<結花>
すっと結花が立ち上がった。
無言だった。
「…結花さん?」
この結花の行為はどうなのだろう。
彼の言葉に対する拒否なのだろうか?
「どうしたのですか?」
間抜けなことを言うものだと自分でも思う。
しかし、これ以外に彼は聞く言葉を持たなかった。
結花は、その言葉をうけても黙っていたが、突然、走って病室を飛び出した。
「結花さん!」
そう叫んだが、結花の後ろには届かなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
結花を探しに出てだいぶ経つ。
だが、結花がどこにいるのかはまだわからない。
知らない街で、そう遠くに行けるわけがないと思うが、心配である。
確かにこの辺の治安は悪くはないが、それでも日本のそれよりはるかに悪い。
結花にもしものことがあったらと思うと胸が張り裂けそうだ。
しかも、自分のせいで。
今、結花を失ったら・・・・それは考えたくなかった。
それこそ、彼にとって終わりかもしれなかった。
最初はそんなことを思わなかった。
ただ追った。
それが彼の義務であるかのように。
しかし、今は本当に心配になっていた。
「小さな、日本人の女の子が通りませんでしたか?」
何度も聞いた言葉。
返事も決まっている。
「Nein(いいえ)。」
別の方向を探しに来ているのだろうか?
だが、結花が走っていくのなら、自分の家の方向が自然だと思ったのだ。
その勘は外れたらしい。
まずい、という気持ちばかりが先走る。
「どこにいるのか?」
気が狂いそうだ。
「結花さん・・・・。」
そう心に念じながら走る。
探す。
だが結花の姿は全く見えなかった。
「どうすれば。」
いいのか、彼にはわからない。
しかし、彼女を探すのに1人ではあまりにも少ない。
一度、家に戻って誰かに声をかけよう。
とにかく、結花1人はまずい。
見つけた後、拒否されてもいいから、結花の姿が見たかった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・。」
森の家にはすぐについた。
『あ、グスタフ様。』
そう管理人の妻が言う。
『ちょうどお電話です。
エリー様のお母様から。』
しかし、すぐに受話器を取ることは出来ない。
息を整える。
本当は電話どころではないのに。
そんな気持ちを押さえながら、深呼吸をし、受話器を受け取った。
『はい、グスタフです。』
『グスタフ君?
お久しぶりね。アンネです。』
『アンネおばさん・・・お久しぶりです。』
そうグスタフは言う。
しかし、気は焦っている。
世間話などしたくはない。
『ずいぶん息を切らして何かお探し?』
『いえ・・・何かご用なのですよね?』
『あのね、今うちに日本人の女の子が来ているの。
公園で泣いていたから連れてきたの。
そしたら、彼女、貴方の名前を言うじゃない。
びっくりしちゃったわ。』
『はい?』
グスタフは一体なんのことかわからなかった。
『だから、日本人の娘が来ているのよ。
貴方の名前を言っているから、貴方の知り合いだと思って。
迷子になっていたのよ。』
『え?あ、あの、その娘、結花っていいませんか?yuka hurukawaって。』
『さぁ、名前は聞いていないわよ。
私の日本語なんてまだまだ片言ですからね。
とにかく迎えに来なさい。
あなたが探していたのは彼女でしょう?
貴方、また女の子を泣かすようなことをしたのね。』
そうアンネが言った。
その言葉に悪意はない。エリーとグスタフのことは彼女は知らないはずだった。
『は、はい。わかりました。すぐに行きます。』
そう電話を切るが早いか、グスタフはエリーの家に走っていった。
『グスタフ様・・・今度は幸せをつかむんですよ。
そして逃がさないようにね。』
グスタフの走っていく後ろ姿を見ながら、すべてを知っている管理人はつぶやいた。
『はぁはぁはぁ・・・っ』
息を整えながら、チャイムを鳴らす。
なかなか返事はない。
この家に玄関から入るのは、なんと二度目のことだった。
エリーに会う時はいつも庭から来ていた。
「親に見つかりたくないから」
といっていたが、実際はただ秘密の恋のようにしたかっただけだろうと今では思っている。
家の玄関が開いて、昔よくうちに来ていたおばさんの顔が見えた。
もっとも、オーストリアに来てすぐに、エーディトと二人で会いに行ったのだが。
アンネは娘を亡くし、夫も亡くした未亡人である。
今は、ここの使用人と3人で暮らしている。
長男がいるが、すでに結婚して今はロンドンの方に暮らしている。
長男の仕事の方も忙しく、社会福祉もそれなりに進んでいるし、使用人もいるしということで、彼女は1人で暮らしている。
しかし、大の仲良しだったグスタフの母が日本に行ってしまったのは痛かったのだろう。
たずねた時、「きっと日本に行くわ。」と何度も言っていた。
『こんにちは、アンネおばさん。』
『こんにちは。
彼女はリビングにいるわよ。』
その言葉を聞いて、グスタフはアンネを押しのけるようにしてリビングに走った。
グスタフがドアを勢い良くあけると、びっくりして結花がそちらを向いた。
結花はそこにいた。
リビングのソファーに座って、紅茶を飲んでいた。
「せ、先輩!」
結花が驚いて立ち上がった。
グスタフは結花の姿を見て安心したのか、結花の方を見ながらもう一度、乱れた息を整える。
そして、結花の方にゆっくりと近づく。
「心配しました。
よかった・・・・。」
そういって、結花を思わず抱きしめてしまった。
「せ、先輩・・・。」
結花はまた驚いていたが、抵抗はしなかった。
「すみません。
動揺させるようなことを言って。
すみません・・・・でも、よかった。」
そんなに心配するほどのことでもないのだが、グスタフは本当に安心した。
エリーがいなくなった時に感じたものよりももっと恐い感情が、結花を見た瞬間に抜けていったためだろうか。
『いいところで申し訳ないのだけど・・・いいかしら?』
そう言いにくそうに、アンネが後ろから声をかけた。
その声で、グスタフは我に返った。
「す、すみません!
結花さん。」
そういって慌てて離れる。
「いえ・・・先輩、謝ってばかりですね。」
結花が複雑な表情をしながら言った。
おかしいのか、残念なのか、不満なのか。
そんな感情が全部交じっているようだ。
『駄目じゃない、グスタフ君。
恋人を1人にして、しかも、泣かせたりしたら。』
アンネがあきれて言った。
『恋人じゃないです。』
慌ててアンネに言い返す。
『あら?そうなの。
なら、片思い?
まぁ、どっちでもいいわ。
座ってなさい、冷たいもの持ってくるから。
汗びっしょりだから、喉が渇いたでしょう?』
そういってタオルを渡し、アンネが出ていった。
二人きりにさせようと気を遣ったのかもしれない。
気がつかなかったが、グスタフの上着は汗でびっしょりと濡れていた。
必死で探しまわっていたためか、今まで気がつかなかった。
こんな状態で結花に抱き着いたのかと思うと恥ずかしくなる。
「しかし、心配しました。」
落ち着いたところで、グスタフが結花に言った。
「いったいどこにいったのかと・・・。でも、まさかここに来るとは思っていませんでした。」
「ご、ごめんなさい。」
結花がもうしわけなさそうに言う。
「でも・・・私、なんだかわけがわからなくなって・・・。
先輩にあの話を聞かされて、告白されて・・・嬉しかったのに。
でも、なんだか納得がいかなくて・・。
わけがわからなくなって・・・。」
ぽつり、ぽつりと結花が言った。
「それは・・・すみません。
でも、私はエリーのことを知っておいて欲しかったのです。」
「じゃぁ、何で、告白する前に言うんですか?
何で前の恋人のことを私に話したりしたんですか?
どうしてなんですか?」
結花が泣きそうになりながらグスタフの目を見ていった。
もっともな疑問だと思う。
しばらくの沈黙の後、グスタフが言った。
「エリーのことを話すのは、失礼なことだとは思ったのです。
でも、私にとってはどうしても話さなくてはならないことだったのです。
エリーのことを振り切らないと、私は先に進めないんです。
振り切るという言い方はおかしいかもしれないですけど、でも、彼女のことを知っておいて欲しかった。
私は、今、結花さんが好きです。
それはエリーよりももっと好きです。
だから、知っておいて欲しかったのです。
それが、私の心の中の大きな部分を占めていた束縛だったから。
そして、その束縛をはずしてくれたのは結花さんだったから。
もう一度、人を好きになる勇気をくれた人だから。
だからなんです。」
ゆっくりゆっくり諭すように言った。
本当は何で、結花にエリーのことを話したのかなんて、自分でも分からなかった。
でも、今、言葉にしてみてわかった。
結花に聞いて欲しかったのだと。
エリーとの約束より何より、自分の生きてきた中で、一番大きな出来事だったから。
それが甘えなのか、ただの我が侭なのか、よくわからない。
感情はロジックじゃない。
ただそう無意識に思っていたのだと思う。
エリーとの約束ももちろんあった。
でも何もあの場で告白する必要もなかった。
結花がいい気持ちにならないのはあたりまえだろう。
言い終えてからの沈黙の中で、そんなことを考えた。
なんと自分は不器用なんだろうか。
「だから、結花さんに話したのです。
でも、迷惑でしたね。」
「め、迷惑じゃないですっ!」
結花が今度は大きな声で言った。
恥ずかしくなったのか、今度は小声で言った。
「迷惑だなんて、思ってません。」
その後、どんな言葉が続くのだろう。
そう思った時、アンネが戻ってきた。
二人の会話もそれで一度、終わった。
『あらあら・・・また泣かせているの?
駄目よ、グスタフ君。
好きな子を泣かせるなんて、子供のすることよ。』
アンネは、またあきれて言った。
『すみません・・・。』
グスタフが素直に謝る。
『まぁ、いいけど。』
冷たい飲み物をグスタフに渡しながら、今度は結花に向かっていった。
「ヨカッタネ。」
日本語だった。
「は、はい。」
顔を赤くしながら、結花が返事をする。
泣いていたことが恥ずかしいのだろう。
『しかし、よかった。
アンネおばさんに彼女を見つけてもらっておいて。』
『偶然よ。
公園の近くを散歩していたら、見知らぬ東洋人が1人でいるじゃない。
心配になって。
家に連れてきたら、貴方の名前を言うのよ。
この間、貴方達が来た時にエーディトが日本の友達が来るって言っていたから、それでぴーんときたわ。
私の勘もまだまだ捨てたもんじゃないわね。』
アンネは何事でもないかのような口調であった。
『ありがとうございます。』
『でも、駄目よ。本当に。』
念を押すアンネ。
「わかってます。」
しばらく、グスタフが間に入って、アンネと結花とで3人で談笑していた。
気がつけば、日がかなり傾いて来ている。
時間ももう遅い。
「それじゃ、そろそろ・・・。」
『あら、そうね。
駄目ね、一人でいると話し相手が来た途端にはしゃいじゃって。』
「そんな・・・。」
そう言いかけたグスタフの言葉をさえぎってアンネが言う。
『いいえ。そうなのよ。
でも、グスタフ君。彼女を泣かせちゃだめよ。』
そして、アンネが行きましょうといって立ち上がる。
結花も慌てて立ち上がり、グスタフが最後に立ち上がった。
『それじゃ、おばさん。
今日は、本当にありがとうございました。』
『いいのよ、また近いうちに会いましょう。
私が日本に行くから。
その時までに、彼女のことをちゃんと捕まえておきなさいね。』
そうにっこりといった。
「マタネ。」
日本語で結花にもいう。
「は、はい。」
結花は彼女のことも苦手でないようだ。
だいぶ外国人に慣れてきたのだろうか。
「それでは。」
グスタフがそういって挨拶をし、二人は屋敷を去った。
やや暗くなってきた道を家路についた。