<紅茶の香り>
グスタフは楽器店を出て、自転車にまたがった。
まだ時間は早い。
先ほど買ったCDを家で早く聴いてみたい気持ちもあるが、家に帰るにはあまりにも天気がいい。
このままぶらぶらと自転車でいろいろなところを回るのもいいなと彼は思った。
最近街にあまり出歩いていないので、いい機会だ。
そう思いながら、自宅とはまったく違った方向へ自転車を向ける。
夏に近づいた空気を切って走るのは気持ちいい。
日本の夏はやや湿度が高くてうだるようだが、この時期はほどよくさわやかである。
街の雰囲気も夏に近づき、明るい。
ふと自転車を止めた。
止めようというつもりはなかったらしく、いかにも自然にという感じである。
それとなく止めたそこには、『TEA ROOM SEASONS』という喫茶店があった。
紅茶屋さんらしい。
店の前にいると中からかすかに紅茶のいい香りがする。
普段彼は紅茶を飲まない。
それは彼がドイツ系だからという理由もある。
家ではみながコーヒーを飲むので、それほど紅茶の出番は少ない。
たまに客が来た時にいれるくらいだ。
その時にはグスタフがお茶をいれる。
理由は特にないが、紅茶の入れ方を知っているのは家族の中で彼だけなのである。
彼の入れる紅茶はなかなかおいしいらしいが、いかんせん飲んだ事のある人は少ない。
おいしい紅茶を作るコツをどこで教わったのか。
それは誰もが思った疑問だったが、誰も口に出さなかった。
その話題は避けたいという彼からにじみ出るものがあったからだ。
「キッ」と音を立てて自転車を止める。
久しぶりに紅茶を飲みたいと思った。
こういう気持ちは久しぶりである。
「からんっからんっ♪」
心地よい音をドアが鳴らす。
なかなかいいお店だ。
落ち着いた雰囲気で、日本でこういうお店に出会うとは思ってもいなかった。
「いらっしゃいませ」
マスターらしき若い男が声をかけてきた。
落ち着いたいい響きの声の持ち主だ。
そのままマスターの手の動きに導かれるままにカウンターに座る。
「何にしますか?」
「アールグレイをお願いできますか?」
そういうとマスターはいい手際で、紅茶を沸かし始めた。
その手つきを見ているうちに、ふと昔を思い出し始める。
しばらくぼんやりとしていたが、マスターの声で我に返った。
「ここにどうぞ。」
新しいお客さんらしい。
何気なく見やると、ゆかだった。
「おや?」
「グ、グスタフ先輩!」
驚いた声を出す。
先に驚かれてしまったからか、逆に落ち着いてしまった。
ゆかの顔がまた少し赤くなる。
それには彼は気がつかなかった様子で、マスターの方を再び見ていた。
「お知り合いですか?」
マスターがグスタフにきく。
「学校の後輩ですよ。」
ゆかが隣の席でうなずく。
「なんにしますか?」
「あ、あの。あまり匂いのきつくないの有りますか?あんまり紅茶に詳しくないので…」
「わかりました。」
そんなやりとりがあった後、しばらく沈黙があった。
やがてグスタフの方が声をかけた。
「お一人なのですね?」
決して沈黙に負けたというわけではなさそうな感じである。
「は、はい。で、でも私、バスを間違えちゃて…あわてて、このバス停で降りたらここがあって…」
ゆかはどことなくしどろもどろである。
そんな彼女をみて自然と顔が微笑む。
それは彼の心にはまだわからないものであったが。
「そうですか。それは大変ですね。」
「そ、そんなこと!私、バスの路線図ってよくわからなくて・・・。」
「私もまだよくわかりません。日本のバスはわかりにくいですね。」
そういうと、また会話が止まった。
その時マスターがアールグレイを出してきた。
アールグレイのいい香りがする。
そのアールグレイを一口口に含む。
いい香りが口の中にも広がる。
「おいしいですね。」
にっこりとマスターに言う。
マスターはどういたしましてとばかりに微笑んだ。
そうしてまたゆかに話し掛ける。
「このお店ははじめてですよね?」
「え?は、はい。」
まだ少しどもっている。
「そうですか。私もさっき自転車で来た時にふと止まったのですよ。この店の前で。」
「そ、そうなんですか?」
ゆかが驚いたように言う。
幾分緊張している様子だ。
本当に彼女は外国人が苦手なんだなと思う。
「素晴らしい偶然ですよね。今日は。」
「そ、そうですね。」
どうも返事をするので精一杯らしい。
しかたのないことなのだろうと思うが、やはり少し寂しい。
また沈黙が支配する。
そうこうしているうちに、今度はゆかの紅茶が来た。
「あついから気をつけて。」
マスターがやさしく言う。
ふぅ〜っと息を吹きかけて、一口紅茶を口に入れる。
「わっ。お、おいしいです。」
ゆかの口から言葉がこぼれる。
マスターはまたにこやかに微笑んでいる。
いいマスターだなぁと思う。
「おいしいですよね。」
にっこりと微笑みながらゆかに言う。
ゆかはまた顔をまっかにさせた。
「そういえば、リードはどうしましたか?」
やっと話せるような話題になった。
それからしばらくリードの話題が続いた。
続いたといっても、グスタフがほとんど一方的に話していただけだが。
ふと時計を見やる。
もうさきほどから30分くらいは経ったろうか?
「ゆかさん、今度乗るバスの時間は大丈夫なのですか?」
えっ?とゆかがグスタフの顔を見て、時計を見る。
「あっ。もうこんな時間。私、行かないと。」
「そうですか。じゃぁ、マスター、ごちそうさま。」
「えっ?グスタフ先輩・・・」
「私もそろそろ行かなくてはならないのですよ。」
そういって勘定を済ませた。
ゆかの分もだ。
「この間のクッキーのお礼です。」
そういって、グスタフはお店を出ようとする。
その時、降り返って気がつかないうちに「また来ます」といっていた。
意外だった。
まさか自分の口から紅茶をまたのみに来ると言うとは。
「わ、私も!」
ゆかも言い、そしてグスタフの後を追うように出ていった。