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  黒いコートのオンナノコ Part.1 転校生        


 Part.1 転校生

    1

「……黒いコートの怪人?」
 誠はオウム返しに聞き返していた。

 夏休みが始まって間もない火曜日。家に居ても勉強がはかどらないような気がしたので、誠は電車で数駅ほど乗ったところにある市立図書館の自習室まで勉強しに来ていた。普段は中学校の図書館で勉強することが多かったのだが、たまには電車で遠出すると気分転換にもなる。……というのは建前で、実のところは駅前の商店街で息抜きと自称してちょっとだけうろうろして帰るのも目的の一つだった。もっとも中学生の小遣いでは、せいぜいゲーセンで1ゲームするか本屋でマンガやその他の本を立ち読みして帰るかという程度だったが。
 本屋の「オトナ向けの」雑誌コーナーらしき棚にはよく誠と同年代の中高生らしき男の子たちが立ち読みをしていたが、微妙にそこに混ざるのも気恥ずかしく、時々横目で見ながら結局は普通の少年マンガの雑誌を見て帰るのが誠の典型的なパターンだった。……まあ、時々は見てみることもあるが。人が多い方が埋没できて目立たないに決まっているのに、何故かそこに混ざるのは恥ずかしくて、付近に人が少ないときにこっそりと見る程度。
 そしてまあ、人の少ない今日は、彼は周りの目を微妙に気にしながら“読書”に耽っていた。中学3年にもなると色々とそういうことに興味を持つのも当然当然……とか考えながら、やっぱり今はまだどきどきしながら見ているのが精一杯。
 横にはここ数回の図書館通いで知り合った友人、貝藤信宏が同じように立ち読みしている。手に取りやすい“お勧めの本”だとか、そもそも立ち読みしやすい本屋がどこだとか……まあ、要するに“読書”に関しての色々を誠に吹き込んでくれた張本人。
 何事にも先達はあらまほしきことかな。
 この前の古文の授業で出て来たそんな言葉を思い出す。
 暫しの読書を終えて、電車の駅に向かう。外はすっかり夕暮れ……を超えて、そろそろ夜のとばりが降りようとしている。
 その時、貝藤が何気なく話しかけてきた。
「そう言えば、噂なんだけどさ。……この夕方から夜に変わろうとしている時間帯に、黒いコートの怪人が出るんだってさ」
 一瞬きょとんとして、それから思わず笑う誠。
「イマドキ怪人なんて流行らないぞ」
「いや、それがマジらしいんだよ」
 わざとらしく真剣な顔を作って言う信宏。
「と言ってもただの怪人じゃないんだぜ。……なんか、女の子なんだってさ」
「女の子?」
 足を一瞬止めて、信宏を見る。
「ああ。……黒いコート一枚を素肌に羽織った女の子」
「……裸コート?」
 思わず声を潜めて小声で言う。
「まるで痴漢じゃん」
「……て言うか、どちらかと言えば痴女?」
 信宏は同じように小声で答えてから、再び歩き始める。
「まあうわさ話ってヤツだけどな。……妄想にはぴったりだろ」
「何がモーソーだよ」
 思わず目を伏せながら歩く誠。
「いーんじゃないか? たまにはこういう馬鹿な都市伝説があっても」
 何となく楽しそうに言う信宏。
 大通りを外れて小さな路地に入る。これも信宏が教えてくれた、駅に向かうための近道。通りの方からちゃんと回っても大差はないのだが、僅かでも近い道……そしてほとんど使う人のないヒミツの道という思いが、ほんの少しだけ誠の気持ちをくすぐる。
 ……その時だった。
「あ」
 信宏が間抜けな声を上げる。
 路地から駆けてきた女の子。黒い革の、ややロングのコートを着ている。そして半分前が開きかけたそのコートの奥に見えるのは、つやつやした肌色……つまりは素肌。足元はスニーカーこそ履いているものの、あとは靴下も何も履いていない。ナマアシ、とでも言うんだろうか。
 やや前屈み気味で駆け寄ってきた彼女は、誠たちに驚いて立ち止まった。
 顔を上げた瞬間、誠と目が合う。
 数瞬の間を置いたのち、彼女はくるんと体を返すと、そのままどこかに走り去っていった。
 追い掛けよう、と思うことすら忘れて立ちすくむ2人。
「ほ、ホントにいるんだな……」
 そう信宏がつぶやく。
 誠はそれでもまだ、呆然としていた。
「おい、誠、大丈夫か?」
「あ、ああ。あっけに取られてて……」
 そう言って、一度大きく首を振る。
「ラッキーだったな。眼福ってやつか?」
 オヤジくさいことを言っている信宏の横で、誠はまだぼんやりとしていた。
 信宏に聞こえないように、小さく呟く。
「……寒川さん? 何故……」

    2

 寒川なつきというのは、とにかく変わった女の子だと誠は思っていた。
 大体、転校して来たときの挨拶からしてそうだった。普通なら、「今度転校して来た寒川なつきです、皆さん仲良くして下さいね」とか、そういうのが定番だろう。
 6月の半ば、梅雨の真っ最中のじとじとした日だったと思う。季節外れに転校して来た彼女の場合は、こうだった。
「寒川なつきです。……私は1人でいるのが好きなので、あまり声を掛けないで下さい」
 当然ながらその時、教室の空気は一瞬凍り付いた。
「……ま、まあ、仲良くしたってよー」
 うちの担任だったやや若ハゲ気味の日本史の先生が、それでも教師の貫禄か真っ先に取り繕った。動揺したのか、時々出る出身地の関西弁が一瞬出ていたが……。
「席は……大田、横空いてるな」
 急に名前を呼ばれて、彼は多少上擦った声で答えた。
「あ、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあ寒川さん、あそこに座って」
 無言のまま、彼女はすたすたと歩くと、誠の隣に座った。
「こんちは」
 軽く声を掛ける。来ないと思っていた返事は、ちゃんと返ってきた。
「はじめまして……」
 さっきの強い調子とは無関係な、か細い声だった。
「教科書、ある?」
 誠が聞くと、小さく首を横に振る。
「じゃ、授業中に時々渡すよ」
「大田さん、でしたっけ。よろしいんですか?」
「どーせあんまり見てないし。はい、1時間目の国語の教科書」
 そう言って渡してから、今更のように教科書が落書きまみれなのに気付いて少し慌てる。今日帰ってから消しておこう……あれ。ボールペンで書いた落書きもあったか。やべっ。

 変わった女の子だった。
 授業中もいまいち気の入らない様子で、ぼんやりと黒板を見たり窓の外を見たりノートに目を落としたりしている。そのくせ、ふと覗き込むとノートは取っているし、先生から当てられると普通に――特に秀才と言うほどでもないが――答えている。
 そして休み時間になると、誰とも話すことなく、1人ぼんやりと席に座っている。ノートを見たり本を読んだりしているわけでもなければ、眠そうにしているわけでもない。ただ単純に、ぼんやりしている。昼休みになるといつも教室を出ていく。
 弁当を忘れた日、誠が人混みをかき分けてパンを買った後にふと見ると、その人混みに入りにくそうにして彼女が立っていた。何となく気になって見ていると、彼女は人が少なくなったころに、そっと近付いて売れ残りのコッペパンを買っていた。
 そして授業が終わると、彼女はすぐに教室を出ていく。何か用事があっても、声を掛けようとした頃にはもう教室にはいない、そんな感じだった。

 クラスの中で嫌われてるとか、そう言うわけではない。実際、掃除当番にしても日番にしても普通にこなしていたし、周りも特に疎んじる様子はなかった。
 でも、友達らしい人間はできる様子がなかった。転校生が新しいクラスに溶け込むまではしばらくかかるとはいえ……やはり最初の一言が効いているのだろうか。遠巻きに見守る、そんな空気がクラスの中で定着していた。
 ……変わった女の子だと思っていた。
 でも、その彼女の影に危うさを感じて……何となく気になる女の子だった。

    3

 信宏が頬を紅潮させてべらべらとしゃべるのを、誠は上の空で聞いていた。
 一瞬だから、絶対寒川さんだったかと言えば分からない。いや、むしろそんな訳はないと考えたいところだろう。しかし、あの時の数瞬の間、そして誠を見たときの表情の変化……あれは、単に赤の他人に顔を見られたという程度のものではなかった。知り合いと会ってしまった……あれは、そういう目だったと思う。
 訳が分からない。そうとしか言いようがない。……もちろん、人間は猫を被ることもできるし、表面上見えていることはほんの一部であることは誠も百も承知だ。でも、そうは言っても、あの地味な寒川さんが裏でこういうことをしているなんてどうしても考えられない。
 ――僕は女の子に対して幻想を抱いているだけなんだろうか?
「……おい、何上の空で考えてるんだよ」
 信宏がにやにやしながら言って、背中を叩いた。
「さっきのあの子のこと考えて妄想でもしてたのか?」
「してねーよ」
 思いっきり口を尖らせてやる。
「そんな恥ずかしがらなくてもいーだろ」
「だから妄想してねえって」
 ……もう少し強く言ってやるつもりだったがそんな気にもなれず、誠は視線を逸らしながら小声でつぶやいた。
 普段だったら信宏のしつこい突っ込みも馬鹿話としてけっこう楽しいものだった。しかし今日に限っては不快で仕方がなかった。
 ちょうどその時、本屋の前を通り掛かったので、誠は言った。
「ゴメン、ちょっと参考書でも見て帰る」
 そう言って手を振ると、信宏の返事も待たずに店の中に駆け込む。
 「よく分かる数学」とか並んでいる本棚の前で振り返る。信宏が追ってくる様子はない。
 ……ちょっとわざとらしかったな、と思い、誠は心の中で小さく手を合わせた。

 今日の気分では参考書なんか読む気もしない。店の奥から雑誌の棚に回って、何となく目の前のゲーム雑誌をぱらぱらとしばらく読んで電車を1本やりすごしてから、誠は駅に向かった。
 今更ながら心臓の鼓動の速さに気が付く。彼女を見てからしばらく時間が経ってるのに。
 通りを渡って、駅の自動改札をくぐる。間もなくホームに電車が入ってくる。3両編成の車内は帰宅ラッシュのサラリーマンで多少混雑しているが、まだ僅かに空席も残っていた。カバンを膝に置いて、誠はタメイキをついた。
 ……確かめてみよう。
 馬鹿みたいに悶々してても仕方がない。……寒川さん本人に確かめるのが一番だろう。
 でも、どうやって?
 いきなり女の子の家に電話するのも気が引ける。まして、用件がこんな内容では。
 携帯? 寒川さんも、そして誠本人も、携帯なんか持っていない。
 手紙? そんなのもっと論外だ。
 ……あの時見掛けた顔は寒川さんとしか思えない。顔だけならともかく、あの反応は。
 気にしないことにして終わるには、あまりにも強烈すぎる。

「町柳、まちやなぎです〜」
 車内放送が流れて、慌てて誠はカバンを背負い直して電車から降りた。
 日はすっかり暮れて、頭上には既に星が瞬いている。そして東の空には、円形に近付いた月が輝いていた。……あと数日で満月だろうか。

    4

 次の日、あまり眠れずに早く目が覚めた誠は、朝から中学校の図書室に来ていた。最近立て替えた建物の2階を丸々使った広い図書室は、おそらく公立中学校にしては珍しいくらい設備の整っている。教室には付いていないクーラーもしっかり付いていたりする。市立図書館に比べると本はかなり少ないが、その代わり自習用の机はたくさん並んでいる。
 冷房のおかげか、図書室はいつも混んでいる。そんな中誠は、ノートを机の端に放り出して、ぼんやりと本を読んでいた。
 昨日のことがあって、正直言って心は上の空だった。勉強しようとノートを凝視してはみるものの、1ページか2ページほど読んだだけですぐに集中力が途切れてしまう。
 ため息を吐いて、誠は立ち上がった。さっきまでパラパラと読んでたコラム集を戻そうと、文庫本の棚に向かう。
 手元の文庫本に書かれた分類記号を確かめてから、本棚に並ぶ本の背を目で追う。上から2番目の段。さっきは踏み台を使って
 と、隣の誰かと肩がぶつかった。
「す、すいませ……」
 言いかけた誠は、そのまま動きを止めた。
 肩のちょっと下で切りそろえた髪の毛。
 やや気弱そうな視線。
 儚げな雰囲気。
「……大田くん?」
 先に呟いたのは、彼女、寒川なつきの方だった。
 そして、次の一瞬、二人の顔が同時に真っ赤に染まる。
「……お、おおたくん……」
 もう一度呟くと、なつきは体をくるりと返して、慌ててその場から立ち去ろうとした。
 しかしその腕の先を、誠はとっさに握り締めていた。
「寒川さん」
 自分でもどうしたいか分からなかった。
「そろそろ昼だし……一緒に、学食でも行かない?」
 ほとんど何も考えられないまま、勢いでしゃべる。
「ほら、一人で食べるのもなんだし」
 腕の力を抜くと、なつきの腕がそこからゆっくりと抜ける。
「……うん」
 しばらく考えていた様子のなつきは、意を決したようにこくりと頷いた。

 授業期間中は昼休みになると学生でぎゅうぎゅうの購買部も、夏休みになるとがらがらだ。いつもは押し合いへし合いして人混みに割り込んでやっと手に入れられる焼きそばパンも、今日はゆったりと買うことができる。カレーパンと牛乳も買ってから、誠はなつきと一緒に校舎の裏手の目立たない植え込みに腰掛けた。
 無言のまま、黙々とパンをかじる二人。探るようにお互いをちらりちらりと見て、すぐにまた俯くことの繰り返し。
 焼きそばパンは半分になり、更に半分になり。アキレスは亀に追いつけないなんてパラドックスの通り、一口はどんどん小さくなって、半分ずつ半分ずつ食べていく。時間を引き伸ばすかのように。
 小指の先ほどのパンとやきそば2本が残った辺りで、誠は諦めて残りを一口で食べきった。
 ちらりと横を見た瞬間、なつきと目が合った。
「あの……さ」
 言い出しにくそうに切り出す誠。
「えっと……その……」
「うん」
 口ごもっている内に、なつきは先に返事をした。
「あれ、私だよ」
 ちょっと伏し目がちになりながら。
「ヘンタイでしょ? 私。……だから言ったんだよ、声を掛けないで、って。こんなヘンタイと話してたら、大田くんまでヘンタイと思われちゃうよ?」
 口を挟もうとした誠を遮るように、さらに言葉を重ねる。
「大丈夫。……ウワサになったら転校するから。前の学校もそうだったから」
 疲れたような、妙に醒めきったような口調。
「……平気だよ。心配しなくても慣れてるから」
 そう言って、ちょっと空を見上げる。その横顔は、言葉と裏腹に、誠にはとても寂しそうに見えた。
 言葉が出ないまま佇む誠の横で、なつきはまた小さく息を吐いた。
「じゃ……そろそろ行くね」
 そう言って立ち上がろうとしたとき、誠は言った。
「待てよ」
 ちょっと荒っぽい口調になるのは止められなかった。
「それで納得すると思う?」
 先に立ち上がって、なつきの前に立ちはだかる。
「寒川さんがそういう露出趣味があるのなら、むしろ文句は言わないし、ウワサだって平然とできる。……でも、嘘吐いてるだろ、寒川さん」
 無言。
「誰がそんなことさせてるんだよ。……警察に行くのなら一緒に行こう。家の問題なら児童相談所なり何なりで保護してもらえるよ。寒川さんが気が弱いからってあんまりだよ」
 さらに無言。
「恥ずかしいのは分かるよ。いや、僕は男だし、僕が思っている以上かもしれないよ。……でも。でも、いつまでもそれを繰り返すの? 寒川さんはそれでいいの?」
 返事は返って来ない。
「……寒川さんが行かないのなら僕一人でも交番に行く!」
 半分激情に任せて言う誠。
「ちがう……違うんだよ」
 その時、小声で寒川さんが言った。
「どう違うんだよ」
 問い詰める誠。
 なつきは一度大きく肩を上下させた。
「分かった。……そこまで言うのなら、実際に来て」
「来て、……って?」
 虚をつかれてトーンを急に落として訊く誠。
「多分、言葉で言っても信じてくれないと思うから。……今日の夜、家を出てこれる?」
「え? うん……分からないけど」
 訳の分からないまま取り敢えず頷く。
「午後6時、この前会ったあの路地に来れる? 来れるならでいいけど」
「分かったけど……なんで?」
「来たら分かるよ。……大丈夫、大田くんは危なくないから」
 そう言うと、なつきは誠の返事も聞かず慌てて走り去ってしまった。
「何なんだよ」
 呆然と立ち尽くしていた誠が我に返った頃には、既になつきの姿は見えなくなっていた。
 なんか頭が痛くなりそうだ。
 とんでもないトラブルに巻き込まれてしまった気がする。
 そもそも『大田くんは』というのはどういうことだよ?

 そう思っても結局放っておけない自分の性格が、誠はちょっと恨めしかった。

    5

「……うん。サイフが見つかったら帰るよ。……見つからなかったら交番に行くから、すごく遅くなるかも知れない」
 『気を付けて帰ってらっしゃいよ』という母親の声に頷いて、誠は電話を切った。電話ボックスの向こうに映る街は、既に夜のとばりが降りはじめている。外の喧噪を隔てている少し汚れたガラスは、通り過ぎる車のヘッドライトや街灯の光をきらきらと反射している。

 なつきと別れた誠は、午後から市立図書館に来ていた。夏休み中は夜間開館もやっているので、遅くなる口実にはぴったりだ。
 ちらっと腕時計を見て、歩き出す。行き先はこの先の狭い通りを入ったところ……昨日彼女と会った場所。
 薄暗い路地に街灯が寂しく灯っている。人通りはほとんどない。普通なら女の子と待ち合わせる場所としてはまず考えられないような場所だ。女性はおろか男性であっても、こんな時間に1人で通るのはあまり誉められないだろう。本来は。
 僅かに薄汚れた蛍光灯の下で立ち止まって、時計を見る。
 待ち合わせぴったり、午後7時45分。8時15分前。いくら夏の日没は遅いとはいえ、この時間ともなれば辺りは既に真っ暗だ。
 誠の心を一瞬不安がよぎる。
 あの時、言うことだけ言ってあっと言う間に去っていったなつきのことを考える。
 ……彼女は信用できると思う。そう誠は信じている。
 でも、誠がなつきと知り合ってから、まだたかだか1、2ヶ月に過ぎない。しかも……あんな極端な裏の顔を持っていた以上、彼女の何を信用すればいいというのか。
 自嘲めいた苦笑が自然と浮かんでくる。
 俺っていい奴なのか、それとも女の子に弱いだけなのか……。
「大田くん」
 後ろから掛かった声に、誠は振り向いた。
 そこには昨日見たままの黒い革のコートを着たなつきが立っていた。服の裾を両手でぎゅっと引き寄せているその下からは、素肌のままの太ももが伸びている。
「や、やぁ」
 何を言っていいか分からず、間抜けな声を出す誠。
「……こんばんは」
 そう挨拶しながら、ちらりちらりと下を向く誠。……どうしても気になって仕方がないのは男のサガという奴なんだろうか。
 それを気付いているのか気付いてないのか、なつきは淡々とした様子で言葉を続ける。……淡々とし過ぎるくらいに。
「来てくれたんだ」
 冷たい口調ではない。……むしろ、温度のない口調。感情を殺しているのではなく、感情を失った口調。
「……うん、来たよ」
 相変わらず自分でも間抜けだと思いながらも、そう答える。
 しばしの沈黙。
 なつきの視線がちらっと横を向く。
「行かなくちゃ」
 その視線の先には、時計店の屋根の先にライトアップされた時計。
 誠が戸惑っているうちに、なつきは言葉を続けた。
「付いてきて」
 そう言ってきびすを返してから、一瞬立ち止まって振り向く。
「今ならまだ、帰ってもいいんだよ」
 どこかの怪談話かファンタジーのような台詞が淡々と付け加えられる。
「……行くよ」
 誠はそれだけ答えた。
 何だって言うんだよ。彼の頭の中で色々なことが頭をよぎる。
 夜の変な仕事? アブノーマルな趣味の集団? 乱交パーティー? ……なつきの服装(とすら言えないかもしれない状況)からそういう想像をしたことは、彼を責められまい。
 ただ、彼の頭の中で、不思議とそれに対する軽蔑とかはなかった。
 彼女を一人にしておけない。
 どんな状況であろうと、守らなくちゃいけない。
 馬鹿みたいな騎士道だと彼自身も分かっていた。
 それでも引き下がれない。
 オトコノコの意地と、多少の好奇心と、それと……もしかしたら、彼女への好意と。
 少し考えていた誠は、早足でなつきの後を追いかけていった。見失わないように。

    6

 数分歩いたなつきが立ち止まったのは、小さな空き地の前だった。
 古い……というより朽ちかけた雰囲気の木造の家が並ぶごちゃごちゃとした路地の中にぽつんと残った四角い空き地。乱雑に掃除をしたときのように、真ん中は砂が露出しているが、角や周りは雑草が茂ったままになっている。そんな様子が、空に反射する街明かりでかすかに照らし出される。
 ちらりともう一度腕時計を見る。7時59分。
「あのさ、まだ何も教えてもらってないんだけど」
 雰囲気に呑まれていた誠が、ようやくそれを口にする。
「待って。すぐに分かるから」
 振り向きすらしないまま、相変わらず淡々と言うなつき。
「どういうこと?」
 いい加減しびれを切らしかけた誠が、そう言ったとき。

 空気が裂ける、音がした。
 風を切るとか、そういう爽快な音ではなかった。はっきりとした、「裂ける」音。
 そして次の瞬間、空間が開いた。……文字通り、何もない空間が突然裂けたのだ。まるで布を引き裂いたかのように。
 細く裂けたその向こうは、暗くてよく見えない。しかしその向こうから、一本の太い腕が飛び出してきた。
 見たこともない腕。ゴリラの腕を巨大にして、毛の代わりに鱗で覆って、そして尖った長い爪を長く生やして……まあ、それが一番近いところだろうか。それでも到底程遠い存在だが。
 腕だけでこの大きさなら全体はどのくらいあるんだ?

 「今ならまだ……」という台詞が出るシチュエーションはいくつか有った。その中でも、真っ先に思いつくもの。
 最後のボスキャラとの戦闘だとか。あるいは悪魔と契約をするだとか。要するに、ファンタジー小説の一シーン。怪談話とかよりむしろその方が誠にとっては馴染みだった。ゲーム、漫画、小説、その手のシチュエーションはありふれている。
 ありふれているのに、……いや、だからこそ、現実にその台詞が出たときに、そっちの方は考えもしなかった。現実としてそれは認識されていなかったから。
 頬をつねってみるまでもない。目の前で起こっている現実。

 一瞬遅れて、誠はようやく逃げることに思い当たった。
 しかしなつきは……身じろぎもせず、それをじっと見据えていた。
 ぱさっ、とコートを脱ぎ捨てる。白い裸身が、暗い空き地の中で妙に浮いて見える。そして、その体が更に白く浮かび上がる。……そして、なつきの身体、それ自体が光を発し始めていることに誠は気付く。
 光は更に強まる。
 裂け目から現れた腕は、なつきに向かって襲いかかる。
 誠が目をつぶろうとした瞬間、閃光が誠の目を灼いた。
 音もなく、空間が震える。
 そして怪物の腕が、縮み上がるように飛び退く。
 なつきの体から発する光はますます強くなって、辺りを照らし出す。怪物の青黒い鱗が光の中でグロテスクに浮かび上がる。
 そしてまぶしい光が、やがてなつきの胸に集まるように収束して、怪物の腕へと襲いかかる。
 更に震える空間。音もなく起こる閃光が、かえってその迫力を伝える。
 うねるように数度蠢いた腕は、やがて力尽きるように空間の断裂へと戻っていった。
 そしてなつきの体に残った光が、包み込むようにその裂け目へ移っていく。
 その光が消えたとき。
 全く何もなかったかのように、そこには元通りの空き地が広がっていた。
 光が消えるのを確かめて、なつきは初めて誠の方に向き直って、数歩歩み寄った。
「逃げなかったんだね」
 相変わらず淡々と、なつきはそう言った。
「……逃げられるわけ、ないだろ」
 本当はまだ足ががたがたと震えていた。声だって微妙に上擦っていた。それでも誠は、そう答えた。
「……そう」
 そう言って、なつきは両足を前に投げ出してその場にへたり込んだ。
「じゃあ、こういうことをしたらどうする?」
 そう言って、彼女、寒川なつきは……不意に自分自身の股間に右手を差し込んだ。

    7

 誠は声を掛けることすらできなかった。
 暗い中でよくは見えないし、そもそもじっと見つめたわけではなかったけど、なつきのその指先がどこか内側へと入っているのは誠にも分かった。
 そしてその意味が分からないほど、誠は子供ではない。
 自慰。マスターベーション。オナニー。ヒトリアソビ。言い方なんか何だっていい。男と女ではやり方が違う。一応そのくらいの知識はある。そんなこともどうだっていい。ついでに言えば、誠にだって経験のないことではない。……嫌いか好きかと言えば、けっこう好きだ。でもそんなことはもっとどうだっていい。
 重要なことは。
 少なくともそんなものは人前ですることではないわけで。
 同級生の女の子が、寒川なつきが、全裸になって、目の前でそんな行為をしているという事実なわけで。
 多分それはさっきまでの事件と同じくらい、誠にとってはファンタジーな事件であって。
 怪訝とか呆然を通り越して愕然とした顔の誠に答えるように、なつきはしゃべり始めた。相変わらず右手は局部をまさぐりながら、さらに左手を自分の胸に添える。
「私ね、いつもこうなんだ」
 荒れる息遣いの中で、なつきが言う。
「魔法を使える代わりに……はぁっ……性欲がおかしくなっちゃって……」
 時々あえぎ声を混じらせながら。
「夜になるとえっちな気分になるし……それに、魔法を使った後はこうやってすぐに鎮めないと我慢できないんだ……うんっ……」
 快感に堪えるように震える身体。くちゅ、くちゅ、と水分を含んだものが触れ合う音も聞こえる。
「どう? 軽蔑した?」
 相変わらず冷めた口調で、そう付け加える。

 不思議なくらい、誠はその姿にえっちだとかそういう感情は抱かなかった。
 性欲に任せて、同年代の少女が淫らに悶えている。そんな状況にも関わらず、誠は性的な感情を持つことはなかった。
 ただ、痛々しかった。
 理由の分からない不条理な衝動に弄ばれている姿は、「自分を慰める」どころか「自分を傷める」行動にしか見えなかった。
 だから、誠は……
 平手で一発、なつきの頬を叩いた。

「軽蔑されたいと思う、その心の方を俺は軽蔑するよ」
 吐き捨てるように言う。
「なんでそんなに自分を卑下するんだよ。誰にも言えずに必死で戦ってるのに、そんな自分を自分の心の中でまで痛め付けようとするんだよ」
 そう言った後、誠はなつきを後ろからそっと抱きしめた。
 何故そうしたかったのか、自分でも分からなかった。ただ、抱きしめたかった。
 一瞬身を固くしかけたなつきは、腰にそのまま誠の腕が回されるのに任せた。
 素肌の柔らかく暖かい感触が、誠の手のひらに伝わった。
 一瞬止まっていたなつきの右手が、再び動き始める。
 胸の鼓動が、体の震えが、ぎゅっと両の手のひらを握りしめた誠の腕に伝わってくる。
 ほとんど何も見えない暗闇の中で、誠は目を閉じた。
 なつきの左手が、握った拳の上にそっと重ねられた。
 無言で、誠はそのままじっと彼女を抱いていた。静けさの中で、なつきが陰部を弄ぶ音だけが微かに響き渡る。淫猥な音の筈なのに、何故かそういう響きは微塵もしなかった。
 くちゅ、くちゅ。
 抱き締めた誠の下腹部が、少し固くなる。こんな時にでもしっかり反応する自分の本能に苦笑しつつも、逆にようやく普通に落ち着けた気もして妙な安心感があった。

 やがて、なつきの体の震えが止まる。
「大丈夫?」
 まだ目を閉じたまま、誠が声を掛けた。
「うん」
 今までの感情のない声とは全く違う弱々しい声が返ってくる。
「じゃあ、行こうか。……いろいろ聞かせてもらいたいこともあるし」
 そう言って、誠は目を開けて手を離した。
「コート以外の服はあるの?」
「路地裏に置いてる」
「じゃ、それも着てきてよ」
 そう言って、誠は後ろを向いた。
 その誠の手を、なつきがそっと握る。
「せっかくだから付いてきて」
「分かった。……その前に、コートは着てね。それにこっちも、今ちょっと反応しちゃって……」
 くすっ、となつきが苦笑するのを、誠は初めて聞いた。


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