<夏休み前夜>

もう一ヶ月になる。

結花の部屋で、グスタフが家庭教師を始めてからだ。

別段何事もなくすぎている。

毎週、英語の宿題の手伝いや、文法を基礎からやりなおすことなどをしているのだが、結花は決して英語が

出来ないわけではなく、やっていないのだという実感が教え始めてから出てきた。

物分かりは悪くないのだから、その通りだろう。

その日も、グスタフは結花の部屋に上がりこんでいる。

鬱陶しい梅雨の季節も終わりに近づき、夏休みが近くなった。

外は日光が容赦なく照らしている。

肌の弱いグスタフには日本の夏は厳しい。

部屋の中も暑い。

扇風機がぶーんと音を鳴らして、首を回している。

ドアが開いているとはいえ、風は入って来ず、部屋の中は暑い。

結花は今一生懸命英語の問題集をやっている。

この一ヶ月でだいぶ英語の点数も上がってきた。

それでもまだ平均点を少し下回るくらいだが、最初の点数から見ればかなりの進歩だろう。

特にグスタフの英語の発音のおかげか、ヒアリングの方がかなり点数が伸びている。

そんな生徒に満足しない教師はいない。

結花を可愛いと思う気持ちも当然あるが、教えがいがあるのもあって熱心に教えている。

結花の姿を見ながら、グスタフはぼんやりとしていたが、何かが足りないことに気がついた。

写真立てがない。

別になくてもかまわないののだが、気になった。

なぜだろう。

それほど気にする事ではないのに、気になる。

「結花さん?」

「は、はい。」

結花が答える。

いまだに返事をする時、時々どもる。

「机の上の写真立て…今日はないのですね?」

気がついたら聞いていた。

結花の顔がみるみる間に赤くなる。

「あ、あれですか。あれはちょっと…」

最後の方は声が消え入ってしまった。

こんな反応では、結花の気持ちは一目瞭然である。

だが、そんな結花の気持ちがわかっていても、彼には自分から切り出すだけの気持ちがなかった。

はっきりと本人の口から聞いたわけではないから、うぬぼれかもしれないと思っている面もある。

だからいまだに二人の関係は先輩・後輩か、教師・生徒である。

「そうですか…」

ふと、彼女の事を思い出す。

あの時、彼女はどう答えたか。

それは結花のそれとはまた違っていた。

彼女と結花は違っているのだからそれは当然だ。

時々、自分は結花と彼女を重ねているだけではないかと思う事もある。

しかし、そうではない。

それは彼自身わかっている。

結花と彼女の共通点。

それが、二人を結びつけて彼女の面影が出てくるのだ。

決して彼女の代わりではないのだ。

グスタフが物思いにふけったため、沈黙が部屋の中を支配する。

結花は、ずっと顔を見せていない。

恥ずかしいのだろうか。

「さて、今度はここをやりましょうか。」

はっと我に返って、グスタフが言う。

プリントを取り出して、その中の問題を指差す。

自作のプリントだ。

これを作っているところを、エーディトに見つかってからかわれたこともある。

「あ、はい。」

結花も元に戻って返事をした。

またかりかりといい音をさせながら、結花が問題を解く。

最初は一問一問グスタフに涙目でわからないと訴えていたのが嘘のようだ。

「よく頑張ってますね。」

心の中で嬉しく思う。

それからしばらくして、部活も忙しくなり始めた。

コンクールがもう間近に迫っている。

合同祭が近いのもあり、夏休みといっても忙しい。

とはいえ、夏休みの間グスタフはオーストリアに帰るのだから、コンクールも合同祭も不参加ということになっている。

合同祭の方はまったくの不参加ということにはなっておらず、櫓班として労働することになっている。

帰ってきたら、肉体労働の日々である。

部活の方は中等部の指導を行なっている。

顧問の先生が、合同祭もあって忙しく中等部まで手が回らないらしい。

顧問に泣き付かれたのは7月に入ってからで、それから中等部の合奏やパート分奏を指導している。

その中にはもちろん結花もいるわけだが、あの日以来、かなり頑張っているのかこちらも上達してきている。

ぽんぽんと指揮棒で、譜面台を叩いて演奏を止める。

部員がいっせいに楽器をおろす。

「そこのアインザッツ(注1)がそろってないですね。

もう一度T(注2)の4小節目からトッゥティ(注3)で。」

そういって、指揮棒をあげる。

グスタフの右手が振り下ろされると同時に音楽が始まる。

どうもやや雑だ。

また演奏を止める。

「うーん・・・。

調子が悪いみたいですね。

今日はここまでにして、明日は4時半からまた合奏をしましょう。

この後、各パートで今日やったところをさらっておいてください。

4時半から開始するので、各自ウォームアップはしておくこと。

あと、クラ(注:クラリネットのこと)のパートリーダーはちょっと来てください。」

そういって、合奏は終わったといわんばかりに立ち上がる。

「きりーつ。」

部長が声を出す。部員が立ち上がる。

「れーい。」

部長の合図でみんなが礼をした。

「ありがとうございました〜。」

声をそろえていう。

「はい、ありがとうございました。

あ、クールダウンと楽器の手入れはきちんとしておいてくださいね。」

グスタフはそういうと、また椅子に座る。

がやがやと部員が音楽室を出て行く。

「はーい、トロンボーンは2−3で。」

「ラッパは2−2な。」

そんなパートリーダーの声に混じって結花の声も聞こえる。

「クラは2−1で。」

他のクラの人の「はーい」という声があって、結花がぽてぽてとやってきた。

「なんでしょう?先輩。」

「あ、古河さん。」

グスタフは学校では結花の事を「結花さん」と呼ばなくなった。

最初は名字を知らなかったからそう呼んでいたのだが、名字を知ってからは名字で呼んでいる。

二人だけの時は「結花さん」と呼ぶのだが。

「ええとですね、ちょっと話しがあるので今日の帰りに時間貰えますか?」

グスタフがいつになく小声でいう。

なんとなくデートに誘うようで気恥ずかしかったのかもしれない。

「は、はい。」

結花はどう思ったのか、また顔を赤くしている。

実際他の生徒が聞いたら、どう思うだろうか。

もっともこの状況だけで、二人の関係は誤解されても文句はいえない。

「よかった。

それじゃ、昇降口でまってますから部活が終わったら来てください。」

にっこりと微笑んで、結花に言う。

結花はまた顔を真っ赤にさせている。

「それでは、分奏頑張ってくださいね。」

「は、はい!」

結花が返事をしたのを聞いて、グスタフは自分も楽器を吹くために部室に向かった。

結花は例のごとく遅れてきた。

やはりというべきか。

「す、すみません!先輩。」

結花がぽてぽてと走ってくる。

「いえいえ、いいんですよ。」

結花は一生懸命に走ってきた様子で、まだ肩で息をしている。

「ちょっと考え事をしてたら、遅くなって。」

確かに時間は遅い。

もう他の部員はみんな帰っている。

今昇降口にいるのは二人だけだ。

「それでは、行きましょうか。」

そういってグスタフは柚乃が靴を履き返るのをまって、外にでた。

外はまだ明るい。

夏至をすぎてもう日は短くなりつつあるはずなのに、夏のころは夏至よりも日が長く感じられるのはなぜだ

ろう。

まだ夕日というには光りが白く、しかし昼間といえばもう弱い感じの太陽だ。

道路もまだ明るく、これから夕飯の買い物に出かけるらしい主婦の姿もある。

一日のうちで、一番幸せの感じられる一時はこれから夕方が終わるまでであろう。

二人の歩く姿の影もやや長い。

「あの、それでお話ってなんですか?」

学校を出てから雑談などをしていたが、よほど気になったのか結花が聞いてきた。

「そうですね・・・ちょっと長い話になりますから、『TEA ROOM SEASONS』にでも行きませんか?」

そうグスタフが誘う。

「は、はい!」

結花はグスタフの言葉を聞いて、顔を赤くしたが元気よく答えた。

そんな結花の姿を見て可愛いと思うのは、やはり恋心だろうか。

結花は顔を真っ赤にして下を向きながら歩いている。

『TEA ROOM SEASONS』に着くまで結局、結花は下を向いたままで、話もしなかった。

グスタフが沈黙を嫌うことわけではないことが原因でもあるのだが。

からんっ♪

そう音を鳴らして『TEA ROOM SEASONS』のドアを開ける。

相変わらず紅茶のいい香りが店内に満ちている。

グスタフは結花とカウンターの席に座った。

「ニルギリをお願いします。」

「あっと、私も。」

結花も慌てて言う。

しばらくの沈黙がある。

グスタフはマスターの紅茶を入れる手さばきをしばらく見ていたが、隣で結花が何か焦れているのに気がついた。

「あ、今日の話なんですがね。夏休みのことなんですよ。」

グスタフはそう切り出した。

「夏休みですか?」

怪訝な顔をして結花が聞き返す。

「ええ。私、オーストリアに帰るので夏休みの家庭教師をどうしよかと思いまして。」

「えっ?!」

そういって結花が驚いた。

「ええっ?!先輩、帰るんですか?」

結花の思った以上の反応にグスタフも驚いた。

「はい。そうです。それで・・・。」

「あ、私の方はかまいませんよっ。」

そう結花が一生懸命に言う。

そんなに一生懸命にかまわないって言わなくてもいいのにとふと思う。

「あ、いや。でも、少し宿題を出していこうかなと思いまして、それを話そうかなと。」

また怪訝そうな顔をする。

「結花さんの夏休みの予定とか、そういうのがわかった方が私も出しやすいんですが・・・。」

ちょっと困った顔でグスタフが言う。

他の意味に取られてしまうような気がしてならない。

「えっ?い、いえ。特に・・・。」

そう結花が言う。

「そうですか?それじゃぁ、これからの・・・。」

気がつけば、外はもう暗かった。

夏とは言え、やはりもう時間はかなり遅い。

セミの声ももう聞こえなくなり、電灯に虫が集まっている家もある。

「そういえば、結花さん。亜都さんからの話は聞きました?」

ふと思い出した。

「えっ?」

結花が驚いた。

いったいなんだろうわんばかりの顔である。

電灯に照らされた顔が驚きの表情でいっぱいだ。

「あれ?聞いてませんか? 亜都さん、

私が夏休みにオーストリアに帰るって言ったら、遊びに行くと・・。」

さらに結花が驚く。

「で、結花さんも一緒に行くから、泊めてくださいと。」

続けてグスタフが言う。

「まぁ、あちらの家も大きいので問題はないし、亜都さんの両親からのお願いもあったりしたので・・・。

てっきり結花さんも知っていると思ったのですが・・・。」

当惑気味にグスタフが言う。

結花は驚きのあまり固まっている。

「あ、あの?」

そういってみるが、結花から返事はない。

これは困ったなぁと思う。

それ以上の事は考えれなかった。

夏の夜空にはこうこうと月が照っている。

 

以下注釈です

注1:アインザッツ

ドイツ語。Einsatzというスペル。

「入り、歌い出し」という意味がある。

「縦の線」と表現されることも。

注2:T

練習番号のT。

オーケストラや吹奏楽の曲の楽譜には練習番号や練習記号がついている。

Aから順番についているもの、1などの数字が使われるものなどがある。

練習番号とは、曲の切れ目等についているもので、練習の時にわかりやすいようにつけるためのもの。

作曲者自身がつけるわけではない。

注3:トゥッティ

イタリア語の「Tutta(全体で)」からか?

「みんなで」くらいの意味。


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