<結花の部屋、エリーの面影>

その日、そのまま結花の家に行く事になった。

自分でもいささか急だったと思うが、思うより先に口が動いていた。

まず自宅に電話して、エーディトに遅くなると伝えた。

今日は母親が早く帰ってこれたのでよかったが、今後の事を考えると悩ましかった。

妹を遅い時間まで、一人にしておく事はできないのである。

ともあれ、今日は大丈夫なので、今後の事は今晩にでも考えようと思った。

いつのまにか日が長くなっている。

この間までは真っ暗だった時間でも、明るさが残っている。

ふと、結花が公園に1人でいた時の事を思い出した。

「ただいまぁ」

と結花が玄関のドアを開けながら言った。

「お帰りぃ〜お姉ちゃん〜!」

その声に元気よく反応して、小さな男の子が飛び出してきた。

まだ幼稚園であろうか。

「ただいま、正基。あ、先輩どうぞ。」

結花がやさしい声で正基に言う。

お姉さんなんだなとごく当たり前のことを思う。

「失礼します。」

日本語ではこういうのだったはずと自信がなかったが、結花が何も驚かなかったのでこれでよかたのだろう。

それとも結花が緊張しているだけなのか。

「おきゃくさん?・・・!ま、ままぁ!たいへんだよう!」

異常なまでの正基の反応にグスタフは何事かと思う。

とはいえ、落ち着いて考えれば中学生の女の子が、外国人の男性を家に連れてきた事は異常な事だろう。

「どうしたのですか?」

そう思ったとはいえ、やはり正基の反応は異常だ。

素直に疑問が口から出てしまった。

「え…と、あの…」

結花が口篭もる。

なにかあるのだろうとは思うが、これ以上質問を重ねると混乱してしまうだろうと考えて止めた。

「どうしたの?正基。あら、結花。お帰りな…!」

正基が結花の母親らしき人をひっぱって来た。

この母親も驚きのあまり言葉を失っている。

なにかあるのだろうか?

「あ、お母さん。部活の先輩で今度英語を教えてもらう事になった、グスタフ先輩。先輩、母と弟です。」

結花が母の顔をみて落ち着きを取り戻し、お互いを紹介した。

こう言われてしまうと、挨拶するほかない。

「始めまして。」

「始めまして、ごめんなさいね。結花のためにわざわざ。」

母親はすぐに状況を察したのか、慌ててはいたものの冷静な挨拶を返してきた。

「あ、先輩。私の部屋でいいですか?」

結花が母の慌てぶりを感じて、逃げるように言う。

無論、グスタフに異存はない。

「ええ。」

結花がグスタフを自分の部屋に案内する。

結花の部屋はその年相応の可愛らしく、奇麗な部屋だった。

「な、何か。飲み物持ってきます。」

結花がふたりきりの空間に耐えれないのか、そう言った。

「気を使わなくてもいいですよ。」

そういったが、結花はそのまま部屋を出ていった。

バタンッとドアが閉まって、結花の部屋にはグスタフが1人残った。

そういえば、女の子の部屋に入るのはどれくらい久しぶりだろうか。

妹のエーディトの部屋には最近はいっていない。

結花に出て行かれては何もすることがないので、部屋をぼんやりと見回した。

やはり女の子の部屋だなと思う。

ふと、写真の入っていない写真たてが目にとまった。

それは譜面台の形をした写真立てで、どこにでも売っていそうな物である。

しかし、彼はどこかで見たことがあると思う。

それがどこだったのかははっきりしない。

そう思っていると、結花が戻ってきた。

「ど、どうぞ。」

おぼんをおいて結花が飲み物を差し出してきた。

こういうのもいいですね、と不謹慎なことを思う。

「すみません。」

そういって受け取る。

一口口をつけると本題に入る。

これ以上変な事を考えたくなかった。

「さて、結花さんは英語はどこが苦手なのですか?」

「…全部です。」

結花がそれに答えて小声で言った。

「え?」

はっきりとは聞こえなかったため思わずといった感じで聞き返した。

「英語は全部苦手なんです!」

今度は声が大きかった。

結花を言う事を言うと恥ずかしいのか、顔を真っ赤にさせて下を向いてしまった。

「全部って…」

さすがにあっけにとられてしまった。

その様子を見て、決意したかの様に結花が立ち上がり机の引き出しからファイルを取り出した。

無言でグスタフにそのファイルを差し出す。

一連の無言の動作には決死というか、そういう気持ちが感じられた。

やや圧倒されながら、そのファイルを開いてみた。

どの答案も丸よりもぺけのほうが多い。

点数も惨澹たるものだ。

「…確かに、どこが苦手だかわからなくなってしまいますね。」

ふぅと一息ついた後、グスタフが言った。

自分でもどこから手をつけていいのかわからなくなっているのだろうと思う。

まさに自分が日本語を勉強し始めた時の状況と同じだ。

見ると結花が必死に恥ずかしいのを我慢している。

その様子に手が自然と結花の頭をなでていた。エーディトによくそうしていたように。

「ですが、ちゃんと答案はすべて埋めてますし、ケアレスミスなどもありますから、きちんと整理しながら復習すれば大丈夫ですよ。」

ありきたりだが、そう言う他になかった。

「ほ、本当ですか?」

「ええ。私が信用できませんか?」

疑われた事に少し残念な気持ちがある。

「そ、そんなっ!信用できないなんて。」

結花が慌てて否定する。

もちろん、信頼されていなかったら家庭教師の話を承諾しなかったろう。

「では、テストで躓いているところを重点的にやっていきましょう。」

「は、はい。お願いします!」

そういって初めての授業が始まった。

 

「今日はこの辺にしておきましょう。」

グスタフが言った。

時計を見るとすでに1時間半くらい時間が経っていた。

「あ、はい。」

結花が疲れた〜と机に鉛筆を置く。

「そうですね・・・。決してわかっていないわけではないですから、大丈夫ですよ。」

「そ、そうですか?」

信じられないといわんばかりの顔だ。

そんな顔も可愛いと思う。

「ええ。苦手意識が先走って、自分は英語ができないんだと思い込んでいるだけです。

他の教科は出来ているんですから、大丈夫ですよ。」

そういってもまだ信じられないような顔をしている。

無理もない。

まだ苦手意識の方が自分の言葉に対する信頼よりは強いだろう。

ましてや、まだグスタフは彼女の中でそれほど大きい存在ではないだろう。

そう彼は思い、ふと寂しく思った。

「あ、それではそろそろ帰りますね。」

結花がそれを聞いて、立ち上がる。

「それと・・・。これから毎週日曜の午後にやりましょう。

平日だと遅くなってしまいますからね。妹も心配ですし。」

何気なく言う。

「え?先輩に妹がいるのですか?」

結花が驚いた。

「あ?ええ。いますよ。エーディトというのですが、今中学2年です。」

そんな話をしながら、二人が部屋を出た。

母親は気配を感じたのか、二人が玄関に行くと出てきた。

「すみませんね、うちの娘が・・・。」

玄関に座りながら後ろをふりかえる。

「あ、いえいえ。」

そういって立ち上がる。

「それでは、結花さん、また学校で。」

グスタフはそういうと結花が、

「あ、送っていきます。」

と言った。

「いえ、いいですよ。バス停ならわかりますし。

それに結花さんがバス停から帰る時はどうするのですか?

暗い夜道を1人で歩かせるわけにはいきません。」

そういってにこやかに微笑み、「Guten Nacht!」と言って玄関を出た。

後ろで、結花が挨拶をするのが聞こえたが、何を言っているのかわからなかった。

バス停まで来た時、ふとさっきの写真立ての事を思い出した。

どこかで見た。

それは確かなのだ。

うーんっと考えこむ。

とはいえ、すぐに答えは出ない。

バスが暗い道の向こうからやってくる。

そのバスの上には、白い三日月が輝いている。

その瞬間、あの時の場面が思い浮かんだ。

あの部屋。

そうだ、あの部屋にあった写真立てだ。

あの部屋の窓辺にあった写真立てで、そこにはあの時はまだ写真が入っていなかった。

窓の向こうには初夏の庭が広がり、美しい緑色が見えていた。

カーテンは風になびき、すずしげな印象を与えている。

その部屋のベッドの脇に小さなテーブルと2脚の白い椅子がある。

そう、二人はそこで紅茶を飲んでいた。

あの時が始めてだった。

二人だけで会ったのは。

その時に写真立てを見つけた。

『いつか恋人の写真をいれるためのものよ。』

私がたずねた時、彼女は楽しそうに言っていたっけと思う。

そこに写真がちゃんと入ったのかは彼は知らない。

それ以来、その写真立てを見なくなったからだ。

たぶん、誰かの写真を入れたのだと思う。

だから私に見えるところにおかなかったのだろう。

それが自分の写真である事は、想像できたが直接みたわけではない。

バスが彼の前で止った。

ガーーッと音がしてドアが開く。

無言で乗り込む。

バスは時間が遅くてがらんとしていた。

一番後ろの席に座る。

座るとともに、バスが発進する。

バスの暗い電灯が、度々振動で揺れる。

窓の外で月は相変わらず白く輝いている。

あの日、グスタフは始めて彼女の紅茶を飲みに行った。

『コーヒーよりも紅茶の方がおいしいのよ。』

勝ち気な彼女が前々から言っていた事に反発を覚えていたのもある。

彼はそれまで紅茶というものを飲んだ事がなかった。

その日、彼女の誘いにのったのは、紅茶を飲んでみたいという気持ちと彼女の言葉に反発してだ。

彼女の入れた紅茶は本当においしかった。

『どう?』

勝ち気な顔をグスタフの前に持って来て彼女は自信満々に言ったものだ。

その顔が非常に美しかった。

鮮明に思い出せる。

『おいしい。』

素直に言葉が出た。

彼女に屈するようだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

『そうでしょう〜。』

満足そうに微笑んだその顔も思い出せる。

あの時から、私はすでに彼女を想っていたのですね、と思う。

それは今だからわかることだ。

バスが止る。

いつのまにか、自宅付近のバス停に来ていた。

慌ててバスを降りる。

この近辺は高級住宅街ということもあってまだ宵の口というのに静かな雰囲気があった。

歩いていくその頭上には三日月が白い光を放っている。

あの時がきっかけになって、私は彼女と会うようになった。

彼女はよく私に紅茶を飲みに来るように誘ってくれた。

私は彼女がただ一緒に紅茶を飲んでくれる友達が欲しかっただけだと思っていた。

そしてあの時、自分を欺いていた。

だから時間が足りなくなった。

あの時、もっと早く想いに気がついていたら。

でも、それはあまりに過酷な要求かもしれない。

それにいくら時間があっても足りなかったかもしれない。

「だから、今度は。」

そう思う。

いつのまにか、彼は自分が結花にひかれている事を認めた。

三日月の魔力かもしれない。

そしてその魔力はエリーのものかもしれない。

門をあけながらふとそんなことを思う。

三日月は彼の頭上で白く輝いている。


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