真夏のイヴ #009
真夏のイヴ #09
EVANGELION:REVERSE
〜真夏のイヴ〜
EPISODE:09 Two years ago(8)
ドアをノックする音に、玄道は顔を上げた。
「どうぞ」
飛鳥や玲ならノックはしないだろうと考えてそう声をかけると、かちゃりとドアを開けて光が顔を覗かせた。
「あの……わたしたち、そろそろ失礼します」
「そうか。色々済まなかった」
立ち上がって言う玄道に、光は含羞むような笑みを見せた。
「いえ、大丈夫です。ご迷惑かもとは思ったんですけど、晩御飯、下ごしらえだけ済ませておきましたから」
「いや、助かる。ありがとう」
そう言って、玄道は光を玄関まで送っていった。そこには既に郁が靴を履いて待っており、玄道に気づくと軽く頭を下げて寄越した。チラリと彼を見て、軽く頷く玄道。僅かに視線を合わせただけで、二人の間に会話はなかった。
「じゃ、失礼します」
ぺこりと頭を下げて、光は郁とともに碇家を辞した。
飛鳥、玲とともに外まで出て二人を見送った後、三人は家の中に戻る。
「真子は?」
「よく眠っている。かなり疲れが溜まっていたようだな」
飛鳥の問いにそう答えて、玄道はキッチンに向かった。その背中を見送って、飛鳥はちらりと真子の部屋のドアを見やる。が、そのまま小さく溜息を吐くと、僅かに背中を丸めて飛鳥はリビングに向かった。そんな彼の姿を黙って見つめていた玲も、その後に続く。
リビングに入ると、飛鳥はソファに背中を預けてぼんやりとTVを見ていた。目はモニターに向けられていたが、瞳には何も映していない。
考えていたのは、先刻の光の言葉だった。
(…光のやつ……)
まるで自分の心を見透かされているようで、ドキッとした。その心配は、まさに飛鳥自身が懸念していたものだったからだ。光の言うとおり、このままではいずれ真子に対して欲望を抑え切れなくなるかもしれない。事実、かなり危ういところだったのだ。だが、もしそうなってしまったとしたら。
飛鳥が本気になれば、真子を無理やり押し倒してしまうことなど容易い。やはり、そういう状況にならないよう気をつける他はないのだが、真子の方にその自覚がない以上、飛鳥の方が一歩引くしかないのだろう。ここは少し距離をおいてみるべきなのかもしれない。単にHしたいというだけの安易な気持ちで、真子の心を傷つけたくはない。
もっとも、距離をおくといっても幼馴染みだし、同じクラスでその上隣同士なので、今更逢わずに過ごすなど不可能といっていい。第一、真子に会わずにいたら、それこそ気が変になって何をするか解らないとさえ思う。
だが、半分碇家に住んでいるような今の状態では、絶対に間違いがないとは言い切れないだろう。この間のように。
(…ここを出るしかないってことか……)
そんな出来もしないことをつらつらと考えていると、不意に画面が切り替わった。驚いて振り向くと、胡座をかいて座っていた玲がリモコンを片手に飛鳥を見やった。
「勝手に変えんなよ。見てたんだから」
「見てなかった」
「……見てたんだよ」
そう言っておきながら、飛鳥はそのままソファに背中を思い切り預けた。ぼんやりと天井を見上げて、長い溜息を吐く。そんな下らないことで喧嘩をするような気分ではなかった。
音楽チャンネルに切り替わったらしく、背中の向こうでTVが賑やかなビートを奏で始めた。玲自身はあまりそういう曲を弾かないが、音楽を聴くこと自体は結構好きらしい。真子と共通の話題を持てる趣味をもった玲が、飛鳥はちょっと羨ましかった。玲と真子が二人でピアノを弾いていたり、音楽の話をしている時、彼一人が話に入れなくて悔しい思いをすることがある。
何かに一心に打ち込めるものがあるというのは、飛鳥にとっては羨ましいことだった。勉強にせよ、運動にせよ、大抵のことは小器用にこなしてしまうが、どれもすぐに飽きてしまって長続きしないのは、飛鳥の悪い癖だ。自分でもそれは解っているのだが、一体何がしたいのか、自分でも本当によく解らないのだ。だから、将来のビジョンというものも、未だにハッキリと掴めずにいる。仮にここを出たとしても、自分に何が出来るかも定かではない。ひとりで生きていく自信も、飛鳥にはなかった。
自分には、何もない。真子と何か共有しているものも、絆となるものもない。こんな状態で距離をおいたりしたら、本当に真子との仲が離れてしまうような気がして怖かった。
(…くそっ……)
ソファに躰を預けたままごろんと横になり、玲に背を向けた飛鳥は、そっと頭を抱え込んだ。
結局のところ、自分は真子に頼っているだけなのかもしれない。真子があまりにも優しいから、その優しさに甘え過ぎていたのかもしれない。このままでは真子を傷つけるだけで、守ってやるなんて到底出来そうにない。
――来週には、僕は第3新東京市にいないから。
不意に、脳裏に銀髪の少年の涼やかな笑みが浮かぶ。
風のように現われて、真子の心を奪って去っていく、あの男。真子が郁に惹かれているのは、傍らで観ていればすぐに解った。そして、今の自分では郁に勝てないだろう、ということも。彼に勝つためには、真子に依存している今の自分を変えなくてはならない。一人で生きていくことが出来なくて、どうして真子を守れるだろう。
(……負けてたまるか)
胸の中でそう呟いて、飛鳥は拳を握りしめた。
食卓に会話はなかった。
別に珍しいことではない。もともと食事中に仲良く語らうといった習慣は、この家の男たちにはないのだ。ただ、いつもと違うのは、その沈黙の中にわずかな救いとなるものが全くないという点だった。
男三人が無愛想に顔をつきあわせたテーブル周辺の空気はどんよりと重苦しく澱んでいて、ただ箸を機械的に動かし、料理を口に運んで咀嚼する音と、時折食器がふれあうカチャカチャという音だけが虚しく響いている。普段は気にも留めないそのことが、ここ数日、気に障って仕方がない。真子ひとりが食卓にいないだけで、どうしてこうも雰囲気が荒れるのだろう。
玲や玄道はどうか知らないが、飛鳥はひたすら居心地が悪かった。折角用意してくれた光には悪いと思いながらも、さすがにこの雰囲気ではとてもゆっくり食事を味わう気になれない。が、かといってそれを表に出すのは何となく負けたような気がして癪だったから、ぶすっとした表情ではあるものの、何も言わずにただ料理を口へと運ぶ。
作った人間にしてみれば、何とも悲しくなるような状況であった。光がこれを見ずに帰ったのは幸いだったかもしれない。真子の方針で食卓にTVがないのが、このところやたらと疎ましい飛鳥だった。
そんなアスカの懊悩を知ってか知らずか、玲は嬉々として大好物のきんぴらゴボウに箸を伸ばす。味付けも野菜の切り方も真子の作るきんぴらとはだいぶ違うが、だからといって文句を言う玲ではない。見た目はは筑前煮みたいで、ざく切りにしたレンコンやにんじんがごろっと入っている。ゴボウは少し分厚い。鷹の爪がほどよく効いていて全体的にちょっと甘辛いが、これはこれで美味しいから、自然と箸も進む。
ぽりぽり音を立ててゴボウを噛みしめる玲の隣で、玄道は眼鏡を曇らせながら、ずぞ、とお吸い物を啜った。具は根野菜と鰯のつくねである。メインはきのことゴボウの炊き込み御飯で、五目豆と小松菜の煮浸しまでついていた。とにかく全体的に肉がなく、代わりに野菜たっぷりである。多めに作ってあるので、明日まではもちそうだ。
「…うまいな」
「うん」
真子から玄道や玲の好みを聞いていたのか、それとも普段からこうしたものを作っているのか、光の作った夕食はどちらかというとかなり和風な感じで、端からはそう見えないのだが、玄道と玲の箸はかなり進んでいた。こうしたものは玄道には作れないかというとそうでもないのだが、なにぶん忙しいのでそこまで手はかけられない。ちょうど真子の手料理が恋しかった頃だけに、光の心遣いは正直ありがたかった。
あっさり風味の和食をしみじみ味わっている二人とは対照的に、こってりした濃い味付けの料理が好きな飛鳥としては、旨いことは旨いがイマイチ飯を食ったという気がしないわけだが、喰わせてもらっている身で文句は言えない。真子のハンバーグが食いてぇ、と思いながら、内心溜息を吐く飛鳥だった。
「…ごっそさん」
雰囲気は最悪だが、光がせっかく作ってくれたものを残すわけにはいかない。食べるというより、口の中に無理矢理押し込んでは飲み下すという状態で目の前にある皿を全て空にした飛鳥は、さっさと食器を流しに運ぶと、一秒たりともここにはいたくないといった風情で食卓を後にした。
食卓を後にした飛鳥は、帰る前にちょっと様子を見ようと真子の部屋に向かった。
「真子、入るぞ」
そう言ってドアをノックしてから、そっと中を覗き込む。ベッドの中で、真子は落ち着いた寝息を立てていた。
灯りを点け、飛鳥はそっと室内に入った。部屋にこもった女の子の甘い匂いを意識しないようにしながら、真子の眠るベッドの脇にどっかりと胡座をかいてしゃがみ込む。
ふとんに鼻先を埋めるようにして眠るその寝顔は、まるで小動物を思わせる。白磁のように白い膚、その上に流れかかる黒絹のような細い髪。そっと指を伸ばすと、柔らかでサラサラした感触が指先に伝わる。かなり短めにしている所為で、形のいい耳やうなじががはっきり見える。そこの膚も白く滑らかで、触ると気持ちよさそうだった。
一瞬、飛鳥の心の中に、そこに触れたい、という衝動が湧き起こる。
「う…んぅ……」
だが、飛鳥がそれを実行に移す前に、桜色の口唇から妙に艶めかしい吐息を漏らし、真子が微かに身動ぎをした。その動きにびくっとして、飛鳥は慌てて真子の髪から手を離す。
(な、なにドキドキしてんだ、俺はっ)
思わず生唾なんかを飲み込んだりしてしまって、こんなヤツを色っぽいとか思っちまうなんて一生の不覚だ、と嘯きながら、飛鳥は紅い顔で髪をくしゃくしゃとかき上げた。それから、そっと目を上げて真子の様子を窺う。どうやら単に寝返りを打っただけのようで、寝息は安定していた。思わず息を吐いてから、ハッと我に返って赤面する。
(……く、くそー、くそー)
なんかやたらと悔しい。
とことん鈍くて、自分が魅力的な女の子だって自覚もなくて、だからとにかく無防備で。まるで誘っているように思える時も多々あるのだが、その後には妙に子供じみた行動が続いたりするので、いつの間にか期待するだけアホらしく思えてしまう。だが、何より情けないのは、そんな真子の一挙手一投足にいちいち反応してドギマギしてしまう自分だった。
「…ったく……」
真子にはもう、一生かなわないのかもしれない。そんな諦め混じりの溜息を漏らしながら、真子の寝顔を見やる。そして、どうして真子は無理をしてまで学校に行こうとしたんだろう、と思った。
郁に逢いたかったからだ、というのは解る。郁は日曜には第3新東京市を離れる。真子は多分それを知っていたのだろう。彼と話をするチャンスは、もういくらも残っていない。だから、無理したのだろうか。
だが、実際には大した話はしていない。その前に光に妨害されたからだ。彼女にかかっては、学校中の女性とたちの注目を集めている三人の美少年といえども、ただの汚らわしいオスでしかないらしい。
真子は、郁と何を話したかったのだろう。そんなに郁のことが好きなのだろうか。
そう思うと、胸の中に焼け付くような嫉妬の炎が込み上げてくる。
…イヤだ。
そう思った、瞬間だった。
――ぼくをすてないで。
幼い頃の、自分の涙声が脳裏に蘇る。
――ぼくをきらいにならないで。
フラッシュバックしてくるのは、忌まわしい過去の記憶。
玄道のそばで大声をあげて泣いている自分。だが、母はこちらを振り向きもせずに去っていく。次第に遠ざかっていくその背中を見つめながら、『棄てられた』という強烈な想いが胸を満たしていく。
――おかあさん
ぎゅっと目をつぶると同時に、拳をつよく握りしめる。爪が肉に食い込み、うっすらと血がにじんだ。
「…っ…くそっ……」
忘れたと思っていたはずなのに、もう平気だと思っていたのに、未だに覚えている。あの時の寂しさや悲しさ、そして怒り――自分は捨てられたのだという、どうしようもない悔しさ。
――忘れられるはずは、ない。
あれから五年。あれ以来、母とは一度も逢っていない。
逢う機会がまったくないわけではない。いくら忙しいとはいえ、復活祭やクリスマスなど、年に数度は戻ってこれる。しかし、飛鳥の方が逢うことを拒んでいたのだ。一度捨てておいて、自分に都合が良い時だけ可愛がるなんて虫がよすぎる。自分は母のペットではない――そういう意思表示だった。
たまに手紙が来るが、一度も読んだことはない。ゴミ箱に捨てたら真子に叱られたので、それ以来、読まずに引き出しの奥に放り込むことにしている。母がいま何処で何をしているかなんて知らないし、興味もない。忙しいのは飛鳥のためだ、などというお為ごかしも認めない。海外で仕事をしたがったのは母だ。それを自分のためだなんて言わせない。今さら自分の母だなどと言わせたりはしない。母親など、要らない。
彼女は既に、飛鳥にとって家族ではなかった。鏡子に代わって、飛鳥の中で母親としての役割を果たしてきたのが真子だ。いつも彼のそばにいて、辛いことも、悲しいことも、全部やさしく、温かく包み込んでくれたのは真子だ。
そう思うにつけ、目の前で眠る真子に対して強烈な独占欲が湧き起こる。郁と話なんかさせたくない。郁に向かって嬉しそうに微笑む真子を見ていると、無性に腹が立つ。幼稚な独占欲だと自覚しながらも、どうにも抑えられない。真子の心を自分にだけ向けさせたいのに、そのためにどうしたらいいか解らないから、よけいイライラする。
激発しそうになる感情。それを抑えるため、飛鳥は乱暴に髪をかき上げた。せつなげな吐息が唇から漏れる。救いを求めるように伸ばした指先が、真子の頬に触れる。
少し熱っぽい、柔らかな感触。ちょっと苦しげな表情が、飛鳥の指が触れた瞬間、ふっと和らいだ。
「……あすか…」
桜色の口唇が微かに動き、彼の名を紡いだような気がした。
どきりとして顔を見るが、寝言らしい。
ホッと息を吐く。
その時、飛鳥は胸の中で荒れ狂っていた激情が嘘のように鎮まっていることに気づいた。小さな頃、真子がそっと手を繋いでくると、いつのまにか気分が落ち着いていたのを思い出す。
(…ほんと、かなわねーよ、こいつには)
微苦笑混じりの息を吐いて、真子の躯に毛布をかけ直してやる。
そのまま、飛鳥は少し汗ばんだ額に口唇を寄せた。
「……おやすみ」
眠っているはずの真子の頬が、少し紅くなっていたような気がした。
ドアを開けて出ると、廊下の壁にもたれるようにして玲が立っていた。腕組みをしたまま、じっと飛鳥を見ている。血の色をしたその双眸が少しばかり怖い。まぁ、確かに飛鳥にはれっきとした前科があるわけだし、警戒するのは解るが、さすがに病人相手にどうこうしようという気はない。……多少、危なくはあったかもしれないが。
「んだよ」
「…べつに」
ぷい、と顔を背けると、玲はそのまま自分の部屋に入っていった。
「……なんだ、あいつ」
軽く拍子抜けしながら、飛鳥はぼんやりと髪をかき上げてそれを見送った。
「…ま、いっか」
薄く笑みを浮かべ、飛鳥はそのまま碇家を辞した。自然と鼻歌がこぼれてくる。さっきまでのイライラした気分は、何処かに行ってしまっていた。
「…べつに送ってくれなくてもいいのに」
少しばかり居心地の悪さを覚えながら、光は傍らを歩く銀髪の少年の横顔を見上げた。街灯の明かりに照らされた郁の横顔は信じられないくらいに整っていて、光でさえちょっとドキドキしてしまう。
「いや、夜道を女の子一人で帰すわけにはいかないよ。いくら第3新東京市の治安がいいといってもね」
そういって爽やかに微笑む仕草に、女の子の扱いに慣れているのだと感じてしまう。だからこそ、彼が真子に言い寄っているのが気に入らないし、真子が彼のことを気にかけているのも気にくわないのだ。
「……渚くんて、女の子にすっごく優しいよね」
「その言い方にはなんだか棘を感じるなぁ」
そう言いながら、郁はくすくすと可笑しそうに笑う。その笑い声さえ優雅に聴こえて、光は溜息を吐いた。確かに、クラスの女の子たちが騒ぐのも解る気がする。まるで本物の王子さまみたいだ。仕草の一つ一つが洗練されていて、相手に不快な思いをさせるということがない。だがその一方で、本心が全く見えないのが光の不安をかき立てる。
「洞木さんは、僕が真子さんに近づくのをあまり快く思ってないみたいだね」
「ええ」
きっぱりと頷いた光に、郁は思わず彼女の顔をまじまじと見つめ返してから、くっくっと可笑しそうに笑った。
「これは手厳しいな。そんなにハッキリ言われるとは思わなかったよ」
笑っている郁を、しかし光は笑みひとつ浮かべず、真っ直ぐ見上げたままだった。そのあまりに真剣な眼差しに、思わず郁も笑みをおさめる。
「だって、真子のことだもの。わたしにとっては大事なことなのよ」
真子は光の大切な、ほんとうに大切な友だちなのだ。今のように真子が光を信頼してくれていることが光にとってどれほど嬉しいか、彼女はきっと知らないだろう。
初めて真子に会った頃のことを思い出しながら、光は口を開いた。
「あの娘ね、一年の時、クラスの女の子たちにいじめられてたの」
――彼女は、入学当初から目立っていた。
それも無理はない。入学式に真っ黒なリムジンを乗りつけて現れた彼女の父親が、まず誰よりも異常に目立っていたのだから。その上、人目を惹く金色と銀色の髪の少年たちが常に彼女の傍にいた。これでは目立つなという方が無茶だ。
無論、それだけではない。彼女自身にも、人目を惹く要素は多々あった。
ずば抜けて成績がいいというわけではないし、何でも器用にこなすというよりはむしろ不器用で、ドジって笑いを誘う場面の方が多かったが、そんなことを気にさせないくらい溌剌としていて、彼女が微笑うと、それだけで自然と周りが明るくなった。そんな彼女は誰が見ても魅力的だったから、当然、男子たちの注目の的になった。
おまけに学年でも一、二を争う美少年二人がいつも傍にいたから、彼女をよく思わない人々もいた。一部の女の子たちからはかなり露骨に嫌われていたし、陰で口さがないことを言う娘も多かった。
その所為だろうか、真子には女友達というものがいなかった。飛鳥や玲が傍にいないとき、真子は大抵ひとりぼっちだった。まわりでは女の子たちが楽しそうにお喋りをしているのに、彼女はいつもぼんやりと外を眺めているか、ウォークマンで音楽を聴きながら本を読んだりしていた。彼女に話しかける者は、誰もいなかった。
彼女に手を出せば飛鳥と玲の容赦のない報復があると解ってからは、堂々と彼女をいじめる者はいなかったが、こうして無視することも立派なイジメであることに変わりはない。
真子は、そんな女子の中にとけ込めずにいた。いつでも一人、ぽつんと浮いていた。そして、そういう状態にすっかり慣れているようで、何も気にしていないように平然としていた。そんな彼女の態度がさらに周囲の苛立ちを誘った。
けれど、光は気付いた。時折、まわりの様子にちらりと目をやって、小さく溜息を漏らす真子の姿を、見てしまった。自分が疎外されているのは充分に自覚していながら、そのことを気にしていないという風ではなく、もうこの状況は変えられないのだと、何処か諦めにも似たような表情で小さく息を吐いて、ふたたび視線を手許へと落としていく。
光の知る真子は、そんな感じの女の子だった。
何気なく見かけた彼女のそんな醒めた横顔が、ひどく印象に残った。彼女が無視されているのを知っていながら、見て見ぬ振りをしている自分が、ひどくみじめに思えたのはその時だ。
考えてみれば、誰も彼女のことはよく知らない。にもかかわらず、ただ男の子にちやほやされているというだけの理由で、それが気にくわないからといってこんな子供じみた嫌がらせをしている。ばかげた話である。けれど、そんな女の子たちより、それを止めもせずに黙って見ているだけの自分が、ずっと卑怯な気がした。
彼女が嫌いだったのではない。彼女とはほとんど話をしたこともなかったのだから、もともと嫌う理由など何もなかった。彼女の方から男の子に声をかけていたわけではなかったし、そもそも飛鳥と玲が一緒にいるのは彼女の責任ではない。なのに、どうして彼女が好きではないと思っていたのか。
理由は簡単だった。単にクラスの女子に嫌われるのが怖かっただけだ。彼女をかばうことで、今度は自分まで仲間はずれにされるのではないかと思ったからだ。
そんな自分が、光はとてつもなく恥ずかしかった。
けれど、女子たちから完璧に無視されている真子に話しかけるには、それなりのきっかけが必要だった。真子は女の子たちの中に溶け込もうという努力を放棄して完全に自分の世界に入っていたし、その頃になると女の子たちも真子のことは見て見ぬ振りだったからだ。
何とかしたいと気ばかり焦って、そのまま数日が経った。
そんなある日、先生に頼まれた仕事で帰りが遅くなった光は、帰り支度をして教室を出たところで、思わず立ち止まった。階段を登ってくる女の子たちの会話が耳に入ったからだ。
「あの女、ホンットむかつく。涼しい顔しちゃってさ」
「えー? ちょっと怯えてるっぽくなかった?」
「てゆうかさー、あたしらがこんなこと言うなんて思ってなかったんじゃないの?」
「だよねー。あれぐらい言われなくてもやれってのよ」
それは真子と同じ音楽部の1年生だった。ほとんど初心者にすぎない彼女たちと違い、小さい頃からチェロを習っている真子は、1年生でありながらその実力を先生や3年の先輩たちに認められ、別格の扱いを受けていた。その妬みも手伝っていたのかもしれない。彼女たちは、いつものように先に帰ろうとした真子に無理矢理仕事を押しつけてきたらしかった。
「それより、帰りどうするー?」
「べつに何もないけど。どっか寄ってく?」
「あ、あたしちょっとCD屋寄りたい。アンジェの新譜、予約してあんの」
「えー。いいなー。後で貸してー」
真子一人に後片づけを押しつけておきながら、彼女たちは楽しそうに笑っていた。
とっさに隠れて彼女たちをやり過ごした光の胸に、どうしようもない怒りとやりきれない思いが込み上げてきた。けれど、その怒りの大半は、それでもそんな彼女たちを怒鳴りつけたり出来ない、情けない自分自身に向けられたものだった。光に彼女たちを叱る資格はなかったし、彼女たちの理不尽な行為に対して何の抵抗もしようとしなかったらしい、真子への思いも混じっていた。
きっと小学校の頃から同じような目に遭ってきたのだろう。そんなことを微塵も感じさせない明るさの裏側で、一人でいるとき、悟りきったような諦めの吐息を漏らす真子が、光にはたまらなく悲しかった。
飛鳥たちは、真子がこんな思いをしていることを知っているのだろうか。そう考えて、すぐに否定した。知っていたら、彼らが黙っているはずがない。真子を呼びだした女の子たちを心底震え上がらせた入学当初の事件は、まだ記憶に新しかった。
だがそれゆえに、彼女たちのやり口はどんどん陰湿なものになっていた。それに真子は一人で耐えていた。誰にもそのことを告げることなく、ただ自分が我慢すればいいと思っているかのように。
誰もいない音楽室で一人、黙々と後片づけをしている真子の姿に、光は胸をつかれた。
「なんで?」
気づくと、そう声をかけていた。
「何で、黙って言うとおりにしてるの? あの娘たちの仕事でしょ?」
苛立ち混じりに言った光を、真子はきょとんとした表情で見つめていた。まるで何を言われているのか解らないかのように、真っ黒な双眸を光に向けて、微かに首を傾げる。それから、やっと思いだしたように小さく頷いた。
「……あ、ほらき、さん」
その時、光は頭を後ろからがつんと殴られたようなショックを受けた。入学してかなり経つのに、真子はクラスメートの顔すら満足に覚えていないのだ。それぐらい、関係が希薄ということだった。確かに、話しかけた覚えは殆どないけれど。
「えと、なんで?」
「ごめん。あの娘たちが話してるの、聞いちゃって」
「あ……そうなんだ」
その時、真子はちょっとだけばつが悪そうな顔をして俯いた。窓から射し込む残照が彼女の細い躯を後ろから照らし出し、短い黒髪にきらきらと照り映えていた。その瞬間、場違いながら、光はそんな真子をすごく綺麗だと思った。
「…でも、ボクも1年生だし、なんか特別扱いされてて悪いなぁって思ったから」
「だからって、何も一人ですることないじゃない」
「…あー…。でも、一人の方が気楽だし」
諦めたように小さく笑って、真子は再び止めていた手を動かし始めた。
「いつもこんなことされてるの?」
「ううん、今日がはじめて。いきなり声かけられたから、ビックリしちゃった」
少し困ったような真子の微笑みが、心に痛い。つまり、普段は部活でも無視されているということだ。3年生と顧問の支持があるため、表立っていじめられるようなことはないが、2年生の多くも真子の味方ではなかった。それはそうだろう――真子がいるだけで、彼女たちの席が確実に一つ減るのだ。
「わたし、先生に――」
「だめ」
踵を返しかけた光の手を、真子が掴んだ。その漆黒の瞳で光を見つめながら、彼女は思いのほか強い口調で言った。それは、これまで一度も聞いたことのない声音だった。
「やめて。お父さんが心配するから」
「でも」
「お願い。言わないで。心配かけたくないの」
その時はじめて、光は碇真子という少女を見たような気がした。痛いほどに掴まれた手首から、縋るような彼女の瞳から、真子の想いが伝わってくるようだ。いじめられることより、父親に心配させることの方が耐えられないというのだろうか。その気持ちは、光にも解るような気がする。仕事で忙しい父に心配をかけさせるくらいなら、自分一人で我慢するだろう。
彼女にこんな一面があるとは、思いもよらなかった。いや、知りもしなかったと言うべきかもしれない。光の胸の奥から、彼女のことをもっと知りたいという思いが湧き起こってくる。
「…わかった。いわない」
「ほんと?」
確かめるように光の目を覗き込みながら問う真子に、光は頷いた。
「その代わり、わたしも手伝う」
「え、そんな、悪いよ。これはボクの――」
「二人でやった方が早いでしょ。ほら、貸して」
言って、光は真子の手からモップを奪い取った。そのまま、何も言わずに床を拭き始める。
「…ありがと……」
背後で、真子が小さな声で呟くように言った。
それがなんだか、ひどく嬉しかった。
真子がいつも部活を先に上がるのは、帰りに買い物をしていかなくてはならないからだと知ったのはその後のことだった。先生も部長も、それを了解して許可を出していたのである。
何しろ食べ盛りの男の子が二人もいるので、週に一度、玄道の車で買いだめをする程度では追いつかない。そのため、学校帰りにスーパーに寄るというのが真子の日常で、そんなところに光は共感を覚えた。
その日の帰り道、二人は一緒にスーパーに寄った。そして、二人とも立派な主婦であることを認識したのだった。
それ以来、光は真子の、いちばんの友達になった。
もちろん、クラス委員長の彼女がバックについたからと言ってイジメがなくなるわけではなかった。が、大っぴらな動きはなくなったし、それまで巻き添えを食うことを恐れて真子に近づかなかった娘たちは、少なくとも敵ではなくなった。光と一緒にいることで少しずつ話をする女の子は増えていき、それに伴って彼女の魅力を理解する者も増えていった。
もっとも、気に入らないものはどうしても気に入らないもので、それが一層、一部の者の反感を買ってもいたのだが、最早彼女たちが主流派になることはなかった。
それまで自分の殻に閉じこもっていた真子が、クラスメートたちとのふれあいによって少しずつその魅力を増していくのが、光には嬉しくもあり、またちょっとばかり寂しくもあった。
もっとも、そう思っていたのは光だけではなかったようだ。
特に解りやすかったのが飛鳥である。さして用もないのに真子の周りをうろうろして、はたから見ると真子の友達に嫉妬しているのが丸わかりだったので、ああ見えて結構可愛い奴なんだと光は思った。
そのうち、真子を仲良くすれば漏れなく飛鳥と玲がついてくるということが解ると、真子に表立って敵対するものは激減した。唯一気がかりだったのは光には手の出せない部活の方だが、玲や飛鳥が頻繁に顔を出すようになると、状況はいくらか改善したようだった。
真子を庇護してくれていた三年生がいなくなった今、問題がないわけではないけれど、三年生がいない今、真子の実力は他に比肩しうるものがいないので、少なくとも今は、真子はちゃんと微笑っていられる。そのことが、光は本当に嬉しい。なまじ平気な顔をするのが上手いだけに、真子が苦しんでいることに気づくのは本当に難しいのだ。
虫の声が、重苦しい空気を吹き飛ばすように響く。
「…だから、確かめておきたいの。渚くんが本当に真子のことを好きなのかどうか」
そう言って、光は郁の顔をじっと見つめた。
「いい加減な気持ちで真子近づいてるんなら、やめて。真子のことを傷つけたりしたら、わたし絶対に許さないから」
強い力を瞳に込めて自分を見上げる光の視線を、郁は真っ向から受け止めた。ややあって、ふっと優しい笑みを浮かべる。それは普段、教室で群がってくる女の子たちに向けるような不透明な笑顔ではなく、心からの感情が湧き出たような、透き通ったやさしい笑顔だった。
「……洞木さんは、ほんとに真子さんのことが大切なんだね」
「え?」
「いや。羨ましいなと思ってさ」」
薄く微笑って、郁は歩き出した。
「あ、ちょっと――」
「心配しなくても、大丈夫だよ」
「え?」
何が、と聞き返そうとして、光は息を飲んだ。その時の郁の横顔が、なんだかひどく寂しげに見えたからだ。
「明後日、僕は第3新東京市を離れるから」
「えっ?」
何でもないような口調で言われたので、一瞬、言葉の意味が解らなかった。
「……どういう、こと?」
「もともと一週間だけって約束だったからね。すぐ帰らなきゃいけないんだ」
「そんなっ……」
華奢とも思えるほどほっそりした郁の腕を掴んで、光は詰め寄った。彼女が知りたいのはそんなことではなかった。
「真子は、そのこと、知って……!?」
「知ってるよ」
寂しいような、悲しいような、不思議な愁いに満ちた笑みを口許に湛えて、郁は答えた。その笑みに、光は続く言葉を失ってしまう。と同時に、どうして真子があんな無理をしたのか、やっと得心がいった。そして、それほどまでに郁に惹かれている真子のことを思って、光はたまらない気持ちになった。
「……それを聞いたら、なおさら真子にあなたを近づけるわけにはいかないわね」
厳しい表情で言って、光は郁を見やった。
「今のうちなら、傷は浅くてすむわ。これ以上、真子の心を惑わさないで。……あなたに惹かれても、たぶん真子は幸せになれないと思うもの」
「手厳しいな」
容赦のない台詞に苦笑を浮かべながら、郁は俯いた。そんなことは光に言われなくても解っている。帰国後に控えている手術が成功しても、いつまで生きられるかは定かでないのだから。
けれど、想う気持ちはそんなことで止められない。
「でも、どうしても知っておいて欲しかったんだ」
たとえ心の片隅でもいい、真子の想い出の何処かに、自分という人間がいたのだということを、どうしても刻み込んでおきたかった。憶い出してくれなくてもいい。忘れてしまってくれていい。それでも、知っておいて欲しかった。死ぬかも知れないという恐怖には耐えられても、誰にも知られぬままに死んでいくというのは、怖くてたまらなかった。
「僕がここにいたことをね」
その台詞の意味はよく解らなかったが、光は軽く頭を振って、いっそう固く口唇を引き締めながら郁を見つめた。
「……どうして真子なの?」
「どうしてだろうね」
ふっと口許を緩めて、郁は光を見やった。どうして彼女に惹かれたのか。何故、彼女でなければならなかったのか。その答えは、郁の方が知りたいくらいだ。解っているのは、自分がどうしようもなく真子に惹かれているということ。彼女の微笑みが自分に勇気を与えてくれるということ。それぐらいだ。もうちょっと頑張って生きてみようかと、思うくらいには。
「人を好きになるのに、理由がいるのかい?」
「…それは……」
「一目惚れだよ。本当に、ただそれだけなんだ」
思わず口ごもる光にそう言って、郁は歩き出した。
「大丈夫、僕のことなんかすぐに忘れるよ。だから、そんなに心配しなくていい」
「…渚くん……」
その背中に、光はかける言葉がなかった。
つづく
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あとがき
もうどれぐらい空いてしまったのかも覚えがないくらいお久しぶりの更新です。出来が悪すぎてイヤになります。続きは出来るだけ近いうちに……と切に願ってますが、果たしてどうなることやら。
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