<夕立>

セミが盛んに鳴き始めている。
真っ青な空には、入道雲がのどかに浮かんでいる。
日差しは強く地上を照りつけ、コンクリートの道路からは陽炎が上がっている。
日本の夏は暑い上に、湿度が高い。
それだけにグスタフにとっては辛い季節だ。
とがいえ、彼は日本の四季の移ろいが何よりも好きで、それほど苦にしてはいないのだが。
「しかし、さすがに暑いですね。」
道路に街路樹があるのが救いで、その木々の陰の下をぬって歩く。
風もあまりない。
こういう日に何を好んで歩いているのかと思うが、バスで行くと時間が早すぎるのだからしょうがない。
早く出過ぎての時間調整にと、散歩をしてみる気持ちになったのがうらめしい。
ズボンのポケットから懐中時計を取り出して時間を見ると、このまま歩いていけばちょうど良い時間である。
「歩くしかないですね。」
そうつぶやいて、木の陰の下からまた歩き始めた。

「こんにちは。」
結花の家の玄関を開けて、グスタフが言う。
「こんにちはぁ。」
そこには正基のにんまりとした笑顔が待っていた。
どうやら長い間グスタフが来るのを玄関で待っていたらしく、おもちゃが散乱していた。
「こんにちは。」
もう一度、今度は正基に向かってやさしく言う。
それを見て、正基はまた顔いっぱいに笑顔を広げた。
「お姉ちゃんだよねっ!今、呼んでくるっ!」
そういって正基があっという間に、奥に入っていった。
しばらくすると、結花がぽてぽてと奥から出てきた。
「こんにちは、先輩。」
結花もだいぶ落ち着いて挨拶が出来るようになった。
「こんにちは、結花さん。」
グスタフが本当に穏やかな笑顔で、言った。
「ど、どうぞ。」
その顔をみて何を思ったのだろうか。
結花がどもった。
その声を聞いてグスタフは靴を脱ぎ始めた。
靴をきちんとそろえて上がろうとすると、廊下を少し入ったところで正基が結花に怒られていた。
「駄目じゃない。あんなに散らかしてっ!」
結花の怒っている顔を見るのは始めてかもしれないなぁと思う。
「だ、だって・・・」
正基が泣きそうな声で言い訳をする。
「ちゃんと、片づけなさいっ!」
そう厳しい声で言う。
今、親はいないのだろうか?
ふとそんなことを考えた。
それにしても、玄関の状況は正基が怒られても仕方のないくらい散らかっている。
しかし、二人がこのままの状態ではグスタフも困ってしまう。
「結花さん、その辺で・・・。」
結花はグスタフが来ていた事に気がついていなかった。
その声で我に返り、恥ずかしいのか、顔を真っ赤にさせた。
それをみてすかさず正基が反撃にでた。
「あ、お姉ちゃんの顔、まっかだよぉ!」
「う、うるさいっ!」
正基の言葉を聞いてますます結花は顔を赤くした。
正基は姉の言葉を聞いても、鬼の首をとったような笑顔で、「まっかだよぉ。」といいながら奥に入っていった。
姉弟の仲はいいのだろう。
結花の面倒見のよさからみても姉弟の仲が悪いとは思えない。
「あ、ど、どうぞ。」
結花が自分の部屋に、グスタフを案内する。
「それじゃ、お邪魔します。」
何事もなかったかのように、グスタフは結花の部屋に入った。
結花が「飲み物を持ってきますね」といって部屋を出ていった。
すっかり見慣れた結花の部屋であるが、それでも女の子の部屋に男が1人でいるというのは落ち着かない。
どうもそわそわする。
そういえば、最初にこの部屋に来た時以来、あの写真立ては見ていない。
どうしたのだろうと気にならないと言えば、嘘になる。
しかし、それを問いただす権利は彼にはなかった。
それに、あの写真立ては見ない方がいい。
また彼女の事を思い出してしまうだろうから。
「お待たせしました。どうぞ。」
結花があけっぱなしドアから部屋の中へと入ってきて、飲み物をグスタフに差し出した。
「ありがとうございます。」
冷たいグラスの感触がほてった手には気持ちよかった。
一口、口をつけた。
結花はお盆を適当な場所に置いて、英語の準備を始めた。
もっとも、元々準備していたらしく、確認程度のものであったが。
結花の準備が終わったのを見て、グスタフが言う。
「それでは、はじめましょうか。」

やっと風が出始めたのだろうか。
結花の部屋にも空気の対流が出来るようになった。
扇風機も回っているのだが、自然の風の気持ちよさにはかなわない。
「今日はこれでおわりにしましょう。」
グスタフが切りのいいところで言う。
ふーっと結花が気を抜いて、鉛筆を机の上に転がした。
「それで、夏休みの宿題なのですが、ここにプリントがありますからこれをやっておいてください。」
そういって30枚ほどのプリントの束をかばんから出す。
全部手書きだ。
「こ、これ、先輩が全部作ったのですか?」
結花がその量と緻密さに驚いて言う。
「そうですよ。」
穏やかに言う。
少々の気恥ずかしさはあったが。
「ありがとうございます・・・。」
宿題を出すと大抵は嫌がられるものだが、結花は喜んだらしい。
その結花の感謝の言葉をグスタフは笑顔で返す。
「そうそう、うちに来るという話はどうなりましたか?」
思い出したように聞く。
そういえば、あの時以来、なんらの音沙汰が亜都からもなかった。
結花達が本当に来るのかどうかすらわからない。
あっちで結花達が来るのをまつにしろ、せめて来る日にちと飛行機の時間は知っておきたかった。
「えっ?あと・・・・パスポートはもう取ったので・・。
飛行機の時間とかは亜都ちゃんに任せてありますから・・・。」
結花が当惑気味に答える。
「あ、来るんですね。よかった。」
グスタフの言葉に結花は首をかしげる。
「あれ?私が行くという話は亜都ちゃんから聞いてないんですか?」
えっ?という顔をしてグスタフが答える。
「はい。聞いてませんよ。あれから連絡がなくて・・。」
グスタフが困ったように言う。
実際連絡がこなくて困っていたのだ。
「ええっ。亜都ちゃん、うちから連絡しておくわ〜って言っていたのに・・・。」
結花はそういって考え込んでしまった。
「あの、私はあと1週間くらいであっちに戻るのでそれまでには細かい事を教えて欲しいのですが。」
声をかけにくそうにグスタフが言う。
なんとなく、来るように強引に誘っているような気分がして、嫌だった。
しかし、結花に来て欲しいという想いも強かった。
あの場所に、結花を連れて行きたい。
そうすれば、もしかしたら自分の心の壁を越えられるかもしれない。
そして、あの時の失敗を繰り返す事はなくなるかもしれない。
そう思う。
「は、はい。わかりました。」
結花が落ち着きなく言った。
「お願いします。」
グスタフは静かに言い、帰る準備を始めた。
プリントがなくなったためかばんは軽い。
よっとかばんを持って立ち上がる。
結花がそのグスタフの姿を見て、言う。
「あ、送ります。」
「いえいえ、いいですよ。
正基君を1人にするわけにいかないでしょう。」
それを聞いて結花が目を丸くした。
「き、気がついていたんですか?」
「ええ。」
といたずらっぽい表情でグスタフが肯定した。
正基が玄関であれだけのことをしているのを、親が許すはずがない。
ずいぶんと、結花の両親には信頼されているものだと思う。
結花とグスタフと正基しかいない状況を平気に思っているのだろうか。
「それでは、また明日、部活で。」
靴を履いてグスタフが立ち上がって言う。
結花は玄関の上にいるから目の高さが同じになる。
ふりかえると結花と目が合った。
奇麗な目だなと思う。
純粋な黒いかげりのない瞳。
この瞳は私の事をどこまで見てくれるのだろうか。
それとも見てくれていないのだろうか。
ふと思う。
「は、はい。またです、先輩。」
そう結花が顔を赤くしながら言った。
結花の言葉を笑顔で受けながら、家の玄関を後にした。

帰り道。
真昼のころとは違い、穏やかな風がながれている。
木々の陰も長くなり、ようやく涼しさが出てきた。
まだ夏の盛りではない事を思うと、嬉しいようなそしてうんざりするような気持ちがする。
空を見れば、向こうの方から雨雲が近づいて来ている。
夕立でも来るのだろうか。
亜都からの話を聞いた時は正直なところ冗談だろうと思っていた。
そう思ったから、来てもいいなどと答えたのだ。
しかし、亜都の両親からも連絡があったりで、それが現実の事だとなると、驚くとともに嬉しく思った。
それから、結花とあの場所へ行かなくてはならないと思うようになった。
あの場所に行くのは、かれこれ3年ぶりになる。
もう2度と来る事はあるまいと3年前、思った場所だ。
そして、2度と人を好きになるまいとあの場所を去る時に思った。
しかし、人生とはわからないものである。
そう思っていても、人は人を好きになってしまう。
それは止める事の出来ぬことなのかもしれず、ただの本能なのかもしれない。
それがうらめしいとは今は思わない。
今、それを否定する事は彼には出来ないし、彼女でなくともいずれは誰かを好きになっただろう。
その時に、同じ事で自分の心を乗り越えなければならないのだ。
それが遅かれ早かれ。
もっとも、こんなに早くその時が来るとは思っていなかったし、思いたくもなかった。
それがあの時、あの場所を去った自分への戒めであったから。
だが、その時は今もう来ている。
結花という女の子によってその時はもたらされた。
迷惑な話だった。まだきて欲しくなかったのに。
まだ乗り越えられるほど、自分は強くないのに。
理性ではそう思っていたが、感情は別だった。
彼女の姿・声・目線、そんなものすべてが彼の感情を捕らえた。
何より、彼女の心に不思議とひかれるものがあった。
たいして話した事も、見た事もなかった娘なのに。
それは理性とは別の次元のもの。
そう言ったエリーの言葉が今やっとよくわかる。
今の自分の気持ちはわかっている。
それを否定する気持ちはない。
今の気持ちはむしろ心地よい。
それが誰によってもたらされたかも知っている。
だが、これからまだ自分は乗り越えるべき壁がある。
その壁はすでに乗り越えたも同然だが、はっきりとさせておきたかった。
そのために、あの場所に行こう。
そう思う。
気がつくと、空は暗くなり、轟然と雨が降り出した。
さっきの雨雲が来たのであろう。
傘を持たない人々がすぐ近くに雨宿りの場所を見つけて駆け込む姿が見える。
グスタフもその中の1人になって、駆け出した。
雨はいつか上がる。
どんな長雨も、夕立も。
晴れる日が、きっと来る。


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