EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:07 Two years ago(7)

 ベッドに横たわる少女。
 そして、その傍らで、微動だにせずに少女の寝顔を見つめている少年。
 まるで宗教画を思わせるその光景に思わず見惚れながら、光はほう、と溜息を吐いた。こうして並ぶと、その美しさが一層映える。
 まるで聖女に祈りを捧げている修道士の如く、その横顔は真摯なものだった。
 二卵性ではあったが、この双子の姉弟は良く似ていた。どちらも母親似なのだろう、と何度か会ったことのある二人の父親の凶悪な髭面を思い浮かべる光。これが父親似の二人だったらと思うとかなりイヤだが。
 背中をぞわぞわっと這い登る悪寒を、慌てて頭を振って追い払いながら、光はもう一人の少年を思い浮かべる。
 眩く輝く金の髪を持った少年。そして、彼にそっと寄り添う黒髪の少女と、彼女の傍らにまるで影の如く佇む蒼銀の髪の少年――。
 彼らが人目を惹かぬ筈がない。これほどの輝きを、無視できる人間がいよう筈がない。月と太陽と、そして地球のような永劫不滅の完全な関係。何人も彼らの間に立ち入ることは出来ないだろう――喩えそれが、あの銀の麗人であっても。
「――なに?」
「えっ」
 不意に声をかけられて吃驚する。考えてみれば、玲から声をかけられたことなど数えるほどもない。
「見てたから」
「あ、うん。綺麗だなって思って」
「綺麗? 誰が?」
「碇くんと、真子。二人が」
 言って、光はふわりと微笑んだ。その笑顔に、一瞬吸い込まれるように目を奪われる玲。ややあって、微かに頬を染めながら玲は目を逸らした。
「……ごめん。こういう時、どういう表情をしたらいいのか解らないんだ」
「いいんじゃない、それで」
「?」
 怪訝そうに顔を上げる玲に、光は言った。
「表情って、考えてするものじゃなくて、勝手に浮かぶものでしょう? 自分の心の動きの表れだもの。笑いたかったら笑えばいいし、泣きたかったら泣けばいいのよ。今みたいに。解ってる? 碇くん、困った顔してるよ」
「……」
「そんなに難しく考えなくていいの。ね?」
 再びにこやかに微笑む光。それにつられるように、玲も笑みを形作る。少し引き攣ったようなぎこちない笑みではあったが、血色の瞳は柔らかかった。その笑みに、光の方がちょっとどきどきする。胸の奥の方がちょっと温かくなった。
「碇くんて、ほんとに真子のこと大事にしてるのね」
「……シンは、ぼくの一部だから」
 ポツリと呟くように玲は答える。その瞳は既に光を見ていない。ただ真子だけをひたすらに、縋るように見つめている。それが、光にはちょっと寂しい。
 真子に対する過剰なまでの依存。今はまだそれでもいいかもしれない。けれど、喩え双子だろうと、家族はいつか離れていくものだ。自分の対となる存在を見つけ、その人と新しい絆を創っていく。
 確かに、姉弟の絆は変わらないだろう。しかし、優先順位はどうしても変わっていく。弟よりも恋人を、そして己の子供を。そしていつしか自分は蚊帳の外におかれていることに気づくのだ。自分が一番ではなくなっていく。その喪失に、玲は耐えられるのだろうか。他には何もないような玲の言動は、見るものの不安を誘う。
 鍵を握るのは真子だ。そして、恐らくは飛鳥。光はそう確信する。このままではいけないという焦燥感を抱きつつも、自分には何も出来ないと悟って。
 何故なら、自分は玲の心の表層を通過しているだけだから。そして、自分に真子の代わりは出来ないと知っているから。だから、願うしかない。彼の心に食い込んでくるような、そんな輝ける存在が現れることを。
「んぅ……っ……」
 短く呻いて、真子がぼんやりと目を開けたのはその時だった。焦点の定まらぬ目を彷徨わせ、そこが自分の部屋であることに気づいて、ホッとしたように微笑む。それから、ハッと目を開けた。
「……なんで?」
「シン」
 そう囁いて、玲が躯を起こそうとする真子を抱き起こした。弟に半ば抱かれるように躯を預けながら、真子は視線を彷徨わせる。
「玲……光……ボク、どうしてここに……?」
「授業中に倒れたのよ。覚えてる?」
 小さく首を振る真子。どうやら授業の途中あたりから記憶がないようだ。なんかいい夢見てた気もするんだけどなあ、と首を傾げている。
「気分はどう? 吐き気とかする?」
「ううん。ちょっとぼーっとして、だるいだけ」
「熱はどうかしら」
 言って、光は真子のおでこに手を伸ばした。
「少し下がったかな? 何か食べる?」
「あんまり食べたくない……」
「ダメよ。食べないと躯が保たないわ。おじやでいい?」
 正面から自分を覗き込む光に気圧されたように、真子はこくんと頷いた。素直なその仕種ににこりと微笑んで、光は真子の頭をそっと撫でてやる。
「待ってて。今作ってくるから。お台所借りるわね」
「うん。……ありがと、光」
「何言ってんの。水臭いわね」
 そう言って笑うと、光は部屋を出て行った。
 それを見送って、真子は傍らの玲に目をやった。姉の躯を包み込むように抱き締めて、玲は目を閉じている。
「ごめんね」
「いいよ」
「玲が運んでくれたの?」
「……飛鳥が」
「そっか」
 呟くように言って、真子は玲の肩に頭を預けた。
 そのまま、二人とも身動ぎひとつしない。言葉を交わすでなく、ただ静かで穏やかな時間が流れていく。
 それを破ったのは、どたどたという飛鳥の足音だった。
「シンッ」
 豪快にドアが開く。そして、そのままの姿勢で飛鳥は凍りついた。しばらく口をぱくぱくさせてから、感情を削ぎ落としたような低い声で問う。
「…………ナニやってんだ、お前ら」
「何って?」
 玲と真子は、何事もなかったかのようにボーっとした目で飛鳥を見ている。
「おやおや。仲がいいんだねぇ」
 何処か呆れたような、のんびりした口調で言ったのは郁だった。その声に、真子は自分が今どういう恰好をしているかに思い至って、慌てて布団を引っかぶる。ややあって、布団の塊から真っ赤になった真子の顔がひょいと覗いた。
「……郁くん、いたの?」
「いたのって……ひどいな」
「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃ……あの、びっくりしただけで、その、イヤって訳じゃないから、あの……」
「解っているよ」
 真っ赤な顔でしどろもどろになって弁解する真子に、郁は柔らかな微笑みを浮かべて見せた。それを正視できずに、真子はまた布団に顔を埋めてしまう。
 ――怒って、ないのかな。
 ちらりと郁を見ながら思う。いつもの優しい微笑みだ。あの時のような冷たい感じは、今はしない。嫌われたわけではないと知って、ホッとする。彼の想いに応えることが出来ないくせに、それでも嫌われたくないと思う自分を、ずるいとは思うけれど。
「ありがとう。来てくれて」
「いや。それより大丈夫なのかい?」
「あ、うん。もう、平気」
「良かった。真子さんに風邪をひかせたのは僕だから、心配してたんだよ」
「そんなこと……気にしなくていいのに」
「そうかい?」
 ふふっと笑う郁。つられるように真子も笑う。二人の世界に、飛鳥と玲は入っていないかのようだ。だんだん飛鳥が焦れてくる。後ろから蹴ってやろうかとも思うが、流石に真子の部屋で暴れるのはマズい。どうしてやろうかと思っていると、ふと真子が飛鳥に目を向けた。そのまま花が開くような微笑みを浮かべる。
「飛鳥がおんぶしてくれたんでしょ? ありがと」
「……い、言っとくけど仕方なくだからな! いつもこんなに甘やかすと思ったら大間違いだからな!」
「うん。わかってる」
「な、ならいいんだよ」
 真っ赤な顔で言っても全く説得力はないのだが、そんなものは気にせずに真子は嬉しそうに笑っている。飛鳥の方も満更ではないようだ。それをちらりと見て、郁は一瞬、何だか自分たち三人がすっかり手玉に取られているような気がした。無論、意識してやっているわけではないだろう。だが、天然でやっているとしたら、それはそれで恐るべきことだ。
「ちょっと、なにやってんのよ、あんた達!」
 ほんわかした空気の漂う室内を覗き込んで、光が怒鳴った。見ようによっては結構凄い光景である。まず、ベッドには布団に包まった黒髪の少女が一人。蒼銀の髪に少年がその傍らに腰掛けていて、銀髪の少年と金髪の少年が戸口を振り返る。
 その雰囲気に思わず圧倒されそうになりながら、光はいつもの発作(「ふけつやぅぉぉぉぉ〜〜(@◇@)」)を抑えてさらに声をあげた。
「病気の女の子の部屋にいつまで居座ってるつもり!? さっさと出て行きなさい!」
 いつもの剣幕で叱咤を飛ばし、男どもの重い腰を蹴立てて部屋から追い出すと、光は荒い息を吐いた。額の汗を拭い、キッと真子を見据える。
「ちょっと、真子! あなたどういうつもり?」
「……ふえ? なにが?」
「あなたは女の子なのよ! 気をつけなきゃダメじゃないの!」
「なんで? 心配してくれただけだよ?」
「……」
 真子はきょとんとして小首を傾げた。どうやら全く自覚がないらしい。思わず脱力しそうになる躯を支えて、光はしっかりと足を踏みしめた。
(負けちゃダメよ、光っ。あなたが飢えた狼から真子を守るのよっ)
 ぐっと拳を握り締め、真子の前にしゃがみこんで視線を合わせる。
「いい? 男の子っていうのは、みんな顔で笑いながら、頭の中ではいやらしいことを考えているものなの。だから気をつけなきゃダメ」
 ……やけに極端な意見だなあ。
「そおかなあ」
「そ・う・な・の(断言)!」
 なんか嫌なことでもあったのか、光。
「いいわね!」
「う、うん。わかった。気をつける」
 納得したかどうかは定かではないが、光の剣幕に気圧されて、取り敢えず真子はぼーっと頷いた。光ってば一体どうしたんだろ、と思いながら。
「じゃ、ご飯にしましょ。一人で食べるの寂しいでしょ? そのままじゃアレだから、上に何か羽織ってらっしゃい」
「はぁい」
 素直に従う真子。もそもそと布団から這い出して着替え始める真子を見て、やっぱり可愛いなぁとか思っている自分に気づき、赤面する光。
(だ、ダメよ。いけないわ、わたしたち女の子同士なのよぉ〜)
 ……なにを考えとるんだ、一体。
「おまたせ。……どしたの、光?」
「はっ……い、いえ、なんでもないわ」
「……?」
 我に返って、何事もなかったかのような顔で部屋を出て行く光。その後を追いながら、真子はちょこんと首を傾げた。
 
 リビングに座って、五人は黙々と食事をしていた。
 全員早退してきたので、食べているのは弁当である。ちなみに郁だけは弁当を持って来てないので、本島なら冬児が食べる筈だった、光お手製の弁当を食べていた。
 ぶかぶかのパジャマとカーディガンを纏って、一人用の土鍋からすくったおじやにふー、ふー、と息を吹きかけながら口に運ぶ真子の姿は、色っぽいというよりは何処か子供じみて見えた。どうも病気になると幼児化するらしい。
「おいしい?」
「うんっ」
 酒と塩と淡口醤油で味付けしただけのだし汁にご飯を入れ、蓋をしてしばらく煮た後で、溶き卵を回しかけ、刻んだ葱と大葉、七味を少し散らしただけだが、ご飯がだし汁を吸って、それだけで充分美味しい。
「おかあさんの味って感じだね、光の料理は」
「そう?」
 真子の科白に、光はちょっと嬉しそうな顔をする。
 光の家も碇家と同じく、母親が既に他界しているが、真子と違うのは、光の場合は母親に家事を仕込まれたという点だ。もともと好きだったということもあるが。
 光の父は料理などまるで出来ない無骨な人で、家事は全部母に任せきりだった。母が突然逝ってしまった時、齢の離れた姉の小珠こだまは既に働いていたので、必然的に光が家事全般を担当することになったのである。光にとって、母の味というのは目指すべき目標だ。今となっては、自分以外に母の味を覚えているのは父と姉ぐらいだが。
「ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しい」
 含羞むように笑う光の顔が真子は一番好きだった。派手さはないけれど、見る人の心をそっとほぐれさせる。優しくて温かい。光はとても綺麗だ、と真子は思う。同い年なのに自分よりずっとしっかりしていて、頼れる感じ。姉がいたらこんな風なのかなと思う。光は真子にとって自慢の友達だった。
「でも、いいの? 早退してきちゃったんでしょ?」
「一日ぐらいいいわよ。大事な親友のためだもの」
「でも……」
 真子の視線は郁の手の中の大きな弁当箱に向いている。常人の三倍量に相当するそれは、本来なら冬児が無上の倖せを体現した顔でかっ喰らっている筈のものだ。
「あ、ごめんね、洞木さん。これもらっちゃって」
「ああ、いいのよ別に。気にしないで。さっさと帰っちゃうあいつが悪いんだから」
 弁当を食べる手を休めて、郁が申し訳なさそうな顔をすると、光は何でもないことのように軽く手を振って笑った。もっとも、科白の後半はちょっと怒気を孕んでいた。帰れといったのは自分だが、もうちょっと食い下がってくれてもいいのに、と思う。『仲の良い同級生』でいた頃の方が、まだ楽しかったような気もしなくはない。告白をしたわけでもされたわけでもないし、二人で出かけたことがあるわけでもない。それでも、相手のことを考えているだけで無性に楽しかった。
 もっとも、今でもそれは変わってはいない。ただ何となく馴れ合うような今の関係は、世間で言う『彼氏・彼女』の関係とはちょっと違う気もする。こんな状態では一線を越えるわけにはいかない、というのが光の今の気持ちだった。だが、今のままでは気持ちまでもが離れてしまうようにも思う。
「来てたの? 鈴原くん」
「まあね。真子の様子が気になるから早退するって言ったら、2バカもついてきちゃって。まったく、何しに来たのかしら」
「のぞきだろ」
「盗撮」
「次に侵入するときのための下見とか」
「ちょっと、あんたたち!」
 口々に率直な意見を述べる飛鳥、玲、郁の三人を、光はぎろりと睨みつけた。
「鈴原と相田をいっしょにしないで」
 とさりげなく訂正を加える。健輔が変態であるという意見に関しては、全く異論を呈していない。まあ、これに関しては反論の余地すらない厳然たる事実だが。
「……」
「……ちょっと奥さん、聞きまして?」
「さりげなくひどいこと言ったね、今。さらりと」
「なんかイヤ〜ンな感じ。冬児ばっかかばっちゃってさ」
「5バカって呼ばれたいならそうしなさいよ」
「……イヤ、そーいうくくり方はちょっと……」
 飛鳥をきっと睨みつける光。気圧されたように飛鳥は後退る。
 にしても、何故何も発言していない玲まで含まれるのか。
「ごちそうさま」
 手を合わせて、食器を運ぼうと立ち上がる真子。ふらつくその躯を、光は咄嗟に支えた。その周りで反応してはいたが先を越された男三人が、虚しく空気を掻き混ぜる。
「「「ちっ」」」
 誰のものなのか、サラウンドで舌打ちが三つ聞こえた。
「ダメよ、無理しちゃ。片付けはいいから寝てなさい。ね?」
「……うん」
 光に肩を借りて部屋へと歩き出す真子。その時、ドアを開けて、靴を脱ぐのももどかしそうに玄道が駆け込んできた。
「真子っ」
「お父さん……」
「真子、大丈夫かっ」
 血相を変えて真子の元に駆け寄る玄道。ここまで走ってきたのか、息が荒い。いつもなら一分の隙もないスーツが、今は乱れ放題に乱れていた。
「途中で渋滞につかまってな。遅くなってすまん」
「ううん、いいの。……おかえりなさい」
 嬉しそうに笑いながらそう言って、真子は玄道に抱きついた。その躯をいとおしそうにぎゅっと抱き締める玄道。今のところ、それは父親の特権である。男たちは指を咥えて見ているしかないが、相手は父親なのだから仕方がない。そもそも、真子のファザコンは今に始まったことではないのだ。無論、玄道の溺愛ぶりもだが。
「具合はどうだ。病院に行った方がいいんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。熱も下がったし」
 真子の科白に、玄道はしばし無言で娘の顔を見詰めた。このところの疲れが溜まっていたのだろう、少しやつれた感じはあるが、顔色はそれほどひどくはない。
「……そうか。なら、いい。とにかく休みなさい」
 ホッと安堵の息を吐いたところで、玄道は初めて気づいたように光に目を向けた。眼鏡の奥の目が一瞬すっと細まり、そのまま柔和な光を宿す。
「確か、洞木くんだったな。真子が世話になったようだね」
「あ、いえ、そんな。別に大したことじゃありません。それに、真子はわたしの大事な友達ですから」
「……ありがとう」
 滅多に見せない優しい表情で光に向かって静かに微笑むと、玄道は真子をそっと抱き上げ、部屋へと運んでいった。真子も黙ってされるがままになっている――というより、全開で甘えまくっているようだ。それを見て、飛鳥は昔、真子が『大きくなったらお父さんのお嫁さんになるっ』と言っていたのを思い出した。まあ、子供の頃の話だが……。
「パパがライバルって感じだね」
 思わず苦笑しながら、郁がそんな呟きを漏らした。
「あれははっきり言って手強いぞ。なんせお姫様を攫った大魔王だからな」
「なんだい、それ?」
「いや、べつに」
 自嘲気味な薄い笑みを郁に向けて、飛鳥は軽く肩をすくめた。
「真子のお父様って、ほんとに真子のことが大事なのね。溺愛って感じ。なんか、ちょっと羨ましいかな」
 リビングに戻りながら、光がポツリと呟くように言った。
「あの髭がか? 変わった趣味してるな、おまえ」
 飛鳥の身も蓋もない言葉に、苦笑するしかない光。
「そりゃ、私も最初に逢った時は怖かったけど……って、顔じゃなくて。時々凄く優しい瞳をするの。とてもいとおしそうに真子のこと見てるの。だから、不器用だけど、すごく優しい人なんじゃないかなって」
「……あ。トリハダだ」
 見ろ見ろ、と二の腕を見せる飛鳥。
「なによ、その反応」
「光はあいつの普段の姿を知らないから、そーゆー気色悪いことが平気で言えるんだよ。あれで可愛いエプロンとかして台所に立たれてみろ、食欲なんか一気に失せるぞ。おまけに毎日あいつの作った弁当だぞ? 残したりしたら後が怖いしな」
 可愛いフリルのついたエプロン姿の玄道をちょっと想像してしまって、イヤ〜ンな顔になる光と郁だったが、飛鳥の最後の科白に眉をひそめた。
「……怖いって?」
「怒られるのかい? それは確かに怖そうだね」
「んな優しい人間かよ、あれが。説教された方がよっぽどマシだ」
 物凄く嫌そうな顔で、飛鳥は言った。どうやら一度実行されたことがあるらしい。
「耳許で延々とな、ボソボソ囁き続けるんだよ。ニンジンさんが恨みを込めて睨んでるぞとか、この魚はもうちょっとで産卵できたところを捕まえられたのに、結局無駄に死ぬことになるのだなとか、とにかく食材の恨みつらみのこもった話だ。そおゆう鬱陶しいことを、寝るまでずーっとやられてみろ。思わず夢に見ちまったぜ、俺は」
 そこまで言って、飛鳥はふっと遠い目をした。
「いやー、俺も若かったからなぁ……寝ながら何度もごめんなさいごめんなさいつって、泣きながら謝ってたよ。お陰で余計に食えなくなっちまって、それでも食わなきゃいけねーから、地獄の苦しみって奴だ。わかるか?」
「そ、それは――」
「ちょっと……いや、かなり嫌だね、確かに……」
 引き攣った顔を見合わせて、光と郁は力のない笑みを浮かべた。
 
 そんな暴露話をされているとは思いもしない玄道は、ベッドに寝かせた真子の枕許に座り込んで、じっとその顔を見つめていた。その掌は、黒絹のような艶やかな髪を、そっと慈しむように撫でている。
 結衣と真子は、その面差しもさることながら、ちょっとした仕種や、ふとした時に見せる表情などがハッとするほどに似ている。日に日に亡き妻に似てくるこの娘を見るのは、彼にとっては酷い痛みを伴うことだった。だが同時に、最早この世では逢うことのない妻の面影を色濃く宿した娘の笑顔によって、救われている自分がいることも自覚していた。
 時折、娘と妻の区別がつかなくなる。それが年々酷くなる。
 いつか自分が出逢った頃の結衣と同じ齢になった娘を見るのが楽しみであり、また恐ろしくもあった。そして、いつかは自分の許から離れていくのかと思うと、狂おしいほどの激情に駆られる。
 娘を愛していないわけではない。こんな自分を一心に慕ってくれる娘は、自分と結衣の血を受け継いだ、この世に結衣が存在した証。結衣が自分に遺してくれた、何よりも愛しく大切な存在だ(無論、玲を愛していない、という意味ではない)。
 だがそれだけに、どう接したらいいのかが解らない。娘を傷つけてしまわないかと思うと、不安になる。娘に嫌われるのが怖くてたまらない。
 結衣の代わりとして娘を見ているのではないのかと思うと、自分がたまらなく嫌になる。結衣は結衣、真子は真子だ。それは解っている。なのに、気づくといつも真子の中に結衣の面影を探している。
 こんな自分を、真子はどう思うだろう。不実だとなじるだろうか。軽蔑するだろうか。嫌いだと叫ぶだろうか。
 ……泣くのだろうか。
 そういえば、真子が自分の前で涙を見せたことはない。娘がここまで素直に自分に甘えてくるのは、随分久しぶりのような気がする。
(つくづく父親失格だな、私は)
 そう自嘲して、玄道は口許を歪めた。
「……お父さん」
 大きな掌がゆっくりと優しく髪を撫でる、その心地好い感触にとろとろと微睡んでいた真子は、そっと目を開けた。枕許に玄道が座っているのを見て、安心したように微笑む。ともすれば眠り込んでしまいそうに重い瞼を押し上げて、真子は玄道を見上げた。
 眼鏡の奥から優しい瞳が自分を見つめている。きっと母のことを思い出していたのだろう、その顔は少し辛そうだった。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
「……そうか」
 言葉少なに言って頷く父を、真子は黙って見ていた。自分が母に似ていて良かったのか悪かったのか、まだ解らない。母に似ていることで、父に辛い思いをさせているように感じる時もあるし、逆に父の愛を一杯に受けられる気がすることもある。
 もし、自分が母に似ていなかったらどうなのだろう。父は自分を愛してくれただろうか。それは、永遠に答えの出ない疑問だ。
「……ごめんなさい」
「うん?」
「心配、かけちゃったから。ワガママ言って無理して学校に行ったのに、結局何も出来ずに倒れちゃって、みんなに迷惑とか一杯かけて」
「……問題ない」
 言って、玄道はメガネをつい、と押し上げた。
「お前が無事ならそれでいい」
「でも、お母さんのこと思い出させちゃったでしょ? それで、お父さんを不安にさせて――」
「構わん」
 上体を起こそうとする真子の躯をそっと押し留めて、玄道はぽんぽんと布団を叩いた。その仕種に、真子は躯から力を抜いて目を閉じた。
「……お父さん」
「なんだ」
「お母さんの夢、見たの」
「……そうか」
「お母さん、笑ってた。お母さんも、お父さんのこと大好きだったんだね」
「……ああ」
 そのまま再び眠りに落ちていく娘の顔を見つめながら、玄道はそっと息を吐いた。
 そして、結衣のことを思い出す。結衣を喪った時の悲しみは、その時に負った心の傷は、未だ癒えない。だが、こうして思い出すことが出来るようには、なった。
 ――死の間際でも、結衣は微笑っていた。
 鮮やかに、その時の笑顔が脳裏に灼きついている。何年経とうと、それは色褪せることがない。だが同時に、それは少しずつ『思い出』というものにすりかわろうとしている。それが嫌で、だから結衣のことを思い出させるものは全て捨てようと考えたこともあった。だが、何を捨てたところで、真子と玲がいる以上、結衣を失ったという辛い現実からは決して逃れられない。そして、その苦しみから救ってくれたのも、子供たちだった。
 結衣のいないこの世界に絶望し、死すら願いかけた自分を現世に繋ぎとめたのは、真子と玲の存在だった。彼らがいなかったら、間違いなく自分は死を選択していただろう。一瞬の迷いもなく。最早、この世で結衣と再びまみえるすべが存在しない以上、他の選択は有り得ない筈だったのだから。
 幼い真子に縋りついて泣いた時、震える小さな手の温もりを肌に感じた時、すぐ傍で結衣の存在を強く感じた。そして、耳許で囁かれた気がする。
 ――生きて、と。
 それは間違いなく、結衣の声だった――。
「結衣……」
 娘の寝顔を見つめながら、玄道はそっとその名を呟く。
 万感の思いを込めて。
 私はまだ生きている、と。
 来るべき約束の日まで、子供たちとともに生きると誓ったのだから。
 死によって救われる、その日まで……。
 
 トランプをやっている三人の周りを、光がちょこまかと動き回っていた。
 何をしているのかと思えば、飛鳥の雑な掃除によって一見片付いているように見えて実はメチャメチャ汚い家の中を綺麗にして廻っているのである。
 本当はそこまでするつもりはなかったのだが、身に染み付いた主婦としての性か、汚れに気付いてしまうと気になって仕方がないのだ。
 無論、真子が練習で忙しいのも、掃除が飛鳥の手になるものだということも、光はちゃんと知っている。真子が家事から手を引いている間に、碇家はこのまま放置すれば復旧にはかなりの手間を要するだろうと容易に想像できるくらいの惨状を呈していた。
 なにしろ掃除が嫌いな人間のすることだから、とりあえず片付いて見えればそれで終わりである。いちいち物をどけて掃除機をかけたりしない。物の周りをざっとかけるだけだから、隅に埃が積もっていたりする。台所周りは一応片付いていたから、これは間違いなく飛鳥の所業であろう。根本的に、ちまちました作業が嫌いなのだ。
「……べつに、そこまでしなくてもいいんじゃねーの?」
 とか言いながら、全く止めようとは思っていない様子で、飛鳥は玲の手札に手を伸ばした。本人は気付いていないが、彼にはポーカーフェイスというものが出来ない。それどころか、モロバレといってもいい。玲はいつも無表情だし、郁の場合はポーカーフェイスが完璧である。
 一喜一憂する飛鳥の反応が面白くて、郁におもちゃにされているのだが、本人は全くの無自覚である。この面子でババ抜きなんぞやろうものなら、飛鳥がボロ負けするのは当然である。しかも、よせばいいのに、勝負は何か賭けないとつまらないとか言い出すものだから、自ら順調に泥沼にはまっていっている飛鳥だった。
「あー! くそ、またかよ!」
 声を荒げてカードを床に叩きつけた飛鳥は、苛立たしそうに髪を掻き上げた。
「さて、次はなにをやってもらおうかな」
 余裕綽々といった風情でソファに凭れかかりながら、郁は頬にかかった髪をさらりと払った。敗者は勝者の言うことを何でもひとつ聞く、というのが罰ゲームである。
 ちなみに、現在の戦績は玲二勝、郁三勝、飛鳥五敗。
 一戦目。勝者、玲。罰ゲームは「逆立ちして三回廻ってワンという」。失敗。
 二戦目。勝者、郁。罰ゲームは「郁に土下座して『申し訳ありませんでした、郁様』と言う(特に意味なし。ただなんとなくやってみたかっただけ)」。嫌々ながら実行。トラウマになる。
 三戦目。勝者、郁。罰ゲームは「タバスコ入りのお茶を飲む」。飛鳥、叫びまわって悶絶。
 四戦目。勝者、玲。罰ゲームは「玲の肩を揉む(これも意味なし)」。悔しげに実行。
 五戦目。勝者、郁。
 さて、問題の罰ゲームは……。
「何かないかい? 洞木さん」
 ネタ切れなのか、郁は皺だらけのままソファの上に山積みになっている洗濯物を畳んでいた光に言った。彼らがゲームに興じている間に、光はさっさと掃除を終わらせたらしい。恐るべき手練のワザである。
「え? わたし?」
 いきなり話を振られて、飛鳥がおもちゃにされている様を半分苦笑しながら眺めていた光は、困ったように首を傾げた。ちらりと飛鳥を見ると、普段の偉そうな態度はすっかりなりを潜め、半泣きの状態で縋るように光を見つめて、救いを求めている。なんだかそうしていると可愛い。
 何しろ、賭けようと言い出したのも、罰ゲームの件も、言い出しっぺはみんな飛鳥である。自業自得なので、さすがの光もたまにはいい薬だろうと思って放っておいたのだ。だが、予想外の(本人にとっては)大敗に、さすがにショックを隠し切れない様子である。
 こんな状態の飛鳥は滅多に見られない。今のうちに貸しを作っておくのも面白いかも、とか一瞬思ってしまってから、光はぶんぶんと首を振った。
「う〜ん、そうねぇ……」
 そう言って考え込む光を、飛鳥は泣きの入った顔で見つめた。それを見て本気で腹を抱えて大笑いしているのは郁で、玲の方はあまり普段と変わらないように見える。
「罰ゲームじゃなくて、わたしからのお願いでもいい?」
「いいよ、それで」
 鷹揚に頷いた郁の言葉に、飛鳥はホッと胸を撫で下ろした。取敢えず光なら、よく解らない嫌がらせをされることはないと思っているのだろう。
 嫌がらせも何も、もし自分が勝っていたら、絶対似たようなことをしていたに違いないのだが。
「飛鳥もそれでいいわね?」
「あんまり高いものはダメだぜ」
「誰もあんたに物ねだったりしないわよ、馬鹿ね」
「……ちっ」
 欲しいものがあったらすぐに買ってしまうという難儀な性格の所為で、世間一般の中学生と違って小遣いには苦労しない筈の彼が実は、慢性的な金欠病に悩まされているということは、親しい者なら誰でも知っている。
 というのも、油断するとたかられたりするからだ。まあ、彼ならたかられてもいい、と言う女の子はそれこそ一杯いて、たまにジュースとかを奢ってもらったりはしているようだが、自分のルックスの価値を心得ているので、無駄遣いはしない。ここぞという時に狙い撃ちである。もっとも、肝心の家計を握る真子にはまるで効果はないのだが。
「そうじゃなくて、真子のこと」
 その言葉に、飛鳥はむくりと上体を起こした。それまで笑って見ていた郁と玲も、光のに真剣な眼差しを向ける。
 彼らの方をチラリと見てから、光は飛鳥の蒼氷色の瞳をじっと見つめた。
「真子のこと、ちゃんと守ってあげて」
 そこまで言って、光は手を挙げて口を開きかけた飛鳥を制した。
「解ってる。飛鳥のことだから、きっとわたしに言われなくてもそうするだろうなって思うの。でも、いい機会だから、ちゃんとお願いしておきたかったの」
「……」
 光の真っ直ぐな視線を、飛鳥は辛うじて受け止めた。思わず目を逸らしそうになるのを、必死で押し留める。絶対にそれだけはしてはいけない気がした。
「あの娘、まだ子供なの。だから、もうちょっと待ってあげて欲しいの。飛鳥だって、真子に嫌われたくないでしょ? だから、あの娘を守ってあげて。お願い」
 その言葉がいったいどう意味なのか、正確には良く解らなかった。ただ、光が何を言いたいかは、何となく理解できたように思う。ここにいる三人の中で、真子に対しての欲望を制御出来なくなりそうなのは、自分をおいて他にはないとも解っていた。だから飛鳥は、小さく頷いた。
「解ったよ、光。約束する」
「……よかった」
 一度言葉にしたことは、何があろうと必ず守るのが飛鳥のいいところである。飛鳥が約束すると宣言した以上、それを破ることはまずないだろう。
 飛鳥の返答に、光は安心したように微笑んだ。
つづく

1コ前へ    目次にもどる    次へ


PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル