<月光と陽の光>
歩いて帰ったので、グスタフが家についた時には夜がすっかり訪れていた。
日の光もその残照を残す事なく、電灯という人工的な明りが月よりも明るく街を照らしている。
それでも、電灯の届かない暗い夜空で月はこうこうと照っている。
街の光を月はどんな気持ちで眺めているのか・・。
ふとそんなことを考える。
久しぶりに空を眺めたからか、日本の明るい夜になじめないからか。
月の明るさがいつも以上に思われた。
彼女はいつも月が好きだった。
そして月光を浴びながら紅茶を飲むのが好きだった。
二人で飲んだあの時の紅茶の味、月光、風、木々のざわめき。
今でも、目を閉じれば当時の姿が脳裏にあざやかに浮かぶ。
彼女の姿はあれから変わる事なく、彼の思い出の中に生きているらしかった。
あまりに早熟だったのか。
そんなことはない。
あの時、私は幸せだったのだ。
そう思ったところで、月から目を離す。
「月を見ても思い出さなくなっていたのになぁ。」
自嘲気味な気持ちで思う。
なぜだろう?
そう思うまでもなく、答えはわかっていた。
だが、それを受け入れる気持ちが彼にはまだなかった。
「ただいま」
そういって、玄関のドアを開ける。
日本で暮らしている以上、家でもドイツ語は遣わないようにしようという家族の決まりがある。
彼も含めて家族全員がそれをよく守っている。
そうでもしなければ、日本語は上達しないと言ったのは彼の父だった。
「おかえりなさい。おそかったね〜。」
妹のエーディトが出迎える。
妹の方が、日本語は上手だ。
敬語も普通の日本語も上手に操る。
語学では才能もさる事ながら、若い方がやはりのみこみがいいのだろう。
父や母に比べれば、グスタフの日本語の方がかなり上手い。
「ああ、歩いてきましたからね。」
それを聞いてエーディトは驚く。
「学校から〜?なんで?」
「ちょっと考え事をしたかったもので。」
ふ〜んと、エーディトは納得したように鼻を鳴らしたふが、表情は明らかに不満そうだった。
「あれ?エーディトが出迎えたと言う事は、母さんはまた仕事ですか?」
靴を脱ぎながらグスタフが聞く。
「うん。また泊りだって。大事な商談があるらしいよ。」
「そうですか。ということは、今夜の夕食はエーディトが作ったんですね?」
それを聞いて、にこにこした顔でエーディトはうなずいた。
「今日のも、ちょーっと自信があるんだぁ。」
そういって、彼女は台所の方に歩いていった。
長いブロンドの髪がそれによって揺れた。
彼はその後ろ姿に見入っていたが、我に戻り靴をそろえて自分の部屋に上がっていった。
夕食を取り、自分の部屋に戻る。
窮屈そうに、制服を脱ぐ。
エーディトのドイツ料理も母のしごきもあってか、だいぶ上達している。
今日のはおいしかった。
そう考えながら着替えをしていると、ふと倒された写真立てに目が止った。
その写真立ては日本にきてからずっと倒されたままだ。
近づいて写真立てを立てようとしたが、かぶりを振ってそれを止め、着替えを続けた。
「どうもいけませんねぇ、今日は。」
何故こんなに彼女の事を思い出すのか。
今日、何度も繰り返した質問が心の中に湧き出ようとしたが、彼はそれを閉ざした。
こういう時はピアノでも弾こう。
そう思い、ピアノのある地下室へと向かった。
それは夜も練習出来るようにと、彼のために作られた楽器のための部屋だ。
今はホルンを学校においてあるから、専らピアノの練習場となっている。
別に師について練習しているわけではないが、それでも彼のピアノはドイツでもトップクラスだ。
音楽の才能というものだろう。
かといって、彼の家族に他に音楽家がいるわけではないのだから、才能とはわからない。
ドアを開き、地下室の電気をつける。
ぱちぱちっと音を立てて蛍光燈がつく。
地下室の割には換気の状態もいい。楽器のための部屋だから当然と言えばそれまでなのだが。
ピアノの蓋を開ける。
ぽーっんとCの音を叩く。
よく調律された音だ。
ぎっと椅子を引き、座る。
そしてふーっと息を大きく吐き、精神を集中させる。
それから指が魔法のように、素晴らしい音楽を奏で始めた。
ベートーヴェンのピアノソナタ第14番 嬰ハ単調「月光」。
その美しい旋律が天窓からかすかに月の光が差し込んでいた。
以来、彼はまた元の生活に戻っている。
彼女の事も思い出さなくなった。
しかし、彼は気がつくと結花の姿を目で追っている自分に気がついていた。
その日、彼は昼休みの後の授業で移動している最中だった。
廊下を歩いていると、結花が廊下を走っている。
足が自然に止り、結花の姿を見つめる。
ただ想いも何もこめずにぼんやりと見ている様子だったが、結花が足を止めたのをみてはたと我に返った。
結花が振り向いて、目が合った。
さすがに驚いた。
ちょっとの間があって、彼女が走り寄ってくる。
「こんにちは、グスタフ先輩。」
そういってぺこんっと彼女は頭を下げた。
もう吃らなくなったんですねぇと思いながら自分も挨拶を返した。
「こんにちは。これから体育の授業ですか?」
思わず笑みがこぼれる。
「あ、はい。先輩は移動教室ですか?」
結花はあれ以来、自分の方からも質問をしてくるようになった。
それが嬉しい。
「ええ、そうですよ。」
「そうなんですか。」
会話がそこで止ってしまった。
こまったな・・・と思い、何か話し掛けようかとした時、予鈴がなった。
「それじゃぁ、先輩失礼します。」
その音を聞いて結花が慌てて言う。
彼女はそのままグスタフの言葉を待たずに走り去っていった。
午後の陽の光を浴びた彼女の後ろ姿は可愛かった。
そう思う自分に気がつき、やはりと思った。
「もう否定は出来ないかもしれないですね。」
誰に言うとでもなく、つぶやいて音楽室に向かうために自分も歩き始めた。
けだるく暖かい陽の光を浴びながら。