<紅>

昨日、ゆかとはバス停で別れた。

どうもあの子の事は気になる。

それが彼の中ではまだ意識されていない。

いや、無意識のうちにそうしないようにしているといったほうが正しいかもしれない。

彼にとって彼女とはなんなのか?

可愛い後輩にすぎないと彼自身では思っている。

今は昼休みである。

彼は本を読みながらCDを聴いている。

イヤホンからは心地よい弦楽器のハーモニーが流れている。

もっとも本にも音にも意識はいってないようで、ぼんやりとしている。

チャイムが鳴った。

チャイムが鳴る。

その音を合図にするように、今日一日の授業が終わったという開放感が湧き出てくる。

授業は嫌いではないが、やはり退屈なものである。

日本型の授業がどうも頭になじまないらしい。

それでもテストでは上位の常連になっている。

彼の真面目な性格によるのだろう。

「さぁて、楽器を吹きますか。」

ん〜〜っと伸びをする。

ずっと座っていた体に心地よい。

机の中の物を整理してかばんの中に入れた。

かばんをそのまま持ち、教室を出て部室へと向かう。

放課後の雰囲気はどこの国でも一緒なのか、非常に楽しい雰囲気だ。

部活へと向かう生徒もいれば帰宅部の生徒もいる。

顔はみな明るく、楽しそうだ。

「こんにちは〜」

そういって部室の戸を開ける。

最初のころはドイツ語で挨拶をしていたのだが、他の生徒(特に日本人)に驚かれるので日本語にしている。

無理しているつもりはないが、それでも一呼吸必要だ。

部室はそれほど広くはないが、それはいくつもの楽器ケースと打楽器が場所を取っているためだろう。

かばんを適当な場所において、自分の楽器のケースを棚から下ろす。

自慢のアレキサンダー(注1)のホルンである。

そこで昨日ロータリーオイルを買った事を思い出して、かばんからオイルを取り出した。

楽器を取り出して、椅子に座る。

そのままロータリーの蓋を外してオイルを塗った。

楽器は彼のひざの上だ。

非常に不安定という他にないが、こうしなければ狭い部室では楽器の手入れは出来ない。

オイルを注した後、よく見ると紐(注2)が切れそうだった。

「あれ?まだ代えはありましたっけ?」

そう独り言を言いながら、自分の楽器ケースの中をあさってみる。

ちょうどよく、1本だけ代えがあった。

「あ。これなら昨日一緒に買うのでした。」

自分のうかつさに苦笑する。

今日また買いに行かなくてはなぁと考えながら、作業を開始した。

ロータリーの紐はなかなか細かい作業で集中しなくてはならない。

「・・・・先輩。」

と呼ばれた声に彼は気がつかなかった。

夢中になって紐を通している。

「グスタフ先輩!」

そこでようやく自分が呼ばれている事に気がついた。

「はい?」

と後ろを振り返る。

そこにはゆかが一人で立っていた。

「あ、ゆかさん。」

そういうとゆかの顔が下を向いた。

「こんにちは。」

まだ苦手に思われているのかなと思う。

でも、最初に比べれば彼女の方から声をかけてくるなんて考えられなかった事である。

亜都に隠れるように立っていた彼女からみれば。

「こ、こんにちは。き、昨日はありがとうございました。」

「いえいえ。無事に帰れましたか?」

昨日、バス停のところで別れたが、あの後ちゃんと帰れたのかどうか、少し心配だった。

何しろ来たバスに乗っただけという感じが昨日の彼女にはあったのだから。

だが無事に帰れたようで、ゆかは縦に首を振っている。

「それはよかった。」

そのままの事を心の中でも思っていた。

「あ、あのそれで…これっ!!」

間髪を入れず、彼女が何かを差し出した。

「昨日の…お、お礼です。」

そういって彼女は顔を上げた。

目線が合う。

思えば目線があったのはこれがはじめてではないだろうか?などと考えた。

そう思ううちにまた彼女は下を向いてしまった。

「ありがとう。昨日の今日なのに早いですね。」

昨日の事はよく覚えている。

手を伸ばして受け取った。

その時楽器がひざの上から落ちないように彼は注意していた。

「今回もクッキーですか?」

持ってみてきいてみる。

「あ、こ、これ。紅茶のシフォンケーキで、です。」

それをきいて何かを言おうと思ったのだがその前にゆかが言葉を入れた。

「お、お口に合わないかもしれませんがどうぞ!!」

そういうとゆかは深々と頭を下げくるりと方向転換をした。

「あ・・・・」

グスタフが声をかけるまもなくゆかは立ち去ってしまっていた。

呆然としているとまわりいた友達にからかわれた。

「おい、ディスカウ。あんまり年下の娘をいじめるんじゃないぞ。」

「はい?」

そういって彼の方を向くと楽しそうに笑っている同級生の顔があった。

日が暮れかかっている。

日が長くなったとはいえ、沈み始めるとはやい。

学校を出たころはまだ明るかった街に夜の帳が下りて来ている。

太陽の紅の光も弱くなって来ている。

楽器店に紐を買いに行くためいつもと違う道を自転車で通っている。

昨日も通った道だと思うと、自分のうかつさが思われる。

何故昨日のうちに気がついていなかったのかなと思う。

もっとも紐にまでチェックを入れないのが常なのだが。

近道になるので、公園を通り抜けようとし、自転車を降りた。

夕闇が迫る公園は、子供たちの姿はもうなく、「またね〜」という声があたりからちらほらきこえてくる。

さすがに寂しくなってきている。

誰かがさっきまで乗っていたのだろうか?

ブランコが「き〜、き〜・・・」

と寂しげな音を立てている。

こういう音も好きだなぁと思いながら自転車を引いて公園の中を通る。

しかし、よく見るとブランコには誰かが乗っているようだ。

視力は悪くないが、いかんせん暗い。

ブランコはちょうど木の陰になって暗くなっている。

目を凝らすと、それがどうやら見覚えのある人影に見えた。

「ゆかさん・・・かな?こんなところでなにを・・・?」

そう思いったが、夕闇迫る公園は危険だ。

近づいていく。

ゆかの方は彼に気がついた様子はない。

ぼーっとしているのか、考え事をしているのか。

その時、公園の電灯にかちかちっと灯が点った。

「やっぱり・・・。ゆかさん、どうしました?こんなところで。」

明りではっきりと見えるようになったので声をかけた。

「えっ?」

そういって顔を上げた。本当に無防備な顔だったが、グスタフの顔を認識したとたんに慌てたらしい。

「ええっ?あ、あの・・・」

状況がまだはっきりとわかっていないらしい。

「この時間に公園で一人でいるのは危ないですよ。考え事でもしていたのですか?」

「えっ?は、はい・・・。あ、もうこんなに暗い・・」

ゆかは、今ようやく周りの暗さに気がついたかのように言った。

「どうしたんんですか?」

「えっ?い、いえ・・・」

そういってごにょごにょと口篭もる。

そんなゆかの様子を見ていて、グスタフは言う。

「とにかく、そろそろ帰った方がいいのではないですか?もう時間も遅いですし。」

「は、はい。で、では・・・」

そういってゆかはブランコからふらふらと立ち上がりかばんを持った。

このまま帰したものかどうかと一瞬躊躇したが、やはり声をかけた。

「送りますよ。バス停まででいいですか?」

えっ?という顔でゆかがグスタフの顔を見る。

暗いが驚いていることはよく分かる。

一瞬の間があって、ゆかが言った。

「あ、いいです。す、すぐそこですから。」

「もう暗いですから、一人では危ないですよ。この近くのバス停も暗いのですから。」

グスタフは一呼吸をおいてさらに続ける。

「あんなおいしいものをごちそうしてもらったお礼です。」

指を立て、イタズラっぽく笑う。

彼には珍しい表情と言えた。

「い、いえ。そんな・・・」

ゆかが断りかけたのをさえぎって、グスタフが先に進み始めた。

「いきますよ。」

そう言うと、ゆかはぽてぽてとかばんを持ちながらついていった。

相変わらず顔は下を向いていたが。


以下注釈です。

注1:アレキサンダー

ホルンのメーカーです。非常にクオリティの高いホルンを作ります。

ホルンのメーカーとしては最高ランクです。

その代わり価格も高く、YAMAHAの標準的な楽器の2倍はします。

大体100〜200万くらいです。

さらにアレキサンダーの楽器は吹きこなすにはそれなりの力量が必要とされます。

技術がないとまともな音が出ませんが、高いレヴェルの奏者にはいい音で答えてくれます。

グスタフの持っている楽器はフルダブルの楽器で価格は200万くらいします。

グスタフの家ってお金持ちなんですね^^;

注2:紐

ホルンの心臓とも言えます。

前々回あたりでロータリーの解説をしましたが、ペダル(ボタン)とロータリーの部分を結ぶ大切な紐です。

この紐は明るい黄色ですが、ロータリーオイルや唾などでぬれてもろくなりやすいです。

ゆえに定期的な交換が必要で、それを怠ると、切れます。

切れると、ロータリーとペダル部分の結合がなくなって音を変える事が出来なくなります。

それ以上に切れる時の「がちっ」っていう音は恐怖ですが。

演奏中(コンクールや演奏会など)で切れると大変なので、代えとチェックは怠らないよう・・・。


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