真夏のイヴ #01
EVANGELION:REVERSE
〜真夏のイヴ〜
EPISODE:01 帰ってきた厄災
少女は眠っていた。
艶やかな黒髪を枕に埋め、羽毛布団に柔らかそうな頬を預けて、無邪気な寝顔で可愛い寝息を立てている。
窓の外は既に明るく、カーテンの布地越しに射し込む陽光が室内をうっすらと照らしている。飾り気のない、こざっぱりとした部屋だ。壁際にはチェロのケースが立てかけられ、棚には音楽ディスクとスコア、それから文庫本の類がきちんと整理されて並んでいた。
チチチ、とサイドボードに置かれた目覚し時計が涼しげな音色を奏でる。その脇には、昨夜読みかけのまま寝てしまった文庫本が置かれていた。
「……ん……ぅ〜ん……」
もぞ、と寝返りを打って、少女は鳴り続けている目覚まし時計に白い繊手を伸ばした。アラームを止めてから、眠そうに目を擦り、ふぁ、と可愛い欠伸を洩らす。少し寝癖のついた短い髪の下で、漆黒の瞳がぼんやりとあたりを見回した。
上体を起こし、布団を撥ね退けて、少女は大きめのTシャツに包まれた躯を陽光の許にさらした。木の床に素足を下ろし、うーんと背を伸ばすと、まだ膨らみかけの乳房が陽光に透けて見える。顔立ちも含め、全体的に幼さを色濃く残しているが、それが却って得も言われぬ魅力を醸し出している。
時計の文字盤に視線を走らせた彼女は、まだ眠っている家族を起こさないよう、そっとバスルームに向かった。少しぐらい騒いだところで目を醒ますような家族ではないと解っていても、つい気を使ってしまうあたりが、この少女の性格を端的に表している。
脱衣所に入り、パジャマ代わりにしていたシャツを勢い良く脱ぎ捨てると、輝かんばかりの裸身が露わになった。大き目のTシャツとショーツというのが、いつも彼女が寝るときの格好だった。
朝陽の射し込むバスルームに入ると、彼女は熱いお湯と冷水を交互に浴びた。そうすることで眠っていた脳細胞が目醒め、躰が活性化していく感じがする。癖のない黒髪をシャンプーでさっと洗って寝癖を落とすと、髪にリンスをつけ、スポンジで躰を洗い始めた。知らず、鼻歌が零れる。射し込む朝陽の中に水蒸気が踊り、光の破片をあたりに散らした。
光の粒子に包まれながら倖せそうに水流に身を委ねる少女の姿は、さながら妖精が沐浴しているようだと言っても過言ではないほど、可憐で美しかった。
手短にシャワーを終え、バスタオルで体を覆って自室に戻る。再び出てきたとき、少女は髪のブローも済ませ、第壱高校の制服に身を包んでいた。そのままご飯の炊ける匂いが漂うキッチンへと向かう。架けておいたエプロンを慣れた仕種で纏い、炊飯器のご飯を天地返しして蒸気を飛ばすと、冷蔵庫を開けて昨夜下ごしらえを済ませておいたお弁当の用意をはじめた。
調理の音に混じって、再び鼻歌が零れだす。作るお弁当は四人分。それぞれに大きさの違う弁当箱に、手際良くご飯とおかずを詰めると、そのまま朝ご飯の支度に移る。その動きにはまるで無駄がなく、熟練の度合いが伺えた。
それからちらりと壁の時計に目をやって、少女はガスを止めた。ぱたぱたとスリッパの音を響かせながら、キッチンを出て奥の和室に入っていく。
「お父さん、起きて。朝だよ」
言いながら、蓑虫か怪獣の蛹のようになっている布団を揺する。中から奇妙な唸り声が聞こえたが、いつものことなので気にしない。
「早くしないと、また遅刻するよ。冬月先生にお小言言われてもボク知らないからね」
「ん……問題……ない……」
「馬鹿言ってないで。ちゃんと起きてよ!」
そう言い残すと、彼女は父親の蛹を見捨てて次の部屋に向かった。何しろ、あと二人の寝坊助を起こさねばならないのだ。一人に長い間構ってはいられない。
足音も軽やかに彼女が出ていくのを見送って、蛹の中からのそりと腕が生えた。ベッドサイドから色つきの眼鏡を取り、それをかけながら、蛹が孵化して髭面の親父が上体を起こす。
「ますます結衣に似てくるな……真子」
そう呟いて、碇玄道は髭に覆われた口許をてれん、とだらしなく緩めた。亡き妻の思い出に浸っているのか、その妻の面影を多分に宿した一人娘の成長を喜んでいるのか……。
真実は、時として追及しないほうがいいこともある。
さて、その少女――真子はというと、自分の部屋の向かいの洋間に入っていた。
驚くほどに何もない室内、床に直接敷かれたマットレスとシーツに絡まるようにして、銀髪の少年がほとんど素っ裸で眠っている。
床には制服や着替えが脱ぎ散らかされ、それに紛れるようにして何枚ものスコアが書きかけのまま散らばっていた。寝床の脇にはギターが無造作に放り出されている。ビールの空き缶がそこかしこに転がっていて、灰皿は吸殻で一杯だった。
どうもこのあたり、周りにいる大人からあまりよくない影響を受けているようだ。
「……まったく」
溜息を一つついて、真子は眠っている少年の傍に歩み寄った。
「玲、ご飯だよ。起きないと置いてくよ」
言いながら、うつ伏せになって寝息を立てている少年の鼻をつまむ。双子の気安さか、異性の素肌といってもさして抵抗はない。なにしろつい最近まで一緒に風呂に入っていた相手なのだから。
「……んんっ」
息苦しくなったのか、少年は顔を二、三度振ってから目を開けた。血の色をした双眸が寝惚けたように彷徨って、目の前にいる二卵生双生児の姉の姿を映す。ゆっくりと焦点が合っていく瞳に向かって、少女はにこりと微笑った。
「……シン」
「おはよ、玲。ちゃんと起きて顔洗ってよ」
元気よく言って、真子は再び部屋を出ていった。向かった先は玄関である。スリッパからサンダルに履き替え、ポケットに入れておいたカードキーでお隣のドアロックを開けて中に入る。
あまり人の気配のしない、しかし造りはほぼ同じ室内を勝手知ったる他人の家とばかりに進み、リビングでそのまま寝こけている赤みがかった金髪の少年の姿を発見した。どうやらゲームをやりながら寝てしまったらしく、モニターも本体も電源が入ったままだ。
「も〜。ボクの回りにいる男って、なんでこう手のかかる奴ばっかりなんだろ」
呆れたような、それでいて満更でもない表情でそう呟いて、真子はコントローラーを握ったままカーペットに転がっている少年の肩を揺すった。
「飛鳥、あ〜すか。起きてよ」
「んぁ?」
ぼ〜っと目を開けた少年の顔を覗きこむ。途端に、少年は目を見開き、顔を真っ赤にしてそのまま芋虫のようにずり下がった。
「なななな、なんっだ、シンか。おどかすんじゃねーよ」
「誰もおどかしてないよ。またゲームしながら寝ちゃったの? 風邪引くよ」
「だ、大丈夫だよ。慣れてっから」
言いながら、少年はまだどきどきする胸を押えるのに必死だった。間近に見た少女の薄紅色の唇が、脳裏に焼き付いて離れない。が、彼女の方は少年の動揺に気付くことなく、無造作に距離を縮めてくる。
くんくん、と鼻を可愛く鳴らして、少女は少年を見上げた。
「ねぇ、昨日お風呂入った? 食べたらちゃんと歯を磨かないとダメだよ」
「うるせぇな、お前は俺の女房かよ」
「何いってんの。母親代わりってとこでしょ、鏡子さんに頼まれてるんだから。朝ご飯できたから、すぐきてよ。シャツは昨日アイロンかけておいたから。靴下もちゃんと替えるんだよ」
「……わぁったよ」
まだ赤い顔で言って、飛鳥と呼ばれた金髪の少年はさっさと出ていく幼馴染みの背中を見送ってから、溜息を一つ吐いた。
それから、ふと思い出したようにモニターに視線を移した。
「だぁ〜〜〜、なんじゃこりゃあぁ〜〜〜っ!」
どうやら昨夜の苦労が水泡に帰したらしい。
教訓。セーブはこまめに。
男三人が、仏頂面をつきあわせて黙々と箸を動かす様は、ある種異様である。
うち一人は見るからに悪役面で、むさくるしい顎鬚がさらに凶悪さを助長している中年親父。残る二人は、共に色彩鮮やかな、そして対照的な雰囲気を湛えた美少年である。
全員が寝不足を絵に描いたような顔をしていた。
彼らの前には真子の作った朝食が並んでいる。白いご飯に味噌汁、焼き魚、それと弁当に入れた残りの卵焼きとほうれん草の胡麻和え、里芋の煮転がし。
別にこれといって珍しくもない、普通の食卓だ。
味に関しては申し分ない。父親が和食党なので、どうしても和食の献立が多いというのが飛鳥にとっては多少物足りないが、食べさせてもらっている立場で文句は言えない。
そして、当然ながら彼らのうち誰一人として文句をつけるものはない。かなり昔のことだが、とある我儘な少年が不用意に吐いた台詞のために、彼ら三人が餓死しかけたという悲惨な記憶が脳裏に焼き付いているためだ。あの忌まわしい事件は、未だに「死の七日間」として伝えられているという(かなり嘘)。
彼らの間に会話はない。元々寡黙な男が二人、彼らとはあまり話のあわない男が一人。仲介役となる真子はというと、さっさと食べ終えて洗濯にとりかかっている。何しろ、男三人分とあって、放っておくとたまる一方なのだ。
「早く片付けちゃってよ、時間ないんだからー」
そんな声が遠くでする。時計を見ると、七時を回ったところだった。正直、三人ともまだ寝れるじゃないかと思ったが、下手なことを言った翌日には本当に放置されて食事も弁当も抜きという最悪の事態が充分に予測され得るため、口にはしない。口は災いの元というのが、碇家の家訓であった。
手際良く分類した洗濯物を全自動洗濯機に放りこみ、真子は一息吐いた。中学までは、学校まで走れば四、五分だったが、高校に上がるとそうはいかない。といっても自転車で十分かそこらの距離だが、なにせ山の中なので登りが辛い。
「お父さん、今日は遅くなるの?」
「ああ、今日は定例の会議があるから……」
「晩御飯は?」
「いや、それまでには帰るようにする」
「ん、解った。じゃ、待ってるね」
そう言って微笑む真子に、食事の手を休めて一瞬見惚れる男三人、だが、真子はそれには気付かず、洗い物を開始する。
鼻歌混じりに揺れるお尻をつい見詰めてしまい、互いに牽制しあう玄道と飛鳥を尻目に、玲はさっさと食事を終えて、食器を流しに運んだ。
「あ、玲、お茶煎れて。ボクも飲みたい」
「わかった」
言葉少なに抑揚のない口調で答えて、玲は洗いかごから二人分の湯呑みを取り出した。と、無言で動いた飛鳥が湯呑みの脇に自分のマグを置き、玄道が空になった茶碗を置く。玲は気にせず、これだけは慣れた手つきで四人分のお茶をそれぞれの容器に注いだ。
「玲、今日バンドは?」
「休み」
「飛鳥のバイトは?」
「今日は遅番だから、晩飯食ってから行く」
「そ。じゃ、何食べたい?」
「鍋焼きうどん」
「天麩羅が食べたいな」
「ハンバーグ」
「……一応、候補には加えとくね」
聞かなきゃ良かったと思いながら、真子は席についてお茶を啜った。自分から話を振らないと会話がない相手というのは、一緒にいて気まずいモノだが、生まれて以来ずっとこんな感じなので別になんとも思わない。自分から話を振ってこないだけで、訊けばちゃんと返事が返ってくるのだからいいと思っている。
「あー、お父さん、またお茶碗で飲んでる。お湯呑みを使ってって言ってるのに」
「ああ、すまん」
「まったく、もう」
食べ終わって新聞を読み始めた玄道に言って、真子は食卓の上の食器を流しに浸けた。それを手伝っているのは玲で、玄道と飛鳥は座ったままお茶を飲んでいる。玄道は新聞、飛鳥はテレビという違いはあるが。ちなみに、食事中にその二つが食卓に存在しないのは食卓の管理者による厳しいしつけの結果であって、彼女はこういう点ではとにかく容赦がないのだった。
「さて、準備しなきゃ」
壁の時計に目を走らせて、真子はエプロンを外した。
「お父さん、いつまでも新聞読んでないで支度して。飛鳥と玲も」
「なんでだよ、まだ時間あるじゃん」
朝のスポーツニュースを流している画面から、目を上げて、手早く
「ごめん、ボク今日当番なんだ。部室行って鍵開けなきゃ。だから先、行くね」
「聞いてねぇぞ、そんなの」
「あたりまえでしょ。言ってないもん」
手早く洗濯物を干していきながら、真子は飛鳥に言った。彼女は音楽部に在籍している。そのうえ主婦なのだ。バンドをやっている玲や、帰宅部でバイト漬けの飛鳥と違って、やることはとにかく一杯ある。
「……ちぇ、なんだよ」
てっきり一緒に登校できると思っていた飛鳥は、目に見えて不機嫌になった。一方、玲はさっさと自分の部屋に戻って支度にとりかかっている。真子と一緒に登校するつもりなのだ。こういう細かいところで差をつけられているのだが、飛鳥はそのことにまだ気付いていない。
「ボクがいないからって、サボったり寝直したりしたらダメだからね」
「するかよ、そんなこと」
「お父さん、のんびりしてるけど時間いいの?」
「ああ、問題ない」
「またそんなこと言って。知らないよ、冬月先生に怒られても」
ぱん、と洗濯物を叩きながら、真子は軽く息を吐いた。照り付ける眩い陽射しは、今日も暑くなると告げている。
「今度のお休み、晴れるといーなー」
「なんだよ?」
「別に。お布団も干したいし、久し振りにお買い物にも行きたいし」
空の洗濯かごを持って、真子はベランダから戻ってきた。包んだ弁当箱を玄道と飛鳥の前に置いて、自分と玲の分を持って部屋に戻る。途中で玲に弁当箱を渡し、荷物を持ってリビングに一旦戻った。
「じゃ、先行くから。お父さん、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
「は〜い。じゃ行こっか、玲」
「うん」
「ちょっと待て、なんで玲が一緒なんだよ!」
「いいじゃない、別に。何怒ってんの?」
そう言って、真子は玲と一緒に先に出ていった。それを見送って、飛鳥は今更ながらに歯噛みする。
「くっそ〜、姿が見えねーと思ったら、こういうことか!」
「ふ。無様だな」
「あんたにだけは言われたくない!」
にやりと笑う玄道に怒鳴って、飛鳥は弁当箱を引っ掴むと、碇家を飛び出した。
「……ふ」
独りぼっちになったキッチンで、玄道はずぞ、とお茶を啜った。茶碗から。
そして一言。
「ぬるいな」
アップダウンの激しい山道を、真子と玲の乗った自転車はのんびりと走っていた。汗ばんだ肌に風が心地いい。
車道側を、ギターケースを肩にかけた玲が並んで走っている。真子の方は、背中のデイバックだけだ。流石にチェロを持ち運ぶのは面倒なので、部室には練習用を置いてある。家にあるのは母の形見だ。
「い〜天気だね〜」
気持ち良さそうに目を細めながら、真子は半立ちになってぐっ、ぐっとペダルを踏み込んだ。ややシャギーの入ったショートボブの黒髪が、風に流れながら陽光を弾いてきらきらと煌く。その様子を、玲は黙って見詰めていた。と、その視線が後方に流れる。何やら怒鳴り声が風に流されながら追ってきた。
「待てこらぁ〜! 俺を置いてくな〜!」
見ると、必死の形相でペダルを踏みながら飛鳥が追ってくる。真子は玲と笑み混じりの視線を絡め、最後の登りを見据えて加速しながら、後ろを振りかえって手を振った。隣で玲が無表情に手を振っているのが余計に腹立たしい。
「じゃあねぇ〜、おっさきに〜」
「あ〜〜〜〜〜ってめぇ、待てコラァ!」
そうやって怒鳴るから余計に体力を消耗するのだが、それにも構わず、飛鳥はひいひい言いつつペダルを漕いだ。
「くっそ〜、玲のやつ……」
目の前がぐるぐる回る。ここまでの追撃でスタミナを消耗し、飛鳥は今にも止まりそうなペースでよたつきながら坂を這うように登った。既に二人の姿は見えない。
「ちっくしょぉ〜〜」
ここで止まったらもう走れないと解っているから、飛鳥はひたすらに漕ぐ。ほとんど朝起きたままの状態のため、背中に流れた長い金髪は振り乱され、汗で頬に貼りついている。今の状態の彼には、さしものファンクラブの女の子も声をかけないだろう。てゆうか、下手に声をかけたりしたら怒鳴られるのがオチである。
「だぁ〜〜〜〜〜……」
やっと坂を登りきった飛鳥は、校門の手前で真子と玲が待っているのに気付いた。
「えらいえらい。よく頑張ったね」
そう言う真子の手には、汗をかいたミネラルウォーターのペットボトルがある。傍らの玲の自転車のかごには、近くのコンビニの袋が入っていた。といっても大手のチェーン店ではなく、元々駄菓子屋だったところが改装してコンビニになっただけで、客層の大半は第壱高生だ。食品以外にも色々と揃っているので、第壱高生御用達のお店である。飛島が必死こいて上ってくる間に、玲がひとっ走りして買ってきたらしい。
「はい、ご褒美」
言って、真子は飛鳥にミネラルウォーターを手渡した。飛鳥の好きな銘柄だ。カルシウム臭い奴はどうも好みではない。真子も玲も清涼飲料水という類が苦手だった。だから、碇家では水かお茶ぐらいしか買わない。ちなみに、袋の中の二リットルボトルは玲の分だった。一日かけてこいつを空けるのだ。
「飛鳥、髪結ったげる。一緒においでよ」
そう言って、真子は自転車置場に向かって歩き出した。荒い息を吐きながら五百ミリリットルの半分近くを一息に飲み干した飛鳥と、涼しい顔の玲が後に続く。
職員室で鍵をとって、音楽室の鍵を開ける。ワックスの匂いがつんと鼻をついた。真っ先に窓を開けて風を入れてから、真子は楽器保管室の鍵を開けて、自分のチェロを出す。定刻まで三十分ほど練習できる。隣では、部員でもないのに入り浸っている玲がギターケースを開け、チューニングをしていた。することのない飛鳥は、真子の近くの椅子に腰を下ろす。
「お待たせ、飛鳥」
言って、真子は自分のディバッグからブラシを取り出した。椅子に座った飛鳥の背後に回って、ぼさぼさになった髪を梳き始める。ろくに手入れもしていないわりに傷んでいない飛鳥の髪は、陽光を受けて明るく輝いていた。
「まだ切らないんだね、髪」
「……いいだろ。似合うんだから」
「ま、ね」
確かに、飛鳥ならこれぐらい派手な方が似合ってる気はする。軽く肩を竦めて、真子は飛鳥の髪を纏め、太編みにすると、ちらりと玲を見やって訊いた。
「玲もやったげよっか」
「いい」
以前、真子に玩具にされたことを未だに根に持っているのか、玲の返答は早かった。思わず吹き出す真子と飛鳥を尻目に、ネーム入りのピックを構えて軽く弾きはじめる。一瞬解らなかったが、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲一番変ロ短調作品23」のアレンジらしかった。ギター向けの曲ではないが、玲はこの変な遊びが結構好きだった。真子がクラシックのスコアをたくさん持っていることも影響しているかもしれないが。
「おはよー」
そうこうしている内に、部員たちがやってきた。飛鳥の髪を指に絡めている真子を見て、彼女たちは口許に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あら〜、お邪魔だった?」
「ば、馬鹿、何言って――」
「何言ってんの」
思わず顔を真っ赤にして反論しかける飛鳥とは対称的に、真子はまるで邪気のない透明な笑みを浮かべてそう言うと、椅子に座った。
「コンクールまでそんなに時間ないんだから、練習しよ」
「う、うん、そうね」
からかい甲斐のない娘ね、と思いながら、それでも朝から飛鳥と玲という、第壱高校でも屈指の美少年二人を間近に見られることの幸運を噛み締め、名もなき部員たちは練習にとりかかった。
「……泣く? 胸貸そうか」
「いらん。誰が泣くか」
冷ややかに訊いた玲に、飛鳥は憮然として答えた。真子の鈍感は今に始まったことではない。十六年かけてアプローチしているにも関わらず、未だに玲の同類程度にしか見られていないのは屈辱だが、とにかく長期戦で攻めることに決めたのだ。
だが、彼はまだ気付いていなかった。自ら築き上げた「幼馴染み」という今のポジションこそが最大の難関だということに。
そして、天災は忘れた頃に、やってくるのだ。
碇真子は、有名人である。
幼さを色濃く残した可憐な面差し、見る人の心を捉える無邪気な微笑み、抱き締めたくなるようなちっちゃくて細い躰。保護欲をそそる潤んだような漆黒の双眸は、もはや犯罪に近い。
一年生にして第壱高校の「イヴ」の座についた彼女の名は、他校にすら知れ渡っている。
のだが、本人はまるで自覚していない。周囲の人間による妨害工作の賜物といいたいところだが、直接ラブレターを渡されてもまだ解らないあたり、筋金入りの鈍感娘ではある。
まあ、そんな調子だから、最初の内こそ嫉妬しまくっていた女子たちも今ではすっかり打ち解けて――下心が丸見えだったが――いた。彼女に近づけば、必然的に惣流飛鳥・ラングレーと碇玲の二人がもれなくおまけでついてくるのだから。逆を言えば、下手に真子に手出しをしようものなら、言語に絶する報復が待ち受けているわけで、それは入学一週間足らずの内に実証された。
飛鳥と玲は、一見女の子に優しく見えるが、それはとんでもない勘違いだ。彼らが優しいのは真子とそれに付帯する一部の女子であって、あとは正直、どうなろうと知ったことではなかったりする。
まあそういうわけで、彼らに対する評判は大きく二つに分かれているのだが、それこそ彼らの知ったことではなかった。
高校入学後ひと月が経過して、ようやく実態が見えてきたのか、当初の熱気はやや薄れ、熱狂的なファンとクラスの友人たち、それから中学時代からの親友たちだけが、未だに彼らとの交流を保っていた。
その中には真子狙いの者も決して少なくはなかったが、それは仕方がないというべきだろう。
真子を含め、彼らが大抵一緒にいるのは、中学時代からの親友である鈴原冬児、相田健輔、洞木光の三人で、あとはそれほど親しいというわけではない。特に、飛鳥と玲はもともと人付き合いの上手い方ではなかったから、なおさらだ。
ただ、玲は高校に入ってから、音楽の趣味の合う友人ができた。といっても、同じ高校ではないし、相手は高校生ですらなかったが。カラオケボックスで知り合って意気投合し、バンドまで作ってしまったほどだ。あの玲と気が合う人間など、飛鳥には想像がつかなかったが、紹介されて戸惑った。どこにでもいそうな、普通のロン毛だったからだ。名前は忘れた。
一方、飛鳥の方も、高校に入る直前に始めたバイト先で友人らしきものを作ってはいた。気分屋で我儘で横暴な彼に付き合えるとは凄いと思ったら、なんと女の子だった。しかも、クラスこそ違うが、彼女も同じ第壱高校の生徒である。ただ、飛鳥自身は恋人として付き合う気はないときっぱり宣言していたが。
で、その彼女――霧島真那と真子は、何故か妙に仲が良かった。最初は警戒したし、名前が似ている所為かもしれないと馬鹿なことを思ったりもしたが、最近は光と三人で遊びに行ったりもしているらしい。
とまあそういうわけで、とにかく平和ではあったのだ。
その日までは。
タイトスカートを穿いた酔っ払いのみるくたんく――もとい、担任教諭の葛城美里三十路ちょっち手前未だに独身が教室に入ってきた時、いつものように最前列の生徒はその吐息の酒臭さに顔をしかめた。
しかし、駐車場には彼女のアルピーヌがちゃんとある。つい二分ほど前にとんでもない音を立てて滑りこんできたばかりだ。
……いいんだろうか。
閻魔帳を片手に酔っ払いは何が可笑しいのかけひゃけひゃと笑っていた。生徒たちはついにアルコールが脳髄まで達してしまったかと思ったが、どうやら違ったようだ。ばむんっ! と勢い良く閻魔帳で教卓を叩くと、美里はずいっと身を乗り出して言った。言うまでもないが、正規の用途で彼女がそれを使ったところを見たものはいない。
「喜べ女子ィ! 我がクラスに三人目の美少年がやってきたぞぉっ!」
出席も採らずに何やってんだ、と思うことなかれ。そういう些細なことはみんなMAGIがやってくれる。いまさら教師なんて要らんのである。ただの飾りなんだから、こういう人でも大丈夫なのだ。……たぶん。
「今度のも結構凄いわよぉ。期待してていいわよん。んじゃ、入ってー」
その声に答え、からりとドアを開けて彼が入ってきた瞬間、教室中からどよめきと黄色い歓声が上がった。
そのため、彼らは気付かなかった――
彼の姿を目にした瞬間、真子の肩がびくんと震えたことに。
そして、飛鳥と玲の顔が強張ったことに。
「渚郁です。よろしく」
そう言って、彼はにこやかに微笑んだ……。
つづく
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