌」のような気がしなくもないのだがどうだろう。そりゃ編集にあたった谷川氏も楽しいよ、というもんである。
 繰り返しになるが、誤解する人がいそうなので言っておくと、僕自身はそれを、いけないこととか商業ベースの本の作り方として間違っているとか言いたいわけではなく、非難する気持ちがあるわけではない。
 ただし、それぞれの切り口に比して、論考の一本一本が短く、それぞれのテーマの入口に立ったところで次の、全く別の切り口の論考にうつらなくてはいけない、という点は欠点としてあげておく。まあ、それぞれが本を一冊書けるだけのテーマであろうと思うから、1冊のアンソロで十分に論じつくせるものではない、という事情はもちろんわかるけれども、「ええっ、もう次いくの?」というような印象はあった。だって、次の論者にうつったら、またいちいち視点がガラッと変わるんだもの。
 論点のバリエーションは豊かであるが、もっと深く、という読者の欲求には必ずしも応えてくれない本ではある。

●椹木野衣氏が参加辞退


 誰のが面白かった、とかいうことはここでは述べないが、執筆者名はあげておく。
 飯沢耕太郎・飯島洋一・今泉文子・岡田哲史・岡林洋・小池寿子・滝本誠・巽孝之・谷川渥・種村季弘・永瀬唯・中野美代子・日野啓三・森利夫・四方田犬彦の各氏である(五十音順)。
 あれ、さっき17人とか書いてあったのに16人しかいないじゃん、と思った人は正しい。実は、元になったトレヴィル版では椹木野衣氏が「東京−−〈1〉と〈2〉」という文章を書いていたのだが、「廃墟についての考え方に変化があったとの由で辞退された」らしく、これが削除されているのである。
 個人的には、椹木氏の評論はいまだ読んだことがなく、この本で初読になる、と楽しみにしていた執筆者のひとりだったので、これがかえすがえすも残念。
(2006.5.24)



『廃墟の美学』
 (集英社新書
 2003年3月刊)

●西洋の廃墟は日本の廃墟とどう違うか


 この本を読み終わってから、買ってしばらくほったらかしにしてあった『廃墟の歩き方 探索篇』を読んだ。まぁ、廃墟つながりということで読んだわけだが、この『廃墟の歩き方』、それ単体でも十分に魅力はあるものの、「廃墟」というものがなぜ人を引きつけるのか、その概念はどのようなものなのかを知っておいた方が、より違った読み方ができる本だと感じたことであった。
 『廃墟の歩き方』については、また別途に感想を書くとして、廃墟系のサイトというものが、それなりの数、インターネット上には存在しているわけで、そうしたサイトを訪れて写真などを眺める際にも、『廃墟の美学』はよい手引き書となることだろう。何よりも、どうやら日本の「廃墟」というものは、割に特殊なものであるらしいのである。

 ヨーロッパの田舎では、割にポピュラーな存在として、修道院というものがある。
 今でも現役で、数人から十数人、多ければ数十人の修道僧がそこに暮らしているものもあるが、中には住む者がなくなってうちすてられたものもある。石造りの修道院は、やがて苔むし、ツタが生い茂って、それでも石造りであるから朽ちるということもあまりなく、自然の一部であるかのように静かにたたずむことになる。
 こうした情景は、なにも中世以降にしか存在しないわけではない。古代ローマ、あるいはギリシャの遺跡群が、ながいあいだ何の手入れもない時代をはさむとも、現代にその偉観を伝えているのをみればわかるとおり、もちろん、例えば13世紀頃の人びとも、また古代の廃墟をそこに眺めていたと考えることができる。
 西洋の廃墟はまた、日本の廃墟と比べて朽ちていくまでのスパンが長く、そして植物に過度に荒らされすぎるということが少ない。「天空の城ラピュタ」のラピュタ城外部を思い浮かべると、イメージがつかめるかもしれない。植物は確かに生い茂るが、それは廃墟を覆いこそすれ、破壊するということはないだろう。
 廃墟は、いわば徐々に、自然の景観の一部へと変わっていくのであり、緩慢な死を迎えるのである。
 画家たちは、そんな廃墟の美を描き続けてきた。
 やや前置きが長くなったが、本書の主題は、芸術家たちがいかに廃墟の美を描き、またそれに接してきたかというところから、「廃墟」という概念の本質を探ろうとするところにある。

●牢獄と廃墟の画家ピラネージ


 単純に廃墟を描いた絵といっても、少し漠然としすぎている感があるが、例えば、バベルの塔やソドムとゴモラの滅亡、あるいはノアの大洪水のようすを描いた絵と言えば、思い浮かぶ情景もあるのではなかろうか。
 僕は美術には全くの門外漢だが、そうした宗教画ならば、いくつか、それっぽいものを思い浮かべることができた。
 しかし、それは廃墟なのか、と人は問うかもしれない。谷川氏はまさに「廃墟」が誕生する、その「崩壊」の景色として、こうした滅びの風景を描いた絵は重要ないみあいを持つという。すなわち静態としての「廃墟」に対する、「動態」としての「崩壊」であり、絵画史的な文脈に即して言えば、まず「崩壊」が主題化され、それに続いて、その崩壊を裏側に隠し持つ「廃墟」が主題化されたという意味において、これらは廃墟画の前段階と位置づけられる。

 自然の風景を模倣しつつ、それぞれ個々に模写した樹木、建物など、さまざまなパーツをカンバスの中で自在に組み合わせて存在しない光景を創りあげてしまうカプリッチョ(奇想)。
 あるいは自然を見る際に、常に「絵画的に美しい構図」というフィルターを通して実際の風景を眺め、またそうした風景をカンバスに転写するピクチャレスク美術。
 もちろんそのふたつは、時に互いに組み合わされたりもするわけだが、そうした美術界の流れの中で、次第に、廃墟は重要なオブジェとして、その地位を高め、その意味を深化させていく。
 そうした流れの中でのひとつの極点が、牢獄の設計者としても現代に名高いジョバンニ・バッティスタ・ピラネージであると、谷川氏は位置づけている。

 ピラネージの名前を見たとき、どこかで見た名前だと思った。繰り返しになるが、僕は別に絵画史に興味があるでも詳しいわけでもなく、ちょっとかじった程度の知識すらない。普通に暮らしていて、ア・プリオリに知ることができるような名前とも思われないので、記憶をたどってみると、少し前に読んだ前田愛『都市空間のなかの文学』の、「獄舎のユートピア」と題された章で扱われていたのだった。もっと記憶力がよい人間なら、きっと名前を聞いたとたんに、すぐにどの本で名前を目にしたのかまで出てくるのだろう。まさに脳内サーチエンジンである。うらやましいことこのうえない。
 さて、それはともかく、実際には建築に携わることがなかったものの、終生、建築家を自称し続けたというピラネージは、まずカプリッチョ的な手法で牢獄を描いた銅版画によって、名を知られるようになる。
 彼の牢獄画の特徴を、前述の前田氏の著作から引用してみよう。

 ピラネージが描いた牢獄は、閉ざされた独房空間ではなく、神殿や宮殿と見まがうばかりの巨大な規模を持っている。あるかなきかの点ないしはしみのようにおぼろげに描かれた小さな人物の群が、逆に空間のひろがりとへだたりを印象づける。壮大な列柱とゴシック風のアーチ、無限に上昇をつづける螺旋階段の彼方に拡がっているのは、涯しない蒼穹である。建築の限界がどこなのか、どこから天空がはじまるのか、その境界は定かではない(中略)。
 遠近法の規範や細密描写の技法が切りすてられたかわりに、自由奔放な描線、光と闇の対位法が、幻想的な空間の効果を盛りあげる。そこにこめられているのは、ローマ時代の壮麗さと巨大さに魅かれていたピラネージの情熱である。(中略)ピラネージは、囚われの罪人に感傷の涙を注ぐよりも、牢獄に体現されている冷厳な権力意志への讃歌をうたいあげる。力の表現としての芸術。ピラネージが「牢獄幻想」の世界の基調に据えたのは、まさにそうしたバロックの伝統なのであった。

(前田愛『都市空間のなかの文学』p.208〜210「獄舎のユートピア」より)

 実際にピラネージの絵を何らかの形で見てみると、ド・クィンシーらの表現を借りつつ前田氏が言わんとしていることの正当性が理解できるだろう。
 「廃墟の美学」には、1点だけ、ピラネージの牢獄画が掲載されているが、ずいぶんとサイズが小さくてその壮大なイメージが伝わりにくいながらも、その荒いタッチの中に壮大さへの情熱が猛っているのを感じることができる。
 実際のところ、僕がこう書きながら思い出しているのは、ゴッシクファンタジーの鬼子とも言うべきエピックファンタジー、マーヴィン・ピークの『ゴーメン・ガースト3部作』であり、東恩納裕一氏による、創元推理文庫旧版の表紙だ(『ゴーメン・ガースト』シリーズはちょっと前に再版になったらしいが、残念ながら表紙が差し替えられてしまった。また、最近になってBBCが映像化したとかで、DVDも出ている。これも割に雰囲気の出ている出来のようなので、いずれ見てみようかなぁ、と思ってます)
 ピラネージは、まさしくその壮大さへの情熱を、舞台を牢獄画から廃墟画へとうつしつつ保持し続ける。前田氏も触れているように、ピラネージは古代ローマの廃墟群をモデルに、他のいかなる遺跡とも似ていないその巨大さをたたえつづけることになる。

●廃墟の暗喩


 さて、ここまでに述べてきた通り、本書に述べられている廃墟の概念、および美術史上に見る廃墟画について、非常に簡単に概括してきたわけだが、では、我々はなぜ廃墟という題材に魅せられるのか。
 端的に言ってしまえば、それは廃墟が「死」を内包した景色であるからだ。
 暗喩としての廃墟は、すでに使用されていない、主を失った建物という意味でも、また、遠い昔に主が滅びてしまったことを連想させるという意味でも、深く死と結びついている。そしてまた、その建物が生まれ、使用され、そして廃墟となっていくという歴史性を、そこに内包していると言えるだろう。
 そうしたことをよく示しているのが、ユベール・ロベールが描いた、「グランド・ギャラリーの改造案」と「廃墟化したグランド・ギャラリーの想像図」の、一対の絵画だろう。ギャラリーの改造案を示すと同時に、遠い未来、それが廃墟となった日の姿を想像せずにはいられなかったその嗜好性は、例えば日本における九相図(若い女性が死んで腐り、骨になるまでを、時間の経過に沿って描いた図絵)の発想とどこかしら似通っていないだろうか。
 あるいは単純に「死」と言ってしまえば、そこに含意されたものを通俗化してしまうかもしれない。
 さきほども触れた「歴史性」という言葉と似通ってしまうが、こう言えばいいだろうか。廃墟を通して、遙かな昔、そこに遊んだ人々の記憶を幻視するのだと。
 谷川氏はベルクソンの言葉を引きつつ、それを次のような言葉で語る。

 ベルクソンは、要するに「無」は「存在」よりも内容が乏しいどころか内容が多いと主張しているわけだが、重要なのは、ここで彼が記憶の能力なしには無あるいは空虚ないし表象は成立しえないと指摘していることである。言葉を換えれば、思い出と期待の能力をもつ存在者にとってしか不在は成立しないのだ。私たちが「無」や「空虚」を表象するのも、あるものとあったもの、あるものとありえたであろうものとの対照をなしうるかぎりにおいてだからである。
 ベルクソンのこうした議論を私たちの廃墟論に引き寄せるならば、十七、八世紀に廃墟画が成立した事情が推察されよう。なぜなら、それは歴史的記憶の存在を前提としてはじめて成立しうるものだからだ。廃墟の表象は、あらためて整理すれば、遠い過去の文明の記憶を保持しつつ、その過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの遠い過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能になるのだ。

(p.148から149 第4章「廃墟のトポス」より)

 17〜8世紀に時間意識が成熟したというのは、他でもない、中世の終わりと近代の始まりのあわいの時間を指している。
 ということは、これって歴史小説が流行するのと同じで、ある種、大きく歴史が動いている時代特有の時間意識の過敏さが、廃墟という表象を選び取ったということなのだろうか。ちょっと乱暴にまとめてしまうと、どうやらそういうことになりそうだ。
 それはある種の異界への旅であり、と同時に、意識が常に現在へと還らなくてはいけない以上必然として、死の側から生を眺めるような嗜好性でもある。冒頭にもあげた「廃墟の歩き方」などは、そのことを我々にも肉感的に教えてくれることだろう。

 余談になるが本書の巻末には「私的文献案内」と称して、廃墟を論じた各種の論文があげられている。
 わかる人にはわかりやすいがわからない人にはさっぱりわからない例えをすると、「解釈と鑑賞」の別冊として時々出される「源氏物語必携」とか「三島由紀夫必携」とか、ああいうたぐいのものに収録されている文献案内みたいなものだ。
 これが結構、読んでいて谷川氏が楽しそうにしているのが伝わってくるいい文章になっていると思う。もちろん、廃墟についてもっと考えたいという人にとっては格好の道案内となるだろうことは言うまでもない。
(2003.12.6-8)



『幻想の地誌学 -空想旅行文学渉猟-』
 (ちくま学芸文庫
 2000年10月刊
 原著刊行1996年)
 著者の谷川渥氏は、一応、美学者ということになっている。一応、と付けたのは、氏の活動場所が、僕の中での「美学」という学問のカテゴリと、ややズレたところに位置しているからだ。近著に集英社新書の『廃墟の美学』があるが、本書にしろ「廃墟の美学」にしろ、一定のテーマにそって、過去の絵画や小説を分類し、もって、そのテーマが持っている共通のイメージを探り、また、共通していない部分を作品の、あるいは時代の特質として再発見しよう、という手法で書かれている。
 最終的には作品に帰るにしろ、氏の興味の出発点はひとまず、「多くの作品に取り上げられている『A』という場所は、どんな場所なのか」というところにある。それは僕の中では、美学というよりも社会学に近いイメージの思考だ。
 それは、鹿島茂氏は本書巻末の解説で、谷川氏が「カノン(望月注:規範)だけにこだわっていた『狭義の美学者』から、澁澤龍彦や種村季弘のような文学的素養の豊かな『広義の美学者』へと転換した」のだと位置づけていることと、決して無関係なことではないと思うが、いまはジャンル分けといった些事はひとまず措くとしよう。

 ヴェルヌの「驚異の旅」シリーズなどが代表例だが、「空想旅行文学」とでも言うべきジャンルが、幻想文学にはある。
 生活に倦んだ読書人たちを、束の間、見知らぬ異境へといざない、遊ばせる。そういった意味では、僕が最近、都市ガイドを読んでいたのと同じような効能があるわけだが、小説の場合、それは往々にして、実在の都市というよりも、空想の中の異境だ。
 そしてそれらの小説がいざなう異境は、空想であるがゆえに、いくつかの傾向に縛られている。
 そうした異境について、「地誌学的に語りたい」と谷川氏は冒頭で語る。
 海の彼方の孤島は、海の果ては、月は、地底は、砂漠は、どのような場所として書かれ、また読まれてきたのか。古今の小説を総まくりに渉猟しつつ、谷川氏はそこに見られる規範を解体し、そして解体しながら、連想ゲーム的に作品から作品へと読者を導いていく。
 解体の後に残った差異こそが本質である、と主張するかのような、鹿島氏の指摘する本書後半の展開はドゥルーズ思想的だが、何もそこに思想を読みとろうとする必要もないだろう。また、鹿島氏のように本書のスタイルをひっくくって、そのスタイルについて論じていく必要も、実は僕にはあまりあるとは思えない。
 というのも、確かに後半、「砂漠をこれこれとして描く点では『A』と『B』の両作品は共通しているが、『B』は『A』よりもこれこれという特徴がある」というような記述が目立つようになりはするものの、しかしひとつひとつの作品について、じっくりと腰を据えて比較的に読んでいこうというよりは、やはり、ある場所について書かれた作品を、ずらっと並べて、そのテーマにそって簡単に読み比べてみましょう、という程度の重さだと思うからだ。
 しちめんどくさく解題するよりは、谷川氏のいざないを楽しむというスタンスでいいのではなかろうか。

 何よりも、空想に一定の規範をもたらすのが時代性や文化性という、空想する者の共通の認識だとするなら、差異を読むことによっては、その共通性自体については浮かび上がってこない。差異は個的な体験であり、規範は各個が存在する状況が生むものだからだ。
 「作家がどのようにそれを書いたか」という問題は浮かび上がってきても、「読者がそれをどのように読んだか」は閑却されてしまうわけで、これは、地誌学的態度ではないだろう。旅人がそこをどのように旅したか、という個別の事例より、そこがどのような場所だったのかを問うことこそが、地誌学(トポグラフィー)なのではないのか。
 トポスとはもとより、ひとつの場所そのものであると同時に、そこから議論や思考が始まる、問題の集中する点のことをも意味する。
 拡散し、作品に帰ることはむろん、不必要なことではないにせよ、何も焦ることでもないだろう。その場所について書かれた作品のいろいろを眺め比べていく、そうした本だと、ひとまず本書を位置づけておきたい。
(2003.7.3)


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谷川渥

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