柳田理科雄



『空想科学読本2』
 (空想科学文庫
 2004年4月刊
 原著刊行1997年
 原著改版1999年)

●「初版1万部」からMF活字部門の大黒柱へ


 この本が出たのが1997年だったんだそうで、当時、多分ポケモンかなんかだったと思うが、夕方にぼーっとテレビを見ていて、CMになるとえらく派手にこの本のTVCMを打っていたのが懐かしく思いだされる。
 あおぐらい照明の中、モリナガ・ヨウ氏制作のジオラマに火花が飛び散り、「空想は科学的ではない! 空想は科学的ではない!」というナレーションが響きわたる…、という感じだったと思うが、もしかすると記憶違いもあるかもしれない。なんかジオラマじゃなかったような気もするし。
 まあCMの内容はともかく、メディアファクトリーとしても、ゴールデンタイムにバンバンCMを打つくらい力を入れて出した1冊だった、ということが言いたかったのである。テレ東だったとは言え。

 「読本1」は、おそらくマイナー系サブカル本程度の売上げが出ればいいや、というくらいにしか期待されていなかったはずだ。そもそもがいわゆる「謎本」の一亜種という認識を誰もが持っていたはずで、それも謎本ブームのかなり末期になって出た1冊だったから、まさかこれが10年近くたってもまだ続いている人気シリーズになるなどとは誰も思ってなかったことだろう。
 なんせ、初版が1万部である。
 そのちょっと前に松本人志氏が『遺書』の初刷が5万部だというのを聴いて、「そんなに売れへんわけないやろ、なめとんのか!」と言っていたことがあったが、さらにその1/5。著者のネームバリューという部分はもちろんあるにせよ、97年当時の全国の書店数が概算で22000店くらいだったそうだから(永江朗『不良のための読書術』p.140 第七章「読む本は本屋で決まる」より)、そもそも書店数より発行部数が少ない。まぁ、10%程度の本屋が置いてくれれば万々歳、とメディアファクトリーでは思っていたというところか。
 それが結局65万部までいったそうで、その第2弾。そりゃメディアファクトリーもCM打つわな。

 で、この「2」はと言うと、今、「1、2あわせて140万部」という数字が割に流通している。つまり、「1」の65万部を差し引いて75万部。65万部は最終的な部数なので、ちょっと多く見積もって、まぁ80万部を越すか越さないかくらいだろうか。
 派手にCMを打ったわりには意外と伸びなかったのである。
 多分、この手の本というのは、あらかじめあるていど受け入れられる人が決まっていて、つまりは伸びしろがそれだけ少ないんじゃなかろうか。内容的には「2」の方が面白いと思うので、肝心の中身がストップをかけちゃったわけでは、おそらくない。
 とはいえ、今の出版情況の中で80万部売れるというのは、これは大したもんである。結果的にはこの2冊が続けてスマッシュヒットとなったことで、柳田理科雄氏は専業の文筆家でいくということになった部分があると思う。もちろん、「1」と「2」の間で経営していた学習塾が潰れて、とか、いろんな事情があったらしいんだけれども。

●「1」から「2」への進化


 僕個人としても、初めてこのシリーズに接したのがこの「2」だったもんだから、けっこう思い出深い1冊である。
 さすがに初めて読んだ当時ほどのインパクトはないが、当時爆笑した、カタツムリ怪獣ゴーガが背中のドリルを地面に突き刺したまま本体は空中で高速回転している図などは、今読んでも笑いがこみ上げてくるものがある。
 往時も確かに、図書館の椅子に座り、同じネタで必死に声を抑えつつ笑ったのだ。そう思うと懐かしいような気もする。それから5年あまり経って、文庫化された「読本1」を読んだのだった。
 先にも述べたように、出来としては「1」よりも「2」の方が数段上をいっているので、もしかすると僕が「1」から先に読まなかったのは、かえって幸運だったのかもしれない。
 経験というのは偉大なもので、「1」のときに見えていたぎこちなさみたいなものが文章からとれ、また近藤ゆたか氏とのコンビネーションも格段にうまくいくようになっている。おかげで笑いどころは確実に「2」の方が多いし、また破壊力も増している。こう話を持っていけば笑いどころになる、というのが学習されていると考えていいと思う。
 「1」よりもネタが少しだけ微視的になっていて、このままのペースではネタが枯渇するのでは、と心配させるところがないではないが、ネタが微視的になることでチョコレート怪獣ゲスラが大々的にフューチャーされるなど、またそれなりに見所が出ているのはたしか。ネタの枯渇については、この後、刊行ペースがグッと落ちるのと無関係ではないと思うが、それでもちゃんとシリーズが続いているんだから心配ご無用というところか(特撮やアニメの新作はあとから山のように出てるわけだし)。
 個人的にはぜひ恐竜戦車をフィーチャーした1章をもうけていただくまで、このシリーズが続いて欲しいと願っている。
(2004.5.5)


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『空想科学読本1』
 (空想科学文庫
 2003年7月刊
 原著刊行1996年
 原著改版1999年)
 本書が初めて世に出たのは1996年のことだったそうだ。けっこう前のことのような、あれ、そんなもんだっけ、のような。
 7年前ということは、僕は大学生だった。うわー、もうあれから7年もたってんのかよ、という個人的な慨嘆は、この際どうでもいい。しかし、ということは当然、95年のエヴァンゲリオンのTV放送からも8年が経っているのである。3年前くらいのような感覚でいると痛い目を見るなぁ。
 この「1」は、かなり売れたし、話題にもなったが、当時はまだ、「磯野家の謎」「野比家の真実」などに代表されるような「謎本」ブームの影響が残っていた頃で、本書についても、その一亜流という認識を、僕としてはとっていた。続く「読本2」あたりは、メディアファクトリーも盛んにCMをうっていたのでグンとメジャー色が強くなり、「一亜流」というところから、こちらも認識を改めざるをえなくなるわけだが、本書の頃はまだまだワン・オブ・ゼム。
 本屋でも謎本関係と並んで売られていたし、実際、おそらく本書の企画自体も「謎本系のもの」として立ち上がったものだろうと思う。当時は、他の謎本が「東京サザエさん学会」のような架空の組織を著者名に掲げていたこともあり、「柳田理科雄」もまた架空の人物ではないかとする憶測もあった。そうした受け止められ方自体、謎本の一亜種として本書が位置づけられたことを物語っている。
 その後、このシリーズが、ひとつの作品内の記述同士の矛盾をつくという「謎本」のスタイルから大きく逸脱し、多数の作品の中のヒロイックな能力等々について「それが本当に起きたらどうなるか」という方向性に進んでいくことは、「空想科学読本4」の感想を書いた際にも簡単に述べた通りだ。

 しかし、シリーズ第1作である本書は、今読むと、けっこう、現在のスタイルとは違ったところから書かれていることがわかる。
 文章がまだ堅いとか、売りのひとつである近藤ゆたか氏のイラストをまだ使いこなせていない(多分、打ち合わせが不足している。原稿が上がってからイラストを発注していたのじゃないだろうか。まぁ、スケジュール的にキツキツなことが多い企画ものの本とかゲームとかではありがちな話だが、必然的に作家とイラストレーターのコミュニケーションがとれないので、双方に遠慮も出てしまうし、「ここで笑わせましょう」というコンセンサスのないままに作業をしないといけなくなったりする)とかいった技術的・時間的に未成熟な部分からくるところもあるだろうが、そもそも、本づくりのスタンスが現在とは違っていると思った方がいい。
 それを端的に表すのが第一部の表題「設定からしてトンデモない!」であり、第二部で超音速飛行を扱う際の「ウルトラ兄弟やキングギドラなど、飛行能力を持った連中はことごとく超音速で空を飛ぶが、こいつらは衝撃波の恐ろしさがまったくわかっていない。ひとつオキュウを据えてやらねばならない」(p.195)という表現だ。
 「オキュウを据えてやる」とはまたアグレッシブである。この攻撃性は、割に近年になってから刊行されたものと読み比べるとすぐにわかる。現在の柳田理科雄は多分、「オキュウを据えてやる」という表現は絶対に使わない。
 今ならたとえば「ウルトラマンやキングギドラなど、飛行能力を持ったヒーローたち、怪獣たちは、みんな超音速で飛行する。しかし、生物が超音速で空気中を飛行するとなると、いろいろと不都合が起きてくるのではないか? そう思って調べてみたところ、うわぁ、大変なことになってしまった! (そうするとどうなるかの解説をここに挟む) しかし、あまりにもたもたと飛ぶヒーローでは世界の平和は守れない。第一、それではせっかくのウルトラ兄弟もちっともかっこよくない。なんとか彼らが超音速で飛行させてやりたい。何かいい方法はないだろうか?」といった文章に、おそらく、おそらくなんだけど、なる。
 「カリオストロの城」における銭形警部を彷彿とさせるわざとらしさを含みつつも、決して、ヒーローたちのあり方を真っ正面から否定したり攻撃したりはしない。現在、柳田氏は戦略的にそういうスタンスで文章を書いている。

 理由は単純だ。本書の初版当時から、こういう本を買って読むのは、アニメとか特撮とかが好きな、あるいはかつて好きだった人々、つまりは取り上げる作品のファン層だったわけで、本書の文章のように攻撃性むきだしでは、そのファン層を、したがって読者を敵に回すことになりかねなかったわけである。もちろん、作品を制作している人たち、つまり円谷プロとか藤子プロとかを怒らせる可能性だってある。どことはいわないが、そういうのに妙に過敏になっているプロダクションというのも実際に存在するわけだし。
 それはまずいということに、柳田氏もメディアファクトリーも気づいたのだろう。
 もちろん、当時のハングリーさとか、肩に力を入れていた気張った感じがとれて自然体になってきたということもあるとは思うが、現在、意図的にそういう敵を作らないスタイルでやっている部分というのも、確かに存在すると思う。
 そして当時、そんな攻撃性がどこから来ていたのかというと、「設定からしてトンデモない!」という表現からすぐに連想できるとおり、後に空想科学シリーズにもイチャモンをつけてくることになる山本弘、およびと学会の「トンデモ本の世界」からだったのだろうと推測できる。「トンデモ本の世界」がヒットしたのは95年なので、時間の流れ的には矛盾していない。
 「謎本」のコンセプトを土台に、空想科学世界に「トンデモ本」の流儀を応用してしまいましょう、というのが、本書の基本コンセプトとして見えてくる。

 山本弘が「計算違ってるやん! 計算に使う要素が抜けてるやん!」と、後に本シリーズの告発本を出すのは、もしかするとコンセプトをパクられたと感じたからなのじゃないか、という邪念もちらっと浮かんだりする。
 ただ、「謎本」というのは、その嚆矢である「磯野家の謎」からして、すでに「検証が甘いんじゃないの?」という反証本が作られたりしていたジャンルだけに、反論本が作られるのはある意味で正しい。なんか、そういう「元本−反証本−元本パート2−反証本パート2」あたりまではひとつの作品でダシを取っちゃいましょうみたいなフォーマットが、出版界の中にすでにある気がするし。
 そうした意味では、「こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』」の意味合いも、僕は別に否定はしない。
 けどまぁ、「単純に笑えるんだからいいじゃんケチつけなくても」ってのが本音の部分ではあるなあ。
(2003.7.30)


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『空想非科学大全』
 (空想科学文庫
 2003年5月刊
 原著刊行1998年)
 今年5月より、メディアファクトリーから「空想科学文庫」として文庫シリーズ化されることになった「空想科学読本」シリーズの、これが文庫化第1号にあたる。
 シリーズ化されることになった、とはいうものの、「ナントカシリーズ」と銘打っておきながら、シリーズのラインナップが1冊しかない、なんてこともしばしばあったりするのがこの世の中。
 いわば「本編」である「空想科学読本」ではなく、「外伝」的な位置づけの「非科学大全」を、まずはジャブとして出してきたあたり、このシリーズも、この1冊の売れ行き如何で、今後の寿命が大きく左右されるという状況ではないかと邪推できる。まぁ、固定客のついているこのシリーズなら大丈夫だとは思うけどさ。

 さて、少し前から、グループSNEの出世頭こと、と学会の山本弘らに、計算の間違いなどを指摘されるなど、ややブランドイメージ的には勢いを失った感もある空想科学研究所シリーズではあるが、しかし実際に読んでみれば明らかなとおり、どうしたって面白いものは面白い。
 特にファミコンの「アイドル八犬伝」のキャラデザとしても(かなりごく一部に)著名な近藤ゆたか氏のイラストというか1コママンガというかの破壊力は、瞬間風速的には「クロマティ高校」を凌駕する。柳田氏の文章で振って振って溜めぬいた後で、「それを具体的に図にするとこうです!」と近藤氏のイラストが炸裂する。
 単純にイラストだけが並べられていてもそうそう大爆笑にはならないだろうし、文章だけでも同じだろうが、コンビネーションで緩急を付けた振りとオチをつけられると、呼吸困難クラスの爆笑が生まれる。僕も以前に、就職説明会をサボって図書館で「読本2」を読んでいたときは、静かな図書館で1人、肩をひくひくさせながらページを進めたものである。
 まぁ、山本弘らの批判にしても、そもそも空想を土台にして計算を推し進めた、その計算が間違えていたぞ、という、一般の読者にしてみりゃ「間違ってたから何?」という、その批判で何がしたかったのか今ひとつよくわからないイチャモンめいた代物ではあったのだが、それでこの面白さが勢いを失ってしまうというのは、どうしたって惜しい。計算が合っていればそれに越したことはないにせよだ。
 残念ながら、山本弘にはこの面白さを自力で作り出せるだけのスキルはないからなあ。

 ちょっと世俗的な話になってしまった。軌道修正してシメにする。
 「大リーグボールって実際にはどんな理屈になってるの?」みたいな、ひとつの(あるいは同じような状況を共有する数本の)作品のひとつのロジックについて、それぞれ章をもうけている「読本」に対し、この「非科学大全」では、「空想科学世界法則」…まぁ、いわゆる「お約束」だが、その「お約束」を見つけだし、それを実際にやるとどういうことになるかを考えている。
 というと、どうも対象が広がりすぎてしまって、内容がボケてしまっているのではないか、という危惧を抱くのだが、そこはそれ、「この作品でも、あの作品でも、こんな作品でもこういう法則があった!」と言った後、「この作品を具体例にして実際にやったらどうなるか考えてみよう」と話を展開させるので、話の対象が広がりすぎるということはない。
 というか、やってることはいつもと同じなんだもんな、と言ってしまったら、あまりにぶっちゃけすぎだろうか。
 しかしいずれにせよ、つまらなくなるよりはよほどいい。それも芸風だ。その芸風一本でどこまでいけるか、という問題もあるにはあるが、文筆業専業になっちゃった以上、いけるところまではいってもらいたいもんだと思う。この面白さが保たれている限り、僕も応援する。
(2003.7.6)


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『空想科学読本4』
 (メディアファクトリー
 2002年4月刊)
 このシリーズも息が長いよねぇ。最初の「空想科学読本」の出版年が1996年。そこからトコトコっと第2巻が出て、少し間をおいて第3巻、そして今回の第4巻、という感じ。や、実は既刊の3冊のうち、読んだことがあるのは第2巻だけ。それも図書館で読んだっていうことなんですがね。
 やー、これが面白かったんだ。色々とストレスが溜まっている時期に読んだからかも知れないけど、図書館で声を殺して、腹が痛くなるほどの笑いにこらえて読み通した。
 このシリーズ、最初は、「磯野家の謎」にはじまる、いわゆる「謎本」の系列に連なった1冊だったと思うんだよね。
 「謎本」というのも因果なジャンルで、最初のうちは「第X巻にはこういうシーンがあって、第Y巻にはこんなシーンがある。ということはこの部分にはこんな驚くべき設定がある!」という、設定なんてなきがごとしの漫画を取り上げて重箱の隅をつつく、というかなりいやらしい面白みを提供していたものが、「磯野家」のメガヒットで粗製濫造が始まり、「ドラえもん」だのなんだの、そういう「設定がはっきりしていない」漫画を食い尽くすと、次第に「みんなここってどうなってるんだろうと思ってたでしょ? 実はX巻にこんな記述がありまーす」という、「なんだよただのガイドブックじゃん!」という感じのものに成り下がっていっちゃった。
 元になる作品があってはじめて成り立つ、これもまた二次的作品だったわけですな。
 ただのガイドブックでは面白くないのが当たり前だったりするわけで、いまではこの類の本を見かけることもめっきり少なくなったが、ほとんど例外的なのが、この「空想科学読本」。というか「科学読本」以外にも色々なシリーズがあるから、「空想科学研究所」シリーズとでも言った方がいいかもしれない。
 柳田理科雄が偉かったのは、例えば「磯野家の謎」が、「このシーンからすると、この船の設計図はこうなっているはず」的な、スターウォーズマニアとかアニメ雑誌とかでもあるようなレベルの、いわば「ファンの視点」で書かれていたのに対して、そこに「科学的に見ると」というファクターを介在させることで、よりアイロニカルな視点を提供したことにある。
 これは、ちょっと言葉を飾れば、「アニメや漫画、特撮に外部性を持ち込んだ」ということだ。
 最初は当人にもそんな意識がなかったのかも知れないけれど、これは謎本にとって大きな一歩だった。進歩、と言ってもいいかも知れない。
 視座を内側から外側に持ち出す、というのは、作品が作品として「閉じ」なくなるということだ。科学的な法則が微妙に食い違った「現実」と「空想」というふたつの世界が相関しあうわけだから、そこにはアイロニーが生まれる。
 この「現実」から「空想」を見つめる視線がアイロニカルだから、熱狂的サザエさんマニアは「磯野家の謎」を笑って読めるけれども、熱狂的なウルトラマンフリークの中には「空想科学読本」を白眼視する人もいる、という事態が生まれることにもなる。
 下手をすると「アニメなんて非科学的です!」という、それ自体がギャグとしてしか存在しえないような主張を生み出しかねないこの外部性を基盤にして、柳田理科雄(と、イラストの近藤ゆたか。むしろ、爆笑ポイントはイラストの側に仕掛けられていることも多い)は爆笑を生み出す。
 それは、一度は外部性を持って見つめた「空想」を、否定することなく「現実」とドッキングさせるための、窮余の屁理屈だ。そう言ってしまえば、むしろ清々しい。
 もうちょっと深く考えれば、それは「空想」を「空想だから」という理由で諦めないという態度でもある。つまり、アニメの画面上で起きたことは、現実の物理法則がどうであれ、その作品においては、いや、その作品を離れたとしても「事実」に他ならないのである。そのことを捨てない。
 でもって、これは非常に重要なポイントなのだけど、実は科学(理論物理学?)というのは、そもそも、「現実に起きている事実」を決して否定しないところからはじまっている学問である。流体が、理論上はこう流れるはずなのに、この環境ではこう流れている。そこで決して、「この環境ではこう流れた」ことを忘れないという態度。それこそが科学的な態度なのである。
 従って、「空想科学読本」シリーズは、「科学的な態度」として、実に正しいのである、ということになる。
 我ながら「ホントかよ」と思うくらいに綺麗にまとまってしまったが、ホントなのだ。
(2002.4.15)


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柳田理科雄

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