全部抱き締めて

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射干玉(ぬばたま)の…とは、あの方たちのためにある言葉のよう。
女達が溜息と賞賛と僅かばかりの嫉妬を込めて、いつも見守るのが藤原佐為と賀茂明の黒髪だとか。
誰が使い出したのかは知らないが、今では歌合せでこの枕詞を使うと、どちらかへの恋の歌かと疑われるほど、その風聞は都を席巻しているらしい。そんな話を和谷から聞いた時、光はくすぐったく思ったものである。
「あんな喰えもしねえような種に例えられてもあいつらだって困るだろ」
色気より食い気丸出しの光だったが。
その京の噂の的である二つの射干玉の間を駆け抜けるうちに、月はいつしか雲に隠れ、光は射干玉の闇に戸惑う羽目になっていた。



やっとたどり着いた賀茂明の館は、意を決して来た光でも入りたくないと思わずにいられないほどに空気が重かった。
「…やっぱり賀茂なんだろうな…」
いつもなら感じない曲々しい空気に思わず呟いた一言に、覚悟したつもりでも辛くなる。
夜以上に暗い闇のせいで、扉の場所を捜すのも手探りで随分と時間がかかってしまい、月明かりと佐為の家での残り陽の明るさのせいで、灯を持たずにきたことを光に後悔させた。
扉に鍵はかかっておらず、光は思い切り扉を押し開けた。
何度か訪れた記憶を頼りに、屋敷の中に足を踏み入れる。
「賀茂…いるか?」
まだ信じたくない。疑ってはいるけれど、信じたくない。
光はそっと声を掛けながらも、そう思っていた。
「……いない…」
乾いた声。
ああ。光はぎゅっと両目を閉じた。その声の響きが、もう何もかも語ったかのように聞こえてしまう。疑惑でもなんでもない、確信が光の胸にすとんと落ちてきた。
反射的に感じるのは、当然怒り。高熱を出しながら、賀茂の仕業と気付きながら、庇いつづけた佐為の姿を思うと光は一気に怒声を発した。
「賀茂!ふざけんなよ、返事してるってことはいるってことじゃねえか!俺がなんでこんな時間に来たのかだって分かってんだろ?!」
先ほどの声の響き具合からして、そう遠くない部屋にいる筈だった。
「…近衛…」
困惑した声音が光の足を止めさせる。
「近衛、来るな。頼むから近付かないでくれ。…今の僕は…いつもの僕じゃない。…君にだって何をしてしまうか分からない、来るな!」
弱々しい声に、光には聞こえた。声が震えているのは、泣いているからなのだろうと、察しがついてしまうほどの、弱い響き。
けれど、光は明と顔を合わせて話さないわけにはいかない。たとえ、この真っ暗な部屋のせいで、互いの表情が見分けられない状態であっても。
----君にだって。
明のその言葉は、つまりそのまま佐為のことを認めていることになる。
「賀茂!」
光が手を掛けた引き戸は開かなかった。どんなに力を込めても、ぴくりとも動こうとしなかった。
「賀茂、どうなってんだよ!」
ドンドンと、今度は叩いてみる。さらには体当たりまで試みたけれど、戸は異常に堅く閉じられていて、これは明が押さえているとかそういったことではなく、術か何かで締められているのだと、やっと光は気付いた。
引き戸の前で立ち尽くしたとき、明の嗚咽が耳に入ってきた。
「すまない…すまない近衛…どうしていいか…僕が分からないんだ…」
泣きじゃくるその声音はいつもよりずっと幼く、痛々しかった。光は開かない引き戸の前に立ち尽くす。
----きっと明殿もさぞや苦しいのでしょう。
そう言った佐為の言葉が胸に戻ってきていた。
戸のすぐ向こう側にいるらしい明のしゃくりあげて、しゃくりあげて、嗚咽を堪えている音がそのまま漏れてきて、聞いている光の呼吸まで苦しくなる。佐為の言葉どおり、明も苦しんでいることが光にも伝わってきて、心の中の怒りが和らいだ。怒りよりも、この扉の向こうにある苦しみをどうにかしてやりたいという気持ちが上回って行く。
「賀茂…ここ開けてくれよ…どうなっちゃってるんだよお前…」
コツン、コツンと軽く戸を叩きながら、光は呼びかけた。暗い暗い闇が、目が慣れてきたせいか、ほんの少し明るみを帯びてきたように光には映る。
「…力を…抑制できないんだ…」
途方に暮れたように、明は少し投げやりな口調で話し始めた。
「僕が弱いから…違う、君が…君が僕を弱くしたから…」
「え?」
言葉の意味を追いかけるより先に、光は口から声を出してしまっていた。驚いたように明は先を続けるのを辞めてしまい、光は自分が失敗したことに気付いた。
戸のこちら側もあちら側も沈黙していまい、夜闇の静けさが際立つ。
顔が見えない状況のせいか、互いに次に口を開く時を掴めないでいた。
ただ余りに静かなため、呼吸の音だけはどちらの耳にも伝わっていて、それだけが互いの存在の確かさを知らせている。同時に、互いの気まずさの存在も。
「ごめん、賀茂。その…意味がよくわかんなくて変な声出しちゃって…」
光は自分でも上手くないと思いながらも言葉を紡いだ。意味なんて大体のところは伝わってきている。頭ではなく、その胸にまっすぐ。それなのにこんな言い方をしてしまう自分の陳腐さを、光はじれったく感じた。
またしばらく気まずい沈黙が続き、ふっと、自嘲するような鼻先での笑いが光の耳を掠めた。
「いいさ…どうせもう君にも佐為殿にも合わす顔がない…
その声は幾分か理性を取り戻したように響いてきた。実際のところ、その理性は絶望が司っていたのだけれど。
「賀茂…」
いつもの明とあまりにかけ離れた口調に、光は戸惑ってしまう。きっともっと言うべきことがあるはずだと、思うのに唇は動かない。
そんな光の焦りは届かないまま、明は続きを口にした。
「そう、僕が抑制できなくて、佐為殿に呪詛をかけてしまったんだ。君も早く逃げたほうがいいんじゃないかな。僕も知らなかったけど、ほんとに僕の力って尋常じゃないらしいからね」
冷たく言い放つ、言葉の刃に潜むもの。
暗い闇が包んでしまって、もう見えなくなりそうなもの。
確かに何かを感じながらも、光は開かない戸を目前に唇を噛み締めていた。



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