EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ


 彼女が彼に出会ったのは、中学の頃。
 この国から四季が失われて、ちょうど十五年目の夏だった。

EPISODE:02 Two years ago(1)

 コンクールを目前に控えたその日、真子はいつものように、朝一番に学校にやってきて、チェロを弾いていた。
(……お父さんたち、ちゃんと起きれたかなあ)
 父親と双子の弟、そして幼馴染みはまだベッドの中だ。真子が追い込みのために早く家を出る所為で、彼らはこのところ遅刻が続いている。朝ご飯と弁当は用意してあるのだが、どうも朝は弱いようだ。
 内心、心配ではあったのだが、つい気を抜くと音に出てしまうので、真子は全神経を音に集中させる。
 課題曲の譜面はもう頭の中に入っている。しかし、ソロの部分がどうしても上手く出来なかった。そのもどかしさと苛立ちまでもが音に出て、余計に上手く行かない。雑念を振り払い、一心に弾き続ける。その内に、音と自分の境界がなくなっていく。時間の感覚が薄れ、ただ自らが紡ぎ出す旋律と自身の鼓動の音だけが混じりあって、その中に溶けていきそうになる。
 それほど長いパートではなかったはずなのに、随分と長いようにも、またほんの一瞬だったようにも感じられて、弾き終わっても真子はしばらくぼうっとしていた。こんなに音の中にのめりこんだのは初めてのような気がする。
 ふと、拍手が耳朶を叩き、真子はハッと我に返って周囲を見回した。見ると、開け放した窓に凭れかかるようにして、一人の少年がこちらを見ていた。
 陽光を浴びて透き通るように輝く銀色の髪と、血の色をした真紅の双眸は、一瞬双子の弟かと錯覚させたが、その口許に刻まれた微笑みと、瞳に浮かぶ悪戯っぽい輝きが、別人だと認識させる。
「失礼。素晴らしい演奏だったものでね。やはり音楽はいいねぇ。音楽は人の心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ」
 落ちついた声音でそう言って、少年は真子に柔らかな微笑みと賞賛の眼差しを向けた。言っている意味はなんだか良く解らなかったが。
「あの……?」
「ああ、僕は郁。渚郁。今日転校してきたばかりでね。迷っているうちに、君の音色に誘われてしまって。つい聴き惚れてしまったよ」
「あ、ボク……いえ、わたし、真子です。碇真子」
「よろしく、真子さん」
 そう言って、郁と名乗った少年はふわりと微笑んだ。
「良かったら、もう一度聴かせてもらえないかな」
 窓枠に凭れかかりながら、郁は言った。彼の背に木漏れ日が差してきらきらと輝き、その背中に光の翼を形作る。こんなに美しいひとがこの世にいるなんて、彼女は知らなかった。考えたこともなかった。
「え、でも……」
「だめなのかい?」
「あ、いいえ。でも――」
 言い澱む真子に何かを察したのか、郁は笑みを口許に湛えたまま、しかし表情をやや引き締めて言った。
「きみはもう少し自分に自信を持つべきだね。きみの演奏は素晴らしかった。ごらん、小鳥たちがあんなに喜んでいる。周りの樹々だってそうだ。きみはこんなにも世界に好かれているんだよ」
 そう言うと、郁は窓枠の上に躰を引き上げ、そこに腰を下ろした。すっと差し伸べた手の上に、木の枝にとまっていた小鳥が舞い降りる。
「ほらね?」
 その微笑みに、真子は口許が綻ぶのを抑えられなかった。蕾が花開いていくようなその笑顔を、郁は倖せそうに見詰めていた。
「ここで最初に逢ったのがきみで良かった。この街が少し好きになれそうだよ。――僕は、きみに逢うためにここへ来たような気がする」
「えっ?」
「いや。さあ、聴かせてくれないか。皆が待っている」
「は、はい」
 郁の微笑みに思わず見惚れていた真子は、我に返ったように弓を構えなおした。そして、呼吸を整えてから、再び弾き始めた。
 ――これが、彼との最初の出逢いだった。
 
 二度目の出逢いは、すぐにやってきた。
 郁を職員室に案内して別れた後、真子は、まだどきどきする胸を押さえながら教室に向った。未だに、彼と過ごした束の間の一時が、夢だったような気がする。
「おはよ、真子」
「あ、おはよう、光」
 学級委員長の洞気光は、今朝も一番に教室に来て、教壇の花瓶の世話をしていた。机には既に雑巾がけされていて、開け放たれた窓から入り込む涼しい朝の空気が教室を満たしている。
「今朝も練習してたの?」
「うん。コンクールまであと一週間しかないから」
「オープニングのソロだもんね。頑張って。でも、無理は駄目よ」
「はーい。解ってまーす」
 微笑んで、真子は自分の席に鞄を置いた。
 光とは、同じ中学生主婦としてか、性格が似ている所為か、気があって良く話をする。人見知りする真子にとっては、数少ない親友の一人だ。
(そう言えば、あの人とは自然に話せた……)
 男の子と話すのは少し苦手だった。気がねなく話が出来るのは玲と飛鳥、あとは付き合いの長い冬児と健輔ぐらいだ。
 その意味でも、郁との出逢いは衝撃的だった。初めて逢った、それもあんなに綺麗な男の子相手に、緊張もせずに話が出来たのが、今でも信じられない。
「どうかしたの?」
 黙ってしまった真子の顔を覗きこむようにして、光は訊いた。おでこをこつんとくっつけて、軽く首を傾げる。
「別に熱はないわね」
「あのねぇ……」
 苦笑混じりに溜息を吐いて、真子は光を軽く睨んだ。
「あ、そう言えば今日ね、転校生がくるの」
「え、そうなの?」
「うん。職員室に行ったら、日向先生が話してたわ。男の子ですって」
 そう聞いた時、真子は胸がどくん、と一つ跳ねるのを感じた。まさか郁ではないのかと思ったのだ。幾ら遷都が始まって人が増えてきているとはいえ、一日にそう何人も転校生がくるわけではないだろう。
(郁くんだったら、いいな……)
 ちょっとだけそう思って微かに頬を赤らめる真子を、光は怪訝そうに眺めていた。
「おはようさ〜ん」
 ぽつぽつと来始めたクラスメートに混じって、トレードマークのジャージに身を包んだ男がのそりと姿を現した。その後ろには、常に数台のカメラを手放さない眼鏡小僧がいる。冬児は真子を見て、それから教室を見まわすと、
「なんや、旦那はまた遅刻かい」
「鈴原!」
「ほんと、ここんとこ毎日だもんな。惣流といい、碇の双子といい。こうも予想通りだと、簡単すぎて賭けにならないよ」
「相田、あんたまだそんなことやってんの?」
「だからやってないって。賭けが成立しないんだから、商売にならないだろ」
「そういう問題じゃないわ! 賭けをすること自体がいけないって言ってるのよ! 不潔だわ!」
「なんで不潔なんだよ。賭けは人類最古の娯楽の一つだぞ。お前は伝統をバカにするのか?」
「屁理屈言うんじゃないわよ!」
 喚き始めた委員長はほっといて、冬児はぽかんと何やら考え事をしている真子を見やった。飛鳥たちのことを考えているという風ではない。心ここに在らず、といった感じだ。ふむ、と軽く首を捻って、冬児は考えるのをやめた。席について、途中のコンビニで買ってきた朝食代わりのおにぎりを食べ始める。
 予鈴が鳴り始める頃、校門の方から絶叫が聞こえてきた。見なくても解る。髪を振り乱した金銀二色の少年が二人、一方はけたたましく喚きながら、もう一方は無言のままに、全速力で走ってくる。
「なんとか今日もセーフやな」
「なんだかんだ言って遅刻だけはしないんだよな、あの二人」
 つまらん、と嘆息を洩らす健輔。それでも二人が並んで走りこんでくる姿はきっちり望遠レンズつきでファインダーにおさめている。
 二人並ぶと、とにかく映える。一番映えるのは間に真子が入った時だが、そんなショットは滅多にものに出来ない。真子を挟んで、二人が――というか飛鳥が――大人しくしていた試しがないからだ。
 リノリウムの床を軋ませ、二つの足音と教師の「こらーっ! 走るなー!」という怒声が廊下に響いている。
「っっだ――、ぎりっぎりセ――――フ……」
「……」
 荒い息を吐きながら二人が駆け込んできたのと、チャイムが鳴り始めるのはほぼ同時だった。担任の日向誠人はまだ来ない。
「良かったね、間に合って。朝ご飯は?」
 全力疾走した所為でまだ肩で息を吐いている飛鳥に、真子は声をかけた。息も絶え絶えに席につきながら、飛鳥はなんとか手を上げる。
 玲はというと、飛鳥同様やはり息は荒かったが、飛鳥ほど表には出さず、真子にちらりと一瞥を投げかけ、視線を一瞬絡めただけで自分の席についた。蒼銀の髪が汗を弾き、白い肌が紅潮している様は、何処となくエロチックだ。
「玲の奴、ツナとハムばっか俺に寄越しやがって。トマトと卵独占だぞ、こんなの許していいのか? いい加減偏食治さねえと、そのうち駄目駄目人間になるぞ」
「惣流に言われちゃお終いだよな」
「ん〜〜? な・ん・だ・と?」
「いっっっやあああああああああ――――……」
「学習能力ないんか、お前は」
 小さく「アホ」と溜息を洩らし、冬児は床に転がった健輔から目を逸らした。
「駄目だよ、玲。飛鳥の分は別にわけといたじゃない」
「……」
 まるでその騒ぎが目に入っていないかのように真子が『めっ』と睨むと、玲は済まなさそうに目を飛鳥に移し、それから真子を見やって、小さく瞳を伏せた。
「……ごめんなさい」
「はい、よろしい」
 まるで子供を叱る母親のような口調で言って、真子は優しく微笑んだ。基本的に真子は偏食を許してはいないのだが、どうしても食べられないものを無理にすすめたりはしない。その所為か、玲の偏食はあまり治ってはいないのだった。(真子の作るものなら)何でも食べる奴が隣にいる時はなおさらだ。
 どうも隣の皿に嫌いなものを投入し、自分の好きなものと入れ替えるという小手先の技ばかりが上達している気がするのは何故だろう。飛鳥のガードが甘いのも問題だ。玄道などは完璧なのだが、たまに同じ事をやって真子に叱られたりもするのが玉に傷である。
「おはよう、みんな。遅れてすまないね」
 そう言って入ってきた眼鏡の青年――壱中2−A担任の日向誠人は、片手で眼鏡を押し上げながら生徒を見回し、口を開いた。
「今日は転校生を紹介する。入ってくれ」
 その言葉と共に、廊下で待っていた人物が中に入ってくる。その姿を見た瞬間、真子は嬉しそうに表情を輝かせ、そしてそれを見た飛鳥と玲が顔をしかめて転校生に視線を投げつけた。
 女子のかしましい嬌声と男子の冷ややかな眼差しを一心に浴びながら、涼やかに微笑んでいたのは、銀の髪に真紅の瞳を持つ少年だった。
「渚郁です。よろしく」
 そう言って微笑みながら、郁は真子を見詰めて瞳を和らげた。
 
 転校生の人気は絶大だった。
 人気の集合体である玲と飛鳥、そして隠れファンの多い真子や光の存在によって、2−Aはただでさえ注目度が高いクラスである。
 そこに第三の美形少年がやってきたとあっては、観客が集まらないわけはなかった。
 この状況で金儲けに走らない健輔ではない。冬児には入場制限を任せ、ここぞとばかりに郁の写真を撮りまくった。
 彼のサイトで行なわれたオークションでは昼休み前には最高値が千円を越え、予約注文はパンク状態になっていたという。その騒ぎに紛れるようにして、ちゃっかりと真子の写真も撮っているあたりが商売人だった。
 女子に囲まれ、近づきようのない郁を遠目に眺めながら、真子は切なげに瞳を伏せて小さく溜息を吐いた。無論、それを見て面白くないのが飛鳥と玲だが、下手に言葉がかけられない。
 この日の授業は、ほとんど無意味といっても良かったろう。誰も聞いちゃいなかったからだ。教師も半ば諦めていたのか、根府川先生などはいつもの話を授業開始後五分にして始める有様だった。
 そして昼休み。いつものお弁当タイムに、真子たちは騒がしい教室を逃れて屋上に避難した。健輔だけはまだ商売に精を出していたが。
「……えらい人気やな」
「まぁ、あれだけ綺麗なら、しょうがないよ。大抵の女の子は騒いじゃうわよ」
「……そうだね」
 常人の三倍量に近い大盛り弁当をぱくつく冬児の台詞に光が答えると、弁当箱を膝にのせた真子がポツリと呟いた。が、周囲の視線に気付き、頬を赤らめて慌てて首を振る。
「な、なんでもない!」
「お前、アイツと何かあったろ」
 蒼氷色の瞳を閃かせて、飛鳥が言った。その対面では玲が同じように真紅の双眸を真子に向けている。その追求から逃れることは出来ず、真子は朝の出来事をぽつぽつと話し始めた。それを聞いて、真っ先に顔をしかめたのは冬児だった。
「なんや、めちゃめちゃキザなやっちゃな。ワシそういう奴好かんわ」
「鈴原」
 声音を抑え目に冬児をたしなめて、光は真子を見やった。真子の様子は落ちこんでいるという風ではなく、初めから諦めているようだった。
「気になるの?」
「……わかんない」
 首を振る。本当に解らなかった。ただ、褒められて嬉しかった。惹かれているのは確かで、でも、好きだというほどではないと思う。
「でも……気になるのかな、やっぱり」
 すぐ近くで優しく微笑みかけられると、何故かどきどきした。あんな風に真子に笑いかけてくれた男の子は、飛鳥と玲を除けば誰もいなかったから、余計に新鮮だった。その所為かもしれない、と真子は思った。
「やれやれ、まいったよ」
 ドアを開けて屋上に上がってきた健輔の声に、全員がぱっと振り返り、そのまま凍りついた。彼の後ろに、話題の人物が立っていたからだ。
「のんびり飯も食わせてもらえないみたいなんで、モデル料代わりの護衛だよ。渚も一緒でいいだろ?」
 言って、コンビニの袋を持ち上げて見せる健輔に、光が我に返った。
「ど、どうぞ。いまあなたのことを話してたところだったのよ」
「それは光栄だね。じゃ、遠慮なくお邪魔するよ」
 光ですら一瞬見惚れるほど爽やかな微笑みを浮かべて、郁は真子の正面に腰を下ろした。その隣の健輔が座り、買出しの成果を出す。食後のデザートなどは人数分あった。どうやら護衛役を済崩し的に押し付ける腹積もりらしい。
「また逢えたね、真子さん」
「う、うん……」
 その微笑みの前に、真子は顔を赤らめてろくに郁を見れない。そんな彼女を、郁は倖せそうに、そして飛鳥は不機嫌そうに、玲は淡々と見詰めていた。
「なんだ、知り合いだったのか?」
「ちょっとね」
 と笑って、郁は健輔に朝の出来事を簡単に説明した。それは真子の話と大して違いはなかったが、主観が多分に込められていた。曰く、とても魅力的な――とか、美しかったとか、まあそういう歯の浮くような修辞的表現の類である。
 普通の会話で、そういうことを平気で言える奴を本能的に嫌う習性が飛鳥にはある。冬児は生理的に駄目らしく、終始痒そうにしていた。
「ふ〜ん。まあ、そういうことならさ、碇も一緒にモデルやってくんないか? あ、なんなら惣流と碇の双子も」
「ぼくは玲だ」
「あ、そう」
 珍しい玲の発言をあっさりいなして、健輔は手早く昼食を片付け始めた。その隣で、郁は同じ人間とは思えないような優雅な仕種で食べ物を口に運んでいる。食べるというより、口許で消える感じだ。それでいて、量的にもペース的にも健輔とほぼ同じだから凄い。ぽかんとしている真子に、郁は目を向けた。
「美味しそうなお弁当だね。ひとつ貰っていいかい?」
「え? あ、どうぞ」
 郁に見惚れて――というよりは郁の食べっぷりに呆気に取られて箸が完全に止まっていた真子は、言われるがままに弁当箱を差し出した。郁の白くて細い指先が弁当箱に伸びる――が、その寸前に真子の両脇から伸びた箸が、郁の獲物を横から掻っ攫っていた。
「そう簡単にシンの弁当を食えると思うなよ」
「徹底抗戦」
 こういうときだけ仲がいい二人である。宙に浮いた指を哀しげにわきわきさせて、郁は二人に目を向けた。
「なるほど、お姫様を守るナイトというわけだ。これは手強そうだね」
 不敵な笑みを浮かべながら、郁は飛鳥と視線を合わせた。次いで、玲に視線を移す。口許には笑みを湛えていたが、しかし瞳はまるで笑っていなかった。まるで両者の間で激しく静かにせめぎあうATフィールドの干渉光が目に見えるようだ。
「姫君を哀しませるのは本意じゃない。この場は退くよ。しかし、いつまでもその地位を守れるとは思わないことだ。美しいお姫様を狙って、隣国が攻めてくることもあり得るからね」
「なら、てめぇは悪役じゃねぇか」
「それは違うな。善も悪も一方の主観でしかない。僕にしてみれば、きみらはお姫様を塔に閉じ込めている悪人に見える。僕が正義の勇者とすればの話だけどね――無論、そんなつもりはないけれど」
「なんだとぉ!?」
「おっと、今はやりあうつもりはないよ。いずれ決着はつけるがね」
「いい度胸だ」
 睨み合う飛鳥と郁を、真子はおろおろしてみていることしか出来なかった。彼女にしてみれば、どうして飛鳥が郁にここまで敵意を剥き出しにするのか解らない。
「ね、ねぇ、もうやめてよ、二人とも」
「シンは黙ってろ!」
「きゃっ」
 腕に縋った真子を、飛鳥はつい反射的に振り払っていた。跳ね飛ばされた真子を、玲が咄嗟に抱きとめる。そして、玲は冷たい怒りを宿したその真紅の双眸を飛鳥に向けた。玲の胸の中で見上げた弟の厳しい表情に、真子は言葉を飲む。
「…玲……?」
「シンは、ぼくが守る」
 ぽつりと、しかし断固とした響きをもって、玲は宣言した。その玲を、飛鳥は憎々しげに睨み返す。
「おやおや、仲間割れかい? ま、僕にとっては好都合だけどね」
「郁くん! どうしてそんなこと言うの!?」
 まるで二人を煽り立てるような発言をする郁を、真子はきっと睨みつけた。漆黒の双眸は涙で潤んでいて、見るものの罪悪感を駆り立てずにはいられない。が、郁は変わらぬ笑みを口許に湛え、そっと伸ばした指先で、零れた涙を拭った。
「ごめんよ。きみを哀しませるつもりはなかったのに」
「郁くん……あなたが、わからないよ」
「……そうだろうね」
 郁は、ふっと寂しそうに微笑った。
「ね、ねぇ、もうやめよ? 落ち着いて、ね? せっかく知り合えたんだから、喧嘩なんかやめよう?」
 余人が割って入れるような空気ではなく、今まで成すすべもなく眺めるしかなかった光がとりなすように言った。
「……」
 無言で息を吐いて、飛鳥はその場に座った。それを見て、玲も真子の肩を抱いた手の力を緩める。二人の間から戦意が消失したのを見てとって、郁も退いた。健輔は、その修羅場のすべてを夢中でカメラにおさめ、冬児にどつかれていた。
「痛いな、何するんだよ、冬児」
「何するやあるかい。こんな時に何しとんねん、お前は」
「だって、修羅場だぜ〜? オールスターだぜ〜? 売れるって絶対〜」
「売らんでええんや!」
「どうしてだよ。儲かるんだからいいじゃないか」
「あかんもんはあかん! こういうんは、売りもんにしたらあかんのや!」
「……解ったよ」
 渋々ながら頷く健輔。普段滅多に怒らない分、冬児が怒るときというのは余程のことと解っているので、退くのは早かった。
「売り物にはしない。けどさ、代りに商売用の奴撮ってもいいよな」
「ワシに訊くな。そうゆうんは本人に訊かんかい」
「いいよな、渚、碇」
「駄目」
「双子の片割れには訊いてないんだよ」
 素っ気なく言って玲と目線をあわせようともしない健輔を見て、光が眉をひそめた。傍らに腰を下ろした冬児に小声で尋ねる。
「……前から思ってたんだけど、なんか、相田って碇くんにきつくない?」
「前に碇を隠し撮りした時、問答無用でカメラ壊されとるからな」
 ちなみに、飛鳥にはもっと酷いことをされているが、こちらは慣れというか癖というか、あまり根には持っていないようだ。或いは、下手に逆襲を企てようモノなら、やる前から百倍にして返されるのが目に見えているからか。
 よほど玲のやり方が衝撃的だったらしい。まあ、いきなりカメラを奪われて、無造作に窓から捨てられれば無理もないが。捨てたというか投げたというか落としたというか。しかも三階で、下はコンクリだった。むろん再起不能。弁償などするわけがない。まあ、撮ったモノがモノではあったため、強く出れなかったということもあるが。
「何よそれ。まるで逆恨みじゃない」
「ま、有体に言うとそうや」
「有体に言わなくてもそうよ。ちょっと、あい――」
「まあ、ええからほっとけ。こういうんは、周りがやいやい言うても逆効果や。仲良うなる時はほっといてもなるし、ならん時は何やってもあかんねんて」
「そうかなぁ……」
「人間、そうゆうもんや」
 言って、湯気を吹き払いながらポットのお茶を啜る冬児。中学生とは思えないほどオヤジ臭い男である。
 そんな会話などそっちのけで、健輔は二人を説得していた。
「な、頼むよ!」
「僕は別に構わないよ」
「……ボクも、別にいい」
 気を取り直したように言って、真子は涙を指で拭った。
 
 昼休みは無限ではない。
 何だかんだで削られた休み時間の残りを気にしながら、健輔は撮影に入った。といっても、先刻からシャッターは切りっぱなしだったのだが。
 とりあえず郁と真子のツーショットを数カット撮ってから、ピンでの撮影に入る。郁の方は適当に動いてもらってフレームにおさめ、フィルムを交換してから、本命の真子の撮影に移った。
 何しろ、自由に動かせるという状況は滅多にない。何しろガードが固く、真子の場合は殆どが盗み撮りに近いのだ。
 しかし、今回は真子が自ら了承したためか、飛鳥も玲も口出しをしてこない。そのため、つい喜びのあまり羽目を外した健輔の要求は結構細かく、またマニアックな方向へとエスカレートしていった。
「ん〜、最高〜。じゃ、次はちょっと歩きながら振り返って。そうそう、いい感じ。うん、そこでスカートを直すようにしながら――んん〜、いいね〜。で、ちょぉっと前かがみになって……そう、胸を寄せるようにへぶぅっ!」
「いい加減にせんか、このド変態野郎!」
 当然、途中で飛鳥の脳天踵落としが炸裂し、健輔はそのまま昏倒した。後になって探したが、何故かフィルムとディスクの行方は解らなかったという。
「ちょいやりすぎやな」
「どっちが?」
 どくどくと頭と顔面から血を流している健輔を憐れみのこもった瞳で見守ってやりながら呟いた冬児に、『こいつ本当に友達なのかしら』と疑問を覚えつつ、光は訊いた。
「……どっちもや」
 目を逸らしながら、冬児は言った。
「ま、朝までには目ェ醒ますやろ」
「そうね――って、助けなさいよ!」
 思わずツッコんでしまう光。タイミングも間もバッチリである。冬児の日頃の薫陶(そんな大したもんではないが)の賜物か。
 昼休みの終了を告げる予鈴が鳴ったのは、ちょうどそんな時だった。
 かくして、相田健輔は六時間放置された。合掌。
 
 放課後、部室に向おうと荷物をまとめていた真子のもとに、郁がやってきた。
「真子さん、よかったら学校を案内してくれないかい?」
「え、ぼ、ボク? あ、あの、ごめんなさい。コンクール前の追いこみで、時間がないの。本当にごめんなさい」
 郁の言葉に、一瞬顔を輝かせた真子だったが、一転して申し訳なさそうに頭を下げた。謝られた郁が恐縮するほどで、郁は慌てて手を振って笑みを浮かべた。
「あ、そうか……そうだったね。じゃあ、他の人に頼むよ。気にしないで」
「いえ、ボクの方こそ。……あの、じゃあ、急ぐから」
 そう言って、真子は教室を出ていった。その頬が紅く染まっていたことに気付いたのはごく数人だったが、そのうちの一人、惣流飛鳥・ラングレーは不機嫌だった。郁に対する真子の一挙手一投足が気に入らなかった。
「おい、転校生」
 腰に片手を当てて相手を睥睨するいつものポーズで言って、飛鳥は郁に声をかけた。真子がいなくなったので声をかけようとした女子たちが慌てて離れていく。触らぬ神に祟りなしだ。彼の場合はありそうだが。
「なにかな? 惣流飛鳥・ラングレーくん?」
 名前を呼ばれなかったことへの意趣返しか、わざわざフルネームで呼んで、郁は白皙の美貌を飛鳥に向けた。
「いちいち人をフルネームで呼ぶんじゃねぇよ、鬱陶しい。飛鳥様と呼べ」
「じゃあ、僕のことも郁様でいいよ」
「なんっで俺様がてめぇを様づけで呼ばなきゃいけねぇんだよ」
「人を様づけで呼ぶのがきみの親愛の表現だと思ったんだが……違うのかい?」
「なんでそうなるんだ……」
 郁との噛み合わない会話に疲労感を覚えて、飛鳥は溜息を吐いた。
「で、何の用かな? ああ、きみが案内してくれるんだね。嬉しいよ。持つべきものは友達だね。友情こそはリリンの生み出した(以下略)――」
「なんで俺が案内しなきゃならねぇんだよ! って、こら、人の話を聞け−っ!」
「さあ、僕と友情について語ろうじゃないか」
「やめろバカ、こら、離せ−っ!」
 にこにこと笑いながら飛鳥の腕を掴んでを連行していく郁を、クラスメートたちは唖然として見送った。あれだけ不機嫌な飛鳥を前にまるで動じず、しかも飛鳥に有無をいわせない人間など、真子や玲以外にはこれまでいなかったのだから。
「……新手の漫才コンビ結成やな」
 徐々に遠ざかっていく飛鳥の喚き声を見送って、冬児はぼそりと呟いた。
「お昼はあんなに険悪な雰囲気だったのに、もう仲良くなったのかしら」
「あれは仲ええとゆうんか?」
「さあ……」
 冬児の呆れたような問いかけに、光は肩をすくめた。
 
 その頃、玲は屋上でギターを弾いていた。
 正確には、給水塔の上だ。音楽室が使えない時は、大抵ここで弾いている。ここなら多少騒いでも文句は言われないし、何より邪魔が入らない。
 時折手を止めてクリップで止めたスコアを睨み、指先でシャーペンを回しながら、頭の中で鳴っている音を捕まえようと眉根を寄せていると、金属のドアを開けて誰かが上がってきた。この時間には珍しいことだ。
 以前、告白現場を目撃したことがあったが、あの時はちょっと鬱陶しかった。フラれた女の子が泣き喚き、その友人連中が騒いでいたため、降りるに降りられなかったのだ。
 そんなことを思い出しながらそっと見下ろすと、そこにいたのは姉の幼馴染みの金髪小猿と、今朝転校してきたいけ好かない銀色だった。何やら腕を組んでいる。これは合挽き(それは肉だ)とかいう奴だろうかと、玲は首を傾げた。
 大いなる勘違いを胸に抱きながら玲が見ていると、金髪小猿が勢いよく腕を振り払って銀色から離れた。顔を真っ赤にしている。照れているのだろうか? 
 ちなみに、屋上の隅っこにはまだ健輔が転がっていたが、誰も気にしなかった。
「なんなんだよ、お前は! 真子に馴れ馴れしくしやがって! ムカつくんだよ!」
「嫉妬かい? 悔しかったらきみもやればいいじゃないか」
 銀色――郁の言葉に、金髪小猿として玲に認識されている少年、飛鳥は言葉に詰まった。それが出来るくらいなら、こんなに苛立ったりはしない。自分にできないことを他人がした時、人というのは妬心を覚えるものだ。
「できないんだろ? 何故だい。本当に大切なものなら、ケースに飾って眺めていないで、自分の手の中に収めるべきじゃないか?」
「う、うるせぇな! こっちにも色々あるんだよ!」
「幼馴染みの壁ってやつか。彼女に嫌われるのが怖いのかい? 今の関係を壊すのが怖い? そうしているうちに、彼女はきみの手から攫われていくよ――僕のような男にね。今なら難しいことじゃない。きみたちの手は、ただ繋がれているだけだから」
「てめぇ……」
 ぎりっ、と歯を食い縛る音が聞こえてきそうな形相だった。
「これは忠告だよ。勝負はフェアにいきたいからね。僕は彼女が――碇真子が好きだ。僕のものにしたい。僕だけを見詰めさせたい。彼女の身も心も僕が独占したい。きみもそう思ってるはずだ。違うかい?」
「てめぇは真子に逢ったばっかりだろうが!」
「愛を育むには時間が必要だが、人を好きになるのに時間は関係ないよ。彼女も僕に惹かれていると感じる。それはとても嬉しいことだ。だからなおさらきみたちには渡せない」
「――きみたち?」
 飛鳥が眉をひそめた時、給水塔から玲が勢いよく飛び降りてきた。冷ややかに燃え盛る真紅の双眸を、自分と同じ白子(アルビノ)の少年に向ける。
「シンは誰にも渡さない」
「それでいい。でないと、こちらもやり甲斐がないからね」
 満足げに頷く郁。
「玲、お前――」
 飛鳥は息を飲んで、長年一緒に過ごしてきた銀髪の少年に驚きの目を向けた。
 双子の姉に対する玲の独占欲の強さには前々から気付いていたが、ここまで明確に主張するとは思っていなかった。と同時に、自分の思いをこうも明瞭りとぶちまけられる彼を羨ましく思った。
 幼馴染みと、血の繋がった双子の姉弟。ともすれば自分の方が圧倒的に有利な立場のように思えるのに、何故かそんな実感が湧かない。玲なら、そんな壁も乗り越えてしまいそうな気がする。そんな想いの強さを感じる。それに対して、自分は何をやっているのだ。真子に甘えきって、今の関係が崩れることを恐れて何も言えずにいる。
「あとはきみだね。どうする? 諦めるかい?」
「だ、誰が!」
 頬を紅潮させて、飛鳥は郁と玲を見据えた。
 真子のことを大切にしたいという想いは、誰にも負けない。想いの強さでは、玲に負けているとは思わない。小さい頃からずっと一緒で、自分が真子を守っているつもりが、実は自分が守られていたのだと気付いてからも、彼女の一番近くにいたいという想いは変わらなかった。
 その温もりを、奪われるがままにはしておけない。その相手が玲だろうと、郁だろうと、誰にも譲る気はなかった。
「真子は俺のもんだ。お前らには渡さねぇ!」
「結構。だが、問題は彼女がどう思っているかだ。直接確かめたわけではないのだろう?」
「それは――」
 言葉に詰まる飛鳥。そんな彼を何故か優しげに見やって、郁は言葉を継いだ。
「そこでだ。ひとつ、ゲームをしよう」
「ゲーム?」
 玲が微かに眉をひそめる。
「そう。一週間以内に、彼女に告白できるかどうか。その結果、彼女に受け入れられた方の勝ち。どうだい?」
 そう言って、郁はアルカイックスマイルを浮かべた。

つづく

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