セイジャクノイバラ

青少年にはふさわしくない内容が含まれています。未成年の方はご遠慮ください。また登場する人名、団体、宗教などは全てフィクションです。
0.Prologue
1.Siege
2.Emile
3.Dagger
4.Priest
5.Start
6.Hole
7.Needle
8.Beast
9.Portrait
10.Silent Thorn
11.Propose
12.Runaway
13.Walk
14.Lover
15.Blood
16.The Mansion
17.Night Flowers
18.Work
19.Marquis
20.Duel
21.Game
22.The Judgement
23.Epilogue

index
◆ Prologue

「ああっ。こんなのってありませんわ。まだ、お昼ですのよ」

 天蓋のついた瀟洒なベッドの上に横座りしながら全裸の女が言った。女は赤いベルベットの布で即席の目隠しをされているにもかかわらず、笑みを浮かべていた。小さな窓枠から太陽の光がかろうじで差し込んでいるだけの薄暗い部屋だったが、それでも窓の少ない石造りの城砦の中では、ここが一番明るい部屋だった。

「だが、好きなんだろう?」
 女を後ろから抱いている男がそう言いながら、豊かな胸をゆっくりとなでた。
「……」
 女が恥ずかしそうに目を伏せる。

 どこをどう間違えたのだろう? 女は改めてそう思った。
 吟遊詩人と名乗るその男は詩人の印象とは程遠い、体格のいい男だった。季節外れの嵐の日に、楽器も持たずにふらりと訪れて来た。無精ひげを生やした顔と鋭い目つき、大きな口がどことなく野獣――特に狼――を思わせた。
 夫である候爵を始め、館にいる一族郎党、従者達や小物達まですべての人間が最初は胡散臭がったし、女自身もこの男を見た時、胸騒ぎを覚えた。 
 しかし夕食の余興に、この自称吟遊詩人が朗々とした声で謡い始めると、一同の者はその声に手を止めた。床に這いつくばって肉を齧っていた小物達ですら、その下品な咀嚼の音を控えたほどだった。
 外を渦巻く嵐の轟音の中、楽器すら持たない男の声は、ホール中に朗々と響き渡った。
 特に不義の恋を歌った恋歌が男の得意であるらしく、聞いている皆の心を強く揺さぶった。公爵夫人である自分自身も最初の悪い印象が吹き飛ぶほどの感銘をうけた。

 侯爵の声がかかり、男が望むだけの滞在を許されてから、まだ二週間しかたっていない。
 二週間しかたっていないのに……。

 ピクンッ!
 男が太い無骨な指に似合わぬ繊細さで女の乳房を軽く撫でると、侯爵夫人の体が震えた。一呼吸遅れて「んぅっ」とため息のような声が洩れる。
(ああ、また硬くなっている……)
 夫人は自分の乳首が硬く尖っているのを、分厚い布の目隠しの闇の中で感じていた。

「どうだ? 続けてホシイくないのかい? 愛しい人」
 男の低い張りのある声が耳元でささやかれる。耳たぶに触れる吐息と、骨まで響くようなそのバリトンの声にじんと体の芯が痺れる。
 ドンドンドンドン!
 自分の心臓が疾走する馬車のように、激しく鳴っていた。視界のない夫人にはうるさいほどだった。

「……ああ」
「『ああ』ではわからない」
 すでに子供が成人する年になった中年女の、少し重みに負け始めている胸を、まるで男は宝物であるかのようにそろりそろりと撫でる。その度に体の表面を伝って痺れが走った。

 ハァ、ハァ、ハァ。
 目隠しの暗闇の中に自分で荒い呼吸が反響する。
 もう、何年も夫と床を共にすることもなく、そうしたいと思う意欲も失っていた。その自分の体が、まるで初心(ウブ)な十代の女の様に敏感に反応するのが自分でも信じられずにいた。
 初めてこの男と寝たのは、男が来てわずか三日目のことだった。男の愛撫は、長い間、人に抱かれることのなかった中年女がのめりこむには十分すぎる巧妙さだった。女は若い時分でも覚えたことのない激しい快楽を与えられ、以来、それを心待ちにするようになった。

「やめて欲しいのかい? ならそういえばいい」
 男はそういいながら夫人の背後から密着した。そうされると豊かな胸毛が夫人の白い背中をくすぐり、堪らない疼きを与えた。
「いじわるな……ヒト」
 女が掠れる声で言った。
 服を脱ぐと男の体は驚くほど逞しく、それが今では何より頼もしい。夫人は腕を背後に回し、男の逞しい腰に手を当て、その硬い感触を楽しむ。若い頃からの飽食でたるみきってしまっている自分の夫とは比べるべくもない。
 癖のある男のむせるような体臭に包まれれ、夫人は十は若返ったような気になっていた。

「では、これはどうかな?」
 今度は手を後ろでにまとめられると、紐のようなもので縛られるのを感じた。反射的に腕を引っ込めようとしたところで、男がチュプっと女の右の耳たぶを口に含んだ。
「ぅん……」
 それだけで右半身がジーンと痺れ、抵抗する力を失う。
 夫人は無意識のうちにもじもじと自分の足をすり合わせていた。

 薄暗い部屋の中、長い旅路で焼けた精悍な男に、目隠しをされた中年女が後ろから絡まれている。それは、禁制の淫画の一枚のように魅惑的な光景だった。

 男は徐々にうなじ、肩、鎖骨、胸と軽く舐めながら降りていった。男の唾に濡れた舌がへそにかかる頃、ついに侯爵夫人が焦れた。
「……もう……もう、くださいませ……」
 搾り出すように言って、自ら膝を折って少し股を開いた。隙間から見える紅い陰唇は微かに口を開け、涎のようにたれた女の汁が肛門まで濡らしている。
 女の顔も体も真っ赤に上気していた。

「ふっふっふ、侯爵様に悪いとは思わないか?」
 吟遊詩人がその艶のある声で謡うように囁いた。
 そんなこと百も承知でこの関係に溺れかけていたつもりだったが、改めて夫のことを問われると頬に血が上る。
(ああ、私はなんというところまできてしまったの……)
 こんな風に行きずりの男に身を任せる自分が信じられない。目が眩むような感覚におそわれる。
(……この男がいけないんだわ)
 美しい声に逞しい体、男臭い仕草。そしてなにより、初めての夕食時に謡った儚い不義の恋の歌。すべてが魅力的すぎた。

「神の前で貞操を守ると誓ったんだろう?」
 男が熟れた女の淫臭のこもった股間に鼻を近づける。その鼻息で濡れた性器の表面を撫でただけで、ビクンと夫人の腰が浮き上がった。
「ああ、なぜそんなことを仰るの?」
 恨みがましい口調も、どことなく媚を含んでいる。
「誓ったんだろう?」
 男が舌を伸ばした。クリトリスに触れそうで触れないところを撫でる。女は男が執拗にその回答を欲しがっているのを察し、一瞬の躊躇の後、声に出していった。
「ああ……誓いました。神に誓いましたわ。でも、アナタが……」
 女がそういいかけたところで、男は満足したようにねっとりと女のクリトリスに舌をこすりつけた。
 再び夫人の腰がビクンと反り返る。
「うううぅう」
 腰の奥にズーンと熱い感覚が生まれ、股間の奥がじゅっと潤うのを感じた。

 男が夫人の突起を滑るように、撫でるように舌を使う。同時に女の後ろ手に縛られた腕と背中の隙間を無骨な太い指でなぞり、尻の割れ目を軽く擦りあげていった。
「ああ、ああ、ああ」
 女は体の表と裏から同時に与えられるざわざわとしたくすぐったい感覚が夫人の体を熱くする。それは股間から生まれる快感と重なって中年女の体に蓄積されていった。
(ああ……気持ちいい……)
 無意識のうちに腰が動き始めていた。

「あぁ……んん……あぁ」
 男は十分にクリトリスを舐め終えた後、徐々に下のほうへと頭を移動させていく。いよいよ夫人の声は艶を含み、恥も外聞もなく腰を突き出し男の舌から更なる快感をえようとする。しかし男は徐々に舌に強弱をつけながらも、決して強く押し当てることはなかった。
 夫人の体はあっという間にこれ以上ないというほど、燃え上がった。
「ああ、もう、もう……もう、だめ」
 肉付きのいいふくよかな肢体が波打った。

「神への誓いを破るんだな?」
「ハッ……ハッ……ああ、破ります! ですから今すぐイれてください! ハヤクッ!!」
 この時代の地方上流階級として普通に敬虔なカトリック信者である夫人にとって、不義密通という明らかな罪を犯すことは耐え難いことではあった。が、しかし切迫した体の要求はそれ以上に耐えられないものだった。
(ああ、ホシイッ、ホシイ)
 この男との関係はそんなに長くはないが、男のペニスの形が瞼の裏にはっきり思い浮かぶ。それを思い出すと、まるで小娘の様に切ない気持ちになった。

 初めてベッドを共にした頃はこの男の巨大なペニスを撫でさするところから始めさせられ、今では舐めたり咥えたりさせられることにも慣れていた。
 夫以外に誰とも床を共にしたこともなく、男の味などほとんど知らなかった夫人にとって、それは中年になって初めて覚える危険な媚薬だった。

 コリッ!
 男が一瞬だけクリトリスに歯を立ててから、口をはなした。
「!」
 瞬きをするほどの間の痛みと、それに続くジンジンする疼きに、女が声なき叫びを上げた。
「よくぞ言った。さあ、褒美を差し上げよう」
 男はそういうと夫人をうつ伏せにベッドの上に倒した。夫人は後ろで縛られた腕がグッと持ち上げられるのを感じる。肩に痛みを感じるすれすれのところで止まると、持ち上がった腕は下がってこなくなった。女は自分の手首を結ぶ紐の先が、ベッドの天蓋の骨組みか何かに結ばれた事を知った。

「こんな……イ、イヌみたいな格好でしなければいけないですの?」
 尻を突き出した姿勢に恥じるように、侯爵夫人は頬を、紅潮させた。目隠しで目は見えなかったが、さぞ潤んでいるに違いない。
 返事がないまま、突き出された女の花弁に熱い肉の塊が押し当てられた。
「ああっ……来てくださるのね」
 しかし、それは入り口から中へ入ってこようとしない。
 さすがにはしたないと思い夫人は暫くその体勢で待っていたが、男の熱い感触に焦れて、ついには自分から腰を押し出した。

 ヌプリ。
「んんっ!!」
 亀頭と思しき塊を、熱く濡れた膣に飲み込んだとき女は唸った。
(………?)
 その時、違和感を感じた。
 この男のペニスはもっと大きくなかったか? この男のペニスはこんなに熱くて硬かっただろうか?
 女が不審に思い始めた瞬間、グイと腰がつかまれ、グンと後ろに引き寄せられた。
 ズンッとペニスが膣の奥まで突き刺ささる。
「ああんっ」
 夫人の口から艶かしい声が漏れた。それからも腰を掴んだ手が、何度も何度も腰を後ろに打ちつけさせる。バチン、バチンと肉のぶつかる音がして、ぺちぺちと睾丸がクリトリスの傍を叩いた。

「ああ、気持ちいいわ。もっと! もっと突いて!!」
 夫人がそう叫ぶと、突然、猛然と腰が打ち付けられ始めた。いつもより何倍も硬いペニスが夫人の中を抉る。
 ズン、ズンとペニスがつき込まれると、その度に女の長い髪が宙を踊った。女は腰骨まで砕かれそうな衝撃に、我を忘れて叫んでいた。
「ああ!! すごい!! いつもよりすごい!! すごいわ!!」

「どうすごいんだ?」
「アアッ!! いつもより硬いですの!! アアッ!! 硬い!! 硬い!! カタイの!!」
 夫人は狂ったように「カタイ、カタイ」と繰り返し、無理な姿勢をものともせず、こねるように腰を使っていた。
「だろうな。今日のは特別だからな」
 男の笑いを含んだ声にも女は気づくことなく腰を振り続ける。

「ああん、ああん、ああぁっ!!」
 女が絶頂を迎えようと、無意識に前のめりに体勢を変える。
 ビクッと女の太ももが痙攣し始めたところで、後ろから出し抜けに目隠しが取り去られた。
「!?」
 突然のまぶしさに女は目を細めながらも、反射的に後ろを見た。
 光ににじんだ光景の中で、夫人は自分を犯しているのが、吟遊詩人でないのを知った。
 混乱する頭でなぜそんなことが起きているのか必死で考えようとする。

 自分の背後で腰を振っているのは十三歳になる自分の息子コールだった。
 息子はきつく猿轡をされ、母親と同じように後ろ手に縛られている。
 男は、その息子の背後から腕を回して、女の腰を動かしていたのだった。
 そして、あろうことか息子もまた自分からくねらせるように腰を動かしていた。

「ひいぃぃぃぃいい!!!」
 夫人が悲鳴を上げた。一瞬にして絶頂感が失せる。
「おおっ、神よ! 神よ!!」
 夫人が逃げようと尻を浮かす。しかし腕は不自由な体制で固定され、腰をがっちりと男に掴まれ、逃げることはできない。その間も息子は腰を動かしていた。フンフンという荒い鼻息が息子の興奮を物語っている。
 夫人の心は一気に冷めたものの、体は未だにくすぶる快楽の炎に燻られており、それがいかに自分が快楽を貪っていたかを思い出させる。
「おお、コールやめて! おやめなさい!!」
 母親の金切り声を聞きながらも、息子は少しうつろな目で腰を打ちつけ続けていた。

「もう遅いんだ。ジタバタするなよ」
 少年の後ろにいる男が少し笑いながら言った。
「おお、なぜ。なぜこんなことを……おお……」
「なに、坊ちゃんが女を知りたいというのでね、教えてやったのさ」
 男と息子の間で何があったかは分からない。しかし息子がずっと自分の痴態を見ていたことは確かだった。自ら尻を突き出し、実の息子のペニスを飲み込み、腰を振りたてて誘ったのは自分なのだ。
 よく見れば息子の頬に、乾いた涙のあとがあった。
 母親の浅ましい痴態を見せ付けられ、さぞ大きなショックをうけたことだろう。
「ウウ……ウウ……ウウ」
 そうしている間にもコールは切迫した様子で後ろ手に縛られた不安定な姿勢で必死に腰を振っている。口を猿轡に封じられており、鼻を広げて荒々しく息をしていた。
 ズン、ズン、ズン。
 叩きつけられるように突き刺さってくる息子の熱いペニス。その衝撃でガンガンと頭が揺さぶれら気が変になりそうだった。
「オオ! オオ! オオ! か、神よ! おゆ、おゆるしをォ!!」
 無情にも母親が神へ祈ったその時、ドクンと母親の膣へ息子の背徳の子種が注ぎ込まれた。
「クー、ウウゥ、ウウゥ、ウゥッ」
「ヒイイ!! おやめなさい!! やめてぇぇぇ!!!」
 ジュブ、ジュブ、ジュブ。
 注ぎこまれる熱い粘液の感触に母親が悲鳴を上げた。

 男が、ガックリと崩れ落ちている母親の髪を掴み、その顔をグッと引き上げた。
「おお、神よ……神よ……」
 ぶつぶつと神の許しを請う夫人に、男は冷たい声で言い放った。
「神様に謝るのはまだ早い。まだまだ、始まったばかりだからな」

 女は恐怖に引きつった目で上目遣いに男の目を見て、なぜ自分が最初にこの男に胸騒ぎを感じたのか初めて理解した。この男の瞳には、見つめる自分の姿も、あたりの景色も、太陽の光すら映っていない。そこにはただ、空洞のような深い闇しかなかった。

****

「おお、コール……コールぅ……」
 数日後、蝋燭の作る薄暗い光の輪の中で母と子と男が交わっていた。母親の甘ったるい声が子供の耳に囁かれる。
「そうだ、あせったらだめだ。悦びをしっかり引き出すまでは我慢するんだ。ほら、もっとゆっくりとかき混ぜるように」
 男が息子へ的確な女の責め方を伝授している。
「ああ、すごい。母上が締め付けてきます。母上は気持ちいいですか?」

 ヌチャヌチャ。
 お互い汗か唾液か精液かわからないものに濡れた体をこすり付けあいながら、淫らな性交渉に耽る。
 初めての禁忌を犯して以来、数日間、夫人は男と実の息子に何度も何度も繰り返し犯された。年若い息子は男にすっかりたぶらかされている。曰く「いとおしい母親との繋がりを喜ぶべきだ」や「自分をこの世に連れ出してくれた穴を労わるべきだ」など、母親が聞いているだけで気が遠くなりそうな詭弁を、男はとうとうと語った。しかしこの男の美しいバリトンの声で何度もそう言われると、そんな気になってくるのか、いつしか息子は母子相姦の禁忌を捨ててしまっていた。
 母親もまた、実の息子を自分から誘い、男として受け入れてしまうという最大級の罪を犯してしまった後で、反抗の拠り所を失っていた。
 ただれた性の快感に理性も信仰も押し流され、息子との性交で得られる歪んだ快楽だけが残っていた。

「おお……コール……」
 ズチュ、ズチュ。
「ああ……母上も……」
(愛しい)
 母親はそう思い、たまらず息子を抱きしめる。つまるところ相手は愛する息子なのだ。それを男としても迎え入れられることを喜ぶべきだと何度も男に諭された。最初はそんなことを考えるのですら恐ろしかったが、今ではそれはある意味真実ではないかと疑い始めているのが、自分でも恐ろしい。
 少し控えめに、しかし、しっかりと自分の腰が動いていることを夫人は認めざるをえなかった。

「ああっ、母様! 母様!!」
「おおぉ、そんなに激しくしては駄目っ」
 息子がまた放出しようとしているのか、荒々しく腰を振り始めた。不思議なことにこの男の傍では、母も子も何度絶頂を迎えても、疲れることがなかった。飯も食わないまま何時間も交わり続けることができた。しかし目の前の快楽に目を奪われている親子は、今一つその意味を理解していなかった。
「またクルのね……おお、コール……。ああ、なぜこんなに……なぜこんなに……」
 そのあとの言葉はとても口にはできい。
(……キモチガイイノ?)

 だが、まるでその心の声が聞こえているかのように男が言った。
「それはな……」
 寝ている母親の胸元に光る銀の鎖に手をかける。
「お前の神の教えに反しているからさ」
 ブチン!
 男は夫人の首にかかっていた銀のロザリオを引きちぎった。
 そして鎖の部分をもって、まるで汚いものにするかのように「ペッ」と十字架に唾を吐きかけた。
 女は肌身離さずもっていた信仰の証に対するその行為を、呆然と見守っていた。

 男がそのロザリオを女の唇へそっと垂らしてなでるように動かすと、その唾の匂いに反応するかのように薄く口を開き、それを迎え入れた。
「アアァ……んふぅ……」
 夫人は鼻を鳴らしながら、チュ、チュと淫靡な仕草で信仰の証であったものに舌を這わせる。その間も、親子の交わりあった部分からグチュグチュと粘着質な音が絶えず続いていた。
 十字架を舐めるというその行為に、夫人は異様に興奮していた。

「母上。イキます!! ああ! ああ!! ああぁ!!」
 息子が先に感極まった声をあげた。
「んん!! んん!! んぁぁ!!」
 それを追うように、母親はロザリオを口に咥えたまま激しく腰を使い、息子と一緒に絶頂を迎えようとする。
 事実、それはすぐに訪れた。

 口の端からこぼれた涎が、汚された十字架の銀の鎖を伝わり、首筋へと落ちた。



◆ Siege(包囲)

――1420年 初夏 イングランド

「右だ! 右に回り込まれるな!!」
 若い貴族が大声で叫ぶと、その指図に従い二人の人影が街道の右側に飛び出し駆け込んでこようとしている長槍兵の前に立ちふさがった。
「アラン様! 後ろへ!! 後ろへお下がりください!! 矢に当たります!!」

 しとしとと降る霧雨の街道で、戦場帰りの十数人の騎士達が三十を超える兵に包囲されようとしていた。
 指揮を執るのはまだ二十歳を超えたばかりという若い貴族だった。
 戦場帰りの日に焼けた額に、褐色の髪が雨に濡れてべっとりと張り付いてみすぼらしく見えるが、その下の茶色の瞳とすらりとした鼻筋、きりりと結ばれた唇はさぞ若い貴族の娘達に騒がれるだろうと思われる。
 しかし、この瞬間、その顔には苦悩が満ちていた。

(くそっ! どうしてこんなことに!!)
 アランと呼ばれた若い貴族は手綱を引き、自分の馬を下がらせながら、パニックになりかけていた。なんとか落ち着いて考えようとするが、その度に敵の指揮官と思しき人間の声が耳に突き刺さる。
「相手は魔女だ! 手加減するな!! 異端者を助ける者も皆同罪だ、手加減はいらんぞ!!」

(私は異端なんかではない!!!)
 心の底から叫びだしたい気分だった。戦場でも自分は毎日の祈りも、戦闘の後の懺悔も欠かしたことはなかった。自分はこの上なく敬虔なクリスチャンのつもりだった。
 ただ一点を除いて。

「下がれ! 下がれ!! 体勢を立て直せ!!」
 副官の怒号にハッと我に帰る。左手に手綱を握り、右手で剣を抜きながら他の部下達と一緒に後ろにじわじわと後退した。

 霧雨がジワジワと衣服を濡らし、髪が額に纏わりつく。
 いななく騎馬たちの口から上がる湯気が、雨の中に消えていく。
 剣を持ったままの手で額を拭い、若き指揮官は敵と味方の戦力を確認した。
 元々、フランスでの戦勝から帰国したばかりの部下達は酷く疲れていた。本来ならば港で少し休み、身なりを整えてから自分の荘園に凱旋するところだったが、本国からの急な呼び出しで、少数の部下しか連れてきていない。
 騎馬の数はこちらと同数だが、対騎兵用の長槍をもった歩兵が多い。その動きからかなり訓練されているとわかる。盗賊を警戒して一応は武装して来ているが、とてもこれだけの訓練された人数を相手には出来ない。
 その上、敵の隊長の鎧の胸当てには、まごうことなき教会の紋章が刻まれていた。その男が叫んだ。
「神に楯突く不届きものめ!! 捕らえろ! 生かしたままだ!!」

 本当ならすぐにでも投降し、自分は潔白だと証明したかった。しかし、そうする訳にはいかない。体を調べられるわけにはいかなかった。
 慣れた筈の鎧に押し潰された胸の圧迫が酷く息苦しい。
 厳しいカトリック社会では異装する事は罪だった。その中でも、女が男の姿をすることは魔女の証として忌み嫌われていた。

 もし、体を調べられ、自分が女だと知られれば、魔女か異端者の烙印を押されてしまう。そうなれば一族郎党が破滅を免れない。
 捕まるわけにはいかない。自分が男装し戦場にいたことを知られる訳にはいかないのだ。

 その時、視界の隅に弓を構える敵兵の姿が見えた。
 背中を見せ矢を射掛けられれば、ひとたまりもない。
「ジョーンズ!! 下がるな!! 撃たれるぞ!!」
 声を振り絞って副官に指令を出す。
「前に出るんだ! 突っ込むぞ!!」

 壮年の大男、副官のジョーンズは若い指揮官の意図をすぐに理解した。
「固まれ! 固まって突撃だ!!」
 体に相応しい大音声で怒鳴ると、ジョーンズは軍馬を駆り先頭を走り始めた。戦場帰りの部下達は素早く楔形に隊列を整えジョーンズについて突撃を始めた。

 不意を打たれた敵の兵士達が長槍を突き出し突撃を食い止めようとしたが、先頭のジョーンズが素早く剣で捌いた。そこに他の騎兵が突撃し、強引に突破する。何回もフランス遠征を経験してきた歴戦の勇者であるジョーンズは、そのまま弓兵を蹴散らし敵の反対側に抜けた。
 他の騎兵達も後に続く。

(抜けられる!)
 若き指揮官が、楔陣形の真中付近を駈けながらそう思ったとき、突然、馬の前になにか黒い小動物が飛び出してきた。馬が反射的に速度を緩めようとして、折からの霧雨で出来ていたぬかるみに足を取られた。
 あっ、と思う暇もなく騎乗している軍馬が前のめりに崩れ落ちた。
 激しい勢いで前方に投げ出されたが、地面が緩かったため、かろうじで衝撃で気を失う事態は避けられた。幸運にも、後ろにいた騎兵もなんとか避けていく。

(まずい!)
 助けがないか即座にあたりを見回した。
 丁度、最後尾を守っていた部下がこちらに向かって手を伸ばしてくるところだった。その手を掴もうと手を差し出した瞬間、ドンと体に衝撃が走った。
 振り返ると、左肩から矢の柄が生えているのが見えた。
 すぐに激しい痛みと共に、熱した鉄棒を捻じ込まれたような熱を感じる。
 部下が何とか指揮官を救おうと手を差し出すが、努力も空しく過ぎ去っていってしまった。

 口から洩れそうになる悲鳴を必死の思いで飲み込みながら、落とした剣を泥の中から引き出した。
 目の眩むような痛みに耐え、追いすがる敵の騎馬兵の馬上からの剣戟を二合三合と弾き返したが、追いついてきた長槍兵が包囲に加わるといよいよ劣勢に立たされた。
 さらに三度、敵の武器を弾いたが、終には脇腹を長槍の柄の部分で殴られた。

「グッ……」
 体力の限界に来ていたのか、一瞬目の前が暗くなる。息苦しくて気付くとぬかるみに崩れ落ちていて、泥水で呼吸が出来なくなっていた。
 咳き込みながら立ち上がろうとしたところを、後ろから追いついて来た兵士に蹴られ、水溜りに突っ伏してしまう。

 苦しくて何度も立ち上がろうとするがその度に回りの男達に蹴られ、泥水を飲まされた。
 再び意識が途切れた後、すぐに起き上がることはなかった。




◆ Emile(少年)

(うあぁぁぁ!!!!)
 心の中に木霊する自分の悲鳴で目が覚めた。

 また酷い悪夢を見ていた。
 戦場ではいつも酷い夢から覚めると、酷い現実が待っていた。

****

 戦争自体は連戦連勝だった。
 既に黒死病により多大な打撃を受けていたフランスは、アイルランドとの長年の闘争を発祥とする長弓(ロングボウ)と集団戦法の敵ではなかった。今回の遠征でヘンリー五世率いるランカスター朝・イングランド軍は開戦早々アジャンクールにおいて三倍の兵を破り、勝利を決定的なものとした。その後、各地でフランス兵を打ち破った。それは比較的楽な行軍だった。

 しかし、初めて行軍に参加したジーンにとって自軍の略奪は見るに耐えないものだった。
 自国の軍隊により既に搾取されていた農民達から、食料や家畜はおろか鋤、鍬まで奪いつくした。女たちは例外なく犯され、黒死病にかかった人間は生死を問わず、一箇所に集められそのまま焼かれた。

 せめて、自分の部下達には略奪を止めるよう命令したかったが、それは出来なかった。
 戦場での略奪は教会も黙認している勝者の権利であり、自分の部隊だけそれを禁止すれば、大きな不満を呼ぶことになる。
 それだけではなく、他の指揮官達と違う事をして目立つことを極度に恐れていた。自分の秘密に気付かれないようにするため、率先して部隊を率いて略奪することすらあった。
 女たちの悲鳴。男達のうめき。空を満たす黒い煙と、鼻をつく人間の焼ける匂い。

 どれほど忘れようと努力しても、どれだけ従軍神父に懺悔しても、繰り返される地獄のような光景が夢から去る事はなかった。

****

「っつ……」
 切れた唇の痛みに意識が覚醒していく。あたりを見回すと見慣れない部屋だった。
 小振りな石造りの部屋は赤いタペストリーで飾られ、角材が剥き出しになった屋根付きベッドが真中にあり、美しい刺繍の施された赤い紗の幕がかかっている。ベッドの側に見える棚は粗末だが、その燭台は高価なものであった。
 天井には美しい布が張られていたが、その隙間のそこかしこから、何に使うのか分からない錆びの浮いた鎖が何本も垂れ下がっていた。
 何もかもが奇妙にちぐはぐな部屋を不思議に思いながら、身を起こそうとした。

「うっ……」
 肩に走る激痛に顔が歪む。支えようとした腕にも痛みがあった。口の中では奥歯が一本折れており、まだ血の味がした。
 すぐに意識を失う前の出来事を思い出し、ベッドに崩れ落ちた。
 体を見ると何重にも包帯に巻かれており、青痣がそこかしこにある。仕方なく動く事を諦め、再びベッドにうずくまった。
 落馬の衝撃で頭を打ったのか、ズキズキと頭が傷み、考えがまとまらない。
 一体、どうなっているのだろうか?
 確か、魔女と疑いをかけられ捕まったはずだが、今の状況はどうなっているのだろうか? 体はきちんと手当てされ、何年も寝たことがないような清潔なベッドで寝ている。
 部下達は上手く逃れられただろうか? この後どうなるのだろうか? 
 考えれば考えるほど頭痛は酷くなり、不安と混乱だけが膨れ上がった。

 ギィ……。
 軋んだ音を立てて扉が開いたのはそんな時だった。
 扉の方に目をやると、戸口に小さな女の子が立っていた。手に小さな桶を持っているところから、この少女が看病してくれていたらしいと見当がつく。何か話し掛けようとしたが、咄嗟に声がでなかった。

 後ろで束ねられた金色の髪は小さな窓から射し込む日差しに輝き、白磁のように白い肌はまるで赤い血が流れているようには見えない。飾り気のない粗末な灰色の長衣に身を包んではいるものの、その少女の美しさは少しも損なわれてはいなかった。
 しかし、少女の冷たい蒼い目、氷を思い起こさせる深い青色の瞳はなんの感情の兆しもなく、少女をただの作り物の人形のように見せていた。

「ここは一体……つっ!」
 少女の年齢に似合わぬ冷静な目に気圧されながらも、状況を聞き出そうとする。だが、すぐにズタズタに切れている口内の痛みに顔をしかめた。その隙にふいと少女の姿は消えてしまった。
 微かに響く遠ざかっていく小さな足音がなければ、少女と会ったこと自体が夢だったと思ったに違いなかった。

****

 それから暫らくして少女は若い男と戻ってきた。
「傷の具合はいかがですか?」
 その線の細い長身のその男は、扉をくぐると同時にそう訊いた。

 男も少女と同じように灰色の長衣を着ていたが、その刺繍と、首にかけた十字架がその男が神父であることを示していた。色の白い端正な顔立ちに、短くカールした銀色の髪は修道士の証として頭頂が剃られている。深く暗い瞳が印象的な男だった。
 男は落ち着いた物腰でベッドの側に座ると、話し掛けてきた。

「怪我をさせたくはなかったのですが、無骨な人間というのは醜い結果しか産まないものですね」
 若い神父の突き放した言い方に、背筋にゾクッと冷たいものが走る。しかし、若い神父はうってかわって穏やかな表情でこちらに向かって喋りかけてきた。
「傷は痛みますか?」

「ここは……」
 ハスキーな低い声で尋ねる。出陣前に女の声を誤魔化すため、薬で喉を潰した結果だった。
「ここは、どこですか?」

「ここはブリモチェスター修道院です。私はデイビット神父、ここで司祭長兼医者をしています」
「修道院……?」
「そのとおり」
「では、私は……」
「そう。魔女の疑いで異端審問にかけられるところでした」

 異端審問。その言葉にズキンと頭の傷が疼いた。
 異端者の疑いをかけられる事自体、この上なく不名誉なことである。それが女の身でありながら男の姿で戦場にいたと解れば、間違いなく異端者の烙印を押されるだろう。しかも、その取調べの恐ろしさは、生きて帰ってくる者が殆んどいないにもかかわらず、とても恐ろしいものだと伝え知られていた。
 とっさに胸に手を当て呼吸を整える。恐怖に押し潰されそうになったときそうするのは、戦場で覚えた知恵だった。

 そこでふと、神父の言葉に疑問を抱いた。
「『かけられるところでした』……?」
「そうです」
「では、もうかけられることはないのですか?」
「はい。しかし、余り多くを期待しないで下さい」
 神父の言葉の真意がよくわからない。
「貴女は女性の身で、女子禁制の修道院に入った。これがどういうことかわかりますか?」
 暗く大きな神父の瞳で見つめられると、激しい胸騒ぎを覚えた。
「もう……もう、ここを出ることはない……と?」
「貴女は賢い人だ」
 神父は素直に賞賛の言葉を口にした。
「貴女は表向き男としてこの修道院で神に仕えることなりました。魔女が女人禁制の修道院に入れるはずがありませんからね。だがもし貴女がここを出て女だったと知られるようなことになれば、貴女も、そして貴女をここに入れた私達も、大変な事になります」
「一緒にいた私の部下達は?」
「私は詳しくは知りませんが、何人か逃げ、何人かは討ち死にしたと聞いています。貴女を取り返すために何度か突撃を繰り返したそうです。素晴らしく統制の取れた騎士達だそうですね」
「………」
 あの場に居たのは皆、腹心の部下達だった。
 その中にもう二度と合えない人間がいるのかと思うと、酷く胸が痛んだ。
「善き神よ……」
 ジーンは胸の前で手を組んで目をつぶった。

 神父は不意に立ち上がり、ベッドの側にある棚へ向かった。
「包帯を取り替える必要がありますね」
 その言葉にハッとした。自分の上半身に包帯以外、何もまとっていないことに改めて気付く。
「貴女の看病はこの子に任せていますので、安心してください」
 そう言いながら神父は側に佇む少女の方を見た。
 いつのまにか、少女の手には痩せた黒猫が抱かれていた。

(そういえば……)
 改めて少女を見て、少女が女子禁制の修道院にいるという奇妙な事実に気付いた。
「エミールには一通りの手当ての仕方を教えてあります。こう見えてもエミールは貴女が想像するよりずっと年上なのですよ」
 エミールというのがフランスの男に多い名前である事にすぐに思い当たる。
「この子……男の子なのですか?」
「ええ。お察しの通り大陸から連れて来られた少年です。言葉もだいぶ覚えましたが、できればゆっくり喋ってあげてください。今、貴女がしている包帯もこの子が巻いたものです」
 
「そうですか。……ありがとう」
 少女にしか見えない少年に向かって声をかけたが、その顔は無表情なまま、何の返事もなかった。
「エミールは喋れないのですよ」
 そう言って神父はエミールの顎に手を当て、少し持ち上げた。少年は無表情のまま、抵抗することもなく素直に喉を晒す。
 ジーンはハッと息を呑んだ。
 そこには真横に一直線の大きな傷があった。

「イングランドにつれてこられる時につけられた傷です。この子には男性器もありません。喉と一緒にペニスも睾丸も切り取られました。もう十四歳になるのに子供のようにしか見えないのはそのせいです。エミールという名も本当なのかどうか……」
 神父が手を放すと、少年は神父の話がわかっているのかわかっていないのか、下を向いて手に抱いた猫を撫で始めた。

 神父が淡々と語る少年の身の上に怖気が震う。
「なんと、むごい……。年端もいかない少年を……」
「むごい?」
 神父が意外そうに言った。
「貴女のような兵士たちが戦場からこんな子達を連れて来られたのでしょう、サー・アラン・シーモア殿」
 神父は揶揄するようにその名を口にした。
 自分でも頬にカッと血が上るのが分かった。
「我々は決してそんなことはしない!」
 声を荒げて反論しようとしたが、神父には軽く受け流される。
「たとえ正規軍がつれてこなくても同じことです。軍隊が国を荒らしまわれば、貧しい子供達には、野垂れ死ぬにせよ奴隷として売られるにせよ、おぞましい運命しか残されていないものだ」
 神父の言葉はもっともだった。

「し……しかし、人身売買など教会が許すはずが……」
 かろうじでそれだけ言う。それに対する神父の反応は思いがけないものだった。

「はっはっはっはっは」
 突然の場違いな大きい笑い声にビクッと背筋が震える。神父の側にいたエミールも珍しい物を見るような目で、笑う神父を見上げていた。
「貴女はなぜエミールがここにいると思っているのです? この修道院が慈善でこの子を引き取ったとでも? 違います。この子はこの修道院に売られてきたのですよ」
 それまで穏やかだった神父が矢継ぎ早に言葉を続けた。
「この修道院には百人を越える男達がいます。若い男も多い。その全ての男達がずっと清貧かつ禁欲でいられると思いますか? いいえ、人間はそんな風には出来ていません。長い間、この修道院では男色が蔓延していました。そうでなくとも禁欲は男達の気性を荒げ、些細な事で揉め事を起こさせます。神の教えを説くこの建物で、それは好ましい事ではない」
 
 ニャアァ。
 エミールが何処か嫌な所を触ったのか、エミールに抱かれた黒猫は小さく鳴くと、するりとエミール手を離れた。

 神父がふと口を閉ざすと、沈黙の時間が生まれた。
 ジーンにも徐々に、すぐには分からなかった神父の意味するものが分かってきた。

「まさか……この子は……」
「そう、エミールはこの修道院の男達の性欲のはけ口になるべく奴隷として売られてきたのですよ。神は愛欲を戒めておられる。同時に同性愛を禁じておられる。しかし、この子は男でもなく女でもない」
「そ、そんな事が許されるはずがない!!」
「許されるはずがないから、どうだというのです? 現にこの子は金で買われてここにいるのです。万が一にも秘密を洩らさぬよう、声まで奪われて。
 ……だが、貴女は何もエミールに同情する必要はありませんよ、アラン……いや、ジーン・シーモア殿」
 神父がその暗い色の瞳で見据えながら静かに言った。
「なぜなら貴女がここにいるのも全く同じ理由なのですから」

****

 ジーン・シーモア!!
 神父の言葉の内容よりも、突然、自分の本当の名前で呼ばれたことに、ジーンは驚きを隠せなかった。

「なぜ、その名を知っている!?」
 ジーン・シーモアという人間はもうこの世には存在しないはずだった。
 そのジーンの驚く顔を見て神父は少し肩を竦めた。
「そんなに驚くことでもありません。私も半年ほど前まで戦場にいたのですよ」
 そう言われてもジーンの困惑は深まるばかりだった。戦場では特に真の名が知られないように警戒していた。自分の部下でも、自分の真実を知っているのは、副官のジョーンズしかいない。ジョーンズの口の堅さには絶対の信頼を置いていた。
 そこで、ジーンはたった一度だけ戦場でその名を口にしたことを思い出した。

「……お前が私の懺悔を聞いていたのだな!」
「そのとおりです」
 神父は素直に認めた。
「初めて貴女の告白を聞いたときの私の驚きを分かってもらえますか? まさか高潔、勇猛、美麗で知られる若き北の騎士、アラン・シーモアが女だと告白された時の私の驚きといったら」
「お前が私の正体をばらしたのか? それで教会が!?」

 その言葉に神父が小さく首を振った。
「いいえ。私が模範的な神父とはいえませんが、懺悔室の告白を漏らすようなことはしません。と言っても、貴女が捕縛されたと知って、ここへ来るように仕向けたのが私である以上、信じてもらえなくて当然ですが」
「なぜだ。なぜそんなことを?」
「なぜ? 先ほども言ったでしょう。エミールと同じ理由だと」

 その意味することを悟り、ジーンの顔が屈辱と怒りに歪んだ。
「私を慰み者にするつもりか? 私が大人しくお前たちのような、神の教えを騙る坊主たちの慰み者にされると思っているのか? 指の一本でも触れれば舌を噛んで死ぬまでだ!」
 ジーンの冷え切った声に、傍にいたエミールまでが意味が分からないままに怯えた。
 その場の空気がぴんと張り詰めた。

「なるほど。これは上玉だ」
 ジーンは突然沈黙を破った第三の声にギョッとした。いつの間にか部屋の隅の暗がりに一人の男がうずくまるように座っていた。
 背はあまり高くなく、女としては長身なジーンより、ほんの少し高い程度しかない。神父たちと似たような灰色のダブついた長衣を纏っているが、それでもがっちりとした体格が見て取れた。頭は一般的な修道士と違い短髪で、無精ひげが顔中に生えている。
 一見、若いのようでありながら、その鋭い目はまるで若さを感じさせなかった。それどころか、見つめていると吸い込まれていきそうな漆黒の瞳は、人間が重ねるいかなる年月を映し出すことなく、まるで永遠にそこにあるかのようにジーンを見つめていた。

 何かが普通ではない。
 ジーンの戦場での経験が、この男は危険だと告げていた。

 男はぶらりと立ち上がり、無遠慮に嘗め回すように包帯に巻かれたジーンの体を眺めた。
「なかなか気高い心だ。貴様が選ぶわけだ」
 低く艶のある声だった。囁くように言っただけなのに、腹の底から響いてくるように感じる。
 男はボリボリと無精ひげの生えた頬を掻いた。その手の甲にも体毛が濃く、まるで獣のようだとジーンは思った。そう見ると、どことなく野生の狼のような印象を受ける。少なくとも僧ではないに違いなかった。

「挨拶ぐらいしてはどうです?」
 神父が冷たくそういうと、男は片方の眉だけを少し上げた。
「ああ、これは失礼。しかし名乗るべき名がないんでね」
「?」
 男の言い様に奇妙なものを感じ、ジーンが少し眉をひそめる。それを見て神父が言った。
「気にしないでください。私は便宜上、ディと呼んでいます。貴女もそう呼べばいいでしょう」
「お嬢ちゃんがそんな風に呼ぶ必要はないさ。すぐに名前なんてどうでもよくなるんだ」
 ジーンはその男の横柄な態度にベッドから立ち上がろうとして、傷の痛みに「ううっ」と呻いた。

「はっはっは。傷の割には元気もあるな。これは上玉だ。ほらよっ」
 そういってディと呼ばれた男は無造作にベッドのうえ、ジーンの顔のすぐ傍に何かを放り投げた。ジーンはすぐにそれを手にとって、それが自分が戦場で使っていた短剣であることが分かると、シャッと抜き放った。
「ディ、困ります。こんな所に武器をもちこむとは!」
 神父の叱責にも男は肩を竦めただけで意にも介さない。
「固いこというなよ。なぁ?」
 ディはベッドの上で短剣を構えるジーンに無造作に近づいた。
「牙のないメス犬を飼いならしたところで、誰にも威張れやしないさ」

 男がそう言い放った瞬間、ジーンは自分の体の傷の激しい痛みを無視して、男めがけて構えていた短剣を振るった。

 ジーンは戦場では決して他人に受けた侮辱をそのままにすることはなかった。実際の性別を怪しまれることを恐れるあまり、背が低いこと、体つきが女っぽいことなどを人前で少しでも言われれば、即座に決闘を申し込んだ。三人の若い貴族を倒し、その内一人を殺している。
 ジーンは自分の力が男に比べて弱いことを補うため、短剣を得意としていた。第一激で相手の体のどこでもいいので剣を打ちつけ、相手がひるんだ隙に電光石火で抜き放った短剣を振るうのがジーンの戦法だった。
 戦場で鍛えられた、まさにその一撃が男を襲う。

「待ちなさい!」
 神父の鋭い叱責にジーンは寸前で手を止めた。本来なら制止など聞く耳を持たないはずだが、ディが全く短剣を避けようとしていないところに強い違和感があった。
 神父は素早く言った。
「貴女からこのディに触れてはいけない。貴女が触れない限り、ディは貴女に触れることはできないのですから」

 ジーンとディが同時に神父の方を見た。
「それは一体どういう……?」
「どういうつもりだ、神父?!」
 ディの低く張りのある声の方がずっと大きい。
「こいつがお前の選んだゲームの駒ではないのか?」

 男の言葉にジーンは眉をひそめる。
(ゲーム? 自分からは触れられない? 何を言っているんだ?)

「私は彼方の賭けに乗ると言いましたが、勝負するのはこの人です。ルールを知らなければゲームにならないでしょう」
「ふふん。神父というのは、詭弁を好むものだな。結果は変わりはしないのに」
「結果だけが全てという訳ではないでしょう。信仰とは結果ではなく、手段なのですから。……さて」
 神父がジーンの方へと向き直った。
「貴女に説明しなければならないことがあります」

「断る!」
 ジーンは即座に答えた。短剣は未だジーンの手の中にある。
「お前とこの男が何を企んでいるのかは知らないが、私はお前たちの思い通りになるつもりはない。殺したければ殺せばいい。だが、私が騎士の誇りをすてることはない!」
 女の身とはいえ、神と王に誓った騎士の誓いはジーンにとって神聖にして冒されざるものだった。破戒僧たちの慰み者になるぐらいなら、本当に死ぬつもりだった。
「ハッハッハ。こいつぁ話が早い」
 ディが厚い胸板の前で逞しい腕を組みながら、笑った。そうすると唇からのぞく長い犬歯がますます男を獣じみて見せた。
「なんせ、あんたが騎士の誇りとやらを捨てなければ勝ちなんだからな。このゲームは」

「……?」
「ディの言ったとおりです。貴方は、これから信仰をためされることになります。貴女が神への教えを守り抜けば、貴女の勝ちです。それはすなわち私の勝ちでもある」
 神父がそう言った。
「なぜだ? なぜ、お前たちが私の信仰を試さなければならない? お前たちには何の関係もないではないか?!」

「理由なんてどうでもいいのさ。聖書にもよくあるだろう? 聖者には悪魔が擦り寄り、信仰を捨てさせようと甘い言葉を囁くと昔から決まっているんだ。つまり、お前が聖人役で……」

 ディの狼のような大きな口がニィっと笑みの形に裂けた。

「俺が悪魔ってわけだ」


◆ Dagger(短剣)

 ホゥ、ホゥ。
 夜の空気を虫の鳴き声が満たし、時折それにかぶせるように梟の声が響き渡る。
 小さな窓しかない石造りの部屋で、ジーンは断続的に低い呻きを漏らしていた。

 肩口の傷が火傷のように熱く、体全体がそれに焼かれるように火照っている。
 神父達との邂逅の後、急激に傷の様子が悪化し始めた。矢傷を受けたあとすぐに泥の水溜りにおちたのが悪かったのか、激しい高熱が出ていた。
 唖(オシ)の少年が井戸水を汲んできては布を浸し額に載せてくれていたが、夜になる頃にはそれも効果がなくなってしまった。

 ジーンは半ば熱にうなされながら、時折うつらうつらと浅い眠りに落ち込み、すぐに目覚めては、また熱の苦しさにうなされる。それを何度も繰り返した。
 そんな、短い断続的な浅い眠りの中、ジーンは故郷の夢を見ていた。

****

 アラン・シーモアという名は元々ジーンの双子の弟の名だった。

 二人は秋に生まれた。誕生を祝う祝う席には、多くの大道芸人や吟遊詩人が集まり、ガチョウや白鳥に加えて孔雀が振舞われ、それは盛大に行われたと言う。
 その中には数人の占い師もおり、食事の余興としてめでたい予言を披露した。
 最後の一人を除いて。

 ――この娘は将来、この家に大きな大きな災いをもたらすだろう。

 黒猫を抱いた老婆がおもむろにそう言ったという。父親であるシーモア侯爵は激怒し、一週間後には老婆は縛り首になった。

 ジーンの母親は、その名をナタリーと言った。
 ロンドンの弱小貴族の娘で美しい女だった。ジーンの父、地方侯爵であったフィリップ・シーモア侯爵に一方的に見初められ、側室として強引に娶られてきた。

 ナタリーは双子が四歳になるかならないかという時に、館の尖塔の窓から身を投げて死んだ。
 若い母親はジーンらを生んでから産後の日だちが悪く、そのままずるずると病床に臥せることの多くなり、死の一年ほど前からおかしな言動が目立つようになっていた。
 その日、寝ている幼いジーンの顔に枕を押しつけているところをたまたま侍女に発見されて取り押さえられ、その夜、閉じ込められた尖塔から身を投げて死んだ。
 尖塔の小さな窓枠は、無理やり出ようとしたナタリーの血で濡れていたと言う異様さだった。

 時を同じくして、ナタリーの母、つまりジーンの祖母にあたる人も、二十年ほど前に半狂乱になって短剣で娘(ナタリー)を刺そうとしている所を、ナタリーの父親に切り伏せられて死んでいた事が明らかになった。

 俄かに縛り首になった占い師の予言が真実味を帯び始め、ナタリーの血筋は呪われているという騒ぎになった。正妻をはじめとする迷信深い人間達は今すぐジーンを殺すべきだと主張した。
 幸い、侯爵はあまり信心深いほうではなかったため殺されることは免れたが、表向きジーンは死んだことにして、他人に預けられることになった。当時、領境の山間に隠居しようとしていたシーモア家の前兵長で、今回の遠征につき従ったジョーンズ・フレドリックの兄に当たるハーレイ・フレドリック夫婦に貰われた。
 ジーンと母親は病死したと公表された。
 ジーン・シーモアは存在しないはずの人間になってしまった。

 本来なら貴族の女性には女らしい立ち振る舞いこそが一番重要な物だったが、新しい生活において、義父ハーレイはジーンにそれらを強制しなかった。口に出してこそ言わなかったが、表向き死んだことになっており、表舞台に出ることはもうないであろうジーンにそれらは必要ないものだと判断したのだろう。
 その代わり、ジーンの喜ぶ剣術や馬術、狩など男の遊びにジーンを連れて歩いた。ジーンは男勝りの活発な少女時代を送った。

 ジーンは自分の境遇に満足しており、実父であるシーモア侯爵を全く恨んでいなかった。それどころか、殺されても当然な自分の命を救ってくれたと信じていた。(それは、無用な恨みを抱かせまいとするハーレイの教育の賜物でもあった)

 平穏な田舎での生活が突如終わりを告げたのは、双子の弟であるアラン・シーモアが落馬により急死したときだった。
 ちょうどその頃、フランス国内ではブルゴーニュ候ジャンとオルレアン候シャルルの二つの派閥がパリで激しい流血闘争を繰り広げており、イングランド国王ヘンリー五世はその隙を虎視眈々と狙っていた。
 イングランド全土にはフランス遠征をするための召集がかかったが、シーモア侯爵はすでに年老い、また、次の跡継ぎの腹違いの弟も年が若く病弱といわれていた。シーモア家には兵を率いる人間がいなかった。
 間の悪いことにシーモア家は隣の貴族と領土争っている最中だった。国王の招集に応えなければ発言力が低下し、領土の縮小は免れまいと思われた。領土の縮小はすなわち権力の縮小につながり、どの貴族にとっても一番避けたいことだった。
 そこで苦肉の策として白羽の矢がたったのが、ジーンだった。ジーンは双子だっただけにアランと顔立ちがよく似ており、しかも女性にしては身長もあった。その上、育った環境のせいで、剣を取ってもたずなを取っても男に全くひけをとらなかった。

 侯爵はアランを極秘に埋葬し、ジーンをアランの身代わりとして召還した。

 義父ハーレイは反対したものの、ジーンは父親に対して恩義を感じており(それは義父自身の教育のせいでもあったのだが)自分はシーモア家のために尽くすと言って家を出た。冬の間、義父の弟であるジョーンズに馬上突撃の特訓を受け、出征直前に騎士叙勲を済ませた上で、アラン・シーモアとしてフランスへと出征したのだった。

 時は一四一五年、八月。

 こうして公の場から消えたはずの少女は、一人の騎士として表舞台に戻った。

****

 ニャァ!

 小さな猫の鳴き声で微かに覚醒する。すぐ傍に人の気配があった。

「エ……エミール……だったかな?」
 熱に霞んだ視界に、一本の蝋燭を持った少女のような姿の少年がいた。エミールは深刻な表情でジーンを見下ろしていた。
 目と鼻の先にギラリと光るものがあった。
 ジーンの目の前の少年が、枕元にあったジーンの短剣を持っていることに気付く。すでに鞘は取り払われていた。

 けだるい体に一瞬、冷たいものが走った。
「私を……殺すつもりか?」
 ジーンは熱でカラカラに乾いた喉から微かな声を絞り出したが、少年は無反応だった。

 ――なぜ?
 そう問いかけようとしてジーンはそれが無駄なことを悟った。フランス人がイングランドの騎士を恨んでいないわけがない。それは戦場にいたジーン自身がよく知っている。

(ここで私の命も終わりか……)
 ジーンは驚くほど冷静にその現実を見つめていた。

 戦場にいる間は恐怖の連続だった。荒くれた男達の中で男として暮らすのは、思った以上に辛かった。竹筒を使って立ったまま用を足すというだけで、いつ見つかりはしないかと肝を冷やした。女だと知られれば、例え味方のなかにいても無事でいられるとは思えなかった。
 不幸中の幸いなのか、月のものは渡仏以来、一度もこなくなってしまっていた。

 ずっと故郷に帰ることだけを夢見た長い戦場生活だった。
 帰ってくれば何があるというわけでもない。アランとしてずっと生きていけるはずもなく、シーモア家は、ちらりと見たことがあるだけの腹違いの弟が継ぐのだろうと覚悟もしていた。そのことにも何の不満もなかった。
 ただ、少女時代をすごした館には帰りたかった。
 いつも霧の立ち込めた陰気な土地ではあったが、ジーンにとってかけがえのない故郷だった。
 ふと、淡い恋心を抱いていた庭師の息子を想った。
 もう、五年以上も前の出来事なので、顔も思い出せない。日に焼けた色の黒い少年だった。思いを告げることもなく戦場に出た。
 故郷に着けばまた会えただろうか?
 
 いや、と思う。
 会えるはずもない。自分はもうジーン・シーモアではないのだ。昔はお転婆ではあったが、やはり女だった。しかし、五年以上にわたる遠征を経て、自分の中の何かがかわってしまっていた。それに、今のこのつぶれた声では一緒に歌を歌うことさえもできない。
 故郷に帰ったとして、それから先の人生など何も考えていなかったことに気付く。
 つッと火照った頬に冷たいものが流れた。
(おお、神よ……)
 せめてもう一度、故郷の丘に立ちたかったのに。
(こんな所で私に死ねと仰るのですか?)

 チン。
 少年が静かに短剣を鞘に収めた。
 少年の方を見ると、エミールもまたその青い瞳をじっとこちらに向けていた。その目には何の感情も見えなかった。
 少年はくるりと踵を返すと、部屋を出て行った。

(助かった……?)
 ジーンはふうと嘆息し、少年の慈悲に感謝した。

 短剣を振り下ろすのもまた慈悲だったということを、まだジーンは知らなかった。



◆ Priests(修道士)

 時折、甲高い声で鳥が鳴く。
 外では眩しい緑がゆれ、手に当たる差し込む日差しも暖かい。
 小さな窓から漏れ出てくる外の世界は、北方の短い春を迎えていた。

 熱の下がったジーンはぼんやりと空の雲を眺めていた。

 ギィ……。
 ドアの開く音がして、ディが入ってきた。
「体の調子はどうだい?」
「……」
 無言のジーンに男は肩を竦めた。
「熱は下がったらしいな。膿まなくてすむようだし、運がよかった」
「……」
「だんまりか……」
 それは、ジーンが前日に言われたことを考えれば当然の反応だったろう。
 ディがため息をつきながら、木を組んだだけの粗末な椅子に腰掛け、無精ひげに覆われた顎をぼりぼりと掻いた。
「故郷に帰りたくないか?」
 ディの唐突な言葉にジーン顔を上げた。
「俺とゲームをすれば、ここから出してやるぞ」

 その言葉で一瞬、昨日の夢で見た故郷の景色が蘇った。
 ドキンと心臓が高鳴る。
 しかし、ジーンはそれを全く表情には出さなかった。心を押し隠すのも戦場での知恵だった。

「……神父と言っている事が矛盾している」
「ああ、修道士たちは女を引き入れたなんて公になったら、面子が丸つぶれだからな。だが、俺には関係ない。俺は修道院の人間じゃあないからな」
 この男、確かにどう見ても修道士ではなかった。なぜそんな人間が修道院の中にいるのか不思議ではあったが、とりあえずは些細なことだった。
「私がお前を信頼する理由があるのか?」
 ジーンがハスキーな声で問う。
「心配する必要はないぜ。俺は嘘がつけない」
 男が例のバリトンの低い声で言った。ジーンはなぜかその言葉を疑う必要がないと思った。勘だったが、ジーンは自分の勘に絶大な信頼を置いていた。

「……考えておこう」
 ジーンはとりあえずそう言った。一見、戦場によくいたような男臭い無骨だが安心できる種類の男に見える。だが、この男にはもっとドロドロした暗く得体の知れない不気味さがあった。これも勘だった。

 その時。
 カツンカツンカツン。
 廊下を複数の人間が歩いてくる足音がした。
「結論はなるべく早い方がいいぜ。なんせ、ここにいる男達は女の扱い方をしらない」
 ディはそういいながら立ち上がった。
「俺と違ってな」
 にやりと不敵な笑みを浮かべ、部屋を出て行った。

****

 入れ替わりに三人の男達が入ってきた。
 立派な髭を蓄えた背の低い太った中年男と、背の高い金髪の若い男、そして髪の白くなりかけた痩せた老年の男。どの顔にも見覚えがなかったが、年老いた二人は頭頂を剃っており、ディや神父よりずっと高価そうな生地の服を着ている。どうやら位の高い僧達のようだった。三人とも無遠慮にジロジロとジーンを見ていた。

「確かに女だ……」
 包帯の下の盛り上がりを見て、金髪の若い男が熱のこもった声で呟いた。
 ねっとりとした視線が包帯を巻かれただけの体を舐めているのを感じて、ジーンはシーツを引き上げた。
「男のように見えますが確かに女ですな」
 白髪の男の声も少し上ずっている。
「ディヴィットの若造も粋なことを計らいおるわ」
 太った中年が言った。
 どの男の声にもあからさま興奮が混じっている。ジーンは咄嗟に昨日、短刀があった枕元に手を伸ばした。そこで昨夜、少年が持っていったことに気付くのだった。

「まだ生娘でしょうか?」
「はっはっは、まさかこの年で男を知らんということもあるまい」
「しかし、戦場では高潔の騎士として知られていたそうですから、わかりませんよ。まぁ、調べてみれば解ることでしょう」
 ジーンは僧侶達の露骨なやり取りに怒りを覚え、ぎりりと唇を噛んだ。
「恥を知れ!! それが神の教えを守る者の言葉か?!」
 ジーンの言葉に三人の僧侶が冷笑を浮かべた。
「だまれ異端者め! お前こそ自分を男だと言うのなら、何を恐れることがある? それとも、主の与えたもうた役割を無視し、女でありながら男の格好をして戦場を歩いていたといのか? それならばなおさら、十分な罰を下されて当然なのだぞ」
 一番偉そうな、太った男が怒声をあげる。

「さぁ、のんびりしていては午後の祈りに間に合いませんぞ。早速始めよう」
 他の二人がジーンに手を伸ばした。ジーンはその手を払おうと、反射的に手を振った。
「ううっ!!」
 肩の矢傷に激痛が走る。そのせいで力なくフラフラと振られた手はあっさりと金髪の若い男に捕まってしまった。一度捕まってしまうと、傷の痛みで力が入らない。
「ブラザー・ロイ。そのまま腕をもっておれよ」
 太った中年男は好色な笑みを浮かべ膝に手をかけた。
「くそっ、はなせ。はなせっ!!」
 ジーンが足をばたつかせて何とか男を遠ざけようとする。しかし、熱が引いたばかりの病み上がりで矢傷の痛みと戦いながら体を動かすのは激しく消耗した。ろくに抵抗できないまま足と手を押さえられた。

(ちくしょう!! こんなやつら剣さえあれば)
 ジーンが心の中で悪態をついた。自分の体が達者なら、男相手でも坊主になどに引けをとるはずがない。

「ふふふ、男の様にみえるが確かに女の匂いじゃのう」
 背の低い男が押さえつけられたジーンのうなじあたりに鼻を近づけた。息がかかる嫌悪感にジーンが顔を背ける。
「よろしいものですかな? ブラザー・ラスコー」
「ああ、甘い匂いがするぞ」
 背の低い男は調子に乗りうなじから首筋の匂いをふんふんと嗅ぎ取っていく。そうしながら腰紐をとり長服を脱いだ。下には何も付けておらず、醜悪な下半身が顕になる。皺だらけのどす黒いペニスが半ば勃起していた。ラスコーと呼ばれた男は、そのままジーンの体に上りついた。

「くっ!」
 ラスコーの重みに傷が痛み、滲み出る脂汗で短く刈られた褐色の前髪が額に張り付いた。腹のシーツ越しに男のペニスが当たっており、その生暖かい感触に虫唾が走る。
 今度は足を押さえていた痩せた壮年男が手を離し、素早く衣服を取り去った。赤黒い性器が、こちらもすでに勃起している。肋骨の浮いた痩せた体がなんとも醜い。
「こちらも頼みます。ブラザー・マーカム」
 ロイと呼ばれた若い男ジーンの腕をマーカムと読んだ壮年の僧に預け、いそいそと服を脱いだ。ジーンの目と鼻の先で、ロイの若くてピンク色のペニスが完全に勃起していた。その先は自らの汁に濡れてテラテラと光っていた。

「くっくっく。エミールは確かにいいが、女も悪くないかもしれんのう」
 そう言いながらラスコーは少し体を浮かし間に挟まっていたシーツを取り去った。ジーンは下には何も着けずに寝かされていたため、閉じた足の付け根の褐色の陰毛が丸見えになってしまった。
 ジーンの体はしなやかな筋肉に覆われ、ところどころに鎧ずれで皮膚の硬化した場所がある。肌は日に焼け、そこかしこに傷跡があった。それは、男から見た理想の女体からはかけ離れていたが、豹のような強い美しさを持っていた。
 しかし、破戒僧たちがその美しさを理解することはなかった。
「色気のない体だが、まぁ、しかたあるまい」
 そういうと半ば起立した男性自身をジーンのへその下辺りに擦り付けた。ジーンはその吐き気を催す光景と感触に顔を背けた。

 ――今、死ぬ。
 覚悟は瞬時に決まった。
 思いっきり舌を突き出して、力いっぱい顎に力を込める。

 パン!!
 突然、激しい平手打ちがジーンを襲った。衝撃で傷の痛みも倍増する。
「舌を噛もうとしたぞ!」
 傷ついた女にまたがりながらラスコーが言う。それに気付いた若いロイがあわててジーンの口に両手の指を突っ込み、力いっぱいこじ開けた。中年マーカムがその口に猿轡をかませた。

「ウーッ! ウーッ!!」
 ラスコーが唸るジーンに立て続けに二発張り手を加える。消耗していたジーンは抵抗する力を奪われうなだれた。
「よし、ブラザー・ロイ。股を開け」
「ハッ……ハイッ」
 若い男は強い力でジーンの膝を押し開こうとする。自分の股が開かれるのを防ごうとジーンは再び首を振りながら体全体に力を込めた。ミシ、といやな音をたてて肩の傷が開き、暖かい血が巻かれた布とその下のシーツを濡らした。
 必死の抵抗も空しく病み上がりの体ではとても抵抗しきれなかった。長い間、体を突っ張っていたが、ついに限界が来た。
 股が強引に開かれると、やや薄い目の陰毛の陰に、ぴったりと閉じた陰唇が僅かに見えた。
 ジーンは怒りと屈辱と傷の痛みのあまり、大声で叫びだしたかった。しかし、それも猿轡に阻まれ、男達の征服欲を満たす唸り声にしかならなかった。

(こんな坊主達に!!)
 ジーンの頭の中を戦場で何度も目撃した強姦の光景がよぎる。女が悲鳴を上げながら何人もの男達に嬲られているのを見て、その惨めな姿に、たとえ敵国の人間とはいえ哀れに思ったものだった。
 ジーンは男を知らなかった。
 この時代、よほど貞操観念の強い信心深い家を除いては男女共に十歳を数えた辺りから性交渉を経験する者が多かった。しかし、ジーンの貰われた家は信仰が篤かった上、興味が持てるような同年代の対等な身分の人間が回りにいなかったこともあり、そんな機会がないまま成人(十四歳)した。
 その後すぐに騎士の訓練に入りそのまま性別を偽って戦場に出てしまい、ジーンは男を知る機会がなかった。

「ぺッ、ぺッ」
 ラスコーは自分の手に唾を吐き、それを自分のペニスに塗りつけてジーンの閉じきった陰部にあてがう。
(ヒッ!)
 ジーンは不浄の部分に生暖かい肉があたるのを感じ、鳥肌が立った。ラスコーは太った腹を揺らしながら、入る角度を探るようにぐいぐいと腰を押し付けてくる。
「ウウーーッ!! ウウーー!! ウー!!」
 ジーンが最後の力を込めて必死に抵抗する。

「ちっ、きつすぎて入らんわ」
 老年のラスコーのペニスはあまり硬くならず、そのため男を知らないジーンの狭い膣に入っていこうとしない。ラスコーは汗だくになって腰を動かすが、埒があかなかった。

「では、ぜひ私に」
 そう言ったのは若いロイだった。そばかすだらけの顔が興奮で紅潮している。
「よかろう。どうやら本当に生娘らしい」
 ラスコーはそういって体を離した。ロイはラスコーと入れ替わると、ジーンの足を大開にして押さえたまま、血色のいいピンク色の硬いペニスを押し付けてきた。
 若いロイは女を知らないのか、でたらめに腰を突き出していたが、ついに入り口を見つけその硬い凶器を押し込んできた。
「んーーー!!」
 ジーンは膣の入り口がこじ開けらる痛みにギュッと目を瞑った。

「は、はいりました」
「ほら、もっと奥まで突き入れろ!」
 腕を押さえていた壮年の男が言う。
「くうう、きつい!! ああ、これが……」
 感極まった声を上げながらロイがペニスをぐりぐりと刺しいれて来る。ジーンの体中の発達した筋肉が痛みでぎりぎり軋み、マーカムが跳ねようとする体を押さえかねて焦ったほどだった。

「んーーーー!!」
 まだ濡れてもいない膣に興奮しきったペニスを捻じ込まれ、体が突き破られる激痛にジーンの目から涙が零れ落ちた。ジーンの歯が麻の猿轡にぎりぎりと食い込んでいた。
(殺してやる!! 殺してやる!!!)
 戦場でも決して人前では見せなかった涙。それを流してしまった悔しさをぶつけるように、激しい痛みの中それだけを心の中で繰り返し叫んでいた。

 その時のことだった。
 ギィ、とドアを開けバケツに水を入れたエミールが入ってきた。
 中で行われている光景をみてバケツを落とす。バキンという大きな音がしてバケツが壊れ、水が床を濡らした。
 咄嗟に部屋の外へ出ようとするエミールの手をラスコーが握った。
「丁度よい。エミール、お前も見るのだ」
 エミールは一瞬戸惑った様子をみせたが、そのまま抵抗せずその場に留まった。

「おおぉうっ」
 ついに奥まで入ったのかロイが腰を止め気持ちよさそうな声をあげた。
「はっはっは、これでブラザー・ロイも男になったな」
「ここではなかなかオンナを抱けることはないからのう」
 二人の年上の僧達が笑いながら言った。
「う、うごかします」
 血走った目でそういうと、ロイは何の遠慮もない強引さで腰を前後に動かし始めた。
「エミールで慣れただけあって、とてもオンナと初めてとは見えませんなぁ」
「はっはっは、ホントに」

(クゥッ! クウゥ!)
 自分の中に男の体の一部が潜り込み、我が物顔で動いている。股間の激しい痛みに顔をしかめながら、ジーンはその現実が受け入れられずにいた。騎士達を従え、一軍を統率した自分が、卑しい僧侶くずれに力ずくで蹂躙されているという過酷な現実。いつの間にか目から零れ落ちる雫は一筋の流れとなり頬を濡らしていた。

「はっはっは、こんな男のような女でも処女を失うと泣くのですなぁ」
 壮年の目つきの悪いマーカムが嘲笑う。
 その間も若いロイは単調に腰を前後させ、ジーンに痛みを送り続けていた。
「ああぁ、ああぁ、中が、ぬれて、滑りやすく、なって、きてます」
 パン、パンと腰を打ちつけながらロイが途切れ途切れにいう。
「血ではないのかね?」
 ラスコーの言葉にマーカムが二人の結合部を覗き込んだ。
「いや、血は出てないようですよ。馬に乗ると破れるといいますからな」
「ちっ、どこまでも色気のない女だ。顔は悪くないのだが」
「おおっ、もう駄目だ。出してよろしいですか」

 その言葉を聴いてジーンは激しく首を振った。こんな男に体を汚されるぐらいなら死んだ方がましだった。

「中はやめなさい。中に出すと、次の者がやりにくい」
「わ、わかりました」
 ロイは若いペニスを抜き出しジーンの腹に押し付け、手でそれをこすり続けた。すぐにビクンとペニスが震えた。
「おおっ、おおおっ、おうぅっ」
 ビュッ、ビュッ、ビュッ!
 白い液がペニスの先から飛び出し、ジーンの臍のまわりにどろりとまとわりつく。その生暖かい感触と、なんともいえない匂いに、ジーンは吐き気を催した。胃の中が空でなければ確実に吐いていた。

「では、ブラザー・マーカム。次をどうぞ」
「おや、ブラザー・ラスコーは最後でよろしいのですかな?」
「どうせなら、私は中で出したいのでね」
「はっはっは。異端者に子種をあたえるとは、あなたも寛大な方だ。では、お先にやらせていただきますよ」

 いい年をした二人の僧の、あまりにもあまりな会話にジーンはとても聞いていられなかった。
 マーカムは腕を押さえる役目を、ロイに変わると、再びジーンの足を力ずくでこじ開け、ややどす黒いペニスを、ロイが出た後閉じてしまったジーンの膣に捻じ込んできた。
(ううっ!!)
 再び激しい痛みが股間を貫きジーンが顔をしかめた。
 壮年の男はロイよりは女を知っているのか、それほど性急でなくじっくりと腰を動かす。長い間忘れていた女の味をじっくりと味わうかのようだった。ジーンはただ人形のように黙って耐えるしかなかった。

 程なくしてマーカムも同じように果て、今度はラスコーに変わる。

 そろそろジーンの反抗もないだろうと判断したのか、誰もジーンの体を押さえつけようとしなかった。実際、肩の傷口から流れ出る血と度重なる激しい抵抗でジーンは貧血気味になりかけていた。
 ラスコーは他の二人と違いジーンの首筋や顎を舐めながら、ぐにゅぐにゅと腰を動かした。生暖かいナメクジが這うような舌の感触にジーンは再び吐き気を覚えた。
 永遠とも思える間ラスコーはジーンの体を貪る。ラスコーの動きが切羽詰ってきた頃にはジーンはすでに何も感じなくなってしまっていた。股間の鈍痛と矢傷の痛み、体中の打撲の痛みだけをどこか遠くに感じていた。いつの間にか涙も出なくなっていた。

「おお、出る、出るぞ!」
 ラスコーは感極まった声を上げると、自分より大柄なジーンの体をぐっと引き寄せた。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 激しい痛みの向こう側で、体の中に注ぎ込まれる熱い粘液の感触を微かに感じる。こんな老年の男の子種を体に植えつけられた絶望に、再び涙が溢れた。

 そのぼやけた視界の向こうに、少女のような顔の少年が見えた。少年はいつものように無表情にジーンの方をじっと見返していた。

「おお、ブラザー・ラスコー。私にもう一度!」
 若いロイが我慢ができないのかもう一度性交をねだる。
「まぁ、いいだろう。次は尻の穴だ」
 射精を終えたばかりのラスコーがどくと、ロイは今度はジーンの肛門を犯した。

 その後、他の二人にもかわるがわる尻を犯され、ついには貧血で意識を失った。

****

 それから三日間、毎日、入れ替わり立ち代わり多くの僧が現れジーンを犯していった。何度も反抗しては殴られ、唾を吐きかけられ、また殴られる。時には小便を飲まされ、嘲られたこともあった。抵抗するどころか自害する気力まで根こそぎ奪われ、ジーンはたった三日で心身ともにボロボロになっていた。

 三日目の夜。
「ディを……」
 いつものように無表情に男の体液に濡れた包帯を替えているエミールに向かって、ジーンは掠れた声で言った。エミールがジーンの落ち窪んだ目を覗き込む。
「……あの男……呼んでくれ」
 その時、ジーンはエミールの目に初めて感情の光が宿っているのを見た。
 それは悲哀と憐憫だった。

 エミールは少し躊躇うようにジーンを見た後、パタパタと足音を残して走り去っていった。



◆ Start(開始)

「こいつはひどくやられたもんだな」
 部屋に入り、ジーンを眺めるなりディが言った。
 一緒に来たディヴィット神父は、黙って目を瞑っていた。
 ジーンの顔は殴られて腫れ上がっており、唇には青痣が残っている。こけた頬が三日間の陵辱の酷さを物語っていた。傷も悪化し、未だに少しずつ血が流れ出している。

 神父が唇の端の血を拭き取ろうと布切れを差し出すが、ジーンはその手を振り払った。

「そう邪険にしてやるなよ」
 ディはそういって、ベッドの傍に立つ。
「確かにこの修道院にお前を呼び寄せたのはこの神父だが、どの道あんたの正体が教会に知れた時点で、こうなることは避けられなかったんだ。異端審問なんて騒ぎになったら、これどころじゃすまねえんだぜ」
 ジーンは無言のままだった。
「まぁ、そう悲しむなよ。よくあることさ。まさか、戦場で一度も強姦を見たことねえなんてことはねえんだろう? あんたが参加したとは言わねえが」
 その言葉にジーンは落ち窪んだ目をディに向けた。憎しみと怒りが渦巻いた目だった。
「よしなさい、ディ」
「なに、本当のことをいっただけさ。それともなにか? まさか、罪悪感を感じているなんていうなよ、神父」
 その言葉に、今度は神父が返事をしなかった。

「……ここから出してくれるといったな?」
 唇が腫れているため明瞭な言葉にならないが、ジーンは確かにそう言った。
「ああ、お前が俺とのゲームに乗ればな」
「ディ!? そんな約束は……」
 神父が抗議の声をあげる。
「そう目くじらを立てるなよ。このゲームが終われば、どうせお前との賭けの結果も出るんだ」
「しかし」
「この俺がもう約束したんだ」
 ディが強い口調で断言する。まるで一度した約束は絶対だと言うような口調だった。神父もそれ以上は何も言い返さなかった。

「……始めてくれ」
 ジーンがぽつりとそう言った。
「そうこなくちゃな」
 ディはそう言って手を差し出した。
 一瞬、ジーンの脳裏に、「ディに触ってはいけない」という神父の警告がよぎる。自分からディのこの手を取れば、ディからも自分に触れられるようになると神父は言っていた。
 しかし、それがどうだというのだろう? すでに何人もの修道士達に犯され、今更、一人増えたところで何も変わらない。
 ジーンは黙ってその手をとった。神父も依然、無言のままだった。

 ビュウ。
 窓から隙間風が吹き込み、部屋を照らしている二本の蝋燭が暗くなる。
 ジーンの背筋にぞくっと悪寒が走った。

「まずは傷を治そうか」
「?」
 ジーンは霞のかかった頭の隅でディのその言葉を不審に思った。
(……傷を……治す?)

 変化は唐突に訪れた。
 最初は激しい痛みだった。なれたはずの体の傷口から一斉に激しい痛みが荒れ狂う。次に体中の傷が燃え上がるように熱くなった。特に肩口の傷は焼いた鉄串を刺しこまれた様に熱い。次の瞬間にはそれは耐えられない程のかゆみとなり、暖かい疼きとなり、そして何も感じなくなった。全ての感覚が瞬きをする程の間に通り過ぎ、声を上げる暇もなかった。
 まるで嵐が一瞬で通り過ぎたかのようだった。

「何をした?」
 そう声を出してジーンは飛び上がるほど驚いた。
「声が!?」
 薬で潰したはずの喉から澄んだ女の声が出る。長い間忘れていた自分の声だ。
 腕を動かしても肩の傷は全く痛まない。唇の腫れもない。それにいつの間にか長くなった褐色の髪が首の周りに巻きついていた。

「おっと。治しすぎちまったらしいな。お嬢ちゃんのハスキーな声も好きだったんだが」
 ディがこともなげに言った。
 慌てて自分の体を巻く包帯をずらすと、傷はきれいさっぱり消えてしまっていた。戦場の古傷まで消えている。ジーンはディや神父になるべく半裸の体を見られないように、後ろに下がりながら、体のほかの場所を確かめてみた。体の傷という傷が消え去っていた。日に焼けたはずの皮膚までが出征前の白さを取り戻していた。
 ジーンは大混乱に陥った。

(これは……こんな……何が!?)
 触れただけで傷を治すなんて、聖人訓話に出てくる奇跡そのものではないか。この男が聖人? そんな馬鹿なことが信じられるはずがない。

「……お……お前は……一体?」
「心配しなくてもいいぜ。大事なところは表面しか治してねえからな。処女の痛みを二回も味わうのはぞっとしねえだろう?」
 ディはジーンの質問を無視して軽口をたたく。
「お前は一体、何者だ?」
 ジーンはディを睨みつけながら質問を繰り返した。
「ふふふ、その意気だ。体が傷ついて、自暴自棄になってるあんたじゃ、ゲームも楽しくねえからな」
「お前は一体、何者なんだ!!」
 三回目の問に、ディは軽くウィンクして見せた。

「言ったろう? 俺は悪魔だってよ」
 にやりと笑った大きな口から、長く鋭い犬歯の先が覗いた。

「ふざけるな!!」
「ふざけてなんてねえぜ」
 ディは神父の方を振り返った。
「さて、お嬢ちゃんは腹が減って気が立ってるらしい。のんびり飯でも食わせてやってくれ。ただしエミールに運ばせろよ。お前は俺がいいって言うまではお嬢ちゃんに会いにこない約束だからな」
「……わかっています」
 促されるままに神父が立ち上がる。

「待て! お前達にはもっと訊きたい事が……」
 追いすがろうとするジーンの前にディが立ち塞がった。
「あせる必要などこにもないさ。暫くはゆっくりしてるがいい。あの、坊主達もとりあえずはここにはこさせねえ。ただし、これからはゲーム中だ。それをわすれるなよ」
「いつ終わる?」
「さあね。だがその時が来ればお前にも分かるから心配することはねぇ」

「私は暫くの間、貴女に会えませんが、あなたの信仰を信じていますよ」
 そういって神父は十字を切った。
「何を勝手なことを!」
 神父はそれには答えず、じっとジーンの目を見つめた後、ディと共に部屋を立ち去った。

 すぐに食事を手にエミールが入ってきた。
 誰かがついて来ていたのか、エミールの後ろでゴトンという閂を下ろす音がする。
 手には野菜を煮込んだスープと硬い黒パン、それに葡萄酒の乗った盆がある。エミールはジーンの枕もとの台に盆を置くと、ジーンの方を見た。透き通るような青い目が微かに大きく開く。ジーンの変わりように少しだけ驚いているらしかった。
 ジーンはスープの塩気の効いた美味そうな匂いにつられ、腹がグウと鳴った。
 エミールは全く無表情のままだったが、それでも少し目が笑ったような気がする。
 照れ隠しもあって、ジーンは食事に手をつけた。完全に回復した体は自分でも驚くほど空腹だった。黒パンをスープに浸してどんどん胃の中におさめていくのを、エミールは無表情にじっと眺めていた。

 瞬く間に食事を終えるとジーンは一息ついた。すぐに体に巻きついた包帯が邪魔なことに気付き、それを外し始める。
 するとエミールがくるりと後ろを向いた。

(ふふふ……)
 無表情な人形みたいな子供だと思っていたエミールが人間的な反応を見せたのが微笑ましくて少し笑みが生まれた。
 そして、もうそんな余裕が生まれている自分を不思議に思う。ついさっきまで散々に犯されていたのが夢のようだった。
(もし、今の状態が夢じゃなければな……)
 何もかもが余りに速く起きすぎてジーンは現実感を失っていた。

 傷が癒され腹も膨らむと、今度は眩暈がするほどの眠気に襲われた。昨日までほとんど眠れなかった疲れが一気に出てきたようだった。
 ところどころ血の固まっている包帯を横にどけると、ジーンはシーツに包まった。
 すぐに瞼が重くて目を開けていられなくなった。

 シーツに染み込んだ汗の匂いが、ほんの一時、ジーンにこの三日間の絶望を思い起こさせたが、すぐに意識と共に闇へと落ち込んで言った。

 ニャーオゥ。
 ドアの隙間から入ってきた痩せた黒猫が、エミールの足元に纏わりつく。エミールは黒猫を抱き上げると、眠りに落ちたジーンをじっと見つめた。

 ニャーオ。
 エミールは猫を床に返すと、ジーンの外した包帯を手に取り、盆を持って、扉の前に立った。コンコンとノックをすると、思い閂を持ち上げる音がした。エミールは猫と共に外に出た。

 ゴトンという重い閂が落ちる音を、ジーンはもう聞いていなかった。




◆ Hole(覗き穴)

 ピー、ヒョロロロロロ。

 鳶の鳴く音でジーンは目が覚めた。
 顔に纏わりつく慣れない長い髪を掻き揚げながら、昨夜の出来事が思い出す。
「あーあーあー」
 声を出してみて、やはり女の声を取り戻していることを知り、改めて驚いた。
 昨夜あったことは現実だった。しかし、素直に信じるには余りにも異常な出来事だった。
 ディ、神父、エミール、悪魔、癒し……
 どれもこれも現実感がない。しかし、はっきり思い出せるものもある。
 男達に囲まれ、押さえつけられ、殴られ、犯され、生暖かい精液を注ぎ込まれる恐怖と絶望。それらだけは思い出しただけで心臓が縮み上がり、体が竦んだ。
 
 そんな時、ジーンは必死に戦場での記憶をたった。
 もっと、酷い目にあったはずだ。もっと恐ろしい光景を見てきたはずだ。胸に手を当てて意識をそちらに集中する。
 男ばかりの戦場で、立派に騎士としてやってきた。多くの騎士を率い、兵士達を指揮し、人も殺した。
 私は強い、私は強い。
 心の中で何度も念じ、自分に言い聞かせた。

 沈黙の時間はとても長く感じる。
 その間、ジーンの心の中では寄せて返す波のように恐怖が往復した。
 着るものがないので素肌にシーツを巻きつけ、部屋の中を歩いたり、ドアをドンドンと叩いて人を呼んだりしてみたが、気晴らしにもならない。

 ふと部屋の隅に本棚があることに気付き、何気なくその一冊を手にとって開いた。
 現れたのは男と女のあられもない姿を描いた絵だった。慌てて本を閉じる。二冊目、三冊目と手にとって見るがどれも淫画や閨技を扱った異端本だった。多くはラテン語だが、見たこともない文字のものも多い。
 どうやら、焚書を免れた本がここへ集められているらしいと気付き、ジーンは手に持った本を地面に叩き付けた。ここの修道士たちは心の底から腐っている。火があれば燃やしてやりたいぐらいだった。

 ベッドに戻り窓の外を眺める。じっとしていると再び嫌な事を思い出しそうになり、また立ち上がる。何度もそんなことを繰り返しながら、なかなか経っていかない時を恨めしく思った。
 目を瞑り腕を組んで、必死に神に祈った。

 自分を犯した修道士達に天罰が下りますように。
 再び自分の故郷に帰れますように。
 何者にも負けない心の強さをお与えくださいますように。

****

 長い沈黙が破られたのは夕食時だった。
 ガチャッという音に気付いてジーンが顔を上げると、ドアのすぐ傍に積み石一個が抜けた穴があり、そこから小さな盆と昨日と同じ食事が差し出されている。塩気の効いた美味そうなスープの香りが部屋に満ちた。
 出された食事を食べるのは、あのディや修道士たちの情けにすがっているようで気が引けたが、すでに昨日、出された食事を食べてしまったことを思い出し、今更意地を張っても仕方がないと思うことにした。食べられるときに食べるのは戦いにおいての鉄則だった。

 日が暮れてくると明かりのない部屋の中は急激に暗くなってくる。
 少しうとうとしかけている時、ギシギシという木の軋む音で目が覚めた。
 枕もとの壁に親指の長さ程の直径の丸い穴が開いており、そこから洩れた蝋燭とおもわれる光が揺れている。微かに人の話し声が聞こえた。

 何事かと身を乗り出し、穴を覗き込む。
 中の驚くべき光景に胸が痛いぐらいにギュッと締め付けられた。

 隣の部屋もこの部屋と同じぐらいのこじんまりとした部屋で、真ん中にやや大きめの木のベッドがある。その上で二人の男女が絡み合っている。ジーンは咄嗟に飛びのいた。
 ここ三日間自分がされていた事が思い出され、呼吸が出来ないほど胸が締め付けられる。
(いや……あれは……)
 ジーンは考え直す。この修道院には女は自分しかいない筈だ。
 となれば、女に見える人間は一人しかいない。あれはエミールなのだ。
 それならば女が全然、声を上げていない理由も分かる。

 ジーンはそれ以上とても穴を覗く気にならず、うずくまるようにしてベッドに寝転んだ。それでもジーンの頭の中にはギシギシとベッドの軋む音が響いていた。

 それが隣室から漏れる音なのか、それとも自分の集団で犯されているときの記憶なのか、ジーンには区別がつかなかった。

****

 五日目にしてジーンは思わぬ敵に苦しんでいた。
 それは『沈黙』だった。

 日に一度、贅沢ではないが十分な量の食事が出される。それを食べる以外に何もすることがなかった。人に話しかけようにも、唯一食事を持ってくる人間がエミールであるため食事用の穴越しに会話することすらできない。排泄物も部屋の隅に開いた穴から、直接外の堀に落ちていくようにできているため人の手を煩わせることもない。
 初日は武器代わりの壊した椅子の足を手に、誰かが来るのを待ち構えていたが、誰も来なかった。次の日も、その次の日も、食事を運ぶ少年とドブ鼠以外、この部屋に近づいてくる者はいなかった。
 差し迫った危機がなくなり、戦場生活から見れば天国のようなベッドつきの生活をしていると、いつの間にか暇を感じる余裕が出来てしまっていた。
 悲惨な戦場も、激しい陵辱も、男が見せた奇跡も、なにもかもが遠い昔の出来事のように思えてくる。
 ジーンはそんな自分を恥じ、神への祈り続けた。自分の命令で死んでいった部下や、略奪の途中殺した民衆達など、自分の罪を思い出しては、神に許しを請うのだった。

 一日でおこる大きな出来事といえば、食事とそして毎夜行われる隣室での情事だけしかない。そしてその日もそれは始まった。

「おぅっ、エミール……エミール……そなたはやはりいいぞ」
 壁に開いた穴から漏れ出てくる男の声。たしか、最初に自分を犯した男達の内の一人だ。ラスコーと言っただろうか。思い出したくもない名前だが、隣の部屋でこの男の声がするのは初めてだった。
 ピチャ、ピチャ。
 断続的に聞こえる粘着質な音。
(神よ、あの者に呪いあれ)
 ジーンは呪いの言葉を唱えた。

「ふふっ、お主も好きだのう。おおぅ、どこまで舐めるのじゃ。よしなさい」
 これまでの僧侶達は、まだ罪悪感があるのか黙って事に及んでおり、ベッドの軋む音以外は荒い吐息しか聞こえてこなかっただが、このラスコーという年老いた男はベッドの上でもよく喋る。
「お、おおっ、いいぞ、エミール!! おおぉ!!」
 自分を散々犯している時には聞いた事がない男の追い詰められた声に、ジーンは何事かと壁の穴を覗いた。

 ベッドに腰掛けたラスコーの股の間に白い裸身があった。よく見るとエミールはその小さな口で、ラスコーのペニスをしゃぶっていた。
 ラスコーの中年らしいしまりのない体を見て、反射的に体が竦む。男達に囲まれ何度も殴られ犯された記憶は、体が癒された今も、ジーンの心に強い恐怖を伴って刻み込まれていた。

 しかし、そこにある光景はジーンの知る陵辱とは少し違った。
「もう、やめてくれ、エミール。今日は二回するつもりはないのだ。おお、やめてくれエミール」
 男が切羽詰った声をあげて少女のような姿の少年に懇願している。まるで逆だった。
 それまで睫毛を伏せていたエミールが少し顔を上げ、ラスコーを見上げる。いつものような無表情さだった。

「くそっ、あのディビットさえいなければ、今すぐにでもお前をわしの物にするのに。おおっ、だめじゃ、エミール、やめておくれ」
 男の愁訴にも聞き耳を持たず、エミールは頭を激しく前後させる。まさに、汚らわしい娼婦そのものの行為だった。呼吸が苦しいのか少し顔を紅潮させているが、その目は氷のように冷たく男を観察している。
 美しい金髪は今は束ねられておらず、乱れた髪が顔にかかって、ますます女のように見えた。

「おお、エミールぅ! 出る! 出るぞ!!」
 ラスコーの声と共にエミールは動きをやめた。
 小さな間をおいて、またクチュクチュと物を舐める音がし始める。エミールは男の精液を飲み込み、再びペニスを舐め始めたのだった。

(なんという……)
 ジーンは絶句していた。
 口で性器を愛撫するのは、生殖を伴わない性行為として、神への冒涜とされている。それをこの少年は自らすすんで行っていた。少年の小さな唇から赤黒いペニスが出入りするのはこの上なくグロテスクな光景だった。

 ……チュ……クチュ。
 暫く粘着質な音だけが響いていたが、程なくしてエミールが顔を上げた。ラスコーの赤黒い皺だらけの性器が天を指し、蝋燭の光を反射して鈍く光っている。
 エミールが立ち上がると、ラスコーも立つ。エミールは何も言われぬまま、ベッドの上で四つん這いの姿勢になった。

「長い時間、入れてもらいたくて、あんなに熱を入れて舐めたのだな?」
 ラスコーの言葉にもエミールは表情を変えない。ただ従順に腰を突き出しただけだった。
「ふっふっふ、悪い娘じゃ」
 中年男がペニスを突き出す。蝋燭の薄暗い光の中で、ペニスがエミールの体の中にめり込んでいくシルエットが見えた。

 ハァァ……。
 エミールが大きく口を開き、大きく息を吐いた。
「すばらしく心地がいいぞ、エミール。あの男女なぞよりずっといい」
 ラスコーがゆっくりと腰を動かす。奥まで突き入れられるごとにエミールは大きな息を吐いた。苦しんでいるような、何かを我慢しているような、そんな吐息だった。

 グチュ、グチュ、グチュ。
 エミールがたっぷりつけたのであろう唾がラスコーの腰の動きに合わせて卑猥な音を生んだ。徐々にラスコーの腰が速くなるにつれ、それはベッドの軋む音にかき消されていき、程なく煩いぐらいにギシ、ギシとリズミカルな木のこすれる音だけが隣室を満たした。
 やがて二人は体位を入れ替え、ラスコーがベッドに寝そべり、それをエミールが跨いだ。エミールは何の躊躇いも見せず、男のペニスを手で持って狙いを定め、肛門へと飲み込んでいく。完全に腰を下ろすと、自分から腰を動かし始めた。

 ジーンは目を疑わなければならなかった。
 エミールはいかがわしい旅芸人の踊りさながら、下半身だけをうねらせる様に腰を使った。腰から下の激しく速く小刻みな動きにもかかわらず、上半身はまるで微動だにしない。まさしく熟練の踊り子のような腰つきだった。
「ど、どうしたんだ。いつもより、激しいではないか」
 男があせった声を上げる。
 当然、エミールは答えるわけもなく、中腰での淫靡な踊りやめなかった。
「おおぉ、おおぉ、おおぉ」
 あっという間にラスコーの声が追い詰められたものになる。動きを止めようとして、エミールの腰に手を廻そうとするが、エミールはそれをもろともせず速いペースでカクカクと腰を振り続けた。

「エミール、エミール、うぉ、おおおっ」
 中年男は年甲斐もなく激しい痙攣のような動作で腰を突き上げた。エミールは荒馬に乗るかのように軽々と男のしまりのない腹の上に留まる。その間も腰の動きを止めずに男の精を搾り続けていた。
 ラスコーは力を使い果たしたのか、がっくりとその場に崩れ落ちた。突然の沈黙が訪れた。

 ……ゴクッ。
 ジーンが自分の唾を飲み込む音にギクリとする。いつの間にか他人の、しかも男同士の情事を覗いている自分に気付く。それは騎士ににあるまじき行為だった。しかし、それでもジーンは未だに男にまたがり続けるエミールから目が離せないでいた。

 ハァ……ハァ……ハァ……。
 荒い吐息だけが静けさの中、響いている。エミールは薄い胸が激しく上下させながら、自分の顔にかかった金色の髪を、まとめて後ろに廻した。
 蝋燭の明かりの中、エミールの色白な横顔が浮かび上がった。

 細く美しい輪郭に伏せた長い睫毛。すこし頬を紅く染め、軽く開いた口から熱い吐息をもらしている。しかし、その目は限りなく深く、限りなく青く、未だに冷たい光を宿して、自分の下にだらしなく脱力している男を見下ろしていた。

 男とも女ともつかない横顔は、まるで天使のように美しかった。

 ジーンは急にその背徳にまみれた光景を見ていられなくなり、ベッドに戻った。
 股間が冷たいことに気付いて手を伸ばす。
「……あっ」
 じわっと小さな疼きが湧き上がった。
(……濡れている)
 男に無理矢理犯されると、少しだけ粘液がでることはあった。しかし、何もされていないのに濡れたのは初めてだった。それが女の欲情の証であることはもちろん知っている。
 男同士の情事を覗いて、欲情した自分に愕然とする。しかも、片方は無残に自分を犯した男、もう片方は無理に連れてこられた少年なのに。

 その夜はジーンは長い間、懺悔の祈りを捧げていた。




◆ Needle(針)

 ガリガリ。

「ふぅ」
 ジーンは壁を傷つけながらため息をついた。

 起きると共に一日一本ずつつけた傷もすでに十二本になった。
(ああ、今日もまた始まったのか)
 ジーンは枕元の本に目を落とした。

 ここ数日間の暇で、ジーンは異端書物のなかにもいくらか読める本があることに気付いた。イスラム圏や、ローマなどの歴史書、遠い国の風俗や風説を記した書物など、どれも見たことのない珍しい内容である。
 暇と好奇心に任せて、それらを読み終えてしまった。

 どこまで本当なのか眉唾な書物も多い。年頃の娘に桃ばかりを食べさせ、その汗や尿を万病の薬として飲む風習や、男のペニスの皮や女の陰唇を切り取る風俗。体に模様を刻み込んだり、首に輪を重ねて首自体を伸ばす民族など、聞いたこともない風習がこれでもかと並んでいる。
 肉体を改変する事は、教会のもっとも忌み嫌う異端行為だった。
 中には王家のハーレムでの作法や女を悦ばせる薬や手段などといった破廉恥な内容もあったのだが、むしろそちらの方が戦場の男達の猥談に慣れたジーンには大したことがないほどだった。

「俺の蔵書は気に入ってもらえたか?」
 突然、聞き覚えのある低く美しい張りのある声が部屋に響いた。ジーンは心臓が止まりそうなほど驚き、飛びのいた。
 目の前には得意の不敵な笑みを浮かべたディが居た。

「き、貴様! 一体どうやって!?」
「どうやって? ドアから入って来たに決まっているだろう?」
 そういって背後のドアを指差す。確かにドアは大きく開いていた。しかし、足音も何もなしにこの部屋に入ってくることなど普通の人間にはあり得ない。

「まあそんなことはいいじゃねえか。それより、元気そうで何よりだぜ」
「……」
 ジーンは警戒の眼差しをむけながら、自分の体に巻きつけたシーツをギュッと引っ張った。
「へぇ、騎士様はこれがお気に入りかい?」
 そういって、ベッドに開いたまま置かれた本を手に取った。ちょうど、人間の皮膚に絵を描く風習のページだ。確か、顔料をつけた針を皮膚に突き刺し、絵を描くとか……。何百年も前に教会に禁止された蛮行だった。
 ニヤリと笑ったディをみて、ジーンは嫌な予感がした。
 予感は的中した。

「ちょうどいい。お嬢ちゃんによく似合いそうだ」
 ディがそういうや否や、ジーンは護身用に枕元に忍ばせてあった壊した椅子の足を掴み、男に投げつけた。その隙に男の傍を抜けて、開いたままのドアから外に飛び出そうとした。いや、飛び出した筈だった。

 ジーンはベッドの上から一歩も出ていなかった。

 それどころではなく、いつの間にか体を覆っていたはずのシーツも剥ぎ取られてしまっている。そして目の前の男も全裸だった。毛むくじゃらの下半身から垂れた巨大なペニスがすぐ目の前にある。

 突然、ジーンの心のどこかに封じ込められていた恐怖が爆ぜた。
 男の体、男の性器。三日間にわたる激しい痛み。殴られ、嘲られ、犯される心の痛み。痛みに伴う恐怖。瞬時に体が竦んで動けなくなってしまった。声すら出ない。
 馬鹿にしたことに、手の中の椅子の足は残されていた。しかし、それを振るおうと思いつくことすらなく、ただ、指関節が白くなるほど強く握り締めていた。

 そんなジーンをディは興味深げに観察する。
「ふーん、女騎士もこうなっちまったら形無しだな」

(神よ……神よ……)
 ガチガチと歯の当たる音がする。
 近寄ってくる裸のディに対してジーンは無力だった。逃げることも戦うこともできず、子供のように震えていた。多くの男達に嬲られた記憶の前には、一週間の間、神に祈ったことなど何の足しにもなっていなかった。裸の男が目の前にいるだけで、ジーンの心は萎縮しきっていた。

「その方がやりやすいか。心配することはねぇ。何人かやったことがあるんだ」
 ディがベッドに近寄る。どこから取り出したのか、小さな陶器製の瓶と柄のついた太い針を手にしていた。
「うつぶせになりな」
 ディが言うが、ジーンは何の反応も示さない。ただ目に涙をため、ふるふると首を振るだけだった。ディは少し肩を竦めると、今度は大声で怒鳴りつけた。
「うつぶせになれっていってんだろう!!」

「ヒッ!!」
 ジーンは手に持っていた椅子の足を取り落とし、それが石の床の上を跳ねた。
 恐怖に支配されたまま、ノロノロとベッドにうつ伏せになる。

 ディは暫くジーンの背中を見ながら何事か考えていた。「よし」と小さくつぶやくと、瓶の中の顔料に浸した針を、ジーンの右肩へとおもむろに突き刺した。
 ビクン、とジーンの体が震えた。太くて鈍い針が皮膚表面を突き破る痛みは、矢が突き刺さった時の痛みとはまた違い、精神に直接響く鋭さを持っていた。それでもジーンは悲鳴を上げることすら出来なかった。逆に体は縮こまり、馬上槍を持つために鍛え上げられた見事な背筋も硬く縮こまっただけだった。

 すぐに二針目が皮膚を突き破る。
 心の中では痛みに悲鳴をあげているのに、体は全く言うことを効かない。

 ジク、ジク、ジク……。
 三針目、四針目、五針目……。
 少しずつ少しずつ場所を変えながらリズミカルに針が体を刺していく。まさに拷問だった。男は一、二針毎に瓶に針を戻し、また刺す。一針一針が直接神経に突き刺さっているかのような痛みだった。

 右肩から始まった拷問は右脇に移り、腰へと移っていく。
 その間、ジーンの心の中はさまざまな感情が渦巻いていた。
 最初は恐怖だった。先の見えない果てしなく続く痛みがどこまで続くのか。
 こわい、おそろしい、いたい……。
 いつの間にかメソメソと泣いていたが、それでもディは無言で針を刺し続けた。

 段々、痛みを受けることに心が慣れてくると、次は行き場のない憤りが心を満たした。
 なぜ、私がこんな目にあわなければいけないのか? ディが憎い。神父が憎い。修道士達が憎い。なにより、こんな何も出来ない自分が憎い。
 立ち上がれ、立ち上がってこの男の首を絞めろ。怒りで自分の心を奮い立たせようとするが、しかし強張った体は言うことを効かなかった。

 痛みに体が麻痺し、痛みよりも、冷たい汗が吹き出る悪寒しか感じられなくなると、今度は惨めな愁訴しか思い浮かばなくなる。
 もう、許してほしい、助けてほしい。誰か救ってください。ああ、神よ、神よ、なぜ助けてくれないのですかか、こんなに痛いのに、こんなに助けを求めているのに。

 針は腰から左脇、尻、左太ももと順に刺されていく。
 尻は感覚が鈍くてほんの少しだけ、喋る余裕ができた。

「どうして……どうして……こんなことを……する……?」

 無視されるかと思ったが、ディはその問いに答えた。
「お前を変えるのさ」
「わたしを……変える?」

 喋りながらも針は休むことがない。ジク、ジクとジーンの皮膚の表面をえぐり続ける。

「お前達、人間は惨めだ」
「……何が……惨めだ?」
「互いに争い、疫病に怯え、腐りかけの肉を食い、痩せた土地に麦を蒔き、蒔いたのと変わらない量を収穫し、それでも創造主を信じて神を崇める。それが惨めでなくなんだ?」
「神の……教えを……冒涜するか」
「男は男として生き、親の後を継ぐ。女は女として生き、男のモノとなる。豚は豚として生き人の胃に納まり、貴族の子は貴族となり他人をこき使う。お前達は何も疑問に思うことなく、それがこの世界を創った神の意思だと信じている」
「それが……秩序という……ものだ」

「秩序? 家を守るため性別を偽り、異端として修道院へ連れてこられ、生臭坊主たちにボロボロになるまで輪姦され、それがお前の言う秩序か?」

「……」

「お前をヒトから解放してやろう。神に似せて作ったというこの体から。神の作った秩序から。心を縛る信仰から」
 男のつややかなバリトンが歌うように言葉を紡ぐ。
「ウゥッ!」
 針が尻を超えて、内股の皮の薄い部分に突き刺さると、またも鋭い痛みが突き抜けた。

 ジーンの耳元にディが囁いた。

「一匹の獣になれ。何者にも縛られない、触れるもの全てを引き裂く淫らな獣に」

 ディがグッと針を突き入れる。
 皮膚の破れるブツッと言う鋭い痛みの後に血が噴出した
「ウゥゥアアァァァ!!!!」
 激しい痛みに、初めてジーンが大きな悲鳴を上げた。
 ジョオオと激しい勢いで小便が噴出し、ディの手を濡らしたあと、ベッドに黄色い水溜りを作った。

****

 日が暮れると、蝋燭が灯されて拷問は進められた。
 夜が明けても、針はジーンを責め続けた。

 ジーンは寝ることも出来ず、朦朧とした意識の中で痛みだけを感じていた。何度も意識を失い、その度に痛みに目覚め、何度も神に祈り、同じ数だけ神を呪い、何度も泣き叫び、許しを乞うた。それでもディは疲れを知らずにジーンの体を苛み続けた。

 翌日の夕刻、一度も止まることのなかったディの手が止まった。
 そして、腫れ物のように痛むジーンの皮膚を、そっと手でなでる。それだけで腫れて血のにじんでいた箇所が、中の色素だけを残して元の状態になった。

 夕日の紅い光がジーンの戦場で鍛え上げられた体を照らしていた。
 右手から始まり右肩を越え、丸みを帯びた胸の下から引き締まった腹、尻、太もも、ふくろはぎへと幾重にも巻きつく黒一色で描かれたツタの模様。

 ジーンが身じろぎするのに合わせ、それらはまるで生きている蛇のように震え蠢く。

 それは半身に黒い荊(イバラ)を纏った、限りなく妖しい女の姿だった。




◆ Beast(獣)

 翌日、人の気配で目が覚めると、そこには一人の少女がいた。

 起き上がろうとして、体の表面のヒリヒリとした痛みを感じる。そこにある絵柄を見て、ジーンは暗い気持ちになった。
 右手から右肩を経て背中を回り左わき腹から、左の乳房の下半分を覆いつつ、右わき腹へ、尾てい骨から太ももを通りつま先まで、巻きつくようにびっしりと黒一色で鮮やかに描かれた荊のツタ。異端本の記述によれば、この「刺青」と呼ばれる方法で一度入れた模様は二度と消えることはないという。
 つまり、もう自分は教会の治めるこの世界では、とても普通の人間としては生きていけないことを意味していた。
 もちろん、あのディという男ならこれも消してしまえるのかもしれない。しかし、その願いは聞き入れられそうになかった。
 
 もう死んでしまいたい。しかし、舌を噛み切る気力はすでに失われてしまっていた。
 消えてなくなってしまいたい。それが、今のジーンの望みだった。男として生きたことも、修道士達に集団で暴行されたことも、何もかも消えてなくなってしまえばいい。この汚された体とともに、魂まで消え去ってしまいたい。
 これ以上、もうどんな苦しみにも、痛みにも耐えられない。
 ジーンの心は限界に達していた。

 うなだれるジーンの耳にシャッシャッという軽い音が聞こえる。
 改めて顔を上げてみると、ベッドの傍に白くて薄い布を一枚纏っただけのエミールがいる。エミールの前には小さな白い布を張った板があり、その上にジーンが絵を描いているのだと解った。エミールは幾つかの絵の具の入った貝殻から、色を取り出し、油で練って手に持った小さな木の板の上で混ぜては、キャンバスに筆を走らせていた。

 ジーンはその絵を見て驚いた。
 少年の絵には緑の鮮やかな色使いで岡や谷が描かれている。教会にある聖人画のような平坦な図柄ではなく、まるで透明な空気までが閉じ込められているような、奥行きのある絵だった。そんな絵の描き方は初めて目にする。

「……うまいものだ」
 ジーンがポツリとつぶやくと、エミールは相変わらずの無表情のまま、振り向いた。

 近くで見ても本当に美しい少女にしか見えない。体に纏った布から覗く手足も恐ろしく色が白い。長い幽閉生活の結果なのだろうが、それは労働に明け暮れる村女にはない美しさを際立たせていた。それが男を相手にして……。
 ジーンはのろのろと首を振ると、再び絵に目をやった。近くで見るとよりいっそう、その繊細な色使いがわかった。

「誰かに習ったのか?」
 ジーンの問いにエミールは軽く左右に首を振った。
「……上手いものだ」
 ふとジーンはエミールが自分の体をじっと見ていることに気付いた。

 下を見ると、巻きつけた白い布の隙間から、幾重にも絡まる黒い荊のツタが見えている。呼吸するごとに胸が上下するのにあわせ、それ自体が生き物のように動いていた。
 エミールはおずおずと手を伸ばしてきた。

「ウッ……」
 未だ針で傷つけられた肌を触られると少しヒリヒリする。ジーンの痛みの声を聞いて、エミールは慌てて手を引っ込めた。
「……いいんだ。少し痛い」
 少年はそれ以上、触ることはしなかったが、じっとジーンの胸のあたり見つめていた。相変わらず無表情な顔からは何もうかがえない。
「……女が珍しいか?」
 ジーンの問いに、エミールはハッと目を逸らした。
 こんな所にずっといては、女を目にする機会はないだろうとジーンは思った。

 ミィヤァ。
 エミールの足元に、いつもエミールが連れている痩せた黒猫が現れた。お世辞にも可愛い猫とは思えないが、妙に仕草に愛嬌のある猫だった。その猫がエミールの注意を引きたいかのように足に上りつこうとしたり、飛び上がろうとしたりしている。

 エミールは軽く猫の頭をなでると、再び絵筆を握る。

 ふと、その絵の風景に見覚えがある気がした。
「……故郷か?」
 ジーンの質問にエミールは頷いた。
「そうか……」
 自分に見覚えがあるということは、エミールの故郷の村はイングランド兵に略奪されたのかもしれない。もう村ごと離散してなくなっているのかもしれない。実際そんな村も多かった。だが、とてもそれをエミールに伝える気にはなれなかった。
 エミールは繊細な手つきで、筆を操っている。
 ジーンはその手つきを見ながら、ぼんやりと自分の故郷の丘を思っていた。

****

 日が中空にのぼるころ、ガタンと閂を外す音がし、ドアを開けてディが入ってきた。
 その姿を見た瞬間、ジーンの心に激しい恐怖と怒りが同時に沸き出した。

「そう怖い顔をするなよ。その模様は気に入ってくれたか? 我ながらなかなかいい出来だと思ってるんだ。なぁ、エミール」
 しかしエミールは無表情のままだった。

「ちぇっ、芸術ってのはなかなか理解されねえもんだな。まぁいい、いいものを持ってきたんだ」
 そこで初めてディの後ろに紅いベルベットの掛けられた、四本の金属の足を持つ大きな板状のものがあるのに気付いた。板だけでも縦五フィート、幅三フィートはある。(1ft=約0.3m) 足を入れれば人間ほどの高さがあった。
 ディがさっとベルベットを取り除くと、ジーンもエミールもその中の人影にギョッとした。

 それは巨大な鏡だった。ジーンが見たことのあるどんな鏡よりも大きい。しかも歪みも少なく、曇りも殆どない。その明るく鮮明な像にジーンは面食らった。小さな金属鏡しか見たことがないエミールにいたっては、それが写像であることすらしばらく理解できずにいた。
「ベネチア製の水銀ガラス鏡だぜ。見たことがねえだろう?」
 ディが得意な顔で言う。
「あちらの富豪たちの間じゃ、これの前で情を交わすのが流行ってるんだ。さて二人で並んで鏡の前にたってもらおうか。裸でな」

 エミールはもう諦めているのか、体を覆う布を外すと、巨大な鏡の前に立った。何を思っているのか無表情に鏡の中を見つめている。
 ジーンが渋っているのをみて、ディが言った。
「それとも、お嬢ちゃんはこちらの方が好きかい?」
 ディの差し出した手に、きらりと光る針があった。ジーンの額にじわりと冷や汗が流れる。昨日のような拷問にあうことに比べれば、裸になることなどなんでもなかった。
 ジーンは体に巻いたシーツを取り去ると、興味深げに鏡を眺めているエミールの傍に立った。

「こいつはいい眺めだな」

 ディの言うとおりだった。
 女の美貌を持つ少年の小さな唇は朱をさしたように紅く、その透き通った瞳は限りなく深く蒼い。金色の髪は無造作に後ろで束ねられ、後れ毛がうなじや頬を撫でている。切れば赤い血が出るのか疑われるような白い肌を持つ体は、普通の男にはない優雅な丸みを帯びつつも、少年のしなやかさを失ってはいなかった。股間には縦にすらっと赤い傷跡があるだけで、男の徴も女の徴もない。唯一、その体を汚すのは喉元にある引き裂かれたような引きつった傷跡だけだったが、それがまた、他の部分の均整の取れた体を際立たせ、奇妙な美しさを醸し出していた。
 一方、騎士として戦場を駆け回った女は、鍛え上げられた体を持っていた。弓を引くための二の腕や馬上槍を扱うための肩の筋肉が盛りあがり、ジーンが動くたびにしなやかに伸縮する。ディの力によって取り戻した白い肌は、健康的であるはずのその体に奇妙な妖しさを与えていた。そしてなにより、ジーンの体が動くたびにその表面を巻きついた黒いツタが妖しく、別の生き物のように蠢く。それは普通の人間ではありえない、異様に妖しく、そして恐ろしく背徳的な美しさを持っていた。

(これが……私の姿……?)
 ジーンは自分の外見の余りの変貌ぶりに、空恐ろしいものを感じていた。日に焼けた騎士の精悍さはどこにもなく、こけた頬にほつれた褐色の髪がかかり、疲れた目をした女がいた。いや、生白い体を不気味な模様に半身を覆われた姿は、まるで御伽噺に出てくる魔女か悪魔のたぐいにしか見えない。
(それにくらべ……)
 と、鏡に映るエミールにさりげなく視線を送る。
 エミールは文句なしに美しい。もちろん無理に去勢されて得た不自然な綺麗さではある。しかし、エミールの性別を越えた高貴ともいえる美しさは、まさに宗教画に出てくる天使そのものに見えた。

 エミールは鏡が珍しいのか横から見たり裏に回ったりしていた。それが終わると今度は鏡に映る自分の姿に興味を示し始める。盛んに体を触ったり、すこし角度を変えて見たりした。

「さて、体を見るのはその辺にして、いよいよ楽しい事を始めるか」
 そういってディが腰紐を解き、着ている長衣を脱ぎ去った。
 昨日、針を刺されながらみた、男の筋肉質な体が露わになる。ジーンはそれを見た瞬間、ざっと後じさった。隠し切れない恐怖で表情が引きつっていた。

「やれやれ、ちょっと薬が効きすぎたかな」
 ディが、立ったまま硬直するジーンの後ろにするりと回りこんだ。

「ヒッ」という軽い悲鳴を上げて、ジーンが逃げようとするところを後ろから抱きすくめる。男臭い体臭と分厚い筋肉の熱い感触は、陵辱の恐怖と屈辱と怒りと針の苦痛を同時に大量に呼び起こし、ジーンの傷ついた心の許容量を一気に飛び越えた。
「ウゥワアァァ!!!」
 火がついたようにジーンが暴れ始める。
「はなせっ! はなせ! はなして!! はなせぇ!!」
 唐突に金切り声でわめき立てるジーンを、エミールも少し脅え気味に見ていた。
「おお、神よ、助けてください! 助けて! 助けて! オオ、神よ、神よ!!」
 ジーンが収まるまでかなりの時間がかかった。その間、ディの強靭な体は微動だにせずジーンを押さえつけていた。ジーンは昨晩から回復した体力を全て使い尽くしたところで、がっくりとうなだれた。

「……聞け」
 力尽きたジーンにディが囁いた。
「このまま一生男に脅えて暮らしたいか。残りの人生を、坊主を恨みながら泣き暮らすつもりか」
 深みのある艶のある声が、ジーンのひび割れた心に染みとおっていた。
「鏡を見ろ」
 ディの囁きにジーンがノロノロと顔を上げた。
 黒い荊に縛られ、獣のような男に囚われた女がいた。
 そこにいるだけで、神の教えに、真っ向から逆らう異形の女。

 しかし、ディはこう囁いた。
「お前は美しい」
 低いバリトンの囁きがジーンの耳に吹き込まれる。
「法王その人が百言を費やして否定しても、それは変わらない」
 それは静かだが、炎のように熱くジーンの耳に響いた。

「ここを出て、どうする? また醜い騎士に戻りたいのか? 女でありながら不恰好な鎧を着て、神の教えを説きながら略奪を繰り返し、民衆をこき使うのが高貴な血筋の正統な権利とうそぶく、滑稽な騎士に戻って、再び戦場に立ちたいのか? 偽りの男として」

 それはジーンの心の真実の部分を突いていた。
 もちろん、修道院に閉じ込められるのは嫌だ。かといって戦場に戻るのも二度としたくはない。
「それとも、か弱い女に戻るつもりか? その、子供の産めないからだで?」
 ディの言葉にジーンは横っ面を張られたような気がした。
(……子供が……産めない?)
「まさか、まだ子供が産めると思っていたのか? 五年も月経がなかったのに?」
 言われてみれば当然だった。だが、自分の中でガラガラと音を立てて崩れていくものがあった。この社会において子供が産めない女ほど惨めな者はない。

「だが、お前は美しい」
 再びディが甘い言葉を囁いた。
「欲しくはないか? どんな娼婦にも負けない色香を。いかな高貴な騎士も狂わす美しさを。あらゆる聖職者をたぶらかす術を」
 歌うような囁き声が、傷つきすぎた心の隙間に忍び込む。
「なりたくはないか?」
 ドクッドクッドクッ。
 なぜか胸の鼓動が早くなった。
「……どんな男をも従わせる毒婦に」
 地の底からわき、腹の奥まで染みとおるような声。
「何者をも恐れぬ一匹の獣に……」

(ケモノ……誰も恐くないケモノ……)

 それは脅えるジーンの心を巧みに計算した誘惑だった。

 心の弱さを冒す毒の言葉が、ジーンの心に染み入るのを見計らって、微かにディが手を動かす。
 しかし、再びジーンの体がビクリと硬直するのを見て、目を細めた。
「……エミール」
 ディの静かな呼びかけに、それまで傍観していたエミールがジーンの前に立った。
 そこで少し戸惑った風にディを見上げる。
「男も女も変わりない。いつもの通りやれ。ただしゆっくりだ」
 
 言われるままに、エミールはやや躊躇いながら目の前で揺れるジーンの右の乳房に舌をつけた。
 その生暖かい感触に、ジーンの体がピクッと震えた。しかし、ディに対するほどの拒否反応はない。エミールもそれを感じたのか、少し舌を広く使って、乳房の下半分をゆっくりと舐め始めた。
 そのまま乳房の頂点まで付くと、そのまま乳首の表面を舌の先でそっと撫でた。

(……あ)
 
 ジーンが目を閉じた。乳首がはっきりと尖っていく。乳首が硬く尖れば尖るほどエミールは優しく舌を使った。臍の奥に熱い塊が生まれた。

「……目を閉じるな」
 耳元に囁かれてジーンが薄く目を開ける。自分を中心に三人の裸の人間が絡まりあっている姿をみて、ジーンの心臓の鼓動が一層早くなった。
 ただ片方の乳房を軽く舐められただけで、それが修道士達に強要されたものとは全く違うものであることを肌で感じていた。

 エミールは舐めた右胸を左手で軽くなでながら、今度は左胸に口をつける。こちらもまたねっとりとした舌使いで乳首まで舐め上げた。今度は舐め終わった後、乳首全体を口に含み軽く吸い上げた。

 ハァー、ハァー、ハァー。
 自分の呼吸が荒い。
 くすぐったいような、もどかしいような、じれったい疼きのようなものが込み上げる。それを知ってか知らずか、エミールはゆっくりとゆっくりと舐める範囲を広げていった。乳房の脇から臍を通り、じんわりと降りていく。
 少年は両膝を突いたところで、口を離した。

 エミールは初めて間近でみるであろう女性器を観察していた。閉じられた太ももの隙間に少しだけ見える、赤い花弁を指でさわる。
(んんっ!)
 ジーンの乗馬で鍛えた下半身の筋肉がキュッと締まる。エミールは指に付いた液の匂いを嗅ぎ、その後、ちょっと口に含んだ。
 再びジーンの女性器に目を戻すと、少しためらった後、褐色の陰毛に顔を埋め、まず舐めやすそうな花弁の上の血色のいい突起に舌先を這わせた。

「……ああっ」
 自然とジーンの口から声がでた。自分でも赤面するような湿った声だった。
 しかし、足を閉じた状態ではエミールの舌が届かないのか、それ以上の刺激はない。ジーンは股を開きたい衝動に駆られた。
「何を迷う?」
 背後から低い声が囁かれる。耳にから吹き込まれた言葉は、ジーンの体をカッと熱くした。
「獣には信仰もない。恥もない。貪欲になれ。もっと、もっと……」
 少しだけ、ジーンは足を開く。その分だけエミールの舌が股間の奥まで撫でて来た。
(……暖かい)
 股を開けば開くほどエミールは奥まで小さな顔を入れ、熱い呼気と濡れた舌がより奥まで届く。陰唇にエミールの舌が届いたときには、鏡でもはっきり解るほど自ら股間を開いて、少年の舌を招き入れていた。

「その調子だ」
 ディはそういうと、さっとジーンの両膝の裏に手を当て、ジーンを持ち上げた。男の動きに一瞬体が強張ったが、そのまま身を任せた。
 股を開き女性器を突き出した形になり、エミールが舐めやすくなる。エミールは依然、無表情のままで少し様子をみるように、陰唇をペロリと一舐めした。
「くふっ……」
 声が洩れる。
(……きもちいい……)
 生まれて初めての快感だった。

 反応に満足したのかエミールはペロリペロリと女性器の割れ目に沿って舌を這わせ、ジーンはその度にピクン、ピクンと震えた。
 ジーンはその間も、うっすらと開けた目で、鏡の中の男に抱えながら少年の愛撫に身を任せる自分の姿を見ていた。
(……なんて……いやらしい)
 体が震えるごとに体に巻きついた黒いツタが動く。特に男に持ち上げられた右足の先は、つま先の方までツタ模様が巻きついており、それがエミールの舌に合わせて震える蛇のようにくねっていた。

 エミールが唇をジーンの性器に密着させるようにして舐め始めると、尾てい骨に浮き上がるような感覚が生まれてくる。実際、男に両足を取られた不自由な体勢で、ジーンは背中を反らせて腰を浮き上がらせていた。

 チュク、クチュ。
 エミールが散々男に嬲られた性器の柔らかな粘膜を舐めた。
「ハァ……」
 足を持ち上げられているため、性器を舐めるエミールの顔がはっきり見えた。少年の天使のような美貌を自分の吐き出した淫らな汁が汚しているのをみると、なんともいえない妖しい気持ちが湧き上がる。

「エミール、どけ」
 ディがそういうとエミールは大人しく従った。濡れた陰唇にひんやりした空気があたった。
 少年が横へ退くと、鏡の中のジーンの女の部分が露になる。だらしなく涎を垂らす自らの性器を、ジーンはじっと見ていた。初めてじっくり見る女性の性器は、熟した果実のように赤く爛れ、ジクジクと透明な液をとめどなく吐き出している。グロテスクで淫らな見てくれだった。
 そして、その下にある男のペニスに目をやる。自分を犯したどの修道士のものよりも長くて太いペニスだった。
 胸の奥にじわっと熱いものが広がる。
(アレが、いれられるのか……)
 自分の尻の割れ目にあてがわれた男性器に意識が集中する。
 こんな大きいものを突き入れられるのだ。ねじ込まれ、かき回されるのだ。
 そう思っても、もやもやとした胸の熱い感覚は去っていかない。
 修道士達に犯されている時は、男性器を無理矢理入れることは拷問以外の何物でもなかった。それなのに今は同じ事をされても何か違う物がある気がする。痛み以外の何があるのか、不思議と知りたかった。体がそれを求めていた。

(私は……キタイしている……?)

 ディがジーンのうなじに唇を触れさせながら言った。
「ただ待っては駄目だ。弱い獣は狩られるしかない」
 鋭敏なうなじを吐息がなでる感触にジーンが軽く目を瞑る。乳首がじんじんと疼いていた。

「……どう……すればいい?」
 睫毛を伏せたまま、ジーンが掠れた声で訊いた。
「誘うのさ。誘って罠に掛けるんだ」
「誘う……? どうやって……?」
「自分で考えろよ。毎晩、隣を覗いていたんだろう?」

 ジーンはエミールと修道士達の情事を覗いていたことが、ディに知られていたことに気付き、顔を赤らめた。
(エミールみたいに……あんな風に……淫らに)
 ジーンはグッと腰に力をいれると、ゆっくりと腰を廻すように動かし始めた。鍛え上げられた全身のしなやかな肢体がその度にくねり、それにあわせて表面のツタが波打つ。鏡の中を見つめながら、自分の右手を性器に当て、人差し指と中指で濡れている皮膚で出来た赤い花弁をそっと開いた。
 とろりとした液体が、つうっと尻の割れ目に沿って下に流れ、ゾクッとする感触が背筋を走った。
「クウッ……フゥッ……ウゥッ……」
 もう片方の手で、左の乳房を捏ね回し、乳首をつまんだりひっぱったりする。
 女でありながら騎士然としていたジーンの思いがけぬ痴態に、いつも感情を表さないエミールさえ瞬きもせず、見つめることしかできなかった。

「……これで……いいのか?」
 ジーンが熱い吐息を吐き出しながら言う。
「もっとゆっくりだ。ゆっくり、ゆっくりと罠にかけて、少しずつからめとっていくんだ。少しずつ、少しずつ」
 ディの歌うような言葉に素直に従い、ジーンは鏡を見ながら緩やかに腰を使い、胸を強調するかの様に下から揉みあげ、鏡の中の自分を誘っていった。
 自分を誘惑し、自分に誘惑され、じわりじわりとジーンの心は蝕まれていった。

 男達に陵辱されおめおめと生き恥をさらす女たちを見て、憐れに思いながらもどこか蔑んできた。戦場で戦利品を手にした男達に群がる娼婦達を軽蔑し憎んですらいた。正統な戦いのおこぼれに預かる卑しい山犬たち。誇りを知らないおろかな豚。ずっとそう思ってきた。そう考えていなければ歯を食いしばりながら男の振りをする自分が憐れだったのかもしれない。
 しかし、今こうして鏡の中の自分を誘っているのは自分こそ、どうしようもなく卑しい娼婦だった。腰を振り、胸をこね、性器の中まで晒しながら、もっと淫らにと願う女。いや、女ですらない異形のモノ。

「ハァ……ハァ……もっと……もっと……」
 極限まで欲情した体を扇情的にくねらせながらジーンは相手のない誘惑を振りまき続けた。

「ふふふ、上出来だ。次へ行こうか」
 ディがそういうと、さらにグッと体を持ち上げ、器用にペニスの先を濡れた花弁にめり込ませた。
「あぁぁ……私を犯すのか……?」
「もちろん。お前のような美しい女を犯さない奴はいない」
「……そうか」

 ズブ、ズブズブ。
 ディの太いペニスに向けて、体が沈み込まされていく。修道士達相手では死ぬほど苦痛だった行為だったことなど忘れてしまっていた。
 粘膜同士が擦れあい、女性器から流れ出た劣情の汁が逆流し、膣の奥まで熱い肉で満たされる。
「うぅ……あ……あぁん……」
 腰の奥から込み上げる我慢できない衝動にかられ、色気の滲んだ声が出た。 
「いい声だ」
 男は決して体の小さくはないジーンを両足とペニスだけで支えてビクともしない。
 ジーンは鏡を見ながら、股間を手でまさぐり、自分の下腹部に突き刺さった男性器との結合部を直接手で確かめた。手にはべったりと自分の性器の吐き出す液がついた。
「入っている……」
「そうだな」

「うん……うぅん……」
 ジーンが男をくわえ込んだままの腰を動かした。
「やめな。場末の娼婦じゃねえんだ。自分で動かすのは最後の最後だけさ」
「ああぁ……でも……んんっ」
「でも、なんだ?」
「もっと、動いてくれ……」
 そう言ってしまった瞬間、勝手に膣がギュッとペニスを締め上げていた。
 なんと、淫らな言葉だろうか? 女が男に動いてくれとねだるなんて。女が男を誘うこと自体、まるで常識からかけ離れているというのに。
 しかも、これ以上ないといった媚びた女の声で。

「正直なのも時にはいい。だが、それだけじゃ、駄目だ」
「どうすればいい……?」
 喋りながらも、もじもじと腰が動いてしまう。ジーンの体は完全に性の本能に目覚めてしまっていた。
「男の方を動かすのさ」
「どうやって……?」
「魂をくれてやるんだよ。心を覆う殻を一枚ずつ剥ぎ取り、むき出しになった魂を肉体にくれてやるんだ。高潔な心なんてこの世にはねえ。この世にあるのはカラダとそれに突き動かされる衝動だけだ」
「……わからない」
 ジーンの言葉に答える代わりに、ディは鏡の方を顎でさした。

 両膝を抱えられたあられもない屈辱的な姿で男をくわえ込んでいる自分がいる。
「まあ、ここまでくれば考える必要はないさ。カラダが知っているよ」
 クチュ。
「あ……あぁ……」
 ディが腰を引くと、長々と突き刺さっていたペニスが抜けた。そこには物欲しげにぽっかりと開いた肉の穴が残った。
「体が……?」
「そう……このケモノの体が」
 そう言って右肩から下がったように見える黒いツタに沿って舌を這わせる。ぴりりとした痛みが、不思議と不快ではなかった。

(ケモノの体……)
 ズズッとジーンの奥底で巨大な衝動が鎌首をもたげた。
 ホシイ。太い肉の棒で突き刺してホシイ。
 そう思う自分の余りの浅ましさと憐れさに、目頭が熱くなり視界が滲んだ。
(私……変わってしまう……)
 変化はもうすぐそこまで来ていた。
(こわい……)
 自分自身が消えてしまいそうな恐怖が襲う。しかし、それも躊躇や禁忌といった感情と共に、子宮から湧き上がる女の本能に塗りつぶされていくのだった。

 鏡の中で自分の首筋を舐めていたディが、少しだけ目を上げた。
 深い洞窟のようになんの光も反射しない漆黒の眼差しに射抜かれたとき、ジーンは股間がカッと熱くなり、ジュク、と自分の膣が濡れるのを感じた。
 それが、変化のきっかけだった。

 ドックン、ドックン。
 体が男を欲していた。心臓が一つ鼓動を打つごとに熱い淫蕩な血が体中へ送られていく。目が潤み、乳首が尖り、膣はとめどなく欲情の証を溢れさせ続ける。
 体の変化に引きずられるように心もまた変質していく。
 修道士達ごときに嬲られたという恥辱、針の傷みに耐えられず泣いて許しを乞うてしまった弱さ、それらの感情を掻きたて続けようとする騎士の誓い。教会への帰依の誓い。自分を育ててくれた義理の両親への感謝。戦場での勇気、恐怖、罪の意識。男と偽って生きていた後ろめたさ。男への羨望。
 ジーンは自分を支え、そして追い詰めてきた全ての感情から同時に手を離してしまった。
 後に肉欲だけが、残った。

 見守るディの目が細まった。
 ジーンの目つき、姿勢、仕草など、見た目は何も変わらないはずであるのに、何かが確実に変質していた。それまでただの皮膚表面の模様に過ぎなかった黒い荊が、今では完全に体の一部としてジーンという存在そのものと一体化していた。

「どんな気分だ?」
「悪くない」
 ジーンの表情に明るさと妖しさが奇妙に同居していた。腕を後ろに廻し、男の濡れたペニスに両手の指を絡ませた。やんわりと十本の指全てを這わせる。
「まだ……だめか……?」
 顔を横に向けて掠れた声で背後のディに向かって、そっと言う。
「上出来だ。くそまじめなディビットでも今のあんたには逆らえまい」
「お前は?」
「俺は特別だ」
 そう言って、ジーンを持ち上げベッドに寝かせた。

 ジーンの股が開かれる。こんな風にこんな気持ちで男を迎え入れることがあるなんて、思ってもいなかった。情けないぐらい淫らで、いい気分だった。

「よく出来た褒美だ」
 そういって、ゆっくりと腰を突き出してくる。
「うう……ああぁ……」
 ズズズと粘膜同士が擦れるだけで、こらえられない大きな声が出た。
「な……なにをした……?」
 先ほどまでの挿入とは何かが違う。
「いったろ? 俺は特別だって」
 奥まで入ったペニスをゆっくりと抜いていく。
「ああっ……ああっ……ああぁあ」
 自分の内臓が引き抜かれているように錯覚するほど大きな喪失感があった。ただ一度、突き入れられ抜かれただけで、ジーンは息苦しくなるほどの快感を得ていた。
「ほら、ヤッているときも、誘惑を忘れるなよ」
 また、ゆっくりと挿入される。
「ああっ……あ……ああぁ……」
 腰から下の感覚が麻痺したようになくなり、股間の熱さしか感じられなくなってしまっていた。とても男を誘惑するどころの話ではない。

「す……すごい……」
「まだ、これからさ」
 男がゆっくりと抜いて挿すたびに信じられないほどの快感が生まれる。まるで、ジーンの性感を知り尽くし、それに合わせたペニスを用意したかのように、男のペニスと自分の膣は恐いほど相性がよかった。そのペニスでゆっくりとジーンの中をかき混ぜ、同時にうなじや耳を舌でなぞりながら性感を高めていった。
 精神が直接、燻られるようなじりじりとした快感だった。

「ああ、ああ、ああん」
 涙腺までが緩みポロポロとジーンの目から涙が零れる。
(く……狂ってしまいそう……)
 これ以上はとても耐えられないと思った。
「もう……だめだ。もっと早く! もっと……もっと……ああぁ!」
「やってる最中に男を手玉に取るにはまだまだ修練がたりねえなぁ。まぁ、急ぐこともないか。時間はたっぷりあるさ」
 ディはそういうと突然、猛烈な勢いで腰を使い始めた。

 グチュン、グチュン、グチュン、グチュン。
 腰を突き出されるごとに、体全体が押し上げられ、脳みそが縦に揺られる。
 すぐに太ももが痙攣を始める。
「おお! おお! おお!」
 ジーンの腰が痙攣し、膣が激しく収縮を繰り返しているのに、ディはものともせずにジーンを突き続ける。ジーンが、ディの背中を掻き毟ったが、それでも全く動じない。
 ジーンは無意識の内に両足をディの体に廻して、まだ、ぎこちない動きで腰を打ち付けていた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
 呼吸が足りずに、まともな声が出ない。

 最初の痙攣が去り、次の痙攣が去る。
 三度目の痙攣でたまらずジーンが叫んだ。
「……ハッ……で……でる」
「なに?」
「いや……出る……出るぅ……」
 ジーンがギュッと背を逸らした瞬間。
 プシュ、と音を立てて尿道から透明な液体が噴出した。
「ああ、ああ、ああ、ああ!!」
 プシュ、プシュとどんどん液体が噴出して、ディの陰毛を濡らし、ジーンの茨の巻きついた太ももの表面を伝いベッドに吸い込まれていく。それでも、ディは腰を動かすのをやめない。
 それからも断続的に噴出が続き、ぐっしょりと濡れたシーツがジーンの腰に張り付いた。

 体中の水分が吐き出してしまいそうな気がする。
 体が本能的な恐怖を感じているのに、それでも腰を止めることも、水分が吹き出ることも止める事が出来ない。狂ってしまいそうな歓喜の中で、目の前が白い光に包まれていく。正常な思考を失っている意識の中で男の艶やかな低い声だけが木霊した。

「……お前は獣だ」
 聞いたことがないほど、優しい声でディが何度もそう繰り返される。
(ワ……タ……シ)
 真っ白になっていく意識の中で、ディの漆黒の目だけが見えていた。
(ワタシ……、ケ……モ……ノ……)

 そこで、ジーンの意識は途切れた。




◆ Portrait(肖像画)

 修道士達の朝は早い。
 日の出の何時間も前に起き出し、祈り場に集まって神への祈りを捧げる。
 男たちの荘厳な祈りの声は、石で出来た回廊を響き渡り、夜明け直後の冷たい空気を震わせ、そして微かにジーンの耳にまで届いていた。

「う……ううん」
 ジーンが目を開けると、うっすらと朝日に差し込む暗い部屋が見える。
 天蓋を内側に張られた美しい刺繍のタペストリーを見て、それがフランスからの戦利品なのだと今頃気付いた。どこから持ち出されたものだろうか? パリ? ルーアン? アルフルール? あるいはイングランド在住のフランス商人から没収したものだろうか?
 自分が戦場で目にした死体の山をここの僧侶達は想像ぐらいしたことがあるのだろうか。
 微かに聞こえる荘厳な祈りが白々しく響く。
 ジーンは頭を振って、戦場の記憶を振り払った。

 ヒュッと目の隅に小さな影が横切った。
 ミヤァオ。机の下から、小さな猫の鳴き声がするが、机の影に黒い体が溶け込んでしまい、全く見えない。ただ、キィキィというねずみの鳴き声が聞こえるところをみると、食べ物にありついているのだろう。
(? 猫がいるということは……?)
 ジーンがシーツをめくると、そこには美しい少年が寝ていた。スースーと静かな寝息をたてている。昨日、ディに抱かれているとき横からそれを見ていたエミールの顔を思い出した。透き通った柔らかそうな肌に、ふと触れて見たくなり、手を出した。その手が届く前にエミールはパチリと目を開いた。
 ジーンは慌てて手を引っ込めた。

 エミールはジーンの顔をじっと見つめ、裸のジーンの乳房がシーツからはみ出しているのをみると、慌てて目を伏せた。エミールの頬に少し赤みがさしている。
「おはよう、エミール」
 ジーンが話しかけてもエミールは顔を上げない。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろう? 昨日ずっと見てたのだから」

 そういわれて、エミールが美しい金色の髪越しにジーンを見上げた。
「ふふっ」
 その控えめな動作に、微笑がこぼれた。
 ジーンの微笑を感じて、エミールが顔を上げた。
(美しい……)
 エミールを見て、そう思わずにはいられない。男でも女でもない不思議な魅力。しかし、それも一時のことかもしれない。幼いうちに去勢されてしまった人間は、衰えるのも早く、早死にすることが多いと聞いていた。
 ジーンはその吸い込まれそうな青い目に強い誘惑を感じた。
 決して媚びている訳ではない。むしろ、相手を拒絶するような冷たさがある。しかし、それこそが相手に自分を追わせる為の罠だった。少年はそれを意識せずにやっているようだが、これもディが仕込んだものなのだろう。
 なにしろ修道士達に必要とされなくなれば、この少年に居場所はなくなるのだから、男たちに飽きられないというのは、少年にとって生きていく術なのだ。
 そしてそれは多分、これからの自分にとっても……。

「どうやら、私達は似たもの同士のようだ」
 ジーンの言葉にエミールは少し首をかしげた。
 ジーンは再び微笑むと、ゆっくりと胸を覆っているシーツをどけた。エミールの目が再び乳房にいく。
「触ってみるか?」
 ジーンがそういうと、エミールはおずおずとジーンの乳房に触れた。欲情よりは好奇心といった風で、ものめずらしそうにその柔らかさを試している。少年がその細い指で左の乳房の下半分を覆う荊の模様をなでたが、もうピリピリした痛みもなかった。

 少年がジーンを見上げてゆっくりと口を動かした。
(m・o・t・h・e・r)
 ジーンはかろうじでその唇の動きが読めた。
「母親みたいか?」
 そう尋ねると、エミールが頷く。
「だがお前の母親にはこんな悪趣味な模様はあるまい」
 ジーンは胸の下を巻きつく黒いツタを指して言った。
 ちょっと間をおいて、少年は少し控えめに首を振った。
「母親に会いたいか?」
 そう尋ねると今度ははっきりと頷いた。
 初めて見せる年相応の少年のような仕草だった。ジーンにはそれがなんとも憐れだった。

 エミールを脅えさせないように、そっと両手をエミールの体に回す。すると、エミールもためらいがちに腕を回してきた。出来る限り優しく抱き寄せると、エミールは抵抗せずにジーンの胸の谷間に頬を埋めた。
 長い間、二人は身じろぎもせずに、静かに抱き合っていた。

「……イングランド人の私を……恨んでいるか?」
 エミールを胸に抱いたまま、ジーンが掠れた声で尋ねた。
 少年はビクッと硬直し、そのまま何の返事もせずに長い時間が経った。

 そして小さく首を振った。

****

「やめろといってるだろう」
 
 ジーンがそう言っても、エミールは一歩も引かない。
 麻布を木の板に張り白い顔料を塗布したキャンバスを前に、エミールは木炭のかけらを握り、じっとジーンを見ていた。

「私の絵などかかないでくれ」
 立ち止まると絵に描こうとするので、ジーンは小さな部屋の中をうろうろしていた。しかし、エミールはじっとジーンを見つめたままだった。
 日中は一人でいることが多かったエミールにしてみれば、絵のモチーフは自分の故郷の記憶か、小さな窓から見える外の景色しかない。ジーンは格好のモデルだった。
 しかしジーンにしても、今の自分の姿を形にして残されるのには抵抗がある。

 しばらく逃げ回ってから、ついにジーンが折れた。
「よし、ではこうしよう」
 そう言って木の板に白い布を貼り付けたキャンバスを、ベッドのそばに置いた。そして、自分がまず腰掛けると、その股の間にエミールを腰掛けさせる。
 エミールは背中にジーンの胸の双球が当たるのを感じて赤面した。

 丁度、二人の位置から昨日ディが持ち込んだ鏡が正面に見えた。
「私だけでなく自分の顔も描くんだ。これなら私の模様も目立たないし、エミールが絵を描くところも見られるからな」
 エミールは自分の後頭部辺りにあるジーンの顔を覗き込み、こくりと頷くとキャンバスに目を戻した。
 木炭を手に取ると、さっさと線を引き始めた。

 一刻もしないうちにエミールが終えた下描きをみて、ジーンは思わず唸った。
(これはすごい)
 元々、人物画は聖人画の需要が大きい修道院で多く描かれた。しかしそれらは皆、平坦な図柄で遠近感がない。しかし、エミールは独自の描き方で、まるで絵の中に空気が存在しているような写実的な絵を描いた。
 無造作に引かれた線が、自分とエミールの顔の特徴をうまく捉えていた。しかも気を使ってくれたのか荊模様のない無垢な自分が描かれていた。

「風景もよかったが、人物も上手いな」
 ジーンが素直に誉めると、エミールは得意げな少しだけ唇の端を引き上げた。表情の乏しいエミールが見せる珍しい笑みだった。
「故郷で覚えたのか?」
 ジーンの質問にエミールが頷いた。もちろんエミールの故郷では油絵の具などなかっただろう。きっと木の板に木炭かなにかで描いた粗末なものに違いない。

 パタパタと麻布でつきすぎた木炭を払い落とすと、今度は幾つかの貝殻をとりだした。一つ一つに別の色の顔料が入っている。小さな木の板の上で油と絵の具を混ぜ、さらに絵の具と絵の具を混ぜ、キャンバスに色を乗せていく。慣れない油と絵具の匂いがつんとジーンの鼻をついた。
 ここでも、エミールは抜群の色彩感覚で、ペタペタと色を乗せていく。
 日が昇り切る頃には、下塗りを終えてしまった。

「もう描かないのか?」
 ジーンが聞くと、エミールは唇を動かした。
(d・r・y)
「ああ、なるほど」
 絵の具を乾かす必要があるのだとわかって、ジーンは立ち上がった。長時間エミールを抱きかかえるような姿勢でいたため腰が痛くなっていた。

 うーん、と腰をのばして、ごろりとベッドに横たわる。エミールもそれを真似てうーんと伸びをしてから、ジーンの横にころんと寝転がった。ジーンがエミールの体にそっと手で触れると少年はピクリと身を震わせた。少し物憂げにジーンを見上げると、その裸身を摺り寄せてきた。その仕草が、妙に猫に似ている。
(どうやら人間も言葉を喋らないと、動物のようになるらしい)
 ジーンはそんなことを考えながら少し上げた頭を腕でささえながら、エミールの体を撫でていた。

 エミールの股間に目をやった。
 生えかけの薄い陰毛に透けてピンク色の大きな傷が縦に走っていた。遠目には一見女性器のように見えなくもないが、そこには快感を感じる器官も子供を作る器官も何もなく、尿道口と思われる小さな穴だけがあった。
 その傷跡が、どれほどの苦痛から生み出されたのか見当もつかなかった。
 ジーンが自分の股間に目をやっているのを感じたエミールは、それを恥じるように手で隠した。その目に、なんともいえない憂いがあった。

 突然、とてつもなく悲しい気分になって、ジーンはギュッとエミールを抱きしめた。
 暫くそのまま二人で抱き合って、天蓋のタペストリーの刺繍を眺めていたが、いつの間にかウトウトと眠気に誘われだした。




◆ Silent Thorn(静寂の荊)

 ジーンは人の気配を感じハッと目を覚ました。
 ベッドの側の椅子にディが座っていた。

「目が覚めたかい?」
 ディが相変わらずの低く艶やかな声で話しかけてきた。
「もっと小さな声で喋ってくれ。エミールの目が覚める」
 ジーンは自分の胸元に頬を埋めて眠るエミールを身ながら、小さな声で言った。
「情が移ったのかい? だが、やめときな。そいつはそんなタマじゃあない」
 ジーンがディを睨み付ける。
「お前達がそうさせたのだろう?」

「いっておくが、エミールのキンタマをちょん切ったのは俺じゃねえ。人買いがやったんだぜ」
「なら、なぜ治してやらない? お前ならば出来るのだろう?」
 ジーンの低い声にディは軽く首を振った。
「残念ながらエミールは俺のものじゃねえんだ。勝手に治す訳にはいかねえのさ。それに、もし治したとしてどうなる? そりゃ、こんな美人は少ないだろうが、世の中には食いっぱぐれた子供が星の数ほどいるんだ。一人治したところで、また誰かが同じ目にあうだけさ」
 ジーンはグッと言葉に詰まった。
 神父の静かな非難が頭の中に蘇った。
(貴女のような兵士たちが戦場からこんな子達を連れて来られたのでしょう、サー・アラン・シーモア殿)

「まぁ、そんなに気にするこたぁねえさ。そいつはそんなタマじゃねえっていったろ?」
 小さな声でそう言いながら、絵の道具の側にある絵具の入った貝殻の一つを取り上げた。
「エミールがこれをどうやって手に入れるかしっているか?」
「……?」
「こいつはエミールを抱くための代金なのさ」
「代金?」
「この修道院にも小さいが聖人画を複製する工房がある。この絵具たちは修道士がそこからくすねてきたもんさ。エミールにこれをやると喜んでいろいろしてくれるからってな」
「そんな……」
「おかげで工房で働かされている連中は羽振りがいいんだ。この絵具一つで、他の修道士から食事一日分は稼げる。中にはカネで買ってるやつもいる」
「それは修道士が勝手にやっていることだろう!」
 思わず声を荒げてしまった。

「そうでもねえさ。エミールはもらえる絵具に対し、相手への対応を微妙に変えるんだ。筆ならキスまで許すとか、木炭なら舐めずに済ますとか。それに修道士達の間では、上手くエミールのご機嫌をとるのが一種の男の甲斐性になっててね。みんな先を争ってせっせと貢ぐのさ」
「そんなはずが……」
 エミールの天使のような寝顔を見た後ではとても信じられない。
「そうでもなければ、修道士でもない子供に、こんなに沢山の貴重な絵具が手に入るわけがないだろう。エミールはすでにもう骨の髄まで立派な娼婦なんだよ」

「だまれ!!!」
「見ていたんだろう? エミールがどんな風に男に抱かれるか。どんな風に男を誘い、男をのめり込ませていくか?」
「お前達ではないか! お前達が、この子にそんな生き方を強要したのではないか!」
「その通り。俺が言いたいのもそこだ」
 臆面もなくディは言った。
「どうせ決められちまった生き方なら、楽しくやろうってことさ。エミールを見習ってな」
 ジーンは唇を噛んだ。
「……お前は元々、私をこの修道院から出すつもりなどないのだな」
「心外だな。俺は約束を守る男だぜ」
「ならば、こんな体で何処へ行けというんだ! どうやって暮らして行けというのだ!! 年老いて男の気を引けなくなればおしまいではないか!!」
「なに、お前なら若いうちにどれだけでも稼げるさ。ロンドンの街角にでも立ちゃ、すぐにでも有名人になれるぜ」

 ジーンはその言葉に一瞬我を忘れた。気が付いたときには椅子に座るディに飛びついて、その太い首に両手を押し当て締め上げていた。体に纏っていた布は床に落ち、黒い荊を半身に纏った裸身があらわになる。
 戦場で鍛え上げた背筋が引いた弓のようにギリギリと引き締まると、まるで荊が背中を締め付けているかのように見えた。
「この刺青とやらを消せ! 今すぐここから私を出せ!!」
「残念だがまだゲームが終わってねえ」
「昨日、私を十分嬲ったではないか!! 騎士の誇りなどとっくの前に失ってしまっていた。教会へも、もう恨みしかない。これ以上、私になにをさせたい」

「例えばここでお前の荊を消して放したとしよう」
 ジーンはディのが平然と喋っていることに気付き、愕然とする。渾身の力を込めている両手には、まるで木の棒を絞めているかのような奇妙な手ごたえしかなかった。
「お前の器量なら面倒を見てくれる男も捜せるだろう。そりゃ、子供が産めないとわかれば、白い目で見られるだろうが、それでも野垂れ死ぬことはねえ。そしてある日、思うのさ。男が手に入れてきた不味い黒パンを一緒に頬張りながら。『ああ、神様。いろいろあったし、今でも貧しいですけど私は立派に生きています。これもあなたのおかげです』ってな」
 ディが首を絞められたままジーンの腰を抱き、ひょいと立ち上がった。
 突然、体が浮かされ力が入らなくなった両手に、それでもジーンは力を込め続けた。

「信仰ってのはしぶといもんで、殺しても殺しても鼠のようにどこからか沸いて出てくる。一度、捨てたつもりになったって、すぐにまた拾った気になるもんだ。だが、俺が望んでいるのはそんなもんじゃねえ」
 ディがニヤリと笑い、長い犬歯が口元から覗く。
「神を呪いながらも男から離れられず、近寄ったすべての男達を堕落させながらしか生きていけないってのが、俺が望む理想のお前だ。それでこそ、ディビットにもお前が堕ちたと認めさせられるってものだ」

(くそっ!! くそう!!)
 ジーンは悔しさに声もなく、それでも無駄とわかっている両手に力を込め続ける。
 しかし、ディはその手を持つと、あっさり引き剥がしてしまった。まるで熊のような力で、いくら鍛えてあってもとても女の腕では抗しきれなかった。
 ディはそのままジーく突き飛ばす。ジーンはベッドの上にドシンとしりもちをついた。

「もう、お前には娼婦として生きるしか道はねえ。後は、良い娼婦になるか悪い娼婦になるかだけだ。どうせならこのエミールみたいになりてえだろう?」

 その言葉に、ジーンの心は激しく逆らった。
 生まれた時から繰り返し教えられ、心の底に根付いていた偏見は根強い。生殖行為は神に定められた行為であり、生殖以外の目的でその行為を行う娼婦という存在は、姦淫と冒涜の二重の業を負った罪深い人間達なのだ。貴族の食卓の床に這いずりまわり、食べ残しを恵んでもらって生きる小物たちですら、娼婦といえば自分より下だと思っている。
 自分がそんなものに身を落とすのはとても受け入れられない。それは理屈や誇りというより、絶対的な社会通念の賜物だった。

「冗談ではない! 娼婦なんかまっぴらだ! 私はこんなエ……!」
 そこまで言いかけて、とっくの昔に騒ぎで目を覚ましたエミールがジーンを見つめているのが視界に入った。
 先ほどまでの絵を描いていた時とは違う、冷たく光る青い瞳。その目からあらゆる表情が失われていた。

(……失言だった)
 ジーンは自分の吐き出した言葉の残酷さに気付く。かろうじで口に出す前に言葉を飲み込んだが、『こんな』の後に続けようとしたのが少年の名であることを、エミール本人は敏感に察知していた。

「こんなエミールみたいにはなりたくねえ、か。さすが、高貴な騎士様は言うことがちがうねえ。おっと、『元』高貴な騎士さまかな?」
 ディのおどけた口調にもジーンを見つめるエミールの表情の厳しさはまるで揺るがない。エミールはジーンを見つめたまま、ディの腰にすがりついた。助けを求める女の様な仕草だった。

 そんなエミールに向かってディが言った。
「そんなに機嫌を悪くするなよ。あの姉ちゃんだってすぐにお前の仲間になってくれるさ。それより、久しぶりに俺とやるのはどうだ?」
 ディの言葉に、エミールは微かに頬を赤らめて頷く。先ほどまでの固い表情とは全く違う、修道士達に抱かれる時には見せない熱っぽい顔だった。それだけで、エミールにとってディとの情交は特別なものであることがわかった。

 ディはジーンを一瞥すると、体の小さなエミールをギュッと抱きかかえ、その薄い唇をエミールの小ぶりな唇に押し当てた。
 激しく淫らなキスだった。
 色の黒い体毛の濃い獣のような逞しい男に、小柄で天使のような姿をした少年が抱かれキスをしている。その光景には一種の美術品のような気品があった。しかし、その口元では想像できないような淫らな動きで舌が絡まりあっている。
 ディが舌を差し出すとエミールもその赤い唇から小さな舌を出し、それを舐め、唇全体で吸い、自分の口の中にゆっくりと収めていく。逆にエミールが舌を出すと、ディがそれを嘗め回す。
 程なくエミールの口の周りが唾液でべとべとになったが、それでもエミールはそのキスをやめなかった。途中で一度、エミールがベッドの上で打ちひしがれているジーンに、その青い瞳を向けた。

 ドキッとジーンの胸に響くものがあった。

 エミールはそのままゆっくりと頭を下げ、ディの首筋から胸へと小ぶりなピンク色の舌を這わせていく。小ぶりだが鼻筋の通った鼻が、ディの胸毛に半ば埋もれている。エミールはまるで男の体臭を好んでいるかのようにふんふんと鼻を鳴らしていた。

(ああ……)
 昨日、散々嗅がされた男の体臭が鼻の奥に蘇る。男の汗臭い体臭など、思い出すだけでも吐き気がするはずなのに、不思議とジーンは嫌悪感を感じていなかった。それどころか、思い出しただけで下腹にズーンと暖かい塊がこみ上げてくるのだった。

 エミールはディの胸を長い時間かけて愛撫していた。乳首を舐め、吸い、そしてまた濃い体毛に鼻を埋める。時折うっとりした視線をディに投げかけ、そして冷たい敵意を持った視線をジーンに投げつけてきた。
「どうした? やけに熱心だな?」
 そういわれると、エミールはディの方に熱っぽい視線を投げかけ、一気に顔を下げてディの股間に唇を寄せた。跪いた体勢で男の、まだしおれたままのペニスに舌を伸ばす。
 まるで従順な犬のように根元から先へと場所を変えながら何度も何度も小さな舌で舐めあげる。段々、ペニスが硬さを得てくると、エミールはそのほっそりした指を自らの唾で濡れた男の巨大なペニスに這わせ、ゆるゆると撫であげる。
 そこで再び視線をジーンに投げかけると、ディのペニスの先を、その小さな口に咥えた。
 先日の覗き穴から見た、修道士相手とはまるで違う熱の入りようだった。まるで、口での性交という禁忌を犯すこと自体を喜んでいるようにすら見えた。

 クチュ、クチュ、クチュ。
 エミールは次第に速度をあげながら、巨大な肉の塊を飲み込み、吐き出す。
 ディの巨大なペニスが、隆々と起立したところで、ディがぐっとエミールの顔を突き放した。何事かと見上げたエミールが、ディがジーンの方に顎をしゃくったのをみて、ジーンの方へと向き直った。

 ジーンはびくりと体を硬直させた。

 すると、何を思ったのか、エミールは素早くジーンの側ににじり寄った。近くで見ると、その冷たい憤りを浮かべた瞳に、微かな興奮の潤みがある。拒否と誘惑の相反する視線はねっとりとジーンの瞳に絡みつき、ジーンの心の奥底の衝動を突き動かした。

 いつの間にかエミールの顔が、自分の顔の間近まできていた。美しい、名匠の彫刻ですら及ばない美しい顔だった。
 そこで、エミールの濡れた小さな唇が、ほんの少しだけ開く。自分が少年に誘惑されているとジーンが気付いた時には、すでに自分の唇を少年の唇につけた後だった。

 その瞬間、ドボッとエミールの口から唾液が流れ込んできた。ディの性器を咥えていた時から貯めていたと思われる大量の唾液は、ディの男の匂いをたっぷりと含んでいた。その匂いがジーンの鼻腔から、直接、脳天に響く。

(だ、だめ……!!)

 ゴクリ。
 ジーンの反射的な思いとは裏腹に、いつの間にか意志を離れた体が勝手に濃厚な唾液を飲み下してしまう。
 まるで上等な葡萄酒を飲んだ時の様に、熱い液体が胃に流れ落ちていくのが分かった。
 自分でもどうすることも出来ないまま、ジーンの精神状態は一気に前日の興奮状態に陥った。

 気がつけばベッドにエミールを押し倒し、夢中でその唇を貪っていた。
「んんっ……んん……」
 クチュ、クチュ。
 自分を縛り付ける黒い荊が、エミールの体にまで絡みつき、捉えているかのように錯覚した。エミールが押し出してくる唾をどんどんと舐め取りながら、力いっぱいエミールを抱きしめる。ギシリとベッドが軋んだ。
 修道士たちはジーンのような異端者とキスをすることなど考えられないといった風だったので、これが初めて他人とするまともなキスだった。
 それなのに、ジーンはどうすれば自分の欲求が満たされるのか知っていた。ジーンの本能が自分の欲望のぶつけ方を知っていた。

 ジーンが組み敷いたエミールの華奢な体に自分の体をこすり付けると、エミールもチロチロとジーンの唇を舐め、体を取り巻くツタに細い指をはわせてきた。ジーンはその度にゾクゾクと走る痺れに身を任せた。
 それに負けないように、ジーンはチュッチュッと音をたててエミールの頬から首筋にかけての皮膚をついばんだ。

 一通りの愛撫が終わり、少し落ち着きが戻ってきたところで、ジーンは我に返った。
(わ、私はなんということを……)
 激情に任せて、エミールにしてしまったことを思い、咄嗟にエミールの体からどこうとした。
 その瞬間、グイと股が開かれた。振り返ると、すぐ背後にディが来ていた。
「いくぜ!」
 また犯される! ディの声に、そう覚悟を決めてジーンはじっと身構えた。
 しかし、ハァーと息を吐いたのは下になっているエミールの方だった。 

 面前のエミールの端正な顔がみるみるうちに快楽に歪んでいく。
 ジーンは交わるエミールとディの間に挟まれた格好になったことに気付き、慌ててどこうとしたが、背後から逞しい腕でエミールごと抱きすくめられた。
「は……はなしてくれ」
 ジーンの抗議の声を気にする風でもなく、ディが後ろから耳元に囁く。
「エミールがケツの穴に突っ込まれてる時の顔は格別だぜ。よく見てな」

 低く艶のある声で卑猥な言葉を並べると、ディはゆさゆさと腰を使い始めた。
 ギシ、ギシ。
 ディが腰を突き出すたびに、ベッドが軋み、自分の体の下にあるエミールの体が揺れる。少年はうつろな表情で甘い吐息を吐きながら、エミールの焦点のあわない目でジーンをみていた。どんどんと縦に揺らされながらも、少年の手がジーンの顔に伸びた。そして誘うように、そろそろと唇を撫でて来る。
 エミールの上気した顔は、ジーンの目にことのほか愛らしく映った。

 ジーンは唇を触られる感触に誘われ、再びエミールと唇を重ねる。
 エミールは出せない声を代用するかのように、激しく舌を使い始めた。ジーンの唇、歯茎、口腔を余すところなく舐めてくる。ジーンも唾が垂れるのもかまわず、エミールの両手を押さえつけて夢中で舌を突き出した。

 どれほどの間そうしていたのか。二人の人間に挟まれ、肌が接しているところは汗でぬめっている。そのぬめりを楽しむかのようにジーンは体をくねらせると、濡れ光った荊の模様も生き物のようにうねり、まるで蛇の大群が蠢いているかのようだった。むせるような汗の匂いが立ちこめ、熱気に頭の中心が痺れさせられていた。

 その間も、ディはズンズンとエミールを突き上げていたのだが、唐突に揺れが止まった。ディがすぐに体を離す。
「?」
 エミールとジーンが同時にディの方を見上げた。
「どうして……?」
 つい、ジーンは尋ねてしまった。それが、期待を表していることに気付いてはいなかった。
 しかし、ディは黙ってニヤニヤしているだけだった。

 ジーンは戸惑いを見せたが、エミールはディの気まぐれには慣れているようで、熱い抱擁を再開した。ジーンの鍛え上げられた大胸筋の上の、たわわな乳房に口をつけ、乳房の下半分を覆う、ツタの絡まりに沿って舐めていった。

「く……あふ……」
 エミールがジーンの乳首を軽く口に含むと、ジーンの口から甘い吐息が漏れた。へなへなと脱力したジーンを見て、エミールはのしかかるジーンの体を押し返した。くるりと体勢を入れ替えられ、見上げたジーンは上に載ったエミールが笑っているのが見えた。実際は声がないため本当に笑っているのかどうかわからない。だが、エミールの目は初めて見るギラギラした光を放っていた。

 エミールは荊のツタに沿って舌でなぞっていき、股間の性器へとたどり着く。エミールは今度は上下を入れ替えた。ジーンの目の前に、エミールの股間が現れる。
 性器を切り取られた傷痕の下に、先ほどまでディを飲み込んでいた肛門がぽっかりと口を開けヒクヒクと誘うように動いている。性器を失ってもまだ性欲を失わない、人間の貪欲さを思い知らされた気分だった。

「あ……」
 エミールがジーンの肉の蕾を吸った。腰骨が溶けそうな快感にジーンが小さく声を出した。そのジーンの鼻にエミールが何もない股間を押し付けてくる。ジーンは舌を伸ばすと恐る恐るエミールの股間の傷に下を伸ばした。
 傷痕に舌が軽く触れると、エミールの尻たぶがキュッと上がる。
 盛り上がったピンクの傷にいくらか快感を感じる能力が残っているのを見て、ジーンは夢中でピチャピチャと舐めた。そうすると、より一層エミールの舌に力が入った。

「ハァ……ハァ……んふ……んんっ……」
 エミールが股間を舐めている間も、ジーンの心の一部では、未だに激しい拒絶があった。

 私はなにをしている? なぜこんなことをしなければならない? 性器を切り取られた憐れな少年に。ニヤニヤと笑う男の前で。この修道院に閉じ込められてから、すっかりおかしくなってしまった。いや、それではその前に男の姿で戦場にいたのは正常だったのだろうか?
 何が正常で何が異常なのか?
 ジーンにはもう分からなくなり始めていた。

 エミールの口戯が冴えるにつれ、正常な思考は侵されていく。感情は空回りし、信仰も何の助けにもならなくなっていた。考えるまもなく快感の大きな波が訪れようとしていた。
 だらしなくエミールに向けて開いていた太ももがビクンと震える。
「ああっ、エミール!! ああっ!! ああぁっ!!」
 背筋が反り返り、体中の筋肉が張り詰める。
 ビクン、ビクンと断続的に太ももが引きつると、自分の体の中から信じられないほどの快感が搾り出されてきた。
「……ッ!!!」
 声にならない声を吐き出すと、目の前が真っ白になった。

 気がつくと、目の前にエミールの顔があり、再びキスをしてきた。
 今度は自分の愛液をたっぷり含んだ唾を飲ませてくる。ジーンは眉をひそめたもののそれを飲み込んだ。
「んぐ……はぁ……はぁ……」
 エミールが顔を上げて、声なく笑っている。
 その表情には自分の失言に対して見せた怒りなど微塵もなかった。あれもまた、誘惑の手段だったのだろうか? それとも子供の気まぐれなのだろうか?
 クチュ……クチュ……。
 ジーンに考える暇を与えないかの様に、エミールはやわらかいキスを続ける。
「エミール」
 ディに呼ばれて、エミールは顔を上げるとジーンの体から降りた。例の痩せた黒猫がピョンとベッドに飛び上がり、エミールに擦り寄る。エミールは横座りをしながら、猫の背中をなでた。

 だらしなく寝転んでいたジーンだったが、エミールが離れたことに気付き、顔を上げた。昨日もちこまれた大きな鏡に自分の醜態が映し出されている。下腹部はエミールの唾液と自分の愛液に濡れ光り、荊模様の下の皮膚は熱く火照っている。
 性欲に負け、去勢された少年と散々愛欲を貪りあった余韻を残した惨めな姿を暫くの間ぼんやりと見つめていた。

 ポロリ、とジーンの目から大粒の涙が零れた。
「なぜ、泣く?」
 ディの静かな声に、なぜかジーンは素直に答えた。
「わからない……」
「教えてやろう」
 そういうと、ディは手を出した。その手には上等な飾り紐の先に少し黒ずんだ銀の十字の付いたロザリオが握られていた。ジーンが戦場で持ち歩いていた物だった。
 それをディはポイとジーンの前に放り投げた。
 パサリとシーツの上に落ちた十字架をジーンが拾い上げる。
「そいつにキスしな」
 ディが命じた。
「下の口でな」

 ジーンは言われた瞬間は意味が分からなかったが、すぐに十字架を女性器に押し当てろと言われていることに気付く。
「今、それが出来たらこのゲームはおしまいだ。元の体に戻して、お前の故郷に返してやろう」
 半分放心状態だったジーンの心に低い声が響く。
(故郷……)
 心の中にある小さな丘の景色が蘇った。戦場の極彩色の記憶の隅に押しやられ、あやふやになってしまった故郷の記憶だった。
(帰りたい……)

 ジーンは自分が握る十字架に目を落とした。何千回も何万回も祈りを捧げた十字架。小さく彫られたキリスト像は、すでに表面が削れのっぺりとした人型になってしまっている。これを押し付けるだけで、全ての苦しみは終わるのだ。

 十字架を持った手が徐々に股間に近づいていく。
「もっと股を開け!」
 ディの叱責にジーンはビクリと震え、足を大きく開いた。エミールの舌の愛撫をうけ、濡れそぼった陰唇があらわになる。

 ドクン、ドクン。
 十字架が股間に近づくにつれ、心臓が大きく鼓動する。額からは冷や汗が流れ、十字架を持つ手は小刻みに震え始める。
 もうすぐ楽になれる。もう、楽になりたい。
 その一心で未だ濡れ光る女性器にそれを押し付けようとする。

 しかし、徐々に震えが大きくなっていき、ついに一インチ手前で手は全く動かなくなってしまった。

(……できない)
 教会騎士達に暴行を受け、修道士達に陵辱され、もう教会などどうでもいいと思っているはずなのに、どうしてもあと一インチ腕を動かすことが出来ない。故郷に帰りたい。この苦しみから解放されたい。それなのに自分の腕は鉄で出来ているかのようにビクともしなかった。

「つまり、それがお前を縛っているものさ」
 硬直するジーンにディが言った。
「本当にお前を縛っているのは、こんな体の表面を覆う模様じゃあねえ。そいつはお前達が生まれた時から徐々に心に巻きつき、音もなく人の心を覆い隠しちまう。気付けばそのツタに囚われ身動きがとれず、もがけば鋭い荊が心を傷つける」

 ディが十字架を持ったまま固まっている手を握り、そのままジーンの股間にそれを無理矢理押し付けさせた。
「いやああああぁ!」
 その瞬間、ジーンはまるでそれを持っていると火傷するかのように、あわてて十字架を投げ捨てた。
「……そいつが『信仰』ってもんだ」

 ディは恐ろしく素早くジーンをうつ伏せに押し倒すと、そのまま背後からジーンを刺し貫いた。巨大なペニスがぬるりと胎内に収まる。
「アゥ……」
「誰もがお前みたいな訳じゃねえ。物や金で信仰を売っちまう人間のが多いもんだ。だが中にはお前のようにどうしても捨てられない人間がいる。だからこそお前の信仰は尊く、そして堕ちた時の開放はこの上なく大きい」

 ディのペニスを飲み込んだだけで、ジーンは体全体が震えるほどの快感が駆け巡る。
「ああ、あぁ……」
 たまらず声を出すジーンにディが囁く。
「お前を刺し貫いているモノは、大きさも、形も、硬さも、熱さも、すべてお前が一番感じるように俺が調整したものだ。これ以上、お前の体と相性の合う男は地上には存在しねえ」
 ディの言葉を裏付けるように、突き入れられたばかりのペニスがジーンの性器にしっくりと馴染んでいた。異物感はまるでなく、それどころか涙が零れそうなほどの快感が体を満たしていた。

「ああ、やめて……やめて……」
「この味を知ればお前がこれからの人生、どんな男に抱かれても満足することはない。一生、男から男へと彷徨うのさ」
 ギシ、ギシ、ギシ。
 ベッドを軋ませながら、ディは四つん這いのジーンの腰を掴み、激しく腰を前後させる。
 ディがペニスを抜きさしするごとに交互に訪れる甘美な喪失感と充足感。昨日と同じ激しい快感に身を焼かれ、ジーンの中の獣が一気に暴れ始める。
「ああっ、ああん、あぁん」
 紛れもない快楽を感じながら、男に突き上げられるままにジーンが嬌声を上げる。

「いい声だ。もっと啼け! もっとだ!!」
「ああぁ、ああぁ、あぁ、ああぁ」
 ズン、ズン、と後ろから腰を突き出されると、ジーンは乱れ狂った。

 ジーンの痴態にあてられたのか、エミールが近づきそっとジーンの体に触る。ディがジーンの髪を引っ張り、貫いたまま体を起き上がらせると、エミールがその口にキスをした。ジーンは犯される快感に我を忘れ、エミールの唇を貪った。
 その間、エミールは両手でジーンの両乳房を持ち上げ、乳首をつまみ上げる。その度にジーンは絶え絶えの息をエミールの口内に吹き込むのだった。

 すっとディの手が股間に当てられる。
 その手に握られた硬いものが、クリトリスに当たり、ジーンはびくりと硬直した。ぐりぐりと押し付けられると、その形がはっきり分かる。銀の十字架だった。
 激しい抵抗感が心を満たそうとするが、それを押さえつけるようにディのペニスはジーンの膣をえぐり、指はますます強く十字架をクリトリスに擦り付ける。
 自分の愛液が十字架を濡らしすべりを良くすると、元々キリストその人の彫られていた凹凸がジーンの陰唇をめくり上げ、クリトリスを刺激し、腰骨まで溶けてしまいそうな愉悦をもたらした。

「ああ……なぜこんな……ああ……気持ちよすぎる……ああぁ」
「そいつが背徳の悦びってやつさ」
「気持ちよすぎる、もうだめだ、アア」
「まだまだだ。お前にはもっと気持ちよくなってもらうぜ」
「ああ! もうだめだ! やめて、やめて!! 死んでしまう!!」
 ジーンは言葉とは裏腹に両手をディの股間の手に重ね、十字架を飲み込んでしまえとばかりに女性器に押し付けていた。
 そして、また前日のように尿道にこみ上げる液体があった。
「ああ、また漏れてしまう。ああ、だめ。だめ!!」
「さぁ、出しちまいな。この十字架に思いっきりかけるんだ」
「いやぁ、ああぁ、ああぁ、ああぁ!!」
 キュッと尻たぶが締まり、同時に胎内のディのペニスを締め付けると、尿道から液体が噴出した。
 プシュッ、プシュッ!
 勢いよく飛び出した生臭い液体が股間の銀の十字架を濡らす。
 ジーンはビクビクと体を震わしながら、己の体から快楽の証を噴出し続けた。
「ふっふっふ。こっちもいくぞ」
 ディのペニスも、ジーンの体内で発射し始める。
 ジュッ、ジュッと熱い粘液が女性器を満たす感覚に、ジーンはぞっとするような悪寒と、それを上回るほどの快感を感じていた。

****

 
「ああ、ああっ」
 ジーンは声を出しながら、エミールの痩せた胸の小さな乳首に舌を這わせていた。
 同時に肛門内に差し込んだ人差し指と中指をゆっくりと出し入れする。指はエミールの腸液に濡れ、鈍く光りながら異臭を放つ。
 それでもジーンは取り憑かれたように愛撫を続けていた。

「アア、だめだ」
 ジーンがつぶやいた。
 外部に性器が出ていないエミールは、体の奥でしか快感を感じることが出来ない。しかし、ジーンの指ではとてもおくまで指が届かなかった。エミールは少年にとって中途半端にしかならないジーンの愛撫を長時間受け、息も絶え絶えに焦れてもがいていた。
「ディ、エミールにしてやってくれ」
 ジーンは側にいたディに言った。
「まだ、やんのかい?」
 ディが苦笑気味に尋ねる。
「ほら、こいつを使ってみな」
 ディはそういうと棒状の物をジーンの目の前に置いた。それは男性器を模った張型だった。しかも、棒のどちらもペニス型になっている。
「別の所にある女子修道院で借りてきたもんさ。女同士でも使えるってやつだ」
 ディの説明にジーンはそれを手にとってまじまじと見た。材質は木だが表面は綺麗に磨き上げられている。そして、その表面には明らかに使い込まれていると思われる、濡れて変色した跡があった。
 以前のジーンならすぐに投げ捨てたであろうその淫らな遊具を、ジーンは口を開いて舐めた。
「ん……んふっ」
 唾をたっぷり擦り付けると、それをエミールの開ききった肛門につける。グルグルとまわすように押し付けていると、それはズブズブとエミールの腸内に飲み込まれていった。

「……!!」
 エミールがギュッと目を瞑り、ピンと体を反り返らせる。
 ハァ、ハァ、ハァ。
 暫くはジーンが張型を操るままに任せていたエミールが、急に起き上がり四つん這いになる。その意図を察したジーンは、エミールの肛門から出ている作り物の男性器に口をつけ、べっとりと唾をつける。
 そしてくるりと振り返ると、エミールと同じく四つん這いになり、同じく肛門にその先をつけると、ゆっくりと尻を突き出した。
「アア……」
 それが根元まで収まり、エミールとジーンがお互い尻を付け合う形になると、どちらともなく腰を振り始める。
 ニチャ、ニチャ、ニチャと耳を塞ぎたくなるような濡れた音が二人の偽の結合部から漏れる。
「ああ、ああ、ああ」
 エミールが声を出せないのを肩代わりするようにジーンが声を上げた。
 その鼻先に、ぬっとディがその巨大なペニスを突きつけた。その幹の部分には皮ひもがまきついており、根元には銀の十字架が吊り下がっている。
 ジーンは一瞬だけ悲しそうな表情を見せると、睫毛を伏せそのペニスに舌を這わせ始めた。


 以降、四日間の間、この部屋の扉は閉じられたままとなった。

 折りしも、ヘンリー五世がフランス王シャルル六世の娘カトリーヌを娶り、いよいよフランス王位継承権を手に入れ、イングランド中が沸きかえっていたころのことだった。




◆ Propose(提案)

 ロイはそっと尖塔へ向かう階段の下に滑り込んだ。
 金髪の若い見習い修道僧は、他の修道僧たちに気付かれていないことを確認して、足音を立てないように尖塔の狭い螺旋階段を登っていく。松明をもっていないので、真っ暗な上、かなり急なのでなかなか思うようにすすまない。それでも何とか頂上までたどり着いた。
 尖塔の頂上は二つに仕切られ左はエミールとの情事の部屋と決まっていたが、エミールは今は下で眠っているはずだ。ロイは右側のドアへそっと近づいた。中から話し声が聞こえて来た。

「あぁっ、あぁっ」
「どうした、ワシが憎いのじゃろう?」
 老修道士ラスコーの声を聞いてロイは心臓が鷲掴みにされたかと思うほど驚いた。しかし、音を立てないようにドアに近づき、床に這いつくばると、食事を差し入れる穴から中を覗いた。小さな松明が照らす薄暗い部屋で、ほっそりした女性が後ろから犯されているシルエットが見えた。

「憎い……憎いわ……」
 そういいながらも女はベッドの上で自ら四つんばいになって突き出した尻をラスコーにこすりつけるように動かしていた。そのねっとりした腰使いを見るだけで、覗き見るロイは勃起してしまった。
「それが……あぁ……どうかした……?」
 女は淡々と言いながら、ベッドの上に這いつくばるように崩れ落ちた。

 松明の明かりを受けてその姿が薄暗い闇に浮かぶ。ロイはその姿を見て息を呑んだ。

 ほっそりとした美しい肢体はその半分をツタのようなもので覆われ、尻を振るごとに生きているかのように波打つ。見るからに滑らかな肌は透き通るように白く、美しい褐色の髪が顔を覆うようにその上に垂れ下がり、その隙間から茶色の潤んだ瞳が熱っぽく光っている。濡れたように赤い唇から、長く短く吐息のような喘ぎ声が洩れ続ける。
 その顔は確かに見覚えがあった。しかし、ロイの知るジーンとは全く違った。ロイが暴行に加わったジーンの体にはいくつかの古い傷があり、肌は日に焼けて浅黒く、そんな奇妙な模様はなかった。そもそも声が全く違った。ロイの知るジーンはがらがらの声で、その悲鳴も野太く恐ろしいものだったが、今や美しい女の声だ。

「ほっほっほ、まさかこんなにいい女じゃったとはのぅ」
 老修道士は醜悪なあばた顔に好色な笑みを浮かべながら、痩せた腰を振りたてる。
「あのディという男、得体が知れんと思っていたが、出入りを許しておいてよかったわい。あんな男でも役に立つことがあるんじゃのぅ」
 修道士はジーンのたっぷりとした髪をつかむと、無理やり引き起こし、その横顔を覗き込んだ。
「お前にくらべればエミールもタダのガキじゃな」
 その言葉を聞いて、一瞬、ジーンの目に危険な光が宿るのを、ロイは見た。しかし、その視線はすぐに焦点を失い宙をさまよい始め、腰の動きはますますその粘度を増していった。片腕をついた体勢で上半身はそのままに、まるで下半身だけ独立した生き物であるかのように小刻みに宙を舞う。クチュクチュと二人の結合部分が音を立て、淫靡な空気がその場を満たしていた。

「ほれ、仰向けになれ」
 ラスコーはジーンにそう命じると、ベッドに仰向けに寝たジーンに再び圧し掛かった。
 しかし、大きさはあるものの硬さのいまいち足りないラスコーのペニスは一度抜いてしまうと、なかなか入りにくい。ジーンは腰を揺するようにして、ペニスを押し付けもどかしそうに下半身を反り返らせる。
「おっ、おぅっ」
 ラスコーは圧倒されるように後ろに手を突くとジーンはやっと目当てのところにペニスがあたったのかほーっと息をついた。
「あぁ……あぁあ……」
 少しずつ声の音量をあげながらジーンは啜り泣くような喘ぎ声を上げる。その時、視線がロイの方へと彷徨った。ロイは驚いて声をあげそうになったが、ジーンは気付いているのかいないのか、行為に没頭していった。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 小刻みに腰を使いながらジーンは快楽へと駆け上がっていく。むしろラスコーの貧弱な肉体はそれに圧倒されかろうじで支えている感じだった。妖しく美しい若い女性の肉体が醜悪な老人と交わっている姿にロイの目は釘付けだった。

「くる……くる……ぁあ、ぁあ、あぁ」
 ジーンは快楽を訴えながら、一気に腰を動かし始めた。
「おおぉ、おおっ」
 ラスコーはペニスが吸い込まれるような錯覚を抱きながら、たまらず声を上げる。
「あぁーあぁーあぁーーーっ」
 ジーンはビクンビクンと膣を震わすと絶頂に達した。それに絞り上げられるようにラスコーのペニスは締め付けられ、たまらず精液を吐き出した。


****

 ラスコーは事を終えると、さかんにジーンの体を褒めながら、床に脱ぎ捨ててあった長衣をつけ、またくると何度も言い残して閂をそとからかけて出て行った。ジーンはその間、ラスコーの言葉を聞いているのかいないのか、まるで放心したかのようにぼんやりと宙の一点を見つめていた。

 ラスコーが通り過ぎるのをロイは隣の部屋でやり過ごし、階段を下りていく音を確かめた後で、閂を外しジーンの部屋へとすべりこんだ。ジーンはベッドに座ったまま、ロイのほうを見た。見つめたまま黙っていた。
 パチパチと松明の爆ぜる音だけがその場に響き、弱弱しい炎がゆらゆらとジーンの体を照らす。揺れる黒い荊のツタが、ジーンの体を背後の暗闇に緊縛しているように見えた。

「あ……あの……」
 沈黙に耐え切れずロイが口を開きかけた。しかし何を話せばいいかわからない。
 ジーンが連れ込まれて最初の晩、ラスコーと共にジーンを輪姦した三人のうちの一人だった若い男ロイ。
 以前に囚われの女騎士ジーンに会ったのは、実に10日以上も前だった。

「お前も私を犯しにきたのか?」
 ロイの躊躇を無視してジーンが乾いた表情でロイを見ながら尋ねた。
「ちがうっ!!」
 ロイはその言葉にどきりとしながらも、必死で否定した。
「あんたに……あんたに謝りたいと思って……」
 若い見習い修道僧は口ごもりながらもさらに続けた。
「もちろん、許してもらえるとはおもってないが、それでも謝りたいと思って」

「謝る?」
 ジーンは微かに興味を示した。
「あんたに酷いことしたって……。ブラザー・ラスコーに言われてあんたにあんな……。俺、あれからずっと後悔してたんだ。本当はもっと早く謝りたかったんだが、ディのやつがいて……」
 ディの名前が出てジーンはぴくりと震えた。しかし、ロイは自分の謝罪に夢中で、それには気付かなかった。
「ディはここでは恐れられているんだ。ヤツが初めてここに来たとき、面と向かってあいつを追い出そうとした信心深い司祭が、三日後に全裸で井戸に身を投げたことがあって。皆、怖がってるんだ。ヤツが発狂させたんじゃないかって」

(ふっ)
 ジーンは心の中で嘲笑した。もちろんそうだろう。ディは本物の悪魔なのだ。何日も抱かれ続けたジーンはその本性を心の底から理解していた。

「それで?」
 ジーンが冷たく尋ねるとロイはしどろもどろになって答えた。
「俺も……俺も初めてだったんだ……。俺の村は貧しくて、食い扶持がないから修道僧になれって言われて、ここに連れてこられて……。もう、一生、女には縁がないって思ってたんだ。俺だってあんなこと無理やりするのは……って思ったんだけど、でもあんたの裸を見たら……自分を抑えきれなくなって……」
 最後の方は口の中でモゴモゴ言っただけだった。自分でもあまりに身勝手な言い分だとわかっていたからだ。ロイはジーンが怒るかと思ったが、ジーンは乾いた表情を浮かべてロイを見ていた。

「ブラザー・ラスコーにはだれも逆らえないんだ。あいつとブラザー・マーカムの取り巻きは大勢いて、逆らった人間は『女役』にさせられて、皆に輪姦されるんだ。それが嫌で首を吊っちまったヤツも居る」
 しかし、ジーンは無感情だった。ロイも自分の言い訳が虫が良すぎることを改めて自覚して口を閉ざした。『皆に輪姦される』はジーンがその身に受けたことそのものに他ならなかった。

「すまない……」
 絞り出すような声でロイは言った。

 ロイは悪い男ではなかった。
 信心深いほうとはとても言えないが、彼はこの悪魔の棲む修道院ではごくましな方だった。しかし彼にとって不運なことに、彼の出身地はラスコーと同じであり、ラスコーのお気に入りとして目をかけられてしまった。
 男色の気もあるラスコーは、ロイに自分のモノになるよう、しつこく迫っていた。ロイはかろうじでエミールに夢中になっている振りをして逃げていた。

 ジーンは改めてこの男をまじまじと見た。
 暗い部屋の中で、まだ見習いなためトンスラ(世俗との係わりを断つことを示すため、頭頂部の毛をそり落とすこと)はしておらず、薄汚れた金髪が弱い松明の光に透けている。すこし痩せていて猫背だが、背は高く、少しのっぺりしているものの顔立ちもそれなりに整っている。少したれ目の薄緑色の瞳は、ジーンを犯したときとは違い、後悔と不安に満ちていた。ジーンにはその心が透けて見えた。

 しかし、だからどうだというのだろう?
 ジーンにとって最初に犯されたことは遠い昔のことのようだった。この若い男が謝ってきたからといって何の感慨ももうなかった。

 ただ一言「そうか」とだけつぶやいて黙ってしまったジーンを前にロイはどうしたらいいか迷っていた。謝りたい一心でここまで上がってきたが、その後については何も考えていなかった。

「あ……あの……、どうしてブラザー・ラスコーみたいなあんなやつと……その……」
 ロイは気まずい沈黙と好奇心に勝てず、ついそんな疑問を口にした。

「さぁ」
 とだけ、ジーンは答えた。自分でも答えを持っていなかった。

 ディとエミールとの果て無き交わりの日々、昼夜関係なく繰り返される快楽がどれほどの時間だったか、ジーンには知るすべもなかった。ディは執拗に肉体から悦楽を引き出す方法をジーンに教えた。ジーンは否応なく、集中力を高めて自分の心を少しずつ麻痺させていくのと引き換えに、体の中から灼けつくような快感を引き出す術を身につけさせられていた。長い時間をかけて完全なケモノにまでなれると、それは脳髄を焼き尽くし、自分という小さな存在は、真っ白な視界の中で、体中を駆け巡る絶対的な快楽に狂ってしまうのだ。
 その過程を何度も何度も繰り返しをさせられ、ジーンは悟らざるを得なかった。
 この永遠に荊の巻きついた肉体のように、魂もまた肉体と狂気の狭間に呪縛されてしまったことを。

 それに比べれば、すでにロスコーなどなんでもなかった。
 ヤツが現れた瞬間こそ、反射的に前回受けた暴力への恐怖感を思い出し、体が竦んだが、自分の荊に縛られた体を見て極度の興奮状態に陥り、必死で着衣を脱ぎ去った老修道士の醜態を見ると、恐怖を感じている自分が馬鹿らしくなった。
 もちろんあの醜い老修道士を許す気もなかったし、殺してやろうかとも思ったが、ふと自分の中のケモノの存在をディ以外の男で確かめたくなった。案の定、自分の中のケモノをほんの少しだけ解放しただけでラスコーは果ててしまった。ケモノはまだ満足しておらず、股間の奥が疼いていた。

「なぁ、俺が言うことじゃないけどさ、あんたあんまり自暴自棄にならないほうがいいよ」
 思いがけないロイの言葉にジーンは目を丸くした。
「自暴自棄? 私が?」
「そうだよ、あきらめちゃだめだ。神様もいってるだろう? 希望をすてたらだめだ」
 『希望』、それこそジーンが失ってしまったものだった。

「あ、あんた美人だしさ。もともと身分もいいんだろ? ここを出れたらきっとうまくいくよ」
 無責任な若者の言い分は自分がしたことを思えばずいぶん虫のいい言葉だったが、ロイは本気だった。
「私には帰る場所はないんだ」
「だったら商家の嫁にでもなればいい。立派な跡継ぎを作れば一生安泰だ」
 ジーンは首を振った。
「私の体はもう子供が産めない」
「じゃ、じゃあ、尼僧はどうだ? 少なくてもロスコーや俺みたいな男はいないし、くいっぱぐれはないよ」
「この体で?」
 ジーンは黒いツタの巻きついた全裸の体を見下ろして言った。とても修道女として受け入れられる体ではなかった。
 さすがの愚かな若者もこれには次の句がつげなかった。刺青そのものは知らなかったが、これが尋常なものでないことは近くで見てよくわかった。ディがやったのなら悪魔の手段に違いないと思っていた。それは事実なのだが。

 「まあ、お前が気にすることではない」
 ジーンは、自分でも驚いたことに、少し笑みを浮かべて言った。ディ以外の人間と会話することに、忘れていた人間としての感情が少し蘇った気がしていたのだった。

 しかしそんな気分も、ロイの若者特有の傲慢さにすぐに消し飛んだ。
「だめだ! あんたはあんな風に……その……しちゃあだめなんだ」

「……なにを?」
 ジーンが囁く様な声でそう尋ねながら、粗末な木のベッドから石の床に裸足で降り立つ。ロイはその凄味に圧倒されて、後ずさった。
「……なにをするなというのだ?」
 ジーンの茶色の瞳に危険な色が滲む。実際、ジーンは思っていた。
 このなにも知らない若造に、私の見た地獄を、少しだけでも分けてやろうかと。圧倒的な肉体の前に、魂が消え逝く恐怖を教えてやろうかと。

 ジーンの全身から発する異様な空気。
 ロイの全身の肌は粟立ち、それでいて抑えきれない興奮に唾を飲む。ペニスは図らずも起立し、心臓は早鐘のように打ち、こめかみがずきずきとするほどだった。ロイは一言も喋れずに立ち尽くした。
 ジーンがその手をとると、ロイはビクリと震えた。

「ま、まってくれ……」
 ロイはかすれる声でいった。喉はカラカラだった。
「あんたにして欲しくないんだ。あんなこと」

 ジーンの動きが止まった。ロイの必死の眼差しに少し興味を持った。
 ロイは唾を飲み込むと、早口にこう言った。
「逃げよう。俺といっしょに。ここから」

****

 あまりに馬鹿げた提案に、ジーンは面食らった。
 ロイもそこまで言うつもりでここへ来たわけではなかった。ただ、お互い初めて交わった人間同士なのにあまりに酷かった前回の出会いに、それを出会いと呼ぶこと自体が身勝手とは思わずに、良心が痛み、謝りにきただけだった。
 しかし、実際にジーンが他人と、よりによってラスコーと、寝ているのを目撃して、そしてジーンが妖しく美しく、そしてどこか儚げに、変貌しているのを見て、思わずそんな言葉が口をついて出たのだった。

 口に出してみると、ロイは自分でその提案に納得した。
 六人の兄弟の中でも最も愚図で、家族が食うに困って不本意で入れられてしまった修道院だったが、中は予想よりもさらに酷く、朝から晩まで雑用と祈りの時間ばかりなのに、ラスコーやディといった不信心者がのさばり、挙句の果てには自分まで男色の仲間に引き入れようとする始末。女に目が眩んでジーンの陵辱に参加したが、それ以降、まるでラスコーの手下のように扱われるのも嫌で仕方なかった。
 飯を食うためと割り切って、この修道院の矛盾に目をつぶって来たが、ジーンほどの人間が聖職者であるラスコーの慰み者になっている光景を見て、やり場のない怒りというか、不満というか、そういったものが若者の激情となって溢れ出た。

「そうだよ、そうしよう。ロンドンは今、フランスから持ち帰った金で景気がいいっていうし、俺もここで読み書きは出来るようになったから、職もきっとあるよ」
 ロイは簡単にそう言ったが、ジーンはとても無理だと思った。ロンドンの都会は、フランスに渡る前に出航の手配で通ったが、この頼りなさげな男にロンドンで食っていける才覚があるとは思えなかった。それなのに、外に出るということについて、自分がもう目を背けてしまっていた未来が突然に突きつけられ、元女騎士は自分でも意外なほど狼狽した。
 そんな相手の葛藤をよそに、ロイは続ける。
「なあ、あんたに償いたいんだよ。それであんたがもしよければでいいからさ、……その……一緒になってくれよ」
 ジーンはポカンと口を開けた。
 この男の妻? わたしが?

「ああ、子供ができないのは気にしなくてもいいよ。そうだ、エミールも連れて行こう。エミールに子供になってもらえばいい。三人一緒なら寂しくないだろう? おれが一生懸命働いて食わせるからさ。いつか本当の家族になれるよ。きっと幸せにするよ」

 あまりに子供じみた世間知らずの無責任な戯言だった。
 見知らぬ土地でこの頼りない男と、壊れた女と、声のない子供が生きていけるはずがない。自分やエミールが逃げれば追っ手がかかるかもしれないというのに。
 ジーンにはその無謀さが痛いほど分かっていたが、それでもその言葉の意味をかみ締めずにはいられなかった。家族、幸福、自由……。ここに閉じ込められてから、いやそれよりずっと前、フランス出征の前か、あるいは占い師とやらの予言でシーモア家を出された時からずっと諦め、それ故、憧れていた幸福な家庭。

 それをまさかこの地獄とも思える修道院の石壁の内側で、自分を力ずくで犯した男に投げかけられるとは。

 エミールと親子として暮らす。幸せに。
 すぐに笑い飛ばしてやろうと思ったのに、なぜか声が出ない。目頭が熱くなり薄暗い松明の光に照らされた冷たい石壁に囲まれた陰鬱な部屋が滲んで見える。自分の目から涙が零れ落ちようとしているのにジーンは遅まきながらに気付いた。

「あ、あの……なんか悪いこといった……?」
 思いもかけない劇的なジーンの反応にロイも戸惑っていた。さすがに自分の提案を泣いて喜んでいると思うほど、馬鹿ではなかったが、自分が言ったことがジーンにとってどういう意味があったのか全く理解できない。
 その時、祈りの時間を報せる鐘がカンカンと遠くで甲高く鳴った。
「泣かせるつもりはなかったんだ。イヤならいいんだよ。おれ、もう行くよ。明日また返事を聞きにくるから」
 ロイはそう言うと、そそくさと立ち去ろうとした。

「待て。もう来ない方がいい……」
 ジーンは金髪の見習い修道僧にそう言った。
「ディのことなら心配要らない。あいつは暫くここを出て行ったよ。あいつはふらりと出て行くと、二、三週間は帰ってこないんだ」
 ロイはそういい残して外に出てドアを閉めた。
「悪いけど、閂はかけていくよ。他のヤツに見つかったらまずいし、どうせあんたも裸では外にでれないだろう?」
 ドアの外からそう囁く。ジーンは返事をしなかったが、ロイは返事を待たず閂を下ろすと、足音を忍ばして下へ降りていった。

 ジーンはその夜、微かな希望という新しい残酷な拷問に、その身を苛まれた。

****

 ロイが言ったようにディは翌日は来なかった。
 誰も来ない日中、小さな窓からさす明るい日差しを受けながら、ベッドに座っていた。心を乱す昨晩の男の言葉。体は前々日までのディの愛撫を思い出しジクジクと疼いており、心の乱れを忘れようと自分の指を女性器に這わせ、体を慰めようとするものの、集中力が足りず高みに昇れない。精神と肉体の両方がジーンの理性を、そんなものが残っていればだが、ジリジリと削っていった。

 夕刻、人の足音でジーンは浅い眠りから目を覚ました。
 顔をあげるとエミールが食事を持って部屋に入ってきた。その背後ではいつもどおり付き添ってきた誰かが閂をかける。
 エミールを改めて見ると、散々、体を重ねお互いを貪りあったのを思い出して、バツが悪くなる。ジーンの性が解放されるに従い、この少年とも激しい交わりを交わすようになっていた。エミールも同じ事を思い出しているのか、ジーンと目が合うと恥ずかしそうにはにかみ、少し目を伏せた。

 エミールは枕もとの粗末な木の机に持ってきた木の盆を乗せる。そば粉を練って焼いて野菜を包んだガレットと薄いスープがその上に乗っていた。
 ジーンが無言のままそれに手を伸ばすと、何かいいたそうにエミールが見つめている。
「どうかしたか、エミール?」
 美しい少年は頷くとゆっくりと口を動かした。
(R・O・Y  N・O  C・O・M・E)
「ロイは来ないのか?」
 ジーンが聞き返すと、エミールはうれしそうに頷いた。言葉が通じるのが嬉しいらしい。エミールは鍋をかき混ぜるしぐさをした。料理当番だということなのだろう。
 そしてエミールはこう続けた。
(H・E  N・E・E・D  A・N・S・W・E・R)

 黙っているジーンを見てエミールは不安げに首をかしげる。ジーンは言葉が理解できなかったわけではないことを示すため、ポンとエミールの頭に手を載せた。
 エミールはベッドに登るとジーンの隣に座った。その馴染みの体にじゃれつくようにもたれかかり、くんくんと匂いを嗅ぐ。ジーンがその犬のようなしぐさに笑みをこぼすと、エミールは目をつぶっておずおずとその小さく形のいい唇を突き出した。
 ジーンがその可憐な唇に口付けをすると、エミールはそそくさとベッドを降り、料理を早く食べるようにと急かすような仕草をした。エミールの青い透き通った瞳が淫靡にジーンを見つめる。ジーンと同じく、エミールにとっても、ディのいない一日は長かったに違いなかった。

 目の前の籠に囚われた美しい鳥は、自分がオリに閉じ込められていることを知ってか知らずか、その生活に慣れきっていた。声を奪われ、人間としての尊厳を奪われ、この年齢にして人間の最も汚い部分のみを見ながら、それでもしたたかに、そして健気にその生を生きていた。
 この子だけには償わねば。何とか外に出してやりたい。そんな気持ちがムクムクと膨れ上がる。
 出来れば故郷に返してやりたいと、ジーンは心の底からそう思った。そのためには自分の人生が何だというのだ。
 
 ジーンはエミールをぎゅっと抱きしめ、その耳元に囁いた。
「ロイに伝えてくれ、エミール。YESだ。答えはYESだ……」

 ジーンの思いつめた口調が何か分からずにエミールは再び首をかしげた。

(神よ、私にはあなたに祈る資格はありません。それでも……)
 ジーンは心の中で祈らずにはいられなかった。
(慈悲を……)




◆ Runaway(逃亡)

 ロイは午前の祈りを終えると、正午の祈りが始まる前に、誰も使っていない倉庫に顔を出した。
 そこには使われていなかったり修復を待つ絵画が保存されている。エミールは暇さえあればここに忍んで、絵画を見つめたり、また隅の一角の机の下に潜って絵を描いていた。ロイが机の下を覗き込んだ時も、修道僧たちが絵画工房からくすねた絵の具が散乱したなかで、エミールは絵を描いていた。その小さな絵はエミールとジーンが寄り添う姿を描いており、もう殆ど完成していた。ロイの目から見てもその非凡さは見て取れた。

「おいっ、エミール」
 小さな声で呼びかけるとエミールは机の下からもぞもぞと這い出してきた。
「どうだった?」
 ロイが尋ねるとエミールは
(Y・E・S)
 と口を動かした。
「そうか。よし、ありがとう。ほら、これ、約束のだ」
 ロイは自分の作業分担である木工作業の木切れで作った小さな木枠を渡した。エミールはニッコリ笑うとそれを受け取り、描いていた絵を収める作業を始めた。

 ロイはいそいそと倉庫の外に出た。
 歩きながら計画を練る。計画そのものは実に単純だった。修道僧が塀の外に出るのは固く禁止されているが、この修道院で造っている葡萄酒がちょうど出荷の時期だった。修道院で働くヒラの信徒が、それを町でしか作れない金属の細工物などと交換に行くので、その荷物にこっそり隠れて塀を出るのだ。樽詰めの係の二人の修道僧はデキているので、代わってやるといえば喜んで乗ってくるだろう。

 男同士で恋愛するのは、死ぬまでこの塀に囚われた修道僧たちにとってはそれほど珍しいことではなかったし、五年近くこの修道院で暮らすロイももう気にならなくなっていた。だが、今の自分は違うと思った。

 自分はこれから家庭を持つのだ。
 ロイは誇らしい気持ちだった。いつも猫背にしている背筋もなんだか伸びている気分だ。もちろんジーンはそこまで同意したわけではないと分かっていたが、昨日、思いがけず涙を見せた女性に対し、ロイ自身も忘れかけていた女性を守る気持ちが芽生えていた。自分が守るのだ、あの美しく儚げな女性を。若い見習い修道僧は一昨日のジーンの姿を思い出す。全裸で半身に荊を纏ったその姿。白い肌を隠す褐色の髪とその奥に光る魅惑的な茶色の眼差し。つんとした乳房とその下の滑らかな曲線を描く腰、そしてその下の……
 ロイはゴクリと唾を飲み込み、あわてて首を振って雑念を払った。
 初対面は最悪だったのだ。せめてこれからは自分を抑えるのだと自分自身に言い聞かせる。

 ここから逃げるのは困難だが、それ以上に困難なのはここを出てからだ。
 都会に紛れ込めば追っ手からは逃れられるだろうが、ロンドンで暮らせるかといえば難しいのは自分でも分かっている。それでも修道院へ来てから文字の読み書きは出来るようになったし、作業分担で簡単な木工作業にも従事できるようになった。また薬草の知識などについても一般人よりはある。仕事の口は見つけ出すことはできるだろう。
 金目の物のない修道院だったが、何冊か本をクスねそれを売って当座の資金にするつもりだった。

 見習い修道僧はいそいそと食料や衣服などを集めて回る。人懐っこく人畜無害な性格のおかげで、顔が広いのだけがロイのとりえで、二日目には数日の旅には十分な量の品物があつまった。ロイはそれを酒蔵の使われていない樽の中にこっそりと隠していた。

 時間を見つけてはそそくさと立ち回るロイを、神父デイビットは自室の窓から無表情なまま見下ろしていた。

****

 ジーンは落ち着かない二日間を過ごした。
 どう考えても逃げるという選択肢が上手くいくとは思えない。ロイが頼りないということもあるし、自分もエミールも無力すぎるということもある。しかしなんといってもこんなことでディを出し抜けるはずがないと考えていた。ロイの話では出て行ってしまったということだが、急にいなくなったことも腑に落ちない。
 ゲームだ、とジーンは思った。
 ディは信仰を試すといっていた。それが鍵なのだ。

 しかしジーンにはその意味するところがよく分からない。自分に信仰が残っているかどうかも分からないのだ。何度も神の教えを裏切り、そのことを懺悔することすらいつの間にかしなくなってしまった。確かにディのいうように、心の中にはまだその残滓があるのかもしれない。しかし、それは誰の心にも根付いているもので、捨てることなどできはしまい。心をバラバラにでもできなければ……。

 心をバラバラに……。
 背筋がゾクリと寒くなる。ヤツになら出来るかもしれない。ロイもまたその道具に過ぎないのか? あるいはエミールも?

 ジーンはかぶりを振った。
 考えても仕方がない。ディはこれをゲームといった。ゲームならこちらに勝ち目があるものなのかもしれない。どの道、ディが悪魔であり、自分が非力な人間であることに変わりはないのだから、相手を怖れても始まらない。失うものがないのなら、開き直るしかない。
 この結論に達するのはもう十回を超えていた。

 誰も来ないせいもあってジーンは思考の迷宮をグルグルと巡る。
 外では鳶の鳴き声が聞こえ、春の日差しが暖かかったが、それもこの石造りの部屋では冷たい空気を温めることはなかった。

 その日の夜には再びラスコーが忍んできたが、ジーンはむしろ時間が潰れることに喜んだ。

****
 
 次の日の早朝、まだ暗いうちに、ついにロイが現れた。
「なぁ、起きてるか?」
 ドアが小さくノックされ、ドア越しにロイの声が尋ねた。
「ああ」
 ジーンが答えると閂を抜く音が聞こえ、ロイが入ってきた。手にはヒラ信徒が着る粗末な長衣と革靴がある。
「行く気があるなら、これを着てくれ」
 といって、ロイが渡した長衣をジーンは黙って着た。
 本当に一緒に逃げてくれるのか自信がなかったロイは、ほっと胸を撫で下ろした。
「エミールは?」
「下に待たせてある。早朝の祈りの時間は修道僧たちは聖堂にいる。今すぐ地下の葡萄酒倉まで行くんだ。フードをかぶって」
 ジーンは衣服を着けると、ドアをくぐった。
 もう五年はいたような気がするこの部屋をでるというのは、不思議な感覚だった。あれほど出たかったこの牢獄だが、今は本当に出ていきたいのだろうか?
 しかし既に迷っている暇はない。ジーンは階段の方を向くと、二度と振り返ることはなかった。

 ロイの言ったとおり、早朝の祈りの時間であるため、歩いている人間は殆どいない。たまに修道僧でない一般人がいたが、みな自分の職務を果たすため、周りには注意を払っていなかった。石造りの建物を通り、葡萄酒倉まで降りていくとそこにはエミールがいた。手には小さな木枠をはめた絵を持ち、不安そうな表情を浮かべていたが、ジーンの顔を見ると、ぱっと明るい表情になった。
「こっちだ」
 ロイが言った方向に横になった樽がいくつも積見上げられた荷馬車があった。そのうち最下段の二つを開けるとと、中が空になっていた。
「これに入って塀の外に出るんだ」

 ジーンはそれを見て目を細めた。確かにそういう方法でしか人目につかず出る方法はないだろう。
「樽の外へ出る時はどうするんだ?」
 ジーンがそう聞くと、ロイは口ごもった。
 なんて間抜けなヤツだ、とジーンは思ったが、言ったところで仕方がないことだった。この見習い修道僧にそこまで期待するほうが無理だ。しかし、このままではたとえ見つからずに潜むことができても、御者に気付かれずに外に出ることはできまい。
「武器がいるな」
 ジーンがそう言うとロイはギョッとした。
「ナイフでも何でもいい、何か武器がないと御者に見つかった場合にやっかいだ」
「殺しちまうのかい?」
 ロイが恐る恐る尋ねる。
「ばかな。そこまでするつもりはない」
 ロイが怯えてしまうのを嫌ってそう答えたが、確証はなかった。
「わかった。台所からとってくる。樽に隠れていてくれ」
 見習い修道僧はそう言うとあわてて倉庫から出て行った。

 ジーンは落ち着かなげにロイとジーンの会話の行方を見守っていたエミールに向き直った。
「これからここを出るんだ。いいな」
 ジーンの真剣な声にエミールは神妙な面持ちで頷いた。
 
 改めて調べてみると、樽には目立たないようにいくつかの空気穴があけてあり、蓋も内側から閉められるように、細工されている。ジーンは少しロイの細やかさを少し見直した。エミールの小さな軽い体を抱きながら、横向きの樽に滑り込むと、ムッとする葡萄酒の匂いに頭がくらくらする。空気穴があっても、とても長時間いられそうにはなかった。ジーンは内側から蓋を閉じると、なんとかエミールの鼻先が空気穴の一つに近づくように体をよじった。エミールと目が合うとアルコール分が目に沁みるのか涙目の辛そうな顔をして、ぎゅっとジーンを抱きしめてきた。ジーンもぎゅっと抱き返し、そして息を潜めた。

 その時、コツコツと足音が聞こえて来た。落ち着いた歩調は明らかにロイではなかった。
 その足音は荷馬車のそばまで来ると止まった。ぴくりとエミールが硬直したのがジーンにも伝わった。

「これは私の独り言です。私はあなたと会話することは出来ないが、独り言を言うのは勝手ですから」
 静かな声は長い間会っていなかったが、忘れられない声、神父デイビットのものだった。
 ジーンはハッと息を呑んだ。ロイが失敗したのかと思った。

「ゲームは続いています」
 神父は静かな声でそう切り出した。覚悟していたとはいえ、そう他人に宣告されると改めて不安と恐怖が燃え上がる炎のようにジーンの心の中に広がった。
「あなたの信仰が問われる日は必ず来ます。だが、怖れることはありません、迷える子よ」
 デイビットは淡々と続けた。
「ディは確かに悪魔と呼べるかもしれませんが、あの男も全能ではありません。彼もかつては人間でしたが、あまりにも信仰にのめり込み、その果てに背徳を食う化け物になりました。確かに人知を超えた力をふるうおぞましい存在ではありますが、しかし彼らもまた束縛されている者なのです」

 ジーンは樽の中の暗闇をにらみつけながら、神父の真意を探ろうとしていた。
「愛情から快楽、信仰から背徳、希望から絶望……。彼らは人間では居られないほどの感情を抱き、人外に変貌してしまった存在です。
 彼らがなぜこの世に生まれ彷徨っているのか、われわれには知る術がありません。しかし彼らは運命の力により暗闇に繋ぎとめられ、その中で少しでも自由を得ようと足掻いています。あなたや、そして私のように、狭間の領域に身を置くものを使って現世と繋がろうと群がってきます」

 そこで神父は少し間をおいた。
「しかし怖れることはありませんよ、ジーン」
 デイビットは少し打ち解けた口調で言った。
「あなたの歩む道がどれほど暗闇に充ちていても、あなたが試練に負けたと思われることがあっても、あなたの強い心は最後には彼を打ち破る力となるでしょう。忘れないで下さい。信仰は目的ではなく神への感謝の手段に過ぎません。あなたがどれほど神を見捨てたと思っても、神は決してあなたを見捨てないということを」

 それだけを静かに言い終えると、デイビットは再び歩き始めたが、数歩のところで立ち止まってこう付け加えた。
「ああ、ところで、御者の二人は気はいいが、愚鈍な者たちです。一時間ほど行ったところで木陰でサイコロ遊びに興じる癖があるので、その時まで待ちなさい。彼らは葡萄酒がなくなっても、失敗を他人に言うのを怖れて口を閉ざしてくれるでしょう」
 そういい残すと、そのまま去っていった。

 神父の足音が遠ざかると、すぐにパタパタと別の足音が近づいてきた。
 コンコンとノックしてきたので蓋を内側から開けると、ロイが戻ってきていた。鞘に納まったナイフを渡しながら言った。
「足音が聞こえたけど、気付かれなかったか?」

 ロイの質問に、ジーンはちょっと躊躇ってから答えた。
「ああ、大丈夫だ。それより、降りるタイミングは私が決めていいか?」
 ジーンがそう言うとロイは少し不審そうにジーンを見たが、すぐに肩を竦めて肯定の意を示した。そのまますぐに隣の樽に潜り込む。

 ジーンとエミールは新鮮な空気に名残惜しそうに大きく空気を吸うと、再び内側から蓋を閉めた。

****

 それからの御者が来て荷馬車を運び出す数時間はまさに悪夢だった。
 樽の中で体を丸めながら、体の節々が痛みに耐え、葡萄酒の匂いを我慢する。エミールは酔ったのか苦しそうに呼吸し、馬車が揺れるごとに小さくうめき声を上げた。ジーンも呼吸が苦しく、小さな空気穴の一つに吸い付くようにしてクラクラする頭を抱えていた。

 神父のいったように出発してから一時間ほどで馬車が止まり、ジーンは内側から蓋を開けて、あたりの様子を伺った。
ちょうど御者達は荷馬車の反対側にいるらしく、ワイワイと賭け事の準備を始めている。
 ジーンは素早くエミールを外に出すと、自分も樽から滑り出た。小さく隣の樽をノックすると、ロイも顔を出す。顔面は蒼白で頭が痛むのかこめかみを押さえている。ロイも静かに馬車を下りると、樽に一緒に入っていた小さな荷物袋を二つ取り出して、一つをジーンに渡した。ジーンはなるべく音がしないように、そっと樽に蓋をし、三人はそのまま近くの藪の裏側に回りこむと一目散に丘を駆け下りた。

 十分はなれたところまできて、やっと一呼吸がつけた。
 体からアルコールが抜けるまで三人は暫く草原に横たわっていた。

「外だ……」
 改めてロイが太陽を見上げた。この見習い修道僧が石壁に囲まれてない青空を見るのは久しくないことだった。その時間はジーンが囚われていた時間よりも遥かに長い。その感慨はジーンも同じだった。あの日、異端審問官につかまったあの日は何日前のことだっただろう。ジーンは春の穏やかな日差しを受け、生き返った気分だった。
 エミールもまた眩しそうに太陽を見上げていた。この少年はいつから囚われていたのだろうか?

 エミールが空を見上げると、喉の痛々しい真一文字の傷が見えた。




◆ Walk(旅路)

 旅路は順調だった。ロイの持ち出した地図はろくなモノではなかったが、それでもかろうじで町の位置関係だけはつかめた。ロンドンまでは一週間程だろうか。

「なぁ、あんた……」
「ジーンだ」
「えっ?」
「ジーンと呼んでくれ」
 ジーンがそう言うと、ロイは咳払いをして改まって言った。
「ジーン……さん……」

「ただのジーンでいい」
 ジーンが微笑むのを見て、ロイも笑った。
「ジーン、本当にロンドンへいってくれるのかい? あんたにも故郷があるんだろう?」
 そう尋ねられてジーンは地面に視線を落とした。

 怪しげな占い師の予言を信じてシーモア家に捨てられた自分を、成人まで育ててくれたフレドリック家のことを思い出す。山間にたてられた当主ハーレイの隠居用の屋敷は粗末で、その暮らしぶりは質素だったが、そこですごした日々はジーンにとって最も幸福な時間だった。本当なら今すぐにでも帰りたかったが、自分が帰っても迷惑なだけだろう。自分が異端審問官に囚われてシーモア家がどうなったのかは分からないが、自分がフレドリック家に戻れば大きな迷惑がかかることは間違いない。一緒に出征した養父ハーレイの弟ジョーンズ・フレドリックがあの日の戦いを生き抜いたかどうか気になるが、のこのこ出て行ってフレドリック家に迷惑をかけたくなかった。
 シーモア家に行くのは論外だ。そもそもアラン・シーモアが死んだことになっているのか、修道院に入ったことになっているのかすら分からなかった。

「いいんだ、私にはもう故郷はない。それより何故そんなことを訊く? 私を妻にするんじゃなかったのか、ロイ?」
 挑発するようにそう言うと、ロイは真っ赤になった。
 一緒に歩いていたエミールもそれを聞いて目を丸くしてジーンを見た。

「それでエミール、お前が私の息子だ。少なくともお前を故郷に返してやるまではだが」
 そう言うとエミールは天使もこれほどではないかと言うほどの愛らしい笑みを浮かべた。
「どちらかというと娘かな」
 そう言うと、エミールはしかめっ面をしてジーンを軽く蹴った。

 ジーンはその姿を見て笑った。
 ロイもエミールも笑った。
 ジーンが声を出して笑ったのはいつぶりだったろうか。

****

「すまない。だめだった」
 日暮れ前に小さな町に着いたが、ジーンたちには路銀がなかった。ロイが一人で町に入り、修道院から盗んだ書物を金に換えようとしたが、小さな町では買い手がつきそうになかった。また、万が一、修道院から追っ手が来ることを考えると、下手に物を売って足がついてしまうのも危惧された。
「まあいいさ。野宿しよう」
 野盗や狼に襲われる危険を考えると町で泊まるほうがいいのは間違いなかったが、背に腹はかえられない。ジーンは軍隊生活でも野宿に慣れていたし、フレドリック家での狩猟趣味でも何度か遠出して野宿の経験があった。
 あとの二人は落ち着かなげにお互いを見合わせたが、文句を言わずにジーンに従った。
 ロイとエミールに水汲みと寝床作りをさせている間に、ジーンは石を革に包んだ簡単な投石器を作り、イタチをしとめた。

 野生動物に襲われないように、しかし夜盗などをおびき寄せないように慎重に小さな火をおこしてロイとジーンが交代して夜の見張り役をすることになった。

 エミールは毛布に包まって、ジーンの傍に寄り添って寝ていた。
 パチパチと小さな音を立てて燃える焚き火をジーンはじっと見ていた。相変わらず何もかもが速く起きすぎて現実味がなかった。
「あんたはすごいな……」
 ロイがぽつりと言った。焚き火に木をくべながらロイが続けた。
「あんたにはとてもかなわないよ」
「狩りのことか? 運がよかったんだ」
 ジーンが答えるとロイは首をふった。
「いや、狩りのことだけじゃない。なんについてもさ」
 それは正直な気持ちだった。あの日の夜は弱弱しいと思ったジーンだったが、実際に外に出てみるとその行動力と天性の指導力にロイは圧倒されるばかりだった。守ってやるどころか、自分が守ってもらっているような惨めな気分だった。

「そんなことはないさ、あの樽の細工はよかったぞ、ロイ」
 ジーンがそう言ってやるとロイは照れくさそうに頭を掻いた。
「そうかな? 無事出れてよかったよ。今頃、騒ぎになってるだろうな」

 もちろんなっているだろう、とジーンは思った。
 ラスコーのジーンとエミールへの執着は尋常ではない。しかし追っ手がかかるだろうかどうかについては五分五分だと思った。ヤツは実力者ではあったが修道僧たちはヤツの部下というわけでもない。人足たちも普段の仕事を抱えている以上、そうそう使いに出すこともあるまい。そもそも子供や女など、捕まえたとしても修道院へつれて帰ることも出来ないだろう。
 強いて言えばまた異端審問官たちが出てくるかもしれなかったが、連絡が行くまでに十分逃げることが出来るだろう。

「お前は故郷に帰らなくていいのか?」
 ジーンは話題を変えてそう尋ねた。
「ああ、もともと貧乏な村だったからな。いまさらおれが帰ったところで食い扶持なんてありゃしないさ」
「そうか」
 ジーンはそれだけ答えると、手に持った小枝をぺキッとへし折り、火にくべた。
「あの……あんたの体さ……」
 そこまで言いかけてロイが口を閉ざした。
「今は話したくないな……」
 傷のない体、伸びた頭髪、元に戻った声、そして今も皮膚を覆う荊の影。自分の身に起きたあまりに劇的な変化が気にならないはずがない。しかし、とてもそれを全て説明する気にはなれなかった。自分でも実際のところ理解できているのかどうか。

 気まずい沈黙が訪れた。
 ロイはその時になって初めてジーンとの話題が何もないことを認識した。
 そもそもまだ三日しか会っていない。その内、一日は自分は陵辱者で泣き叫ぶジーンに散々暴力を振るったのだ。

 自分のした行為を思い出し、元修道僧は俯いた。何度も何度も助けを求めるジーンを男数人がかりで夢中で犯した自分。今、こうしてジーンと向かい合い、そうされていたのがこんな普通の感情を持った人間だったと改めて認識して、その残酷さに打ちのめされずにはいられなかった。
 ロイはいつの間にか小さく嗚咽を漏らしていた。

 傍で見ていたジーンには若者の心が手に取るように分かった。
「……もういいんだ」
 ジーンがそう言うと、ロイの嗚咽はますます大きくなった。
「私は家名を守るため、神の教えを破り、男装して戦場に出た。その報いをうけたのさ」
 そして、その後またディにさせられるままに何度も神の教えを破り、繰り返し十字架を汚した。
 報いはまだまだ続くのだろうかとジーンは疑問に思わずにはいられなかった。

 嗚咽するロイの隣に移動し、嗚咽する若者の肩を抱いた。背の高いはずのロイが背中を丸めて後悔している姿は哀れみを誘った。焚き火の光が青年の金髪に透けて美しく輝いていた。

 月は満月だが、春の靄がかかり輪郭はぼやけて見える。黒々とあたりに広がる雑木林は飛び立つ蝙蝠とフクロウの鳴き声、そして焚き火の枝の爆ぜる音以外は何も聞こえなかった。
 まるでこの世界にたった三人しか居ない様な気がする。
 その感覚は嫌いではなかった。

****

 次の二日はシトシトと雨が降った。
 ジーンとロイにとっては慣れた雨だったが、大陸から来たエミールは酷く嫌がった。顔にかかる雨を嫌ってしきりに手で拭うが、すぐにじっとりと濡れてしまう。
 春の盛りで気温は低くないとはいえ、子供には厳しい道のりだった。

 三人は無言で歩き続け、夜になると野宿した。乾いた場所を探せずに、なんとか岩の木陰や下木の密集したところに三人で身を寄せ合って休む。

 それ以降はまた天気は回復したが、疲労は蓄積する一方だった。
 三人がブレントウッドという少し大きい町に着いたのは、いよいよ疲労が激しくなった時だった。やっと、書物の一部をわずかな金に買えて、巡礼者用の安い宿に泊まることが出来ると、エミールは体調を崩し、二日ほど動けなくなってしまった。ジーンが看病をする間、ロイは町に仕事がないか捜してみたが、なかなか見つからなかった。ただ、やはりヘンリー五世の婚姻とそれに伴ってフランス国王の座を掌握したことで、ロンドンは空前のお祭り騒ぎとなっていることがわかり、二人は大きな希望を持った。
 二日目の夜、宿の女将がやってきた。エミールを甲斐甲斐しく看病するジーンに同情し、色々と便宜をはかってくれた。

「ねえ、あんた」
「なんでしょうか?」
 女将は三人が親子だと思っている。ジーンもそれに乗って女性らしい口調を心がけていた。
「あんたたち、まさか追われてないよね?」
 出し抜けにそう聞かれ、ジーンは心臓が止まった気がしたが、鉄壁の精神力で驚きが顔に出る前に押さえつけた。ロイがこの場に居なくてよかったと思った。
「まさか、そんな。どうしてそんなこと聞くんです?」
「いやさ、あたしゃ、あんたたちのこと信じてるけどさ。口の利けない子供を捜してるヤツが居るらしくってさ」
 ジーンはエミールが口が利けない病気になり、その治癒を祈って巡礼していると偽っていた。
「心当たりがないですね。私達はずっと巡礼してましたし」
「そうだろうねぇ。まぁ、親子って事じゃなかったしね。ああ、これその子にやっとくれ。差し入れだよ」
 女将は野菜と雉の薄いスープを置いて、部屋を出て行った。

 ジーンはふぅとため息をついた。
 修道院は自分がロイと行動を共にしていると確信がもてなかったらしい。だから子供という表現だったのだろう。親子のフリをしていて助かった。しかし、追っ手がここまで来ているというのは悪い知らせだった。もっと時間がかかるだろう、あるいは来ないかもしれないと楽観していたことを後悔する。一刻も早く町を出なくてはならない。幸いエミールの体調は殆ど回復していた。
 三人は夜のうちにこっそり宿を出て、その足で町を出た。




◆ Lover(逢瀬)

 次の日、三人は街道を大きく迂回し、町を避けて野営することにした。
 三人はそのころになると本当の親子のように息があった。頼りなかったロイも手際よく火を起こし野営の準備するし、エミールも黙っていても薪を集め、水を汲む。エミールが口を利けないこともあり、会話が弾むということはなかったがそれでもお互いに信頼関係のようなものができつつあった。
 最初はぎこちなかった偽装した親子関係は、町での滞在を経てかなり定着していた。ジーンがなるべく女言葉を使い、ロイが父親らしく振舞っているうちに少しずつ様になってきた。たまにすれ違う人間にも不審な目で見られることはなくなった。

 特にロイの変貌にはジーンもエミールも驚いていた。修道僧をしていたころとはまず目つきが違った。エミールにも紳士的に接するようになり、肉体関係があったなんてとても信じられないだろう。元来の気遣いに加え、単純に女子供を守ってやるという気概によるものなのだろうが、案外それが最も人間には効果的なのかもしれない。
 そんなロイをジーンは頼もしいと思うようになっていた。同時に女言葉を使い、エミールの世話を一生懸命しているとなんだか自分が弱くなっていくような気がした。

「どうかした、ジーン」
 ロイが動きが止まっているジーンを不審に思い声をかけた。最初は照れていたその呼び方も、様になりつつある。
「なんでもない」
 ジーンは肩をすくめて、夜空を見上げた。雲が多くて星が見えず、かろうじで雲に透けて月が見えた。
 エミールは町で買った鴨の肉をたらふく食べて、ご機嫌で眠っていた。

「もうすぐロンドンだな」
 ロイが言った。二日もしないうちにロンドンにつけるところまでやっと来ていた。
「そうだな……いや、そうね」
 思わず男言葉がでたのを言い直す。
 そこでロイはジーンの傍に来て、向き直った。
「ジーン、ロンドンについたらどうするつもりだ?」
 ロイのいつになく真剣な声にジーンは顔を上げた。
「何故そんなことの訊くの?」
 ジーンが少しぎこちない女言葉で聞き返すと、ロイはそこで一旦唾を飲み込んだ。
「なぁ、ずっとロンドンで一緒に暮らしてくれないか」
 ロイは改めてそう言った。
 ジーンは再び地面に目を落として尋ねた。
「……それは、罪滅ぼし?」

「違う、違うよ。あんたは美人だし賢いヒトだ。おれはあんたと別れたら一生あんたみたいな人と会うことはないと思ってるんだ。だから、だからさ……」
 そんなことを言われるだろうと思っていた。そしてその返事は決めてあった。
「いいよ」
 出し抜けにジーンが言った。ロイは驚きに目を見開いた。
「本当かい? どうして?」
 ロイが真剣に尋ねるので、ジーンは笑った。
「どうしてって、可笑しな質問ね」
「で、でもさ。まだお互いあまり知らないわけだし……」
 
「お前は、いや、アナタは一番、酷い状態の私を助けてくれた。それだけで十分。私には神に祝福されて結婚する資格はけど、一緒に暮らすだけでいいなら……」
 ジーンは立ち上がって、ロイのほうに手を差し出した。
「まだ礼を言ってなかった、ね……ありがとう」
 ロイも立ち上がっておずおずとその手を取った。
「礼なんてそんな……」
 ジーンは口には出さなかったが、ロイと家族としてロンドンに潜り込んだほうが後々楽だという打算もないわけではなかった。
 女一人子一人で生きていく方法も全くないわけではないのだろうが、とても楽なものとはなりそうもない。一方でロイと暮らすのもいいと本気で思っていた。紛いなりにも貴族であったジーンにとって、平民の生活というものは不安で一杯だったが、思い起こしてみれば、貴族の生活でも成人してからはいい思い出など殆どなかった。

 ロイはおずおずとジーンの腰に手を伸ばし、そっと抱き寄せた。
 ジーンは頭一つ背の高いロイをじっと見つめ、軽く目を閉じた。
 そして、どちらからともなくキスをした。

(これが……キス……)
 ジーンは驚きと共にそう思った。ディと何回もしたものとは全く違った。エミールとするキスも親愛の情に溢れたものではあったが、これとは別物だった。
 ディとの口づけは単なる儀式に過ぎなかった。意識を集中し、体の感覚を一つずつ肉体に明け渡して、自分の心を麻痺させていく過程の一つにしか過ぎなかった。しかし、今は違う。こうして唇を重ねているだけで、自分を覆う心の殻がはらはらとめくれ落ちていく。意識は急速に狭まっていき、心臓の鼓動と共に感情が極度に高まる。

 悲しいほどの胸の痛みの中でジーンは気付いた。

 自分はこの男を必要としている。

 この男にとっては自分を救い出したのは単なる気の迷いだったかもしれない。あるいはただ男に犯されるしかないオンナを哀れんだだけかもしれない。自分のした乱暴の良心の呵責を避けただけだったのかもしれない。それとも、ただ単に自分が修道院の生活に飽きて、逃げ出すための道連れに選んだだけなのかもしれない。
 自分だって単に弱気になっていたときに、優しい言葉を掛けられて冷静な判断が出来ないのかもしれない。一緒に逃亡生活をして情が移っただけなのかもしれない。

 否定的な考えは山ほどある。
 しかし、それでも今の自分の感情を否定することは出来なかった。この男を私は必要としている。この男に必要とされることに喜びを感じている。

(これが女のサガか……)
 それがその時、言葉になったジーンの最後の気持ちだった。

 ジーンのキスが徐々に熱っぽくなっていくのに、女性経験の少ないロイもさすがに気付いた。
 ジーンの唾が二人の唇の間に溢れすべりをよくするなか、ジーンは唇同士を密着させてぬるぬると刺激する。ジンジンと唇が痺れ、それだけでロイは自分が勃起するのを感じた。ジーンは強くロイを抱きしめ、その荒い鼻息がロイの鼻先をくすぐった。

 クチュクチュという唇をこすり合わせる音と焚き火のパチパチと爆ぜる音以外には音のない静寂の時間。
 唇を外した時には二人の息はすでに上がっていた。

「いいのか……?」
 潤みきったジーンの目を見てロイはそのまま理性を失いそうだったが、かろうじでそう尋ねた。
「……抱いて」
 ジーンはそれだけいうと、再び唇を重ねた。

 二人は口づけしたままもどかしげに着ていた巡礼者の長衣を脱ぎ捨て、ロイは地面に広げた衣類の上にジーンを押し倒した。押し倒される一瞬、ジーンは自分の体に巻きついたままの影の荊のツタを見て、目を逸らした。ロイはその仕草に気付いたが、気付かなかった振りをしてジーンに覆いかぶさった。

 修道院を出てからずっと封じられていた、悪魔に作られた肉体が目覚めた。
 ジーンの魂は肉体の奴隷と化し、あらゆる思考、全ての感覚が肉欲に冒される。旅に疲れた男の強い体臭を嗅ぐだけで目の奥に火花が散り、膣の奥底、女性の中心から湧き上がる重い熱の塊が腰骨を痺れさせる。男の胸を覆う金髪の薄い体毛に指を這わせ、その滑らかな肌に頬を寄せるとその心臓の鼓動を感じた。

「触って……」
 ジーンは掠れた声でそう囁くと、ロイの手を取り、自分の股間に導いた。すでに劣情の証である夥しい量の液が男の手をぬらした。ロイが燃えるように熱い膣の入り口に指を当て、こねる様にもむとジーンは熱い吐息を漏らした。

「アッ……アッ……」
 ジーンの心は既に石で出来た囚われ部屋の中にいるころに戻っていた。全てを捨てて快楽に逃げ込む毎日。服を着ることも許されず、来る日も来る日も悪魔に犯され、ケモノになりきっていた自分。解放された肉体は、ロイのぎこちない愛撫すら極上の快楽に換え、魂を蝕んでいく。
 しかし、ディとの情交とは全く違うことが一つあった。
 いつもと違い魂が蝕まれる恐怖が、全くない。むしろ、この男との行為に魂を捧げることに悦びすら感じる。

 ジーンは自分で、自分の乳房を強く揉みながら、もう一方の腕で男の体に力いっぱい抱きつき、ロイの手に女性を押し付けるように腰を振り始めた。
 ロイは普段のジーンの静かな態度とのギャップに激しく興奮すると共に、感動すらしていた。愛液濡れそぼる手でジーンの膣とその上にある肉の突起をいじりながら、ジーンの体を押し戻し、黒い荊の巻きついた乳房に吸い付く。舌に旅の汗のピリピリした味を感じながら、それを吸いながら舐めてとっていく。
「ウゥー、ウゥー」
 ロイの舌が乳首に達したところで、ジーンは唸り声を上げた。それだけで涙が出るほどの快感だった。舐められていない方の乳首まで、かちかちに起立し、無意識に自分の指で挟んで押しつぶす。両乳房と女性器の刺激がジーンの背骨を灼き、体が震えた。

 その恍惚とした表情にロイは興奮を抑えきれず、起立したペニスをジーンの体に押し付けた。べっとりとぬれたジーンの陰毛が、ロイの若いピンク色のペニスにまとわりつく。ジーンの細い指がその固い肉の塊に纏わりついた。ぴくりとペニスが震えた。

「熱いわ……アナタの……」
 ジーンが熱っぽく囁く。そういう感覚を口に出すことはディに執拗に強制されて身についたものだったが、発情した元女騎士にそんなことを思い出す余裕はなかった。自分の陰毛をぬらす愛液を手につけて、心地よい熱を感じながら自分に押し付けられたペニスの表面を撫で回す。熟練の手わざが経験の浅い若者のペニスに耐え切れないほどの愉悦を送り込んだ。

「ジーン、愛してる」
 自然とロイの口からそんな言葉が出た。ジーンに残った一欠けらの理性はそんな男の睦言を信じるはずもなかったが、体はそれに反応していた。その言葉を聞いただけで、胸の鼓動が一段と強まった。
「ロイ、ああ、ロイ……ロイ……」
 泣きそうになりながら男の名を呼ぶ。ペニスを指で愛撫しながらそのまま自分の性器へと導く。若者の固い男性器はそのままつるりと女の胎内に飲み込まれた。
「くっ……くぅ……」
 刺し貫かれた瞬間、久しぶりの男に抱かれる期待に思わず声が出る。

 しかしジーンの肉体はその時、予想したほどの快感が得られないことに不満を感じた。
 刹那の間、ジーンの意識が戻り、それがディとの結合ほどの快感を産んでいないことに気付かされた。ディの呪いの言葉が脳裏に蘇る。
『この味を知ればお前がこれからの人生、どんな男に抱かれても満足することはない。一生、男から男へと彷徨うのさ』
 背筋が寒くなり、体を満たしていた快楽が一気に後退した。

 一方、ロイはその内部の感触にほぉーと息を漏らした。
 巧みな愛撫で快楽を与えられていたペニスが、柔らかい肉の隙間に差し込まれ、温かい液がネッチョリと音を立ててペニスを飲み込む。下半身全体がまるで性器になったような熱に包まれ、思わずジーンの中でペニスがピクピクと痙攣した。涙腺が緩み、視界がぼやける。その快感は力ずくでジーンを犯したときとは比べるべくもなかった。ロイにはとてもジーンの逡巡に気付く余裕はなかった。

 ジーンはロイの薄緑の瞳が快楽に見開かれ、その瞳孔までが開ききるのを見た。
 咄嗟にディに何回も教えられたように、精神を集中し体のそこかしこに残る快楽の火に意識を委ね、去り行こうとする快感を肉体につなぎ止めた。膣の中の熱い肉の塊の感覚に意識を没頭させ、そこから湧き上がる炎を強く意識する。ロイの唇に自分の唇を押し付け、再びこの男との愛情を確認しようとした。

 ロイは最初の波がやっと収まったところで、動こうとする。それをジーンは押しとどめた。
「まだよ、ロイ」
 そして再びキスする。ジーンの膣がピクリとロイのペニスを締め付け、それにあわせてロイのペニスがピクリと動く。何度も何度もそんな二人の無意識のやり取りが繰り返され、細波のように快感が二人の体を満たしていった。どちらともなく我慢しきれずもじもじと体を動かし、いつしかそれは二人の大きな動きとなった。

 ジーンの魂は再び肉体の支配に堕し、その心は男に捧げられることに悦んで従う。
「あぁ、あぁ、あぁ、くうぅう!!!」
 ロイが声を上げて、一気に射精した。下半身が間欠的に激しく痙攣する。
 ジーンは自分の膣の中を男の精液が熱く満たしていくのを感じながらも、腰の動きをやめない。

「もっと、もっとよ」
 男の脳髄まで溶かすような妖艶な声でそう囁くと、ロイの耳朶に舌を這わせる。
 ペニスは萎れる暇もなく精液が吸いだされる快感にすぐに固さをとりもどした。射精で敏感になったペニスは、くすぐったいようなそれでいて続けて欲しい矛盾する衝動で若い男を翻弄する。ロイの透明な緑色の瞳が快感に濁っていくのを見ながら、ジーンは自分でももう止めることが出来ない波に身を任せていた。

 ディとの性交で嫌というほど知らされていた自分の急所を、ロイのペニスの亀頭の段差で引っ掛けるように擦り付けると、馴染みの癖になりそうな尿意を催した。
「ジーン、ジーーン、ああ」
 ロイが快感の熱にうなされる様に名を呼ぶ。
「まだよ……まだ……」
「うぅっ!!」
 ロイのペニスが再び大きく痙攣し、二度目の射精が始まる。一度目の精液が逆流して、下になっているジーンの肛門までを濡らす。

 しかし、まだジーンは止めることが出来なかった。悪魔との濃厚な行為に慣らされた女の体はとてもこんなことでは満足できない。ジーンはペニスを胎内に咥え込んだまま、男と体位を入れ替え上になった。ロイは下に敷いていた衣服から外に転げ出て、背中の下でペキペキと地面に落ちていた小枝が押しつぶされて折れたが、ジーンには気にする余裕はなかった。

 ロイのペニスが固さを失おうとしているのを感じて、ジーンの肉体は焦燥感を感じていた。ジーンは何も考えられずにロイの右手の人差し指を握って、自分の肛門に持っていった。そして繋がったままの女性器の上にある精液まみれの肛門にねじ込もうとする。
 ロイはその行為に驚き、一瞬躊躇した。
「ロイ、お願いっ!」
 ジーンの声にロイは躊躇いながらもジーンの肛門に指を差し込んだ。
「あああぁぁぁ!!」
 ジーンは背中をそらして、猛然と腰を振り始めた。肛門から外部から押し開かれる心細い快感は女性器の奥が破裂するような快感と一体化して脳髄を灼きつくす。涙腺が緩み視界がぼやけ、その視界が真っ白な世界へと広がっていく。

「来るわっ、来る、来る!!!」

 そう言うと獣の様な声を上げて絶頂を迎えた。ロイの上で全身を痙攣させると、ジュワっと熱い液体が二人の結合部を濡らし、そしてジーンはがっくりとロイに倒れこんだ。ロイはそのあまりに激しい絶頂に、受けた衝撃を隠せなかった。

****

「驚いた……?」
 二人はその後そのまま抱き合ったまま、興奮が冷めるまで抱き合っていた。興奮が冷めるとジーンは自分のした行為に恥ずかしさを感じていた。悪魔との性交渉に慣らされた体は、ロイへの気持ちとは別なところで荒れ狂った。それどころか、途中からロイがついて来れないのに気付きながら、ロイに自分の全てを見せてやりたいという破壊衝動に身を任せ、肉体の命じるままに快楽を貪ったのだった。

 そんなジーンの気まずさを感じ取ったのかロイはその質問には答えなかった。
「すごく……その……よかったよ」
 恥ずかしそうにそういうとロイは照れたように笑った。
 ジーンは絶頂の余韻に浸る気だるい体を男に預けながら、筋肉質の体が、頬の下で軽く振動するのを心地よく感じた。
 体の奥底では悪魔との性交にくらべてまだ快楽がたりないことを自覚せずにはいられなかったが、それでも今感じている安息は今まで得られなかったものだった。

(神よ……)
 心の中に幸福感が満ち、そしてふと心にそんな言葉が浮かんだ。
 まだ神に感謝する気持ちがあることに、自分自身が驚いた。

 同時に、ディの言葉が脳裏をよぎった。
『信仰ってのはしぶといもんで、殺しても殺しても鼠のようにどこからか沸いて出てくる。一度、捨てたつもりになったって、すぐにまた拾った気になるもんだ』
 まだ、何も終わっていないような気がして、ジーンはゾッとした。

「ジーン、おい、ジーン」
 その不安に呼応するように、ロイが慌てた声で言った。
「エミールはどこへ行った……?」


****

 ジーンはロイの声で慌てて飛び起きた。エミールがいない。
 裸のままエミールの寝床のあった場所に駆け寄り、毛布に手を当てると、すでにかなり冷たかった。いつの間にか焚き火の火も消えかけている。枕元においてあった小さな木枠にはいっていた絵もなかった。ジーンとエミール、二人の小さな肖像画をエミールは片時も手放したことはなかった。

 即座にジーンは状況を理解し、後悔の念に押しつぶされた。

「捜してくる!! ロイは待っててくれ」
 ジーンは地面に落ちた長衣を着ながら、既に走り出していた。

 月が出ているとはいえ、林の中は暗い。
「エミール!! エミール!!!」
 大声で呼びながら必死でその痕跡がないか暗闇に目を凝らす。

 なんて愚かな事をしたのかと、ジーンは自分の軽率さを呪った。
 エミールが何の抵抗もせずにこの逃亡についてきたのは、自分を信じてのことだと知っていたのに。フランスから連れてこられた少年が、何の保障もなしにイングランドを旅するのは不安に違いなかったが、そんなことは表情にかけらも出さずにエミールはついて来てくれたのだ。それは修道院で同じ立場にあり、同じ境遇を共有した者同士の心の繋がりでありであったはずだ。エミールの全面の信頼だけが、少年をここに連れてきていたのだ。
 それを自分は完全に忘れ、ロイの恋人になりきっていた。
 甘い言葉を囁きあい、抱き合ったのだ。本当の夫婦のように。
 声を奪われ、性器を切り取られ、男達の慰み者にされてきた少年にとって、それがどれほど残酷なことか考えることもなく。

 あれほどあられもない声を上げて傍にいて起きないはずがない。
 エミールは周りに気を使う余裕もなく性交に没頭する自分達を見て、いたたまれなくなったに違いない。

「エミール!! エミールーー!!
 ジーンは必死に捜した。
 暗い林にジーンの絶叫に近い声が木霊していた。

****

 どれほど捜しただろうか。

 ジーンは細い川原に出たところで、視界の隅にうずくまる人影を見た。最初は岩かと思ったが、近づくとその金色の髪が満月の光を受けて、美しく煌いていた。
「……エミール?」
 ジーンがそう聞くと、人影はビクリと震えてこちらを見た。
 ジーンが駆け寄ると、果たしてそれはエミールに違いなかった。

 エミールの美しい目は赤く泣きはらし、その頬には旅で積った埃にはっきりと涙の痕が残っていた。
「エミール!!」
 ジーンは安堵とともに叫んだ。自然と涙が溢れた。
 ジーンがエミールを抱きしめると、エミールも強く抱き返してきた。咄嗟に走り出したものの、帰り道に迷って心細かったのだろう。エミールも声なく泣き始めた。
「すまない、すまなかった、エミール」
 ジーンがそう言うと、ジーンの胸元に顔をうずめながらもエミールは健気に首を振った。
「私はエミールが好きだ。エミールを一番大事に思っている。だからもう逃げないでくれ」
 エミールは一しきり泣いた後、顔を上げた。

「もう、あんなことはしない。だから許してくれ」
 ジーンがそう言うとエミールはゆっくりと口を動かした。
(L・O・V・E R・O・Y?)
 それが質問であることを示すようにちょっと首を傾げてみせる。
 ジーンは言葉につまったが、正直に答えた。
「そうだな……でも、あんなことは……」
 そういいかけるとエミールはそれを遮るように、手でジーンの口を押さえた。
(Y・O・U M・A・Y)
 ジーンが驚いた顔をすると、さらに続けた。
(S・O・M・E・T・I・M・E・S)
 そして最後にこう付け加えた。
(W・I・T・H M・E)

「ばかだな……」
 ジーンはそう言うとエミールを再び抱きしめた。エミールが無事でいてくれてよかったという安堵で改めて大きなため息をついた。

 その時……

「おい、こっちだ、こっちから女の声がしたぞ!!」
 その見知らぬ男の声にジーンの全身の血が凍りついた。
 ガサガサと言う音と共に大きな声が、二人に近寄って来ていた。




◆ Blood(血)

 ジーンは腕の中でエミールがビクリと硬直するのを感じた。
 ジーンは素早くあたりを見回し、隠れるところを捜すが、開けた川原であるため隠れる場所は殆どない。
 エミールを抱え、少しだけ草が密集している茂みに隠れるのが精一杯だった。

 耳を澄ますとまだ少し距離はあるものの、確実にこちらに迫ってくる。
 川を渡ろうかとも考えたが、深さが分からないし、かえって手間取っているうちに追いつかれる可能性もあった。

「確かに女の声がしたんだ」
「そいつぁわかってる。久しぶりの女だ。絶対逃がすなよ」

 男達が近づいてくると、ジャラジャラという戦場で聞きなれた金属音がする。数は三人。鎖帷子で武装した男達だった。訛りからしてかなり北部の人間だ。ジーンはフランス帰りの傭兵だろうと思った。傭兵といえば聞こえはいいが、普段は山賊をしており、戦争が起きると金を稼ぎに来るようなタチの悪い山犬たちだ。大方、フランスで小銭を稼いだものの、博打か女に浪費して、元の山賊家業にもどったのだろう。
 どうしようもない下賎な人種だが、修道院の追っ手などよりよっぽどたちが悪かった。

 反射的に武器になるものを捜して、落ちていた木の枝を手にするが、戦いは絶望的だった。
 どれほどの剣の達人でも、鎧を身につけた人間二人を相手にするのは危険だ。どんなに相手が弱くても丸腰で三人相手は無謀すぎた。
 しかも、とジーンは恐怖に震えているエミールを見た。
 一人なら負けても死ぬだけだが、エミールを連れては戦えない。

「エミール、聞くんだ」
 ジーンは出来るだけ小声でエミールに言った。
「私が時間を稼ぐ間に、お前だけ逃げるんだ、エミール」
 エミールは怯えた目で首を振る。ジーンは辛抱強く続けた。
「いいか、エミール。私一人ならやりすごすことが出来る。お前はロイを見つけて二人で夜明けまで隠れるんだ」
 エミールはさらに強く首を振る。目からは再び涙を流していた。
 ジーンもエミールと別れることを思うと泣きたかったが、そんな暇はなかった。
「夜が明けても私が戻らなければ二人で次の町で待っていてくれ。一日たっても私が着かなければ、二人でロンドンへ行くんだ」
 エミールはその言葉に打ちのめされて、いよいよ大粒の涙を流し始めた。
「……ロイに伝えてくれ、私の夫はお前だけだ、と」
 次の言葉は喉にぐっと詰まったが、しかし言わなければならなかった。
「愛してる、エミール」

 ガサガサと言う音と共に男達がいよいよ川原に出ようとしていた。
 今、隠れている茂みから注意を逸らすには、もう一刻の猶予もなかった。ジーンは一度だけエミールに口づけると、茂みを飛び出し、その茂みが向き合った男達の背後になるような位置に立った。

「いたぞ!! こっちだ」
 男の一人が叫ぶ。
 ジャラジャラと鎖帷子の音を立てながら、三人の男が川原に現れた。
 首領格と思われるがっしりした男と、痩せた男。そして小柄な男。どの男も脂でよれた髭が伸び放題で、顔には垢が溜まり、目には知性のかけらもない。手には抜き身の錆びた短刀をもち、腰には安そうな剣を挿している。来ている帷子も錆が浮いてろくに手入れをされている様子もなかった。特にがっしりした男は片耳がなく、その目は危険な光を帯び、まさに山犬のような危険なものを感じさせた。
 男達は下卑た笑いを浮かべジーンを見た。

「おい、やっぱり女だぜ」
「えれえべっぴんだ」
 痩せた男と小柄な男がそう言った。がっしりした男がジーンに言った。
「女、お前、こんなところでなにをしている?」

 ジーンは無言。
「いてえ目にあいてえのか? それとも口がきけねえのか?」
 しかし、ジーンは睨みつけるだけだった。
「おめえら、周りを見張ってろ」
 片耳のない首領格の男はそう言うと、ジーンに向かってきた。二人の男は辺りに目を配っている。ジーンはエミールが隠れている茂みに気付くのではないかと気が気でなかった。

「私は巡礼者です。仲間とはぐれました」
 ジーンは気を引くために敢えて声を出した。
「そいつぁ、運がなかったな」
 男は下卑た笑いを浮かべる。
「お願いします、仲間とはぐれて飲み物も食べ物もありません。何か分けていただけませんでしょうか」
 ジーンは口からでまかせを並べた。
「困った時はお互い様だ。わけてやらなくもねえさ。もちろん少しお代は頂くが。なぁ、兄弟達」
 残りの二人に声を掛けると、周りを警戒していた二人がげらげらと笑った。

「もちろん、仲間と合流できればお代は払います」
 山賊たちがそんな言い分を聞くことはないのは分かっていたが、少しでも時間が稼げないものかと言った。
「なあに、そんなあらたまってしてもらうことじゃねえさ、お嬢さん。ちょっとあんたの体を貸してもらえればね」
 うひひと男は笑う。嫌悪を催す下品な笑いだった。

 ジーンは男達の背後の茂みから、エミールが音もなく顔を覗かせるのが見えた。
 この男達が自分がエミールを捜しているときの声を聞いてここへ来たなら、いくらこの愚か者達でも辺りに誰かがいることにすぐに気付くだろう。猶予はなかった。

「……こんな体でよければ」
 そういって、ジーンはゆっくり長衣に手を掛け胸元からゆっくりと衣をずらした。
 胸元があらわになると、男達の視線がそこに集中する。ジーンは気付かれないように、エミールに視線で合図を送った。
 エミールは茂みから少し出たが、ジーンを一人置いていくことに躊躇うように、そこで止まってしまった。

「お、おい!」
 痩せた男がジーンの荊のツタの巻きついた乳房を見て声を上げた。
 そのまま、ゆっくりと服を脱ぐと、荊のツタがその姿を顕にしていく。ジーンは男達の視線が体に集まるのを確かめて、もう一度素早くエミールに視線を送り、頷いて見せた。
「こいつぁいったい……」
「こんな女、見たことねえぞ」
 男達の声に驚くように、エミールは音もなく走り始めた。ジーンはそうしてはならないと思いつつも、去っていくエミールから目を離すことが出来なかった。
 しかし傭兵崩れたちは全貌を現したジーンの肉体に夢中でそれどころではない。均整の取れた月光に輝く白い女性。その半身に妖しく巻きつく黒い荊のツタ。さすがの畜生にも劣る下賤の男達も、その自然ならざる異形の美しさには近寄りがたいものを感じずにはいられなかった

 エミールは川原を出る時、一瞬立ち止まったが、ジーンの方を見てそのまま走り去った。目が合ったような気がしたが、暗くて見えなかった。

「こいつ、魔女じゃないのか?」
「おい、魔女なんかとやっちまって、大丈夫なのかよ。チンポ腐っちまうぜ」
 脅える手下達を首領は恫喝した。
「ならお前達は黙ってみてやがれ!!」
 そしてジーンに向かって尋ねる。
「お前、この体はどうした?」
 男の質問にジーンは答えた。
「悪魔に呪われたのさ」
 それが事実である事が余りにも皮肉だった。

 男は訝しげにジーンを見た。さすがに躊躇っているようだった。
 しかし、エミールとロイを安全に遠くまで逃がしたい。時間を稼ぎここを生き延びるために、方法は一つしかない。

 その時、どろりとロイの残滓が膣から溢れ出て、太ももの内側をつつっと流れ落ちた。
 ジーンはその暖かい精液を指ですくう。
(ロイ……)
 つい先ほどのロイとの営みを思い出す。その幸福を。その愛情を。
(……会いたい)

 ジーンは指についた残滓をペロリと舐めた。
 その男の精の青臭い匂いと、塩気のある味で心を満たす。先ほどのロイとの性交で満足し切れなかったケモノがのっそりと子宮から起き上がり、ジーンの魂を再び狂気の暗闇に閉じ込めようと蠢き始める。ジーンはそれに身を任せた。
 佇む女のその匂い立つようなただならぬ気配に男達は目を見張った。
 もともと殆どない男達の理性はたちまち崩壊し、男達はジーンの体に群がった。

****

「おい、てめえ、誰かと寝てやがったな!」
 川原にジーンを押し倒し、圧し掛かろうとした首領格の男が、ジーンの膣から溢れる滑りを指にとり、その匂いを嗅いで言った。ジーンは答えなかった。答えようにも既に口には、小柄な男のペニスが突っ込まれていた。その臭気と咽る匂いが吐き気を催す。
「ちくしょう、この近くに男がいるんだ。いいだろう、お前をやったらそいつらの荷物もいただきだ」

 その言葉を聞いて、ジーンは益々、時間を稼がなければならないと思う。
 ロイのため、エミールのため……

 ジーンは自分の口に中にある吐き気を催すペニスに舌を這わせた。
「おっ、おおっ、おおおお」
 
 呪われた肉体はジーンの心が弱れば弱るほど勢いを増した。こんな男たちに奉仕している惨めになるほど、精神が弱まり肉体は力を増した。いつの間にか膣から劣情の証が漏れ出ていた。
 それは、しかし結果的には幸運だった。男たちは相手が濡れていようがいまいが、気にする気持ちなど欠片もない。

 首領格の男がペニスをねじ込んでくる。
(ウゥ! ウゥウーー!!)
 ジーンはその大きさに喉の奥で唸った。ディのものより一回り大きい。しかも、長い間、女にありつけなかったと言う言葉どおり、男性器は欲望に漲りきって、焼いた鉄のように熱く硬かった。ミシミシと音を立てながら肉の楔は女の体に打ち込まれ、全てを受け入れた時にはその下半身の圧迫に呼吸が苦しくなるほどだった。
(あ、熱い……)

「くうぅーーーー! オンナだ!!」
 男は満足げな声を上げて、久しぶりの女の味をかみ締めていたが、すぐに激しく動き始める。女のことなどお構いなしのその行為は、痛みと屈辱でジーンを苦しめた。いっそ全てを諦めて、脱力してしまいたい衝動に駆られる。しかし、こんな男たちになすがままにされれば、死ぬまで嬲られるかもしれなかった。
(生き延びてやる、必ず)
 その思いだけを胸にし、元女騎士は生き延びるために魂の残りの全てを肉体に差し出した。

 ジーンは痩せた男のむき出しのペニスを手に取り、ディに学ばせられた手技を駆使しつつ、口にくわえたペニスにあらん限りの刺激を加える。下半身は巨大な男のペニスが、さらに急所に深くこすれるように腰を高く上げて、振り続けた。山賊たちは見たこともない美女の予期せぬ突然の痴女ぶりに喜び、口々にはやし立てた。

「こいつはすげえぜ。俺のチンポにすいついてやがる」
「とんだ気狂い女だ。犯されて歓んでるぞ!」
「俺のでかいのぶち込まれて頭おかしくなったまったのか!」
 男の嘲りも、ケモノと化した女にとってはなんでもなかった。酷い目にあえばあうほど体が燃え上がり、魂は消えていく。手の中、口の中、体の中で男たちが暴発し、夥しい量の青臭い精子が皮膚のいたるところにかかったが、それでも荊に捕らわれた美しいケモノは少しも止まらなかった。

「おいてめえ、どうだ? お前のを抱いていた男のより大きいんだろう?」
 首領格の男は最初の射精などもともせず腰を打ちつけながら言った。その言葉が、ロイのことを思い出させる。つい先ほどまで愛を交わした男のことを思い出すと、今の惨めな自分に涙が溢れてくる。しかし、それに反して体の奥がカッと熱くなった。男のペニスの圧倒的な存在感が快感に変わり、下半身が硬直する。首領格の男はその女の内面の変化を動物的な勘で察知した。

「おい、てめえのチンポをどけろ、ニド。声が聞きてえんだ」
 その残酷な仕打ちに、ジーンは屈辱を感じる。
 ニドと呼ばれた小男が名残惜しそうにジーンの口からペニスを抜く。片耳の男はズンズンと腰を打ちつけながら、ジーンに言った。
「どうだ、いいのか? ええ?」
 ジーンが歯を食いしばる。
 バシッ!! 男が平手でジーンの横っ面を打った。
「いいわ……」
 受身になってはいけないと、咄嗟にジーンは答えた。認めてしまうと、それは本当のことになった。頭に血が上り、正常な判断が出来なくなっていく。
「なあ、お前の男よりでけえんだろっ? どうなんだ?!」
「大きいわ! 大きいわ!」
 そう言うと、男が喜ぶと思い大声で言った。しかし、それは本当に芝居なのだろうか。
 独特の尿意のような感覚が漲ってくる。下半身全体が熱を帯び、自分が絶頂を極めようとしていることに愕然とする。
 しかも、この絶頂はロイとの時よりも大きい?

 快感に魂が弱り、傷ついた魂はより肉体に支配されやすくなる。ジーンは急激に負の螺旋階段を駆け下りていき、あっという間に狂気と姦淫の泥沼に落ち込んでしまっていた。

「おら、どうだ! どうだ!」
 男は強姦されている女にはあり得ないジーンの反応に気をよくして、さらにピッチを上げた。
「ああっ、ああっ、ああっ」
 断続的に声が漏れる。こんな男たちに、と思うが既に精神は肉体に支配されている。
「だめっ……だめっ……」
 口ではそういうが、なにがいけないなのか、思い出せない。
「そら、そら」
 男は狂ったように腰を振り、ジーンの乳房を握りつぶすようにつかんだ。その瞬間、体中が雷に打たれた。
「ああ!!! だめっ!! だめっ!! ああぁあーー!!」」
 ジーンが断続的に痙攣し、暖かい液体がジュックリと結合部を濡らしす。
 膣の内部がピクピクと痙攣し、男も射精した。

 ジーンは刹那、記憶が飛び、気がついたときには痩せた男が自分を抱いていた。

 こんな男たちに犯され、ロイとの行為より高い絶頂を極めてしまった自分を呪う。自分の肉体を呪い、やすやすとそれに屈してしまう弱い心を呪う。もう自分のような人間は死んでしまってもいいのではないかと思った。
 しかし、エミールの去り際の顔を思い出した。
 生きて、逃げて、エミールに会うまでは……それまでは死ねない。
 絶望的な足掻きを、続けなければならない。

****

 陵辱は続いた。
 男たちは数回ずつ射精し、痩せた男と小男はもう限界に来ていた。悪魔直伝の手練手管は散々男たちを翻弄し、両手に持った二人のペニスは、大きさはあるものの既に硬さはなかった。二人はもどかしくて、鎖帷子も脱いで全裸になって、何とかもう一度硬さを取り戻そうと懸命になっていた。
 首領格のがっしりとした男だけが、未だ上半身に鎖帷子を身につけたまま、ジーンを犯している。
 さすがのジーンも体力的に限界を迎え、精神の集中が途切れてきた。女性器は感覚が麻痺してしまい、疲労の蓄積した体の動きは鈍い。
 修道士たちに集団で強姦された時も、一人の人間がこれほど長い時間交わったことがなかった。男の方も既にペニスの感覚はないに違いない、ただ、破壊的な凶暴さと女を強姦する歪んだ満足感だけが男を突き動かしているのだ。目が血走り、涎が口から漏れている姿は正気とは思えなかった。
 あの時と同じような犯されつくすことに対する根源的な恐怖がジーンの心を満たす。
 それでも、あの時と違うのは一つの意志が、逃げて二人の下に戻るという意志が、ジーンを支えていたことだった。

 しかし、ふと男の背後の暗闇を見て、ジーンはさらに苛酷な運命を悟った。

(ロイ!!!!)
 男の背後の暗闇の木の陰にロイがいた。

「おい、手が止まってるぞ」
「今度は俺がヤルんだからな!!」
 痩せ男と小男がジーンをなじる。

 あわてて手を動かしながら、ジーンの心は混乱の極致に達していた。何故こんなところにロイが、エミールはどこだ、という疑問。精液にまみれ強姦されている惨めな私を見ないで欲しいという気持ち。早く逃げろと叫びだしたい衝動。
 だが、ロイのその手に小さな調理用のナイフが握られ、その目が怒りに血走っているのをみて、ジーンはさらに背筋が凍った。
 ばかな、この男たちと戦うつもりなのか?

 ロイは突然、河原に飛び出してきた。
 それまでジーンに夢中で気がついていない男たちだったが、ロイの河原の石を踏む音に気付き、そちらに目をやった。男のペニスがずるりと胎内から引き抜かれる。

 ジーンは体に残った力を振り絞って、手の中の男たちのペニスを玉ごと握りつぶした。グチャリという嫌な感触が手に残り、男たちの絶叫が夜の空気に木霊する。ジーンはそのまま足を振り上げて後転し、立ち上がりながら地面に放り出されたままの短刀と剣を手に取った。
 何も考えずに小男の首筋に短刀を突きおろし、留め金の止まったままの剣を抜く手間をかけず、振り向きざまに痩せ男のこめかみを鞘に入ったままの剣で思いっきり打ち捨てた。
 小男の首から噴出した鮮血が、文字通り雨のように降り注ぎ、辺りが鮮血に染まる。痩せ男は頭蓋骨を割られ白目をむいて倒れていた。剣の留め金を外しながら、その紅い霧の向こうにジーンは見た。

 首領格の男がロイの胸に剣を突き通し、そして蹴りつけて剣を抜くところを。

「きさまぁぁ!!」
 剣を抜き男に向かう。
 真っ赤に染まり全裸で剣を持つ女。その体表の黒い荊は精液と血液の混ざり合った泡立つ不気味な色の液体を吸って、いっそう鮮やかさを増す。その異様な光景は見る人に畏怖の念を抱かさずにはいられない。
 しかし、相手もまた自分の二人の手下の無残な死を目の当たりにし、怒りに狂っていた。
「てめえぇぇ!! よくも兄弟をぉぉ!!!!」

 相手は下半身はむき出しだが上半身には鎖帷子。手にある剣はバランスの悪い粗悪品。非力な女と野獣のような男。
 不利は圧倒的だったが、ジーンは怒りに我を忘れて、剣を構えて向かい合った。

 獣の様な意味不明な雄たけびを上げながら男が突っ込んでくる。その馬鹿力は鉄の剣を木の枝でもあるかのような速度で振るった。バランスの悪い剣で受けてしまうと、劣勢になることを反射的に悟り、ジーンは体ごと斬撃をかわそうとした。その一瞬、男の体がぐらりと揺れる。いつの間にか男の足には小さな人影が取り付いていた。

「てめえ!!」
 男が足にしがみついたエミールをあわてて蹴り飛ばしたが、既に遅かった。ジーンの剣が帷子の覆っていない首の付け根にめり込み、頚椎の折れる音が最後の男の意識となった。

 口から血の泡を吹いて倒れる男。ジーンはその首から噴出す二度目の暖かい血の雨を浴びながら、荒く呼吸する。束の間、命を賭けた争いを制した殺戮の残忍な興奮が体を満たすが、興奮が徐々に引くにつれ、ガタガタと体が震えだした。倒れているロイを見て、やっと正気が戻ってきた。

「ロイ!! ロイ!!」
 ロイを抱きかかえると、ロイは背中までグッリョリと自分の血で濡れていた。呼吸は浅く、顔面は蒼白だった。
「なぜ逃げなかった? なぜこんなことを!!」
 ロイはうっすらと目を開けた。
「……守らないと……」
 それだけ言っただけでゴボリと血を吐いた。傷は肺に達し、致命傷だった。
「愚かなことを……私の事なんて……」
「一緒に……ロンドンで一緒に……」
 傷の衝撃で意識が混濁しているのか、その後はうわごとのように訳の分からない言葉が続く。
 ジーンはこの男が死んでいくのを感じた。どうしようもなかった。

「……あんたに……あんたに、あやまりたくて……ひどいこと……したって……」
 その言葉を最後に体が痙攣し、そして脱力した。

 かつての陵辱者であり、一緒の逃亡者であり、未来を誓い合った男の呆気ない死に直面し、ジーンは号泣した。
 その死体に伏して、喉が張り裂けんばかりに泣き叫んだ。

 しかし、最初の波が過ぎ去ると、ジーンは辺りが静か過ぎることに気付いた。
「エミール……?」
 ジーンが立ち上がり辺りを見回す。どす黒く固まり始めた血の水溜りに沈む山犬たちの死骸。その向こうに、少年が倒れている。
「エミール!」
 ジーンは倒れるエミールに駆け寄りその顔を持ち上げた。その美しい金髪が血に濡れていた。

 持ち上げると、背中に太い枝が突き刺さっていた。蹴られた時に地面にあったものだろう。

「エミール! エミール!!」

 ジーンの呼びかけにもその美しい眼が開くことはなかった。

 長い夜がようやく明け、東の空が明るくなっていく。
 小さな小川は、多くの血を吸い、その揺れる水面は、朝日を紅く反射していた。




◆ The Mansion(館)

 女は抜け目ない目で、広間を見渡した。

 美しく飾られた瀟洒な広間では男たちと女たちがそこかしこで談笑している。美しく着飾った女たちは皆笑顔で、お互いに、あるいは男たちも交えてはしゃいだり、じゃれあったりしている。男たちはそれを見て愉快そうに笑いあっていた。

 中年女はその光景をみて、満足気に目を細めた。
 オーキッドの通り名を持つその女性は、自身も名前の通り華やかな薄紫のドレスを身につけ、広間を見渡せるいつもの指定席の豪華なソファに腰掛けた。表情は柔和だが、その黒い瞳は抜け目なく絶えず辺りを見回している。赤みがかった茶色の豊富な髪は、緩やかなカーブを描いて、露になっている肩や、豊満な乳房を強調するように装飾された胸元へかかり、その華やいだ雰囲気を強調していた。他の女たちよりかなり年が上だが、それを補って余りある成熟した美と自信に満ちた雰囲気があった。

 傍に使用人の一人が近寄り、オーキッドの耳元に口を寄せた。
「マダム、湯の準備がととのいました」
 マダム・オーキッドは軽く頷いて、了解の意を示すと、再び辺りを見回した。
「アイビー、皆に伝えておいで」
 近くにいた女にオーキッドは言った。アイビーと呼ばれた女は頷くと、他の女の所に向かって歩き始めた。美しい黒髪ががシャンデリアの光を受けきらきらと輝き、桃色のドレスに映える。アイビーはアイルランドから連れてこられた女だったが、すでに何年もオーキッドの元に身を寄せていた。自身がアイルランド人であるオーキッドは、同じく故郷のない女を最も信用していた。

 アイビーはその美しい歩き姿で女たちの周りをしゃなりしゃなりと歩き、すれ違う女たちに目配せする。
 それを受けて、女たちが一人、二人と男たちの手を取って、広間から消えていく。

 湯屋の夜はこれから始まるのだ。

 隣の部屋では巨大な浴室があり男達を待っている。場末の浴場と違い水ではなくわざわざ沸かした湯を使った贅沢なものだった。マダムが厳選した女達は男達を文字通り身を尽くしてもてなし、これまた厳選された身分も金も持つ客達は大金を落としていく。通称『蘭の館』と呼ばれるこの建物は、高級娼館を兼ねた湯屋だった。


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作者注 中世ヨーロッパは入浴の習慣がないことで知られていますが、これはアメリカ大陸発見で新大陸から梅毒が入ってきてからのことです。それまでは公衆浴場での売春行為を禁止する触れが何度も出されており、水浴・湯浴の男女混浴の公衆浴場がありました。(特に過去にローマ帝国に占領された地域において)
 この物語では、それらの中には身分の高い客を狙った物があってもおかしくないと推定し、設定として採用しましたが、史実として確認された物ではありません。
 高級娼婦についてもイタリアでは存在が確認されていますが、ロンドンにいた史実は確認できません。
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 その時、バタンとドアが開いた。
 春のまだ冷たい夜気が部屋の中の熱い空気をさっと冷やす。新しい客かとオーキッドが目をやるとドアには一人の女がいた。ボロボロの巡礼者のような服を纏い、手には子供を抱いている。
 オーキッドはチッと舌を鳴らした。表には見張りが立っているはずだ。あの役立たずども。
 広間にいる人間達は驚いて、皆そちらを見た。

「おい、お前!」
 男の使用人たちが異常に気付いて、女を締め出そうと駆け寄るが、女は男達をすり抜けるように素早くその環を出ると、するすると人ごみを抜けて、オーキッドの前で膝を折った。
 やっと追いついた男達が女を引きずり倒そうとする。
「ここで働かせてください」
 女は引きずり倒されようとしても子供を抱いたままそう言った。

「残念だがね、ここはあんたみたいな端女の来るところじゃないよ。早く外にたたき出せ!」
 オーキッドがそう言い、男達が女を連れて行こうとする。女が鋭く言った。
「Exspecto, domina!(待ってください、マダム!)」

 使用人たちはラテン語が分からず呆気にとられた。
 オーキッドは訝しげに女を見た。かなり急ぎの旅をしてきたのか、女の着ている服は既にボロボロだった。フードから覗く顔は薄汚れ、垢が浮いている。美しかったであろう褐色の髪は脂と埃でよれて固まり、見る影もない。しかし、その茶色の瞳には得体の知れない強烈な光があった。ラテン語を知るところを見ると、身分も低いとは思えない。自身も男達と台頭に渡り合い、この娼館を切り盛りする女主人の勘が、この女にはなにかあると思わせた。
 そしてちらりと見える女に抱かれた子供の顔。これも薄汚れてはいるものの、人間離れして整っていた。

「ここで働かせてください」
 女はそう言うと深々と頭を下げた。
「……離してやりな」
 オーキッドはそう言うと、立ち上がった。

「オンナ、なぜ私がここの主だとわかった?」
 この場には大勢の貴族や女達がいるのに、女は一度も迷うことなく真っ直ぐ自分の方に向かってきたのが不思議だった。
 しかし、女はそれには答えず、頭を下げたままだった。

「シスル、後は頼むよ」
 女主人は傍らにいる青いドレスの女にそう言うと、跪いたままの女に向かって言った。
「ついて来な」

 女は子供を抱いたまま、オーキッドの後を追って広間を後にした。

 シスルと呼ばれた女がパンパンと手を叩いた。それに気付いた女たちは再び自分の男達に媚を売り、広間はすぐに元の喧騒を取り戻した。

****

「あんた、名前は?」
 オーキッドの私室には大きな机があり、オーキッドは席に腰掛けながら聞いた。傍らには用心棒代わりの屈強な男が立っている。机の上には帳簿用の羊皮紙の束と、計算盤があった。

「ジーンと言います」
 机の向かい側に立った女はそう言った。
「名字は?」
 オーキッドが聞くと、ジーンは首を振った。女主人は肩を竦めただけで、その質問には立ち入らなかった。

 女主人と面と向かうと、ジーンはその威厳を感じた。若いときは自身も一流の娼婦だったのだろう、その美貌は年齢を感じさせない。一見、柔和に見えるが、その眼光は鋭くジーンの内面までをえぐり、その声は耳に優しくとも臓腑に沁みてくるようだった。
 館に飛び込んだときも不思議とこの女主人が話すべき人物だとすぐに分かった。
 言葉に微かにアイルランド訛りがある。外国人でなければ娼館の女主人では終わらない器だっただろう。

「ああ、その子はそこに降ろしな」
 オーキッドがそう言うと、それに従いジーンは抱いていたエミールを木で出来た木のベンチに座らした。エミールは苦しそうに呻いた。
「病気かい?」
 オーキッドが尋ねた。
「いえ、怪我で熱が出て……」
「あんたの子かい?」
 オーキッドの質問にジーンは一瞬考えてから、答えた。
「いいえ。でも、命の恩人です」

 その答えに女主人はますます興味をそそられた。

「話を聞かせてもらおうかね」

 ジーンは自分がさる貴族の娘で、修道院に連れ込まれて乱暴をうけ、見習い修道士の一人とエミールとともに逃げ出したものの、連れの一人も山賊に殺され、エミールも怪我をしたと話した。この女主人に嘘をついてもすぐに見破られるだろうと思い、大部分を正直に話した。さすがに男装で出征した話とディの話は信じてもらえるとも思えず、伏せていたが。

「……なるほどね」
 経験豊富なオーキッドもさすがにその壮絶な話を聞いて、驚いた。嘘ではないかとも思うが、長年の勘がこの女が嘘をついていないと告げていた。ただ、全てを話していないだろう事も分かっていた。ただの貴族の娘というには、その立ち姿は男のようだし、その喋り方も男っぽい。体も妙に引き締まっているし、なにより目の光が尋常ではない。

「それでウチで働きたいってのはもちろん娼婦としてなんだろうね?」
 ジーンはコクリと頷いた。
「家に帰ったらどうだい?」
 女主人の問いかけにジーンは首を振った。そのこと自体は女主人にとっても珍しくはなかった。強姦されてもとの家庭や生活に帰れず、娼婦に身を落としてしまう女は多い。
「ここはね、教養も作法も一流の女たちを集めてるんだ。そこらの場末の女たちと一緒にしてもらっちゃあ困るんだよ」
「わかっています」
「あんたの器量なら、堅気の商売で十分に働けるだろう? なぜ、娼婦なんだい?」

 そう問われてジーンは少し考えた。

 あの惨劇の夜のあと、ジーンは血に濡れた体を川の水で流すと、エミールの傷を手当てし、夜通し背負ってきた。夜には出血はなくなったものの発熱し始め、意識が混濁するようになった。ジーンはエミールだけは救おうと必死で駆けた。

 駆けながらこれからどうするかを必死で考えていた。
 エミールを救うには十分な休息と栄養がすぐに必要だった。一刻の猶予もなかった。

 選択肢は二つ。シーモア家のロンドンの屋敷に助けを求めるか、自分で稼ぐかだ。
 どちらも冒険だった。
 シーモア家には自分がジーンだと理解されるかどうか分からない。アランを知る人間はいてもジーンを知る人間は殆どいない。シーモア領の本宅ならまだしも、ロンドン別宅の留守番にはいないだろう。
 それに、万が一、保護されたとしても、男娼として修道院に捕らわれていた異国の子を置いてもらえる可能性は低かった。ジーンはもうエミールと別れるつもりはなかった。
 かといって自分で稼ぐとしても、ジーンはそんなことをした事がない。文字の読み書きはできるが、それをすぐに雇ってくれるところがあるだろうか?
 そんな時に思い出したのが、司令官達の間で噂になっていた『蘭の館』だった。貴族の子女を集めた娼館で紹介者がいないと入ることすら出来ず、代金も飛び切り高いが、その極上の女たちのもてなしはそれでも余りあると言われた。
 そこなら普通の庶民には手が届かない賃金が得られるだろう。エミールにも絵を描かせてやれるかもしれない。

「お金のため。この子と一緒に暮らた上で……十分な絵の具を買ってやるために」
 ジーンの言葉にオーキッドは眉をひそめた。
「坊主にでもする気かい?」
 絵を描くといえば貴族のお抱えか、聖人画を描く坊主しかない。
 ジーンは首を振った。
「いえ。この子に一人でも生きていける力を……」
 ジーンはそう言うと、傍に横たわるエミールの頬を撫でた。

 ジーンには予感があった。
 ディが再び目の前に現れる。その時、自分はどうなるか分からない。
 それまでにエミールに生きる術を与えたかった。

 一方、女主人にとって娼婦達の質は命の次に大切なものだった。王侯貴族まで相手にするこの館では、質の低下は命取りだし、なによりこの仕事に職人としての誇りを持っていた。他人に蔑まれようが、教会に睨まれようが全然かまわないし、地獄に落ちるといわれてもなんとも思わないが、男達に美しい女たちの最高のもてなしを与え、その対価を得ることは女主人の生きがいだった。
 可哀想な女ではあるが、修道僧なんて女の扱いも知らない屑どもの相手をさせられたぐらいで、務まると思ってもらっては困る。

 しかし、と女の少年へ注ぐ限りなく優しい眼差しを見てオーキッドは考えた。

 あの状況で、ラテン語をさらりと言ってのけた度胸、人を見る目、教養、機転の良さ、どれをとっても見るべきところはある。この子供への執着も逆手に取れば強い忠誠心となるだろう。今は旅で汚れすぎて見る影もないが、容姿も問題なさそうだ。所作は男っぽいところもあるが、女の衣装を着せればそれも味になるだろう。一見、擦れてなさそうな感じはむしろ男の征服欲を刺激し、長続きさせることも多い。

 端的に言えば、問題は男が好きかどうかだ。
 修道士達にかわるがわる玩具にされたとなると、男に対する態度はどうだろうか。この商売は男を悦ばせることを自分の喜びと出来るかどうかが一番の素養だ。それが女主人が若いうちに女を貰い受け、じっくり教育して見極める理由だった。よほどのことがない限り、成人した女を加えることはない。

 ためしてみようかね、と女主人は思った。

「あんたの素養を試させてもらうよ、ベインこっちへ来な」
 傍らの用心棒を呼び寄せると、ジーンに向かっていった。
「この男と寝てもらおうかね」

 さすがにジーンも驚いた。
「ここで、ですか?」
「そうだよ、文句あるかい?」

 ジーンは黙って立ち上がると、用心棒と向き合った。口ひげを蓄えた黒髪の大柄な男だった。逞しい筋肉を持ち、いかめしい顔をしているが、その小さな目はやや不安そうジーンとオーキッドを見比べている。こんなことを言われるのはこの男も慣れていないのだろう。そう思うとジーンの心に余裕ができた。
 パサリ、とこれまで来ていた巡礼服を脱ぎ捨てる。

 その裸身を見て、今度こそ女主人は度肝を抜かれた。
「そ……それは……?」
 鮮やかな黒い荊のあるツタが半身を覆うその裸身が、蝋燭の明かりに照らされる。乳房を這い上がるように、腰を締め付けるように、尻を持ち上げるように、その妖しい模様は女性の肉体を強調するように女に巻きつき、蝋燭の炎が揺れるごとに、まるで女を愛撫しているかの蠢いて見えた。
 博学の女主人も知識として『刺青』をしっていたが、現実に目にするのは初めてだった。ここまで徹底的にするとはどこの修道士かと訝しがった。
 用心棒も声もなくジーンの体を見開いた目で凝視している。

(ついにここまで来てしまったか……)
 ジーンは淡々と思った。
 金のために男と寝る。ディの言ったとおり、自分は娼婦になるのだ。ディの言葉が耳に蘇る。
『もう、お前には娼婦として生きるしか道はねえ。後は、良い娼婦になるか悪い娼婦になるかだけだ』
 その通りだと自嘲した。どうせ体を売るなら良い娼婦になるべきだ。自分が何を失っても、エミールに何かを残せるように。
 それに、もう自分にとって体を売ることなんてなんでもない。ほら、この男にだって……。

 ジーンは精神を集中し、肉体の感覚の中に意識を沈めていく。すぐに心臓の鼓動が高まり、股間の奥が熱くなってくる。目の前の男を見つめ、その逞しい体を強く意識すると、体の隅々までが男を求めてざわざわと騒ぎ始めた。ペロリと唇を舐めた時には、その目は欲情で潤みきっていた。
 用心棒はその目で見つめられただけで、ズボンの中でこの上なく勃起していた。

 その劇的な変貌に女主人は苦笑した。
「もういい。合格だよ」
 そして少し笑って付け加えた。
「ベインはわたしの夜の相手なんだ。あんたに取られちまったら困る」

 ジーンは一瞬遅れて正気を取り戻し尋ねた。
「それでは?」
「あんたをここに置くこととしよう。ただし、娘たちには子供が出来た場合もここにはおいとけないことにしている。その子は傷が治るまではここの屋根裏においといてやるが、治ったら出てってもらうよ」
 その条件にはすぐには承服しかねたが、頷くしかなかった。
「客からの取り分は店に5割、2割は女たち皆で分け合い、3割はあんたの自由だ。ただし働けるようになるまでの生活費はあんたの取り分から後で払ってもらうよ」
 皆で分け合うのは女たちの一体感を生むためで、『蘭の館』独自のやり方だった。

「とりあえず、その薄汚い格好でここを歩かれたら困るね。ベイン、下男を呼んで、屋根裏に案内して何か食べさせてやんな。明日になったらシスルとアイビーに新入りの面倒を見させよう。なるべく早く『商品』になるようにね」
 そしてジーンの方を見ていった。
「あんたもなるべく早く『商品』になるんだね。時間がかかるほど借金が増えるからね。ここでは変なプライドや身分はなんの役にもたたないんだから、まだそんなもんが残ってるなら早く捨てた方がいい」
 ジーンは頷いた。
「さて、ここでは皆、植物の名前を通り名として使うことになっているんだ。あんたにも名前がいるね」
 再び服を着ようとしているジーンの露な背中を見て、ニヤリと笑う。

「考えるまでもないか。あんたの名は今日から黒薔薇(ブラックローズ)だ」

「Etiam, domina.(わかりました、マダム)」
 ジーンはそう言うと頭を下げた。




◆ Night Flowers(夜花)

「固まれ! 固まって突撃だ!!」
 ジョーンズの声にあわせて部下達が周りを固める。皆、知った顔だ。
 長く苦しい進軍を一緒に行軍した仲間達。皆を信頼していたし、自分が性別を偽っていることをすまないと思っていた。
 槍をもって迎え撃つ異端審問官達に部下達は勇敢に突撃する体制を整えた。

 なに負けるわけはない。教会の兵隊なんて腰抜けだ。

 楔陣形の先頭・副官のジョーンズが易々と陣形を切り裂き敵の後ろに出る。なに簡単なことだ。
 ほら、もうすぐ……。そこで、馬の足元に何かが飛び出して来て……。
 あれは……

 フギャアー。
 けたたましい声でジーンは飛び起きた。
 ジーンは自分がどこにいるのか一瞬、分からなかった。
 そこは屋根裏部屋だった。

 部屋の隅では太った黒猫がねずみを捕らえている。ネズミ捕りの猫なのだろうが、丸々と太っているところを見るとよほど餌が多いのだろう。ふと、修道院にいた痩せた黒猫を思い出す。どうも黒猫に縁がありそうだ。

 ジーンは額の汗を拭った。酷い夢を見た気がしたが、どんな夢かは思い出せない。
 猫がこちらをみている。その目を細めると、まるで笑っているかのように見えた。

 屋根裏部屋は倉庫として使われているらしく埃っぽかったが、ジーンたちにはそんなことを気にする余裕はなかった。あの日、下男たちが寝床を用意し、エミールを寝かせると、ジーンも出されたパンと葡萄酒を平らげ、そのまま野垂れ死ぬように寝込んでしまった。

 床に寝たはずだったが今は粗末とはいえ、ベッドに横たわっていた。暖かい毛織物の毛布がかけられ、窓からは春の日の光が差し込む。既に太陽は西に傾き始めていた。
 ジーンは起き上がって周りを見回し、横にエミールが寝ているのを見てホッとする。よほど深く寝ていたらしく立ち上がると頭がくらくらした。窓際によると見渡す限りの石造りの屋根が広がり、眼下にはテムズ川が広がる。改めて自分がロンドンにいることを思い出し、その長かった道のりとその意外な終着点を思った。

「目が覚めた?」
 濡れたような黒髪で緑色の瞳の女が階段を使ってやってきた。服装はやや地味な毛織の青いワンピースを着ている。広間の女たちの中にいたのだろうが、ドレスを着ていないので全く印象が違う。

「あんた、二日も寝てたのよ」
 そういわれてジーンは驚いた。
「ああ、その子のことなら心配いらないよ。熱は下がったみたいだから」
 ジーンはそういわれてホッとため息をついた。
「あの……あなたは?」

「あたしの名はアイビー。よろしく」
「あなた、アイルランド人ね?」
 ジーンはその言葉の訛りからそう判断した。
「ああ。ドジな旦那が人質に取られて、その身代金に売られてね。人買いに売られるところを同郷のマダムに助けてもらったのさ。もう六年になる」
 アイビーはさばさばとそう言った。くるくるとよく動く緑色の目は快活な印象をあたえ、いかにも人懐っこい調子で喋る。その快活さはとても娼婦には見えなかった。

「この子も外国人だね?」
 アイビーは少し声を落としていった。
「フランス人だ」
「そう、可哀想に……」
 女の様子を見てジーンはエミールの服も清潔なものに変わっていることに気付いた。着替えさせる時にエミールの切り取られた性器をみたのだろう。ジーンはエミールの額に手を当てた。だいぶ熱が下がっている。顔色もよくなったようだった。
「だいぶよくなったみたいだね」
 アイビーの言葉にジーンは頷いてつぶやいた。
「この子が死んだら、私も死んでいた……」

「ふふふ、まるでこの子の騎士様だね。まぁ、これだけ美人なお姫さまなら騎士様がついていてもおかしくないけど」
 アイビーは冗談めかしてそう言うとくすくすと笑った。
 女性と何気ない会話をするのは実に久しぶりだった。ジーンはこの娼婦を気に入りつつあった。
「さあ、あんたを一人前にするようにマダムに言われてるんだ。まずその汚い服をどうにかして、腹ごしらえだ」
 ジーンがエミールを見て、離れるのを躊躇う素振りを見せると、アイビーが言った。
「心配要らないよ。リトルローズにこの子を見てくれるように私が頼んどいたから。後であいさつしてやってよ。同じローズのお姉さんが出来たって喜んでいたからね、黒薔薇さん」

 それが自分の今日からの名前だと気付いて、ジーンは自嘲気味に思った。
 黒薔薇、まさしくこれ以上ない名前だ。

****

 ジーンは湯屋に通されて、服を脱ぐように言われた。
 アイビーの前で服を脱ぐと、目を丸くしてその異様な裸身をじろじろと見た。
「さすが、マダムが目をつけるだけあって、ただものじゃないね」
 気味悪がるより、むしろ面白がるようにしてアイビーは言った。

「でも、マダムがわたしとシスルにあなたを任せた理由が分かる気がするね。どうやらあたし達は似たもの同士みたいだね」
 その意味が分からずジーンはアイビーを見たが、アイビーはウィンクしただけだった。

 浴室はさすがにジーンが見たこともないほど大きい作りでところどころに彫刻などが置かれている。ここいっぱいに裸の男女が溢れるとしたらさぞかし壮観だろう。
 湯は冷めてぬるいと言うより冷たかったが、暖かい春の日なので耐えられないほどではなかった。
 アイビーも腕まくりをしてスカートを持ち上げて入ってくる。

「一人でも大丈夫だ」
 ジーンがそう言うとアイビーは笑った。
「あんたの体はこれから売りものなんだよ。自分じゃ手が届かないところもキッチリ磨かないとね」
 手には白い固まりを持っていた。ジーンも数回しか見たことがない貴重な石鹸だった。アイビーはジーンを座らせ、水をかけると石鹸を泡立てジーンの旅の垢と格闘し始めた。

 風呂を出るころにはアイビーはびしょぬれになり、すっかり疲れ果てていた。

****

「ああ、シスル。黒薔薇、紹介するね。これがシスル」
 入浴の後、食堂に着くなりアイビーが言った。
 ジーンは隅々まで洗われ、その褐色の髪は優雅に束ねて垂らしていた。着替えとして用意された、羊毛の赤いワンピースを、黒い腰紐でとめてある。久しぶりの女の格好だった。

 食堂は少し広い質素な石造りの部屋で十人以上が座れる長いテーブルが二つあり、その周りを椅子があるだけで他には何もなかった。飯時ではないためがらんとしており、そこに一人の女がパンとチーズと葡萄酒だけの食事を用意して待っていた。栗色の髪に蒼い瞳。目鼻がすっきりと通り、どこかエキゾチックな雰囲気がある女だった。今、ジーンが着ているのと似たような濃紺のワンピースを美しい模様に編まれた腰紐でとめていた。

 シスルと呼ばれた女は立ち上がるとスカートの裾を持ち上げ優雅に挨拶した。
「はじめまして、黒薔薇。シスルと申します」
 正式な挨拶に、ジーンは少し戸惑いつつも、同じように挨拶した。一通り習っていた礼儀作法だが、もう使わなくなって久しい。まさかこんなところで使うことになるとは。

「動作が少しぎこちないようですが、まあ及第点ね。ちゃんと挨拶できないと気を悪くなされるお客様も多いので」
 シスルの仕草は優雅でまさしく貴族と呼ぶにふさわしかった。しかし、その蒼い瞳はジーンの顔を見ていない。というより、何も見ていない。

「あなた、目が?」
「ええ、黒薔薇。昔は少しは見えたのだけれど、今はもう全く見えないわ」
 シスルはなんでもないことのようにそう答えた。盲目の身でありながら、娼婦をしているなんて、さぞ厳しい人生を送ってきたことだろう。
「……すまない」
「貴女が気にすることはないわ。優しい人なのね」

 ジーンが黙っているとシスルはニッコリと笑っていった。
「目が見えなくていいこともあるのよ。皆が嫌がる『お顔に問題がある』お客を私が引き受けてあげるから、みんなとってもよくしてくれるの」
 ふふっとジーンが笑うと、アイビーが付け加えた。
「黒薔薇も顔のまずい客はシスルに頼むといいよ」
「ええ、そうね。でも、その時は前もって言ってね。顔を知らなくてすむ様に、顔には触らないから」
 それを聞いて、アイビーはけらけらと笑った。

 なるほど、とジーンは思った。異国人、盲目、そして自分。アイビーが三人を似たもの同士と形容したのが判る気がする。

****

 ジーンは二人に普段の集団生活、食事や就寝、仕事などの説明を聞きながら、簡素な食事を終えると、僅かに時間があると聞いて、再び屋根裏に向かった。屋根裏にはエミールのほかにもう一人可愛らしい娘が座っていた。
 赤毛で頬が薔薇のように赤いまだ幼さの残る顔で、ふっくらと整った唇が印象的な背の小さな娘だった。

「貴女がリトルローズね」
 ジーンがそう言うと、娘は立ち上がって会釈した。
「はじめましたお姉さま」
「……お姉さま?」
「ええ、お姉さま。ローズと名のつく女はみんな私のお姉さまよ。もう一人ホワイトローズお姉さまがいるわ」
 ジーンは少女といってもおかしくないような姿をみて、そんな子でも娼婦なのだという苛酷な現実を思った。

 そんなジーンを気にすることなくリトルローズはエミールが目が覚めても食事を取らなかったことを説明し、夜の時間が近づくと鐘が鳴るから、それまではここにいても多分大丈夫だろうと告げた。
 立ち去り際、階段に降りかけてから振り返っていった。
「お勤めはつらいことも多いけど、新しいお姉さまが出来て嬉しいわ」

「こちらこそ光栄よ、リトルローズ」
 ジーンはそういいつつも、その屈託のない表情に一瞬暗い影がさすのを見逃さなかった。ここの女達はみな明るく振舞っているが、心に影を持っている。
 ジーンはふと安心感を覚えている自分に気付いた。ここでは孤独ではないのかもしれない。

****

 エミールはそれから半刻ほどして目を覚ました。久しぶりに見るその透き通った青い瞳にジーンは微笑みかけた。顔色も随分良くなり、熱はある程度、峠を越えたと思われた。
 エミールは自分を覗き込んでいるのが誰か分からず、困惑した。

「エミール、よかった……」
 その声を聞いて、それがジーンだと気付き、目を丸くした。ジーンの褐色の髪がフワフワに垂れているのも、女性の服を着ているのもエミールは初めて見た。エミールが上半身を起こすと、ジーンは少年を胸に抱いた。ジーンの着る羊毛の感触に思わず頬擦りする。
 二人は長い間そうして抱き合った。

 エミールは何事か喋ろうと口を動かしたが、ジーンには早すぎて分からなかった。もしかしたらフランス語なのかもしれない。
 しかし、エミールが訊きたい事はわかった。ここはどこかと、ロイはどうなったかだ。
 ジーンはここがロンドンであること、ここにいれば安全なことと、そしてロイの死について説明した。ロイの死を改めて口にする時、胸は締め付けられるように痛んだが、涙は零れなかった。今度こそ枯れ果ててしまったのだろうと思う。
 エミールはここまでの旅の途中で、意識が朦朧としながらも、その事については悟っていたらしく、無表情にそれを聞いていた。フランスから連れてこられるとき、どういう経験をしたのかは知らなかったが、死は、この少年にとってはずっと身近な存在なのだろう。

 この館の正体については、ジーンは話さなかった。

「さあ、エミール。おなか減ったろう? ご飯だ」
 リトルローズが置いていった盆を取り、ジーンがエミールのところに持っていく。
 しかし、エミールは急に顔を曇らせて、下を向いてしまった。
「どうした? 食欲がないのか?」
 ジーンが尋ねるとエミールはこくりと頷き、ジーンの方を見て眉をしかめ、口を動かした。
(S・M・E・L・L)

 ジーンもそれには肩を竦めるしかなかった。
 都会では側溝に馬糞・人糞を問わずありとあらゆる汚物が投げ捨てられる。その強烈な異臭は屋根裏部屋まで立ち込めていた。フランス出征前に一時的にたちよったジーン達もその匂いには辟易したものだった。馬糞の匂いになれた軍人達でも辛いのだ。ましてやフランスの田舎から連れてこられて、地方の修道院にいたエミールにとっては耐え難いものだろう。
 夏の暑いときや、雨で側溝が溢れた時などもっと酷くなるのだが、さすがにそれを告げる気にはならなかった。

 ジーンは無駄だとは思いながらも、立ち上がると戸板を下ろした。部屋の中は一気に薄暗くなった。
「まぁ、その内慣れるさ。食べないと病気が治らないぞ」
 エミールは再び眉をしかめると首を振った。
 その後、愚図るエミールに何とかパンを一つ食べさせたところで、鐘が鳴った。




◆ Work(仕事)

 ジーンがエミールに寝て病気を治すように告げるとジーンは階下に向かった。
 丁度、アイビーが様子を見に来たところだった。

「さあ、着替えだよ」
 アイビーが衣装室に案内する。そこは狭い部屋ではなかったがドレスや小物が所狭しと並べられているため、女たちでごった返していた。女達はけたたましくお喋りをしながら、手際よく着替えている。ところどころで小物の取り合いや、悪口のいいあいが起こったりして、ジーンはその光景に呆気に取られた。まさに飯時の戦場そのものだ。

「あんたのドレスは選んどいたから」
 アイビーはそう言うと濃い紫色のドレスを手渡した。周りの娘達が着ている色とりどりの衣装に比べれば地味な部類だが、ジーンが今まで着たことのある服の中では間違いなく最も派手なものだった。田舎の領主の養子としてドレスのようなものも着ることはあったが、狩りや乗馬にしか興味のなかったジーンはそういう格好を好いてはいなかった。
 しかし、まあ、贅沢の言える立場ではない。何日も動物のように裸でいることに比べれば、なんだってましだ。
 ジーンは覚悟を決めると、腰紐を解いて、入浴の後着ていた、羊毛のワンピースを脱ぎ捨てた。

 一人、また一人と均整の取れた筋肉質の背中の、棘のあるツタの巻きついた異様さに気付いてざわめき始めた。
 先に知っていたアイビーはこの時とばかりに声を出した。

「話は聞いてると思うけど、新入りの黒薔薇だ」
 ジーンは十人以上の女たちが、自分の背中を見つめているのに気付いて、振り返った。
「ほら、自己紹介して」
 アイビーに促されて、ジーンは一歩前に出る。みなの視線が集中するのに気付いて、ジーンは戦場で同じような状況によくなったことを思い出した。新しい士官を品定めする目線。司令官は一度なめられると挽回は遥かに難しい。ジーンは腹を決めると、出来る限り優雅にお辞儀をした。

「黒薔薇の名を頂きました。お見知りおきを」
 そして、一人一人の目を素早く、しかしハッキリと見据えた。
 露骨に嫌な顔をしているか、好奇心丸出しの目で見るものが多い。当然の反応だった。

「その模様は染料を針につけて、皮膚の下に直接、針を刺して描かれた物だそうよ」
 盲目のシスルが説明した。
「人買いにいれられたんですって」
 その苦痛を想像し、娼婦達は驚き、口々に神の名を唱えた。
 マダムから聞いたのだろうが、シスルが嘘を交えてさらりと説明したことにジーンは驚いた。目は見えずともその様子を察してか、シスルは小さく微笑んで見せた。

 女の中から真紅のドレスを着た色の白い女が現れて、軽くお辞儀をした。黒い瞳に濃い茶色の髪のどこか小動物を思わせる蠱惑的な女だった。雰囲気がやや固くなるのを感じる。この中でのリーダー格の一人だろうと検討をつけた。
「初めまして、ホワイトローズよ。よろしくね」
 挨拶はにこやかだが、目が笑っていない。リトルローズが言うようには、姉妹仲良くとはいかないようだ、とジーンは思った。客商売である以上ライバルでもあるのだ。仕方がないだろう。
「これで三姉妹ね、お姉さま」
 横合いからリトルローズが飛び出して来て言った。着替えの途中か、まだ全裸だ。

 ジーンはお辞儀をして言った。
「それでは姉上と呼ばせて頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろん。光栄だわ」
 ホワイトローズが微笑して、周りの雰囲気が和らいだ。

 男達の軍隊とどうも勝手が違うが、どうやら一山乗り切ったらしいと、ジーンはホッと一息ついた。

 パンとシスルが手を叩いた。
「時間がないわ。急ぎましょう」
 その声と共に女達は再び作業に戻る。
 ジーンも再びドレスを手に取り、身につけようとする。
「手伝うよ黒薔薇。……あんた、やるじゃないか」
 アイビーがジーンを手助けしながら、小声で言った。軽く笑って見せてから、何年かぶりに女性用ドレスと格闘し始めた。

 アイビーとジーンがお互いを助け合いドレスを着る。ジーンが見たこともない美しいネックレスや頭飾りを着け終ったのは一番最後だった。
「急ぎましょう」
 それを待っていたシスルが言った。三人は並んで女たちの最後尾について歩くが、ジーンには長い裾が邪魔で歩きにくい。
 甘く見ていたつもりはないが、娼婦も楽ではないと改めて思った。男と会う前にくたくたになってしまいそうだ。
 しかも、アイビーだけでなく盲目のシスルまでずっと早く歩いていく。精一杯、遅れないように歩きながらジーンは尋ねた。

「本当に見えてないの?」
 質問の意図を理解してシスルは微笑した。そのエキゾチックな表情は女のジーンから見ても色気のあるものだった。
「この館の中なら、貴女よりは見えているわ」

「おっと、危なかったみたいだね」
 アイビーは立ち止まると、広間に列になった女たちの最後尾に並んだ。シスル、ジーンも並んだところで、別の入り口から使用人を伴って女主人が入ってきた。女達は一斉にお辞儀し、ジーンもそれに習った。

 女主人オーキッドは一人一人服装を確認していく。娼婦達はオーキッドが目の前に来るとお辞儀をして、その品定めを受け入れた。
「リリー、月のものは終わったのかい?」
「はい、マダム」
 そんな会話が交わされる。まるで武具の装着を確かめる指揮官だなとジーンは思った。そういえば、品定めをするほうであったことはあるが、されるのは初めてだ。
 オーキッドは最後にジーンの前に止まった。ジーンは緊張しながらも、他の女たちを見習ってお辞儀をした。

 濃紫のドレスに、銀細工のネックレスが映え、豊かな褐色の巻き毛にあわせた色の頭飾りは、美しい銀糸の刺繍が縁取っている。馬術・剣術で引き締まった肉体を強調するドレスは、肩から胸元に大きく開いたおり、そこから覗く白い肌に浮いた黒いツタの末端が、まるでそれも衣装の一部であるかのような不思議な美しさをかもし出していた。
 オーキッドは満足げに微笑んだ。
「みちがえたわね、黒薔薇」
「……ありがとうございます」

「今日一日は私の傍にいるがいい。いい客が来たら、お前を仕込んでもらおう。覚悟はいいね」
「はい、マダム……」
 いよいよかと思ったが、さっぱりした気持ちだった。信仰は既にジーンの中では無力な存在であり、罪悪感ももう殆ど感じない。ここの娼婦達を見て、ますますそう思うようになっていた。むしろ、長い間、自分を縛ってきた重荷からもう解き放たれたかった。今まではそれでも受身だったが、今日からは違う。きっと自分を自由にしてくれるだろう。

「さあ、今日も働いてもらうよ。お前らは客に抱いてもらってこそ、生きる価値があることを忘れるんじゃないよ」
 女主人オーキッドの言葉で、『蘭の館』はその日も始まった。

****

 ジーンはオーキッドに促され、広間を見渡すように低い段になった一角に連れてこられ、女主人のソファの傍らのクッションの効いた椅子に座るように促された。
 普通に腰を掛けたジーンを見てオーキッドが言った。
「ただ座ってどうするんだい? あんたは娼婦なんだから、娼婦のように座るんだよ」
 そう言われてもよくわからない。辺りを見回すと、女たちの半数以上は立ち話をしながら男が来るのを待っているが、何人かはソファやベンチに腰掛けて、めいめいに写本を読んだり、隣の女と喋ったりしている。すぐ傍のシスルなどは、ハープを爪弾き始めた。みな無作法なまでに自然にくつろいでいるが、それが客を迎えやすくする娼婦の座り方なのだろう。
 ジーンはそれらを見習って姿勢を崩してみた。
「まあいい、徐々に慣れるんだね」
 オーキッドはため息をついて、使用人の持ってきた葡萄酒に口をつけた。
 その様子から察するに、まだまだらしい。改めて娼婦も楽ではないと思った。

 そうこうする内に男達が一人、また一人と使用人に案内されて入ってきた。女達は男が入ってくるごとにその顔を見て、誰の馴染みかを見て、自分の馴染みの男なら素早く迎えに出る。男達の中にはずーと馴染みの女と一緒にいる男もいれば、女たちの間を挨拶して回り品定めする男もいる。皆、いかにも高価そうなゆったりとした羊毛や絹の服を着ており、鮮やかに染められた服の袖にはきらびやかな刺繍がされていた。
 その内、数人は新入りがいると聞いてジーンの元に来て、恭しく手を取ってキスをしていった。ジーンはそのたびにぎこちなく会釈を返した。中には見たことのある貴族がいるかもしれないと思うが、ジーンはその考えを無理やり心から締め出した。そんなことはもう自分とは関係ないし、相手に自分が知られることもない。アラン・シーモアはもうこの世界のどこにもいないのだ。

 いつの間にか広間には十五人の女たちとそれを上回るほどの男たちが溢れ、にぎやかになった。あるところではダンスをしたり、あるところでは詩を朗読したり、手に葡萄酒を持ちながら思い思いに楽しんでいる。ここがどこかを知らなければどこかの貴族のパーティーに紛れ込んだと思うところだろう。いや、それよりもずっと洗練されていた。  地方の館では例え貴族のパーティーでも、道化や小物が地面に落ちたご馳走のおこぼれにあずかろうと地面を這いずり回ったり、客も下品な話題に唾を飛ばして大声で怒鳴り、唄い、食事を頬張る。それに比べて都会の男達は上品で、そして何より女達は男達を楽しませることに心を砕いていた。ここの女達はその道の職人なのだ。
「皆、芸達者だな」
 思わず感心していると、すぐ傍にいたアイビーが訊いてきた。
「あんたはなにかできる?」
「私か……」
 ジーンは考えた。文字の読み書きは出来たが、それ以外といえば、狐狩りぐらいだ。女が嗜むような芸は殆ど知らない。しかし、ふとそこで広間の男達に戦場帰りと思われる、頭髪が兜擦れした人間がちらほらといることに気付いた。
「ないこともないが……」
 その会話をオーキッドが傍らで聞いていた。
「おもしろいね、やってみな、黒薔薇」

「わかりました、マダム」
 ジーンは立ち上がると壁の飾りにかけてあった長弓を外し、その矢を手にとって長弓を壁に戻した。
 何人かがジーンの行動に気付き、好奇の眼差しを向ける。ジーンは矢のバランスと羽の状態を確かめると、振り向きざまにその矢を投げた。濃紫のドレスが翻り、矢は一直線に広間の人間達の頭上を抜けて、反対側の壁に立てかけてある木の円盾の真ん中に突き刺さった。二本、三本と続けて放ち、全て盾の中央付近に命中させる。
 おお、という歓声が上がり、皆の注目が集まったので、ジーンはお辞儀をして見せた。
「上出来だよ。どこで覚えたんだい?」
 アイビーがジーンの傍に来て褒めたが、ジーンは笑っただけで返事をしなかった。

 この矢投げは戦場の遊びだった。もともとは弓兵の戯れだったが、いつの間にか仕官にも広がっていた。ジーンはこれが得意で、他所の部隊の司令官と葡萄酒の樽などを賭けて争い、酒を調達しては下士官から尊敬を勝ち取ったものだった。
 すぐに戦場を懐かしがって、数人の男達が挑戦に来た。
 女として扱われるのは最初こそ戸惑ったが、程なく慣れることができた。軍隊生活のせいか、むしろ女達の中にいるより気楽なぐらいだった。
 いつの間にか負けたほうが葡萄酒を干すルールが生まれたが、ジーンは素面のままだった。

 宴もたけなわになったころ、アイビーが女たちの周りを回って、合図を送っていた。いよいよかと、ジーンは他人事のように思った。
 アイビーは最後にジーンのところに来た。
「いこう、黒薔薇。初仕事だよ」
 黙っているジーンを見て続ける。
「そんなシケた顔しないでよ。あんた恋人でもいるの?」
 そう聞かれてロイの死に顔を思い出した。埋葬することも出来ず、ただ落ち葉をかけただけで森に置いてきた遺骸。もう獣に荒らされ、見る影もないだろう。ロイは私のことを恨んでいるだろうか?
 あの夜は遠い昔のことのようであり、未だ暗い森の中をさまよっているような気もする。
「死んだよ……」
 ジーンがそう言うと、アイビーはばつが悪そうに言った。
「そうか。それは悪いこと聞いたな」
 そしてジーンの手を取って言った。
「死んだ人には悪いが、あたし達も食べていかないとね。心配しなくてもあたし達が立派に一人前にしてあげる。あんたのお姫様のためにもね」
「そうだな」
 ジーンはそれだけ言うと、アイビーに導かれるまま広間を出た。

 隣室でドレスを脱ぐと、さらにそのとなりの浴場に入った。
 大釜で沸かされた湯が、使用人の手によってどんどんと巨大な浴槽に注がれている。中はもうもうと湯気につつまれ、すでにそこかしこに全裸の男女が居る。
 ジーンの裸体はやはり注目を集めた。男達はしばし自分の相手の女たちの相手をやめ、ジーンの荊の巻いた裸体に見入る。女たちの中には苛立ちを隠さないのもいたが、シスルの説明のお陰か大半は哀れみの目でジーンを見た。最もジーンにとっては哀れみのほうが辛かったが。

 全裸のアイビーに促されるまま、浴槽からやや離れた部屋の隅の木のベンチに案内される。そこにはシスルがいた。
「シスル、マダムは?」
「マダムは戻られたわ。黒薔薇は私たちに任せてもらえるそうよ」
「最初の客は誰にするつもり?」
「マダムがグレン司祭をご招待されたそうよ」
「それはそれは」
 アイビーはジーンに座るように促した。
「司祭様は上客だ。アレも滅法うまい。最初の客にはちょうどいいよ」
 アイビーはジーンにウィンクした。
 また坊主か、とジーンはうんざりした。

「さてあたしも行くか。後は任せるよ、シスル。あんたの初仕事、しっかり見せてもらうよ、黒薔薇」
 アイビーはそう言うと、二人の客を相手にしている女たちのところへ向かった。
「浴槽までつれって行ってくださる? 司祭様が来る前に体を磨いておきましょう」
 シスルはそういって手を伸ばした。

 ジーンはその手を取りながら、シスルの体をみた。こんなに間近で女の裸体を見たことがなかった。
 シスルの裸体は透き通るように白く、その湿気を吸って重く垂れ下がった栗色の髪がひどく映える。その隙間から、真っ白で小ぶりな乳房とその先の乳首が覗き、まるで陶器の人形のようだが、下に目をやると、下半身の茂みは黒々と茂り、その下には成熟した女の花びらが息づいていた。盲目の娼婦は遠いところを見るような視線を周囲にさまよわせ、濃密な色気を漂わせる。それはジーンまで落ち着かなくさせた。

 ジーンはその手を取り、裸の男女の間を縫うように進み、浴槽まで歩いた。
 あたり一面に湯気の白と男女の肌色が溢れている光景は、ある意味壮観だった
 女たちは何事か話ながら全裸の男達に湯をかけて手で擦って垢を流している。男達も女の背中に手を回し、その乳房を愛撫したり、その足を撫でたりしていた。まるで愛し合う男女の睦みあいのようだった。

 女たちはジーンとシスルが通ると、ひそひそと声を落とす。
「気にすることないわ、黒薔薇」
 周りの反応に気付いたジーンが、怪訝に思う前に、シスルがそう言った。
「新入りの貴女がどんな風になるのか、みんな興味があるのよ」
 そう言われて、ジーンは赤面した。

 浴槽の縁にたどり着くと、シスルはジーンに木桶を取りに行かせた。
 木桶を持ち帰ると、シスルはそれに湯を汲んで、ジーンを木製の浴槽の縁に座らせた。
「明日からは貴女がお客様にするのよ」
 シスルは手で湯を掬うと、ジーンの体にかけ、手でやわらかく擦り始めた。
「熱い!」
 生まれてこの方、こんな風呂に入ったことがないジーンはその熱さに小さくうめいた。シスルはその声を聞いて笑った。
「我慢して。その内、気持ちよくなるわ」

 シスルは湯を掬っては体を流し、優しい手つきでジーンを洗った。女に触られるという奇妙な体験に少し緊張する。
「力をぬいて、黒薔薇。女二人でお客様の相手をする時は、お互いを洗うこともよくあるのよ」
 シスルはジーンの耳元にそうささやいて作業を続ける。
「とても滑らかな肌ね……柔らかい肌なのに、その下の筋肉はとても逞しいわ……」
 シスルが感想を漏らした。ジーンはなんと答えていいかわからず、もじもじするだけだった。確かに湯の熱さになれると体がぽかぽかと暖かく気持ちいい。初めての経験だった。
「『刺青』といったかしら? 肌の上からでは全然分からないのね? 私も見てみたいわ。アイビーがとっても素敵だって」

「素敵? これが?」
 ジーンは自分の裸体を、それに巻きつく棘のあるツタを見下ろしてそう言った。
「ええ……とても、綺麗で妖しい感じがするって言っていたわ。……針を刺されるって痛かったの?」
「……ええ、とても」
 ジーンはあの地獄のような拷問を思い出していった。
 不意にシスルがジーンの乳房に触れた。乳房を包み込むように優しく洗う。ジーンの乳首は図らずも硬く尖った。
「素直な体ね。きっとお客様にも気に入っていただけるわ」
 そう言われてジーンは赤面せずにはいられなかった。

「さあ、私もお願い」
 シスルが木桶を二人の間に置く。ジーンは見よう見まねで湯を掬って、シスルの体に触れた。初めて触る自分以外の女性の肌はやわらかく、手に吸い付くようだった。
(エミールにはかなわないけど)
 ジーンはそんなことを思った。
 おずおずと乳房や背中を流し、いよいよ上半身が終わり、残すところ下半身のみとなる。さすがに躊躇い、手が止まる。

 セシルはそんなジーンの手を取って、顔をジーンの耳元に近づけ言った。
「緊張しないで、黒薔薇。周りを見てみなさい」
 そう言われてジーンは辺りを見回す。

 ジーンはいつの間にか先ほどまでしていた話し声が、殆ど聞こえなくなっている事に気付く。周りを見渡すと、話し声の代わりに荒い息遣いや、チャプチャプという水音、チュッチュという軽いキスの音が浴場を支配していた。
 見ればいつの間にか男と女が抱き合ってお互いの体をまさぐっている。男達の男性器は皆起立し、女たちは悩ましげに眉を寄せている。すぐ傍では少女のようなリトルローズが中年の痩せた男の体にまたがり、胸や尻を揉まれながら、身も世もないという風情で男の顔に何度も口づけをしていた。
 子供のようなリトルローズのぞっとするような色香に、寒気すら覚えた。いつかエミールの情交を覗き見したことを連想させた。

「恥ずかしがらないで。その感情はここではあまり役にたたないわ」
 シスルはそういいながらジーンに体を近づけ、裸体に手を回し抱きしめてきた。ジーンが体を硬くするのをお構いなしに、その足にまたがるようにして抱き合う。乳房と乳房がぶつかり乳首がつぶれ、じんわりと微かな疼きが広がる。ジーンの視界はセシルの白い胸元に覆われ、初めての女の体臭が鼻の奥に溢れる。シスルはジーンの手を取ると太ももの内側にもって行き、自分もジーンの下半身を流し始めた。
 女同士抱き合う奇妙な感覚に、ジーンは戸惑うばかりだった。

 図らずも女性の体の柔らかい感触を堪能させられ、ジーンは頭の芯が痺れてくるのを感じた。性の興奮状態に入る時に似ているが、もっと頼りない感じだった。湯の熱気もあって、頭がボーとしてきたころ、シスルは手を止めた。
「司祭様がいらっしゃったわ、黒薔薇。お迎えしてここに連れてきてくださる?」
 そういって入り口の方を見る。
 シスルが手を離し、ジーンはやっとその妖しい抱擁から解き放たれた。
 我に返りあわてて立ち上がる。入り口に誰も見えないのを訝しがりつつも、足の踏み場もないほど裸の人間達が「散らかっている」浴場を縫うようにして進んだ。ジーンが入り口に着くのと同時に全裸のでっぷりと太った中年男性が現れた。好色そうな締りのない顔で、白くなった頭髪は司祭の証として頭頂がそり落とされている。ペニスは既に半ば勃ち上がっている。
 僧侶はジーンの体を見て目を丸くしていった。
「あんたが黒薔薇かね?」
 見かけによらず快活な声でそう尋ねた。
「黒薔薇と申します」
「うーん、聞いてはいたが……これは……すばらしいな」
 と、本当に賞賛しているような声を上げる。
「どうぞこちらへ」
 ジーンは手でそちらを指し示すと、再び裸体がひしめく浴場をシスルの元へ案内する。

「わしが初めての客だということだが?」
 司祭はジーンの後姿をじっくりと目で堪能しながら、言った。
「ええ、司祭様」
 ジーンは背中とその下の尻に注がれる視線を感じながらもそう答えた。ふと、泣きたいような情けない気持ちがこみ上げる。何度も酷い目に会い、もう全てを諦めたつもりだったが、それでも心に痛む部分が残っている。これはいつまで私を苦しめるのだろうと、ジーンは思った。
「そいつは光栄だ。いや、本当に。お前の新しい門出が祝福できるように、精一杯頑張らせてもらうよ」
 司祭はそう言うとご満悦だった。

 シスルの傍に来るとシスルは立ち上がり、軽く膝を折る。
「やあ、シスル。今日は二人も美人を相手に出来てうれしいよ」
 司祭がご機嫌でそう話しかけると、セシルも会釈を返す。
「二人で精一杯お相手させていただきますわ」
 そういって司祭をその場に座らせる。
「さあ、黒薔薇。あなたも一緒に、ね」
 そういって、先ほどのように手桶に湯を汲み、司祭の体を流し始める。ジーンもおずおずとそれに従い胸や背中を流した。
 中年男の手がシスルにまわされる。男はその無骨な指には似合わない繊細な指使いでその体を撫でた。シスルはまるでそれを喜ぶようにしなを作る。だが、司祭はジーンの体にあえて触ろうとはしなかった。

 次第に中年司祭のペニスが勃ってくる。女性の体よりも馴染みのあるペニスではあったが、歪なまでに亀頭が大きく、雁首部分の段差が大きい。それを見て、ぞわりと体の奥に熱い塊が産まれた。ジーンはその事に救いを感じていた。もうすぐ私は私でなくなる。そうすれば、もう何も考えなくてすむ。

 シスルは無言でジーンの手を取ると、司祭のペニスに這わせた。ジーンは指に絡みつくその熱い塊の、硬い感触にドキリとした。
「触ってくれるのかい、黒薔薇。そなたの美しい指で」
 司祭は心底、楽しそうな声で言った。
「お前がよければ、私もこの不細工な指で、そなたの体に触らせてもらってもいいかな?」
 少し冗談めかした声で司祭がそう言った。好色そうな顔には満面の笑みを浮かべている。
 ジーンはわざわざ客が娼婦にそんなことを聞くのがおかしくて、思わずクスリと笑った。
「お前は黙っていても美人だが、笑うと余計に美人だな」
 中年司祭は歌うように楽しげにそうジーンの耳元にささやくと、素早くジーンの背中に手を回し、乳房に手を置いた。

(あっ……)
 司祭はその太い指でジーンの乳房をさわりさわりと撫で、ちろちろと乳首を刺激する。途端に胸の奥に疼きが走る。
 なるほど、女の扱いに慣れているらしい。ジーンは嫌悪感を感じる暇もなく、快感を与えられた体に心が正直に反応した。その指使いはディを思い出させ、一気に体温が上昇する。

「今の顔はもっと素晴らしい。そなたのような女を最初に抱けるとは。ほんとに私は幸運だ。神に感謝しよう」
 中年男は本当に楽しそうにそういい、どんどんと歯の浮く台詞でジーンの体の素晴らしさを褒めちぎる。この常連客はとぼけた言動で女を警戒させる暇をあたえない話術を持っていた。ジーンもまんまとその術中にはまっていた。

 最初は大げさな表現に少し笑っていたジーンも、いつの間にかそんな余裕がなくなる。気がつけば司祭はシスルへの愛撫をやめ両手でジーンの乳房を揉んでいる。乳首がジンジンと痺れ、それはいつの間にかクリトリスに飛び火していた。いつの間にか愛撫を求めてひとりでに内股を擦り合わせるように両足が動いていた。

「美しい、実に美しい」
 司祭が感心ながら、荊のツタをなぞる様にその太い指を体に這わせていく。触られた部分から、燃えるように疼きが広がる。ついにはその指が下半身に達し、その濃い褐色の陰毛を巻きつかせるように、引っかくように愛撫した。ビクリと背筋が反り返る。
 司祭はジーンを抱きとめるように腕を回すと、優しく木の板の上に寝かせた。

「すばらしいわよ、黒薔薇」
 いつの間にか司祭の逆側に回り込んだシスルが、ジーンの顔を覗き込むようにしていった。片方の手で、ジーンの乳房を揉む。同時に司祭の太い指がクチュリと女性器の中に先端を潜り込ませた。

「……!」
「これはこれは。見た目も素晴らしいが、中もすばらしい。火傷しそうだ」
 司祭のずんぐりとした指はそれだけでペニスを思わせるほど太かった。殆ど爪のない丸々と太った指で、膣の中を掻き出すように刺激し始める。ジーンは自分の体の中からドッと愛液が漏れ出るのを感じた。
「司祭様の指は素敵でしょう?」
 シスルは見えない目を情欲に潤ませて言う。普段のシスルからは想像もつかないほど熱っぽい声だった。

「司祭様。この子、とても感じやすいみたいですの。是非、このまま……」
 ジーンは客と最後まで行くのは二階の個室に移ってからだと聞いていたので、その声を聞いて我に返った。
 このまま、ここで?!
 辺りを見回すと、多くの男女達がゆるやかな愛撫をしながらジーンたちの様子を伺い、好奇の眼差しをそそいでいる。誰もが明らかに、自分から志願してきた、奇妙な荊の模様を持つ、男達にも負けない矢投げの名人である新入りの行く末を、じっくりと見届けるつもりだった。大勢の視線にさらされ、ジーンはとても無理だと思った。

「やってみよう。力を抜いておくれ、黒薔薇」
 新人娼婦の逡巡を無視して司祭はそう言うと、ジーンに覆いかぶさり、乳首を口に含みながら、ジーンの胎内の指をグイグイと動かし始めた。すでに潤んでいた性器はその強い刺激を易々と受け入れ、痺れるような快感を生み出した。
「ああ……ああ……」
 声が漏れ始めるが、周りの視線が気になって集中できない。じりじりと快感を生み出し、体全体に気だるい熱が溜まる。肉体がいつになく強く抵抗する魂にいらだっているようだった。

「黒薔薇……」
 シスルがジーンの顔のすぐ傍まで口を寄せ、殆ど内緒話のような小さな声で話しかけた。
「我慢してはだめよ、黒薔薇。ここで全てをさらけ出した方が後々、楽になれるわ」
 シスルは、ジーンの手を取り、自分の女性器に持っていった。そこは焼けるように熱くただれ、中からはとめどなく粘り気のある液体が湧いてきていた。
「黒薔薇。濡れているでしょう? 私も貴女の声にとても興奮しているの」
 熱っぽくささやきながらも、ジーンの手を女性器に押しつけ、擦りつける。その行動にジーンも一際、心臓の鼓動が速まった。

「ここにいる女はみんな娼婦よ。私も、そして貴女も」
 優しくジーンの額に張り付いた髪をかき分ける。
「アイビーも、リトルローズも、皆、全てをさらけ出して生きているわ。私たちにも貴女の全てをさらけ出して」
 そして最後に耳のすぐ傍まで口を近づけて、吐息を吹き込むように囁いた。
「貴女がどんなにはしたなくても、ここでは誰も貴女を責めないわ」

 その言葉と同時に司祭の指が、ぐりぐりと指先で性感の急所をえぐった。
「ああぁん!!」
 堰は切って落とされ、もうジーンにとめることは出来なかった。肉体はついに魂を貪りつくし、その勝利を謳歌する。
 ジーンが暴力も破壊衝動も強制も愛もなく、純粋に自分の意思で快楽を求めたのは初めてのことだった。

 ジーンが叫んだ。
「イクわっ!! ああ……ああぁつ、イク!!」
 プシュッと股間から液体が迸る。ガクガクと膝がゆれ、体全体がふわりと浮き上がるような感覚で包まれる。
 そして絶頂がきた。

「ああっ、ああっ、ああぁっ!!!」
 何度も体が痙攣し、股間からどんどんと液体が噴出し司祭の腹を濡らす。それが終わってもビクビクと体が震え、時折、ビクンと体が揺れた。
 全てが去って、快楽に濁っていた思考が戻ってきた時、大人数の前で一人で絶頂を極めてしまった恥ずかしさを感じた。しかし辺りを見回すと、皆そそくさと浴室から去っていくところだった。

「貴女が余りに素晴らしいから、お客様が皆、二階へ上がっていってしまったわ」
 シスルがそういって笑い、ジーンにキスをした。女同士の初めてのキスにジーンは驚いた。女の唇は柔らかかった。
「ワシももう我慢できん。さあ行こう」
 心底、情けない声で、司祭が言った。ジーンはそんな司祭を嫌ではなくなっていた。

 かつて社会の底辺と軽蔑していた娼婦という存在に、自分が染まってしまっていくのを感じたが、ジーンはかつてない安心感を得ていた。対等な存在として他人に受け入れられるのを感じるのは、初めてだった。

****

 部屋は、食堂や娼婦達の部屋に比べてとてつもなく豪華なものだった。
 天蓋つきのベッドには刺繍のある絹がふんだんに使われ、そのクッションは王侯貴族の物なみに分厚い。ジーンはシスルと共にそのベッドに寝かされ、その沈むような感触に思わず声を上げたほどだった。

「さあ、美人たちよ。頼むよ」
 情けないこえで、未だ張り切った自分のペニスを指して司祭が言った。
「司祭様、失礼します」
 シスルがその亀頭の張ったペニスにキスをする。おっ、と司祭が声を上げた。
「さぁ、黒薔薇も」
 シスルに促され、ジーンもペニスの先にキスをする。その男の匂いに取り戻しかけていたジーンの理性は再び肉体の支配に堕ちた。ジーンは何も言われていないのにそのペニスを咥えた。ペニスを口に入れるのはディ以来のことだったが、何の抵抗もなかった。

「あら」
 シスルが驚きの声を上げる。
「おぅ、おぅ、おぅ」
 司祭があせった声を出す。娼館の常連でも驚くほどの熱い舌使いだった。ジーンはその雁高のペニスを唇で締め付けながら、ちろちろとその先を刺激する。それだけでなく、唇を離すと今度は尻の穴から玉を舐めながら、指で緩やかにペニスを扱く。ディに教えられた技を駆使しながら、ジーンにはそのつもりが全くなかった。ただ自分の全てをさらけ出したいという衝動に従って、太った中年司祭の妙に色気のある体に吸い付かずにはいられなかった。

「おぅ、待ってくれ、待ってくれ」
 司祭があわててジーンを引き離す。ジーンは突然に男性器を取り上げられて、戸惑った。
「貴女に教えることなんて何もないのね」
 シスルがくすっと笑い、ジーンにキスをする。
「でも、夜は長いわ。急ぐことはないのよ」
 シスルはそう言うと、手探りで司祭を見つけ出し、司祭に抱きついた。
「司祭様、黒薔薇はどうですか?」
「はっはっは、見れば分かるだろう? 素晴らしすぎて声もないよ」
「私も可愛がって下さらないの? 私も欲しいわ」
 盲目の娼婦はそう言うと司祭にキスしそのまま耳から首筋へと舌を這わせる。ぴくんぴくんと司祭のペニスが震えるのをジーンは見ていた。シスルは、まるで恋人にするかのように熱っぽく、鎖骨に沿って舌を這わせながら、その形のいい乳房を司祭の毛深い胸板に押し付ける。司祭はシスルを抱きかかえ、その背中をまさぐった。

 ジーンはその美しい盲目のシスルの行動に促されるように、背中から司祭への愛撫を始める。肉のたっぷりついた背中にやはり乳房を押し付け、背後からその首筋にキスをしていく。すぐ目の前にシスルの顔がある。その何も映さない蒼い瞳は欲情に輝いていた。
 二人の娼婦に挟まれての愛撫に、司祭は大げさでなく天にも昇る気持ちだった。
 ジーンは背後から腕を回し、司祭のペニスをそっと握った。手に男の熱を感じながら、愛液が溢れ出るのを感じる。たまらずクリトリスをもう一方の手でこねる。びりびりとした快感がジーンの脳髄を焼き、だんだんと男のペニスを性器に迎え、絶頂を貪ることしか考えられなくなる

 それを察してかシスルが言った。
「司祭様、黒薔薇に慈悲を……」
「慈悲が欲しいのは私のほうだよ」
 司祭の言葉を聞いてシスルがどくと、司祭は背後のジーンをベッドに軽く押し倒した。
「いいかい? 黒薔薇」
 司祭の言葉に抗う理由は何もなかった。
「下さい! 司祭様!」

 ジーンの言葉に司祭がその歪な形のペニスを突き入れた。ずぶずぶと呑み込まれるように雁高のペニスがジーンの中に埋まっていく。
「うぅうぅうぅ!!」
「おぉぉおぅ」
 二人が獣の様な声を上げる。ジーンは目の奥に火花が飛び、自分の瞳孔が開き、視界が滲むのを感じる。司祭も全身を真っ赤に高潮させ、その普段はだらしない中年の尻がぎゅっと締まる。

 腰骨を灼く激しい快感。しかし、それでもジーンは自分の中に満たされないものがあるのを感じた。ディのペニスに感じたあの溶け合うような密着感がない。しかし、司祭がずるずると大きなペニスを抜いていくと、腰が自然と浮く。満たされ切れない焦燥が募り、ジーンはその残酷さに呻いた。
 司祭はそんなジーンの内面には気付かず、その熱い膣の感触に酔いしれていた。しかしジーンの方からぐいぐいと腰を動かす。浴室で大勢の人間の前で絶頂を迎えるという異常な体験に興奮していたせいもあり、すぐにでも更なる快感を得られなければ狂ってしまいそうだった。
 司祭の雁高のペニスは膣の内壁を引っかき、強い刺激を生む。掻き出された欲情のしるしが白い粘液となって肛門を伝いベッドに染みをつくった。

「おおっ……おおおっ……」
 司祭はそれまでの余裕を失い、唸る。ジーンの悪魔直伝の腰使いは見た目よりもずっと複雑にペニスを締め上げている。その表面の荊のツタがもつれ合った蛇のように蠢き、その妖しさは見ているだけで人を興奮させる。
「ハァ……ハァ……んんっ……んんんっ」
 ジーンも限界が近かった。下から腰を突き上げながら、クリトリスの裏あたりの急所を雁首でえぐる角度で擦り付ける。例の体から何かが噴出す感覚が湧き出してくる。

「もうイクのね、黒薔薇」
 シスルがジーンの声の変化を聞いてそう言った。
「初めてでここまで出来る人はいままでいなかったわ。……ようこそ、『蘭の館』へ。娼婦・ブラックローズ(黒薔薇)」
 どこか陰気な声でそう囁く。しかしジーンがそんな陰に気付く余裕はない。
 シスルはその整った唇でジーンにキスし、両乳首を強く抓った。

 ジーンは目の前が真っ白になり、そして下半身から快感が襲い掛かった。
「んんっ!! んんんっーーー!! ああああ!!!」
 ジーンの性器は熱い液体を噴出し、司祭の股間を濡らした。その激しい収縮に司祭も声を上げる。
「おおぉ、いくぞ! いくぞ黒薔薇」
 ジュッジュッと音がして、胎内に精液を注ぎ込まれる。その感覚にに、ジーンの体がブルリと震えた。

 ハッと気がつくと、シスルがジーンにのしかかっていた。乳房同士が押しつぶされ、女性の体の柔らかい感触がジーンを包む。ごく短時間だが、意識を失っていたらしい。
 しかし、ジーンが正気を確かめるまもなく、シスルは体を起こし、その手をジーンの下半身に回した。

「あっ、そこは……」
 思わずジーンが声を上げる。膣と肛門に同時にシスルの細い指が進入してくる。
「黒薔薇、あなたこちらも使えるのね……」
 シスルが言った。ちらりと横で休む司祭に目を向ける。
「いいわ、司祭様をお待ちする間、あなたの素敵なところを見てもらいましょう」
 シスルはジーンを座らせると、その股を司祭の方に開かせ、背後から荊に巻かれた乳房を、その下の形のいい臍を、さらにその下のクリトリスを、膣口を、そして肛門をくすぐる。絶頂の快感がの熱に火照った体は、それだけでジーンを次の高みに押し上げていく。
 しかし、その熱っぽい指の動きに反して、シスルは司祭に聞こえないほどの小さな声で冷静にささやいた。

「……いつもこんなやり方では、貴女の身が持たないわ。貴女にはお芝居の方を教えないといけないわね」
 その静かな口調にジーンはぞっとして悟る。娼婦も楽ではないのだ。

 その後、司祭が回復するまで散々シスルに翻弄され、シスルと交互に司祭に抱かれ、三人の乱交は明け方まで続いた。

****

 翌朝、用意された服を着て、司祭を店から送り出すと、ジーンは娼婦達の寝室に案内された。客を迎えた部屋とは似ても似つかない殺風景な石造りの小部屋で、娼婦達は再び昼過ぎの食事まで寝るのだった。ジーンが案内された小さな部屋は、歩く隙間もないほどに質素な木のベッドが並べられた四人部屋で、すでにリトルローズが寝ていた。ジーンたちが戻ると同時に、アイビーも戻ってきた。

「黒薔薇、どうだった? 初仕事は」
 リトルローズを起こさないように小さな声で尋ねながら、アイビーはベッドに腰を下ろした。
 ジーンはなんと答えてよいか分からず無言で自分に割り当てられたベッドに腰掛ける。薄っぺらい毛布が乗っているだけの客室にあるものとは似ても似つかない質素なものだ。
「すごかったわ。我慢しろといっても何度もイクのよ」
 ジーンの代わりにシスルが答えた。
「確かにすごかったからな、昨日の風呂は。お陰でお客さんが興奮して、今日はみんなクタクタだよ」
 あけすけなアイビーとシスルの会話に、ジーンは赤面した。
「……すまない」
 くっくっくとアイビーが笑った。
「さあ、休んどかないと、身が持たないよ。今晩はあたしが一緒だから、あたしの分も頑張ってもらうよ」
 そう言って、ベッドにごろりと転がった。
「おやすみなさい、黒薔薇」
 シスルもそのまま床に着く。

 ジーンは二人が寝静まるのを待って、そっと起き出し部屋を出た。

 静かに閉められるドアの音を聴いて、寝たふりをしていたアイビーは目を開けた。
「休んだ方がいいっていったのにな」
「……仕方ないわ。いいわね、一緒の人がいるって」
 シスルは小さな声でそう答えた。

****

「エミール?」
 ジーンが狭い階段を登って屋根裏部屋へ上がったが、返事がなかった。

「エミール?!」
 慌ててエミールのベッドに向かうと、エミールはハッとジーンを振り返った。顔は恥ずかしさに紅く染まり、その目が潤んでいる。両手が股間に挟まれていて、何をしていたかは一目瞭然だった。
 一瞬、ジーンは声を失った。

 エミールはバツが悪そうに笑ってから、気を取り直してジーンに抱きつこうとした。
 ジーンは反射的にそれをかわした。つい先ほどまで見知らぬ男に抱かれていた体でエミールと抱き合うことに抵抗があった。エミールはそのジーンの反応と、その体から立ち昇る馴染みのある男の精液の匂いから、ジーンが何をしていたかを悟った。
 二人の間に気まずい沈黙が訪れる。

「すまない、エミール。私は……私は、娼婦になってしまった」
 ジーンはエミールには隠しきれないと思い、そう言った。

 エミールの目が非難に満ち、口がなにか言いたそうにぎゅっと結ばれる。

 当然だとジーンは思った。
 修道院から無理やり連れ出し、これほどの道のりを経て、結局、大して何も変わっていないのだ。ロイと暮らすことも出来ず、知らない男と寝て日銭を貰うのなら、修道院の中と何がちがうのか。エミールにしてみれば、ある意味、安定した生活から引きずり出され、見知らぬ館の屋根裏部屋に置き去りにされて、寂しくなかったはずがない。修道院ではエミールを抱くために修道僧たちがこぞって貢いでいたというのに、ここでは一人ぼっちなのだ。
 エミールの生活の糧であり存在意義であった男娼の仕事を取り上げたのはジーンだった。さらに悲しいのはエミールの体もそれを必要としていることだ。
 しかし、身勝手と責められようとも、ジーンにとってはそれが必要だった。エミールだけでもこの性の泥沼から抜け出せるように。
 いつの間にか、それだけがジーンにとっての支えになっていたのだった。

 そのエミールが非難に満ちた眼差しでジーンをみつめ続ける。

 突き刺さる視線の痛みに、ジーンは耐えられなかった。
「他にどうすればよかったんだ!! 私はお前のためを思って……!!」
 そんなつもりではなかったのに、つい語気を荒げてしまう。

 エミールはぷいと横を向いてジーンに背中を向けた。ジーンは自分自身の身勝手な言い分に後悔して俯いた。
 虚しさと情けなさが心を満たす。思わず啜り泣きが漏れた。

 自分はずーっとそうだった、とジーンは思った。
 その場その場で最善の手段を選んでいるつもりでも、結局、運命に弄ばれるだけ。戦場に行く時も、修道院でも、ロイの事でも、そしてロンドンでも。何をしてもうまくいかず、全てが裏目に出る。もがき苦しんでも、開き直っても、戦っても、泣いても、祈っても、何も変わりはしない。
 急に自分自身が疎ましくなった。つい先ほどまで見知らぬ男に抱かれて、快楽に身を任せていた自分が情けない。

 エミールが黙っているジーンの様子が気になって振り向いた。
 ジーンがうなだれているのを見て、エミールはおずおずと手を伸ばし、ジーンの手を握った。

「金が手に入ったら……絵の道具を買ってやろう……」
 エミールはそんなもの要らないという風に首を振った。しかし、ジーンは言葉を続けた。

「そうしたら……お前の故郷の絵を……描いてくれ。いつか……いつか、お前を連れていけるように……」
 エミールは首を振り続ける。
 エミールの望みはずっとジーンといることだけだった。しかし、ジーンにはもうそれしかなかった。

「頼む……描いてくれ……私のために」
 ジーンはそう言うと両手でエミールの手を取り、その手の甲にキスをした。




◆ Marquis(侯爵)

 それから三ヵ月、ジーンは娼婦として完全に開花した。
 ディに習った技術に加え『蘭の館』の娼婦達の手練手管を学び、今や貴族・僧侶・役者など何人もの馴染みが付くまでになった。『蘭の館』の黒薔薇といえば、その投げ矢の名手ぶりとそれに反するベッドでの客への従順ぶり、その荊のツタが渦巻く均整の取れた長身と美貌で、一風変わった娼婦として、少しは知られる存在になった。

 エミールもすっかり回復し、使用人達の住む隣の建物の一番上の物置部屋に場所を移し、ジーンの買い与える絵の道具で日がな絵を描いて暮らしている。
 その絵は娼婦達の間で評判になり、何人かはエミールに肖像画をせがむ様になった。

 その日もアイビーがジーンと共にエミールの物置部屋に来ていた。
「実物より美人に描いておくれよ。まあ、無理だと思うけどね」
 すっかりエミールと打ち解けたアイビーが、その美しい黒髪を掻き揚げながら言った。
 エミールは(I W・I・L・L)と口を動かして、ニヤリと堕天使の笑みを浮かべる。
「憎たらしい餓鬼だね」
 と、いいつつも、そのアイルランド人の緑色の瞳は笑っている。
 エミールのすぐ傍では、太った黒猫がのっそりと欠伸をしていた。

 ジーンは二人のやり取りをぼんやりと眺めながら、窓の傍で椅子に座って日に当たっていた。外はすっかり初夏になっていた。異臭と人々のざわめきに満たされた都会。慣れることはないが、生きては行ける。一歩外に出れば娼婦と後ろ指を指される身だが、社会の下層でジーンは心に安らぎを得ていた。
 何のことはない、ロンドンでは下を見れば街娼から乞食までもっと酷い生活をしているものが、掃いて捨てるほどいた。それに比べれば高級娼婦など不幸の内に入らない。しかし……

 窓の外には、女の一団が大声で喋りながら歩いていた。
 毛織物組合の女職人たちだ。みんな粗末な服を着て、ぼさぼさの髪だが、その顔は明るく、皆にぎやかだ。
「うらやましいな……」
 ジーンがポツリと漏らす。アイビーが傍に来て、職人の一団を見下ろした
「たしかにね。あの連中は男に頼らずに自分の手で生きていけるからね。でも、あいつら、十代のころから針を握ってるんだ。とても真似できないよ」
 アイビーがそう言って肩を竦めた。
「不自由だね……貴族も……」

「人間なんてみんなそうさ」
 アイビーはあっけらかんと言った。

****

 その日の夜、数人のお供をつけて若い貴族が『蘭の館』に現れた。
 若い男は『侯爵』とだけ呼ばれ、オーキッドまでが下にもおかない歓待をする。『蘭の館』にはパトロンがいると聞いていたが、その男ではないかとジーンは思った。しかし侯爵と呼ばれるには随分と若い。どこかの跡取り息子に違いない。顔立ちはそれなりに整っているが、薄い唇には酷薄な笑みが張り付いている。その茶色の髪を掻き揚げる仕草をみて、ジーンは余りいい印象を持たなかった。

「こちらが黒薔薇です」
 それでも、オーキッドに連れられて若者が目の前に来た時には、ジーンはスカートの裾を上げ、膝を折って挨拶した。
「お前が噂の『蘭の館』の黒薔薇か」
 思いもかけず質問されたのでジーンも答えた。
「はい、侯爵様。黒薔薇と申します」
 答えながら奇妙な胸騒ぎを覚えた。

「今日はあいているのかな? 黒薔薇」
 若者が質問すると、ジーンが答える前にオーキッドが答えた。
「もちろんです、侯爵様」
 今日は別の馴染みがいるので驚いて女主人を見たが、女主人は小さく首を振っただけだった。その待遇のよさにますますジーンはこの男がパトロンではないかと思う。もしそうだとすると粗相は許されない。
「よろしくお願いします、侯爵様」
 ジーンは再び膝を深く折ってお辞儀をした。

 広間では軽く踊ったり(リトルローズに習った踊りだ)、葡萄酒を飲んだりしたが、『侯爵』は相変わらずの酷薄な笑みを浮かべながら、愉快そうにジーンを眺めているだけだった。『侯爵』は浴室に行くのを拒み、身支度をして来るように言うと二階の部屋の一つに入った。
 そう言う客も珍しくはないので、その言葉に従い、ジーンは軽く体を洗って部屋に入った。

「脱がせて貰おう」
 そういわれ、ジーンは自分の羽織っていた絹のケープを脱いだが、侯爵はその荊の巻きついた体を見ても、少し眉を動かしただけだった。それを初めて見る人間の反応としては余りにも大人しい。
 やはりジーンは奇妙に思いながら、『侯爵』の衣類を脱がせていった。凝った刺繍の入った豪華な衣装ではあったが、別段特別なものでもない。しかし、全てを脱がせて全裸にするとどこか違和感があった。

 ジーンは首をかしげながらも男の体にキスをしていく。
 若者の体は筋肉質で鍛え上げられていた。いかにも狩りや乗馬で鍛えられた体だ。ジーンは黒薔薇になりきって、その乳首を舌でねっとりと舐めながら、指を薄い胸毛に絡めるように柔らかく撫でさすった。頃合をみて、そのペニスに触れる。多くの男性器を見てきたジーンにとって、特段変わりのない普通のペニスだが、触ると奇妙な感じがした。

 ジーンは跪いて男性器に口をつけようとしたが、若者は素振りでやんわりと否定し、ジーンを導いてベッドに寝かせた。そのままジーンのツタの巻きついた乳房に口をつける。そして両手で全身を刺激し始めた。ぞわりとくすぐったい感覚が全身の皮膚に走り回る。

(うまい……)
 ジーンは若い男の愛撫に舌を巻いた。すぐに呼吸が荒くなるのを感じる。
「いい反応だ」
 年下の男に自由にされるのも癪だと思い、自分も相手を愛撫しようとするが、やはりやんわりと否定される。
 客に逆らうわけにもいかず、ジーンはそのまま身を任せるしかなかった。

 『侯爵』の執拗な愛撫が続き、ジーンは徐々に体が出来上がってくるのを感じる。若い男は唾をたっぷり乗せた薄い唇で、ジーンの唇をこねる様に愛撫しながら、片手は乳首を、片手は股間を同時に責めた。
「あんっ……ああん……」
 半分は芝居だが、半分は本気で声を漏らす。すでにべっとりと濡れた膣を、グチグチと指で愛撫すると腰が浮き上がるような感覚があった。だんだんと意識に霧がかかり、娼婦の本能で魂は肉体に差し出される。
 男が愛撫を中断しベッドに寝転び、「さあ」というと、ジーンは発情したケモノとして男の逞しい体に飛びついた。

 風呂に入っていない男の体臭に包まれながら、ねっとりと全身を愛撫していく。
 唇から首筋を通って下半身にいたるまで、ジーンは自分の乳房をこすりつけるように押し付けながら、キスしたり手で触ったりして刺激していく。股間にたどり着くころにはペニスは硬く硬直していた。
 他の客と特に変わりもない。いつもなら上手な客との夜は楽しむべきものだ。
 しかし、違和感がある。

 ペニスを口に含むと、ジーンはいつもどおり舌を絡ませて唇で締め付ける、その匂いと感触に陶然となる。ジーンはペニスを舐める速度を徐々に上げていく。いつもと同じ行為だ。行為だが、何かがおかしい。ジーンは口を離そうとすると、侯爵にがっちりと後頭部を押さえられた。
 喉にペニスが詰まって呼吸が苦しくなる。しかし、それが興奮をあおる。ジーンはそのペニスから離れられない自分に気付いた。ペニスを愛撫しているだけで、自分が極度に興奮していく。
 
 何かがおかしい。
 私はこの男のものを以前に舐めたことがある……?

 男が手を離すと、ジーンは反射的に顔を上げて男の顔を見る。どことなく見覚えがある気がする。
「さあ、楽しい時間のはじまりだ」
 自信たっぷりにそう言う『侯爵』の酷薄な笑みにジーンは得体の知れない恐怖を感じ、ベッドの上を這って逃げようとした。その腰をがっちりと捕まえられる。

「ちょっと待って、待ってください」
 ジーンの口からは自然と逡巡の言葉が出たが、男は笑っただけだった。
 がっちりと捕まえた腰を引き寄せ、そのペニスの先端がジーンの膣口に軽く潜る。
「いやっ……いやっ……」
 ジーンの記憶の中に稲妻が走る。
 ずずず、とペニスが潜ってくるとそれだけで巨大な快感の予感に体が震える。その懐かしい感覚。
「さあ、奥まで入るよ」
 男が勝ち誇った声でそう言うと、最後に一気に突き入れた。
「あああ!! だめ! だめぇ!!」
 男性器と女性器がぴったりとはまり、まるで下半身が溶けて相手と一体化してしまったような感覚。下半身全体が熱を持ち、腰から下の全てが性器になってしまったような感じ。

(そんなバカな!! これは!!)
「……ディ……」

「いいや違うよ、ジーン姉さん」
 若い『侯爵』は酷薄な笑みを浮かべた。

(姉さん?)
 ジーンはその言葉の意味をつかむまで暫らくかかった。
 娼婦・黒薔薇を姉さんと呼ぶ人間といえば、リトルローズしかいない。
 しかしジーンなら……

 ジーンは振り返って若者の顔を見た。
(『侯爵』!! まさか、そんな!)
 侯爵の爵位を持つ貴族はそうは多くない。この男が私を姉だというのなら……

「……コール?」
 それは出征前に一度あっただけの、歳が若く病弱だといわれていた腹違いの弟の名だった。

「違うよ、姉さん。……今は僕がシーモア侯爵だ」

****

 ジーンには訳が分からなかった。捨てたはずの過去が突然、巨大な岩石になって上から落ちてきた。そんな感じだった。
「なぜ……なぜ、こんなことが……」
 呆然とつぶやく。
「もちろん、ディだよ。ヤツはもう何年も僕の屋敷に出入りしてたんだ。僕が頼んだんだよ、姉さん。貴女を完全な娼婦として仕込むように。僕の妾に相応しいようにね」

 『侯爵』はずるりと腰を動かした。それだけで喪失感に膣が震える。
「まさか僕の娼館で働いてくれるとは思わなかったよ」
 しかし、ジーンは混乱するばかりだった。

「可哀想な愚かな娼婦にもわかるように説明しようか?」
 そこでズンとペニスを押し込まれる。ジーンはヒッと声を上げた。
「僕が悪魔と取引して、姉さんを自分のものにしたんだよ。もっともディにも別な理由があったようだけどね。フランスから帰ってくる姉さんを異端審問官に売ったのも、そもそも君の双子のアランを落馬に見せかけて殺したのも、僕なんだよ」

 ジーンは棍棒で殴りつけられたような、衝撃を受けた。
「な……なぜ、そんな……」
「僕達の父さんを殺して、僕が当主になるためさ。あたりまえだろう? 先代は僕と母さんの仲を疑って、僕を遠ざけていたんだ。哀れな姉さんを戦場に送り込んでまでね。アランが死んだときに、僕を出征させておけば、姉さんは田舎で平和に暮らしていたのにね」
 ジーンは話が飲み込めずにいた。理解できるはずもなかった。
「もっとも……」
 腹違いの弟は酷薄で邪悪な笑みを浮かべた。
「母さんがあの男を見限って僕の奴隷になったのは本当なんだけどね。実の息子に妻を寝取られたと知った時の父親のあの顔はケッサクだったよ」

「そんな……」
「これで男のアレを舐めることで頭が一杯の愚かな娼婦でも理解できたかい?」
 腹違いの弟に嘲られる屈辱。しかし、またそこでズンと腰を打ち付けられると、背筋を反り返してその快感に耐えなければならなかった。

「……なぜ、私まで……」
「復讐だ!! あの男は僕と母さんが寝るのを目撃して、僕のキンタマを切り落としやがったんだ!! だから、ディに付けて貰ったのさ。あの男の血筋を汚すことの出来るこのペニスを。姉さん、貴女を侍らせて僕の、心の底からの奴隷にするために!!」

(狂っている……)
 ジーンが思ったのはそれだけだった。母親と寝る? 父と腹違いの兄を殺す? 私を奴隷? どれ一つとっても異常すぎる。腹違いの弟は既に狂っているのだ。
 熱っぽくまくし立てる弟に狂気を感じ、咄嗟にジーンは逃げようとしたが、背後からがっちりと捕まれた腰はびくとも動かない。

「さあ、姉さん。貴女は僕の妾になるんだよ」
「……汚らわしい!!」
「そうかい?」
 血の繋がった弟が、軽く腰を振る。ジュポジュポと音がして快感が湧き上がる。それは確かにディの物だった。魂がどれほど拒否しても、肉体が渇望している。
「このペニス、散々に姉さんを犯したペニスなんだろう? どうだい、馴染みの味は? 僕もね、ディに教わったんだよ。人の陥れ方も、拷問の仕方も、女の抱き方も、もちろん姉さんの急所も、ね」
 『侯爵』は腰をぐっと下げて背後からズンズンと突いてくる。それはディがジーンを責める時によくやったやり方だった。

「やめて!! やめてぇ!!」
 ジーンは自分が、血の繋がった弟に追い詰められる予感に悲鳴を上げた。
「すばらしいよ、姉さんは。女の身で戦場に立ち、修道僧に犯され、悪魔に犯され、それでも娼婦をして生きるなんて。普通の女なら、何度、舌を噛んでもおかしくない」
 弟の腰使いは完璧だった。ジーンがどれほど身を売ってもこの感覚をくれたのは悪魔以外にはいなかった。血の繋がった弟との情交。ジーンはグイグイと急所にペニスを捻じ込まれる、その尿意を伴う快感に下半身が痺れていくのを止めることが出来ない。思わず股間に手をやったが自分の肉体が、ペニスを咥え込んで涎を垂らしているのを自覚させられただけだった。
「ああ……あぁん……」

 気が狂いそうな憎しみが、正面から肉体に押さえ込まれていく。
 今までの苦しみの記憶の全てを、憎しみの火にくべようとするが、その前に快楽の炎に燃やし尽くされてしまう。
「この、ケダモノ!! ……ああぁ……この畜生め!!」
 ジーンの呪詛の言葉も、狂気の弟には、褒め言葉でしかなかった。
「そうだ、僕はケダモノだ。お前もケダモノだ! 血の繋がった弟に犯されて、気持ちよくてしかたがないんだろう?!」
 
 バシーン! と音をたてて、『侯爵』はジーンの尻を平手で打った。
「ああぅ!!」
「そら、打たれるのがいいんだろう! ほら! もっと泣き叫べ!!」
 バシーン! バシーン!! と尻を打ち続ける。
「ううぅ!! くうぅっ!!」

 何発も何発も打たれ、だんだんと尻の感覚がなくなり、暖かい感触と女性器のさらに奥の内臓に響く衝撃だけが残る。体中から汗が噴出し、得体の知れない感情の奔流が魂を混乱させ、肉体の支配を強める。ベッドのクッションに爪を立て、抗おうとするが、それが快感に変わっていくのを否定することが出来ない。

 ジーンの魂は頑強に抵抗したが、それは肉体により強い快感をとどめるだけだった。

 砂浜に作った砂の堤防が、いつかはそれを超える大きな波に壊されてしまうように、ジーンの抵抗も寄せては返す快楽の波にいつかさらわれる運命にあった。

 どれほどの時間がたったのだろうか。
 ジーンの魂は永遠と思われる快楽の縁で絶望的にもがいていた。
 血を分けた弟との性交で絶頂だけは迎えたくない。しかし、これほどの快感を得てしまっているのにいまさらそれにどれほどの意味があるのか。
 諦めてしまいたい。しかし、どうしても心はそれを認めない。

 打ち込まれるペニスは硬さを失うことなく、その動きは力強さを失う気配もない。
 自分の泣き叫ぶ声すら、遠くに聞こえる。

 その時、男の吼える声が聞こえた。
「おおぅ!! おおおぅ!! ほら、出してやるぞ!!!」
 男が射精する! これで終わる!!
 ジーンがそう思った瞬間、胎内のペニスがぐっと反り返り、その先から噴出した熱い液体が、ジーンの内臓を打った。
 不意に、ピュッ!とジーンの体内から熱い液体が迸った。
(……あっ)
 ジーンはベッドに出来た染みを見た。
 その瞬間とてつもない快感が押し寄せた。

「だめぇ!! だめっ!! だめぁぁ!!!」
 悲鳴を上げて、下半身を手で押さえるが何の効果もない。全身の自由が利かずガクガクと痙攣し、肉体がまたも勝利の雄たけびを上げた。
「あっ!! あああ!! いやああああぁ!!」
 かつてない快感が全身を満たし、目の前が真っ白になる。光に囲まれ、体は重さを失い、すべての音が消えた。
「ああ! ああ! ああ! ……ああ……あぁ……」

 ……ズン、ズン。
 終わらない衝撃に正気に戻ったジーンは、今度は正常位で弟を迎えさせられていることに気付いた。
 一度目の性交の精液と、自分の吐き出した液体で下半身は既にべっとりと濡れている。
「すばらしい……すごく締め付けてるよ……姉さん」
 血の繋がった姉を犯す興奮に目を血走らせ、『侯爵』は口から泡を飛ばす。

「ウウゥーー!! ウゥゥーー!!!」
 ジーンは歯を食いしばって首を振り、身を解こうとするが、足に力が入らない。
 すぐに下半身全体に生暖かい感覚が溢れ、徐々に反り返って硬直していく。

「あああああ!!!」
 抵抗するまもなく二度目の絶頂が訪れる。空気を求めて喘ぐが、深く呼吸が出来ない。
 ジーンは無意識に足を弟の腰に強く巻きつけ、その絶頂の快感に震えるしかなかった。ジーンの気持ちに反し、女性器はその馴染みのあるペニスを締め付け、精液を搾り出そうとする。
 それでも弟は動きを止めない。

「いやっ!! もういやああ!!! やめて!! やめて!!」
 ついに哀訴の声が漏れた。しかし、その声に反しいつの間にか腰がうねうねと動いている。黒い荊のツタが、その表面で生き生きと這い回る。
「お前が欲しがっているんだ……わかってるんだろう?」
 息を荒げながら弟が言う。弟はジーンの頭を押さえつけ、無理やり口づけし唾液を流し込む。ジーンは抵抗することも出来ずそれを飲み込んだ。実の弟の唾を、嚥下する目も眩むその背徳感。
 『侯爵』はジーンの乳首を思いっきり抓んだ。

 激しい痛みは、しかし、ジーンの体には快感となった。
 雷が腰骨に落ち、背骨が折れんばかりに反り返る。

「あぁああぁ!! ああ!! ああ! ああ!!」
 ガクガクと体を揺らして三度目の絶頂を味わう。その締め付けと同時に、再び血の繋がった弟のペニスが跳ねた。大量の液体が噴出し、女性器に収まりきらず溢れかえる。その感触のまごうことなき快感にジーンの脳髄が灼かれた。

 そして、ジーンの精神は深い闇に堕ちた。




◆ Duel(決闘)

 その日のロンドンは珍しい雷雨だった。
 夜空に轟音を響かせながら、雷光は我が物顔で空を走り回る。

 壷や絵画、美しい調度品で飾られた部屋の中央に、瀟洒なベールで覆われた天蓋。その下にある豪華なベッドの上で一組の男女が汗みどろの交合を繰り返していた。
 そこは、シーモア侯爵家のロンドン別邸の寝室だった。

 ガチャリとドアが開いて一人の女が入ってくる。
 男は自分が抱いていた女を横へ退くように言うと、ベッドの縁に腰掛けたまま女の方を向いた。しかし、入り口の付近は暗くてシルエットしか見えない。

「来たね、姉さん」
 若い当主は満足そうに言った。
「申し出は受けてくれるのかい?」

「ああ……」
 ジーンは言った。
「……私はお前の妾になろう」
 あの日、ジーンは完膚なきまでに服従させられてしまった。一度、受け入れさせられてしまうと、肉体は弟を求めるようになってしまった。何度、拒否しようとしても、泣き叫んでも、もみ合っているうちにいつの間にか受け入れて、屈服してしまう。
 弟は去り際に、娼婦・黒薔薇として自分の妾になるか、『蘭の館』を追い出されて放浪するか選択しろと告げた。
 残酷にも最後にこう付け加えた。
「姉さんの代わりに、姉さんの連れているという少年……男娼というのも面白いな」
 一介の娼婦に落ちぶれてしまった女が侯爵の社会的制裁に逆らえるはずもなかった。
 次の日、ジーンは迎えの馬車に乗るしかなかった。

「……ただ、一つだけ聞かせて欲しい」
 雷鳴が閃き、少し遅れて轟音が鳴り響く。その明かりに照らされてジーンのシルエットが明らかになった。
 長かった褐色の髪は肩口でバッサリ切り落とされており、その手には血に濡れた短い剣があった。紅いドレスは動きやすいようにスカートがちぎられている。
「……ジョーンズたちを……私の部下だった者たちをどうした?」
 血の繋がった弟を睨み付ける目は、扉の前の見張りを殺した興奮に彩られていた。

 弟はいつもの酷薄な笑みを浮かべていった。
「もちろん始末した。アランはフランスで戦死したことにしたかったからね」
 若い当主は枕もとの剣を手に取って立ち上がった。
「そうか……では、約束どおりお前の妾になろう……地獄で!」
 ジーンが小剣を構えた。

「娼婦ごとき下賎が、名誉ある決闘を汚すのか? 何のために?」
「こんな私のために死んでいった部下達への手向けだ」
 当主は嘲笑した。
「貴様のような穢れた娼婦が死んでやったところで、騎士の魂は救えまい」
 当主は侮蔑をこめてそう言うと、鞘を抜き放った。

「戦場に出たことのない男が、騎士を語るのか?」
 ジーンが侮蔑を返す。それが、弟の怒りに火をつけた。
「娼婦に落ちぶれた分際で……まあいい、手足の欠けた妾も面白いかもしれない」

 その言葉が終わる前にジーンは動いた。見張りの血を吸った剣が血を分けた弟を襲う。
 しかし、スカートの裾に隠し持つための小剣だったので一歩及ばない。当主は易々とその剣を弾き飛ばすと、少し広い場所に移動した。

 その剣捌きを見てジーンは相手が強敵であることを悟った。病弱な弟だと聞いていたがとんでもない。全裸に剣を持った姿の自然さを見ても、剣術の基礎ができている。体格、リーチ、武器のどの点をとっても不利だった。
 一方、当主のほうもジーンの斬撃の鋭さに驚いていた。長身とはいえ非力な女の身で、圧倒的に不利な小剣でありながら、微塵も躊躇わず飛び込んでくる。実戦で鍛えられた戦場の剣だった。若者にとって直接の命のやり取りは初めてだったが、生来の残虐さを悪魔によって開花させられた男は、その興奮に酔いしれた。

 弟の圧倒的な腕力は、一合、二合と剣を付き合わせるうちにジーンを後退させた。あっという間にビリビリと剣を持つジーンの腕が痺れてくる。鎧も盾もない状態での斬り合いは激しく消耗した。
 しかしジーンはチャンスを待っていた。

 『侯爵』は初めての直接の殺戮の予感に興奮しながらその剣を振るう。ジーンの動きは鈍ってきており、勝利は目前だった。

 ジーンが不用意に斬撃を剣で受け、刹那、バランスを崩す。
 血を分けた姉の腕を、切り落としてやろうと当主は大きく振りかぶって斬りつけようとした。その瞬間、長剣がベッドの天蓋に当たった。ベッドの天蓋は呆気なく破壊され、剣はそのままジーンに向かったが、その一瞬はジーンにとって十分だった。

 ドン、と肩から体当たりをして弟の体勢を崩すと、剣でその腹を斬りつけた。
「グオォォォォ!!」
 若い当主はケモノのような声を上げる。感触はあったが、致命傷ではない。ジーンは今度は急所を切りつけようと体勢を立て直した。

 その時、突然、横から人影が飛び出した。
 纏わり付く女を、咄嗟にかわす。その時、雷光が閃いた。

 窓から差し込む光に照らされた中年女の裸身は、一瞬血まみれに見えた。
 刹那、我を忘れて、その姿に息を呑む。それは血ではなく真紅の荊だった。ジーンのそれと同じように真紅の荊がその全身を縛っている。その荊の量はジーンよりもずっと多く、その棘のあるツタは首筋から下をびっしりと覆っている。刺青を体の隅々まで入れられる苦痛がどれほどのものか、ジーンは本能的に察知し、微かに竦んだ。
 女がジーンを睨みつける。その女の泣き顔に見覚えがあった。
(……義母上さま?)

 その瞬間、胸に、剣が突き刺さった。

「ウッ!!!」
 冷たい鉄の刃は、灼熱の塊となり、恐ろしい痛みが破裂する。目も眩むような寒気が襲い、吐き気がした。

 しかし、痛みはジーンにとっては長年の馴染みだった。

 冷静にその痛みを心から締め出すと、ジーンは、勝利の確信に目を輝かす血を分けた弟の首筋をめがけて、剣を振り下ろした。
 当主は「グッ」といううめき声を上げるのが精一杯だった。
 動脈が切断され、吹き上がった血が天井まで濡らす。

「コール、コール!!」
 義理の母の絶叫が部屋を満たす。母親はその真っ赤な体は、実の息子の血で更に紅く染まり、必死で息子の傷口を手で押さえるが、その隙間から吹き出す血は一向に減らない。半狂乱に息子の体にすがりつくが、その当主の半開きの目にはもう生者の光はなかった。

 母親のけたたましい声を避けるように、ジーンはその部屋を後にし、階下に人の気配を感じて廊下の端からバルコニーに出た。

 雨は収まっていたが、強い風に雷雲が流れていく。
 ジーンはバルコニーの端まで行くと、そこに座り込んだ。

 着ている衣類は、弟の血と、そして自分の胸の傷口から溢れる暖かい血で、ぐっしょりと濡れていた。指先が痺れ、目の前が暗くなっていく。
(仇はとったぞ)
 ジョーンズ……マコーリー……ワイルド……。自分の部下達の顔が脳裏を横切っていく。この家の家督争いに巻き込まれ、戦争が終わった後に、祖国で無残に散っていった騎士たち。自分自身を含めた家族や兄弟のことは別としても、その事だけは見逃すことはできなかった。

 あれ程、憎んだ戦場だったが、今は部下達と一緒に冗談を言い合ったり、矢投げや賭博に興じた数少ない楽しかった事しか思い出せない。
 風がジーンの首筋を撫で、ここに来る前に切り落としてきた短い髪を撫でる。戦場では当たり前だったその感覚に、今は喪失感を感じた。

 胸の痛みは耐えがたく、血の気が体中から引いて、しんしんと寒さが身に沁みてくる。
(いよいよ、私の番か)
 ついにこの惨めな人生は潰えるのだ。

 一緒に未来を誓った男の顔を思い出す。
(ねえ、ロイ……あなたに会える……?)
 そう思い、首を振る。自分が地獄に落ちるなら、会わないほうがいいだろう。

 自分はここで死ぬという確信。
 それは酷く悲しい気分だった。

 
 その時、一陣の風が吹き、雲が割れて月光が差し込んだ。

 目の前に二人の男が立っていた。




◆ Game(ゲーム)

「ひさしぶりだな、ジーン」
 懐かしいバリトンの低く美しい声。あれほど怖れていたのに、今、その声を聞くと自分はそれを待っていたような気もする。

 久しぶりに見る悪魔はありふれた粗末な衣服をまとっており、その後ろにはデイビット神父の姿があった。

「今日で……終わるんだな……」
 ジーンは胸の痛みに喘ぎながら、言った。
「そうだ」
 ディは率直に認めた。いつになく静かな口調だった。
「そうか……」
 ジーンには何の感慨もなかった。心のどこかでそんな気がしていた。

「前もって言っておこう、ジーン。俺達、悪魔は人間がどうなろうが興味はない。良心もない。それでもお前には憐れみすら感じる」
 ディはその暗黒の瞳でジーンの死に逝く瞳を見て、手を差し伸べた。
「手を取れ、『黒薔薇』。お前を癒してやろう」

 ジーンは目を閉じた。
 
 弟を殺した罪を背負って、娼婦として生きる。それが信仰を捨てるということなのか? そんな簡単なことが?
「エミールと暮らしたいんだろう?」
 悪魔のその言葉に、エミールの笑顔を思い出す。美しいはにかむ様な天使の笑み。
 切ない気持ちが胸の奥から溢れ、消え逝く心を満たす。

 ジーンはゆっくりと目を開けると、小さく首を振った。それだけで激痛が走った。

「私の……私の養父は……絵の好きな人だ……。エミールの面倒を……見てもらえるように……髪の毛と一緒に……私の遺書を……送った」
 ディは黙っていた。
「本当は……もっと早く……そうする……べきだった……。だが……できなかった……。私は……エミールなしでは……生きて行けない」
 喉の奥から熱い塊がこみ上げる。無理やり飲み込むと血の味がした。
「私の……弱さが……エミールを……手放せずに……」
 そこで、息を吸った。

「ディ……私は……お前に……感謝……している……のかも……しれない。娼婦は……悪くなかった……」
 娼婦・黒薔薇として過ごした三ヶ月間。エミールや同じ娼婦達に囲まれて、ジーンは安らぎを得ていた。男達と夜を共にし、体だけでも求められるのに不思議と心は救われていた。

「お前に……勝たせて……やってもいい……ぐらいだが……私は……ここで……死ぬ……べき……」
 そこでジーンは呼吸を求めて喘いだ。
 ディは差し出した手を引っ込めると、肩を竦めた。

 その時、とことことジーンの目の前に黒い猫が進み出た。

 場違いな黒猫の出現に、ジーンの心臓がバクバクと音を立てて鼓動を始めた。
 それは娼館にいた太った猫だったが、修道院にいた痩せた猫と同じ目をしていることに、突然に気付く。

 その瞬間、頭の中に閃光が走った。
 自分が生まれたときに不吉な予言をしたという黒猫を抱いた老婆、
 異端審問の囲みを破ろうとした時、足元に飛び出した黒い猫、
 修道院にいた痩せた黒猫、
 『蘭の館』にいた黒猫。
 ことあるごとに姿形を変えて現れる黒猫、黒猫、黒猫……。
 なぜ気付かなかったのだろうか? 猫にあるはずのない光を反射しないその漆黒の瞳に。

 例えようもない暗い闇の瞳に吸い込まれるような錯覚を覚え、はっと気付くとそこには美しい女がいた。
 漆黒の蜘蛛の糸のように細い腰まで流れる髪。その白い肌は月光を受けて、まさに透き通っているかのようだった。すらりと背が高く、一糸纏わぬその裸体は神々しいまでの美しさを誇っている。しかし、その顔は整いすぎて印象が薄く、その漆黒の瞳だけが見るものの心を捉えるのだった。
 猫から変化した魔性の女の、その人ならざる美しさと、男女問わず誘惑する尋常でない妖しい色香に、ジーンの魂は根源的な恐怖を感じた。

「ジーン、ああ、ジーン。もちろん、アナタはそう言うのね。その高貴な心で……」
 ゾッとするような色っぽい声。あらゆる娼婦の睦言を軽く凌駕する色気は、人間の限界を超えた濃密さで人の心に纏わりつく。
「でも、この子の意見も聞くべきじゃないかしら?」

 女の足元にはいつの間にか少年がいた。

「エミ……ル」
 なぜここにエミールが、と言いたかったが、体も口も動かすのが億劫になっていた。
 エミールはジーンに駆け寄り、その大きな傷口と、真っ赤に染まった衣類を見る。みるみるうちに目に涙が浮かび、無音のまま泣き始めた。ヒューヒューという呼吸音しかしない、その声なき泣き声はジーンの心を締め付けた。

「エミール……」
 ゴボリと血の塊がこみ上げ、胸元を濡らす。しかし、ジーンは言わなければならなかった。
「一緒に……お前の……故郷に……いけなくて……すまない……」
 呼吸を求めて喘ぐ。言いたいことはたくさんあったが、言える言葉はもう少ない。
「エミール……幸せに……」
 あと、一言。
「愛してる……」
 ジーンはそれだけ言うと、ぐったりと力を抜いた。悪魔も猫ももうどうでもよかった。

 パタパタと頬に熱い水滴が落ちる。すぐ目の前でエミールがその美しい顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。ジーンは最後の力を振り絞って手を上げた。エミールはその手にすがり付くと、声なく、咽び泣いた
(N・O)
 ジーンはエミールの口がそう動くのを見た。どうにかしてやりたかったが、もう何もしてやれない。
(N・O!!)
 エミールは首を振りながら、無音で叫ぶ。
(N・O!!!!)
 ジーンの手が折れるほど強く握り締めた。
「NOoooooooooooo!!」
 
 死に行くジーンの耳に初めて響く甲高い声。間をおいて、それがエミールの声だと気付いた。
「NOoo! NOooo! NOooo!」
 エミールが夜空の月に向って叫ぶ。エミールを見上げているジーンはその喉の傷がみるみる内に消えていくのを見た。
 そして、その透き通った美しかった青い瞳がインクを流したように黒々と染まっていく。何も反射しない漆黒の暗闇へ。悪魔の瞳へ。

 ジーンは愛する者が人外の存在へ変貌していくのを、呆然と見つめた。

「信仰からは背徳、希望からは絶望……そして、愛情からは快楽」
 女がその尋常ならざる色気を含んだ声で熱っぽく歌うように語る。
「大きすぎる感情は人を悪魔に変貌させる。疎ましき正反対の感情を食いつぶすために。しかし、いずれは知るのよ。その感情が自分の力の源となり、それを喰らわずには生きてはいけなくなってしまっていることを。……残酷でしょう、ジーン。美しいほどに」

 誰もを発情させずにいられない、その漆黒の妖しい瞳でジーンを見つめながら、女はエミールの傍に立った。
「エミールちゃん、アナタの力はまだ弱いわ……このヒトを救いたいなら……わかるわね?」

 女はエミールを背後から抱きかかえると、いつの間にか全裸になっているエミールの股間に手をやった。
 そこは見慣れたエミールの股間と違い、若々しい血色のいいペニスが存在する。女はそのペニスをその細く長い指で絡め取ると、恐るべき巧緻さでそれをうねるように扱き上げた。エミールは悲しそうな顔でなすがままになっていた。
 エミールのペニスが完全に起立するころには、いつの間にかエミールの背丈が一回り大きくなっていた。体つきも逞しくなり、中性的だったその体は、どことなく少年ぽさが残るものの、すっかり男のものになっている。それは十四歳の本来のエミールの姿だった。

 女はジーンのほうへ意味深な流し目を送ると、逞しくなったエミールに巻きつくように抱きつき、滑らかな手つきで、そのペニスを股間に導き、ズブズブと呑みこんで行った。
「あぁん……すてきよぉ……エミールちゃんぅ……」
 快楽の化身が洩らす欲情の声。それはいかなる聖者も心も打ち砕く恐ろしい毒に満ち、力なく横たわるジーンにすらゾクゾクとする悪寒を感じさせる。
 女は恐ろしく淫靡な腰使いで下半身を波打たせながら、上半身はその形のいい乳房で、青年エミールの逞しい胸板をたっぷりと弄る。
 エミールは女の細い腰を抱きとめ、漆黒の悲しい目でジーンを一瞥すると、目を閉じて、その女と唇を合わせ、熱い抱擁を始めた。グチョグチョという淫靡な音がして、匂い立つ濃密な妖しい空気が二人を包む。

 ジーンの目からはいつの間にか涙が溢れていた。なすすべなくその淫靡な光景を見ながら、何も出来ない。これほど自分を苦しめる魂の拷問がこの世にあることが信じられなかった。早く死にたい。殺して欲しい。

 しかし、この拷問はもっと残酷だった。

 ジーンは徐々に呼吸が楽になっていくのを感じる。死にたいという思いとは裏腹に、暖かい何かが自分の肉体に注ぎ込まれて来る。麻痺していた傷口に再び鋭い痛みがよみがえり、そして徐々に疼きに変わっていく。
 その感覚には覚えがあった。
 修道士達に受けた傷をディに癒された時と同じ感覚。しかし、あの時よりも傷の治りは遅く、まるで何かが少しずつ搾り出されているようだった。いや、実際それは搾り出されていた。
 ジーンは自分に注ぎ込まれる暖かい感覚に、エミールを感じた。

 エミールという人間の本質が、快楽という感情を通してエミールから搾り出され、それがジーンを癒すために消費されていた。
 ジーンの傷が癒える事はエミールという人間が消えていくことを意味していた。

 ジーンは立ち上がろうとして体に力を入れるが、目も眩む痛みと共に、治りかけの傷口が開いてしまう。するとその傷口を癒し、ジーンの命を繋ぐために、さらにエミールから力が注がれる。エミールの感情を、感性を、魂そのものを削りながら。
 ジーンはその残酷さに慄きながらも、指を咥えたまま見ていることしかできなかった。
 女は、聞くに堪えない淫ら過ぎる喘ぎ声を上げながら、ますますエミールとの情交を激しくしていった。

 そして、終に
 最愛の存在が、自分のために掻き消えていく事実に耐え切れず、
 ジーンの心は絶望に閉ざされた。




◆ The Judgement(審判)

「俺の勝ちだ。神父!!」
 ディが落ちていたジーンの小剣を取ると、デイビットを突き刺した。
 デイビットをディから守っていた因果の鎖は、勝負に負けたことによって砕け散り、剣はやすやすと神父の体を貫いた。

「お前の選んだ魂は、今、この『神の作りたもうた』世界に絶望し、すべてに背を向けた。お前の負けだ、神父」
 デイビットの口から血が吹き出し、僧侶服を濡らす。
「なかなか楽しかったぞ、神父。この女からはたっぷり背徳を食わしてもらったしな」
 そう言うと、ディは小剣を抜いた。

 神父は支えを失い、その場で膝を突いた。

「秩序の番人を失った今、因果律は崩壊し全ては混沌に帰すのだ。あの呪われた神の教えとともに」
 ディは高らかにそう謳い上げると、空に向って哄笑した。

「では……ディ……」
 神父は傷口を押さえながら苦しそうな声を出した。
「私からも……貴方に……別れを告げましょう……」
 ディは神父を振り返った。

「貴方は……秩序を守る……あのお方の……残していかれた……力を……神だと……思っている……」
 ディは無言で少し興味深そうに神父を見つめた。
「だが……力は……力……。神では……ない……」

「力は……秩序を望む……人々の……意志を吸い上げ……因果を紡ぐ……。しかし……力は……力……。その……力が……この世に……あることが……神の意志……。神の……愛は……光となり……この世界を……守る……。人々が……それを……祈る限り……」
 ディは苛立ちを露にした。
「お前の詭弁はもう沢山だ。何が言いたい、神父!!」

 そこで神父はよろめきながらも立ち上がった。
「愛情から快楽……信仰から背徳……そして、絶望から……希望が……」

 ディはその言葉を聞いて、暫らく止まった。そして、振り返った。
「まさか!!」
 視線の先には、ジーンがいた。
「まさか!!!」
 ディは前に進もうとするが、強い抵抗を受けてあとずさった。砕け散ったはずの目に見えない因果の鎖が自分を取り囲んでいる。

 ジーンが目を開く。そこには茶色の瞳ではなく、光り輝く白銀の瞳があった。

 神父が叫んだ。
「祝福せよ!! この地に降り立つ新たな聖人の誕生を!!」
 そして、デイビットは血を吐いて崩れ落ちた。

「バカな! 気付かないはずがない!! そんな巨大な因果の流れを、見誤るはずがない」
 ディは力の限り進もうとするが、立ち上がる聖者の、因果への干渉に押し戻される。足を前に出すことと、前進することの因果すら既に相手の支配下に入り、ディには手が届かない。

「もちろん、そんなことはありえないわ。……誰かが傍にいて邪魔しない限りわね」
 快楽の悪魔が、その色気のある声で熱っぽく吐き出した。足はエミールに巻きつけたまま腰をくねらせ、エミールの人間としての本質の最後の一欠けらを搾り取るところだった。
「貴様!! 悪魔の身でありながら『秩序』に組するのか!! 羊のくせに牧羊犬に媚を売るのか!!」

「あら、牧羊犬に逆らって群れからはぐれた羊は、いずれ狼に食べられてしまうものよ」
 快楽の悪魔は少しすまなさそうに肩を竦めて言った。
「この戦争はちょっと長引きすぎたわ。そろそろ暗黒の時代も終わるべきでしょう? アナタには見えないかしら? 来るべき快楽の時代が」
 そう言って、傍らの、生まれたばかりの悪魔にキスをしてから、背徳の悪魔に蕩けるような流し目を送った。
「アナタはまだ若いわ、『背徳』さん。ゲームはもっと楽しむものよ。次を楽しみにしているわ」

「俺は認めないぞ!!!」
 背徳の悪魔はジーンに向き直った。

「まだだ、まだ力が弱い。今のうちなら、まだ倒せる。この女だけは、この女だけはこのままには!!!」
 ディは、自分が千年以上の長きに渡って背徳を拾い集め、それを練り上げたありったけの力を持って、刻々と因果律が変貌し続ける『世界』を、その身に纏った白銀の瞳を持つ聖人に飛び掛った。

 女悪魔はかつてエミールと呼ばれたもう一匹の快楽の悪魔の手を取り、力の奔流に巻き込まれないところまで一目散に逃げた。




◆ Epilogue

 フランス・ロレーヌ地方


 二匹の悪魔は小高い丘に立ち、眼下の村を見下ろしていた。
 いかにも貧しい村で小屋は古ぼけ、人々は痩せて、薄いボロを纏っていた。
 今日もまた流行り病に死んだ子供の葬儀の列が行くが、人々にとってそれはいかにも日常であるかのように、皆、静かに自分達の生活を続けていた。

 かつてエミールであった青年の姿をした悪魔が、抱いていた少女を地面に降ろした。少女は死んだように眠っている。

「びっくりしたわ。『背徳』のにあそこまで力があったなんて』
 女の姿をした悪魔が言った。
「まさかあの因果律の塊をここまで抑え込めるなんて予想できなかったわ。まぁ、力を全て使い果たしちゃったようだけど……」
 青年の悪魔は黙って、地面に横たわらせた少女の傍に跪き、その少女を見つめていた。

「ワタシ、あの聖人の力の使い方を見て、ひとついいことを思いついたわ。力を集中して小さな世界を作りこめば、その中では自分達で因果律を支配できるかもしれない。一人じゃ無理だろうけど、アナタと一緒ならきっと出来るわよ。小さな『部屋』ぐらいの大きさで十分なんだし」
 そして、ブツブツと呟きながら、首を捻る。
「あぁ、次の『覚醒』はまだまだ先だけど、かなり面白くなりそうね。楽しみだわ」

 しかし、青年の姿をした悪魔はずっと無言だった。

「……アナタ、このコを恨んでいるの? 自分を残して絶望したことを」
 青年の悪魔はハッと女の悪魔をみて、再び目を落とし、軽く首を振った。否定というより、分からないという意思表示だった。
「あそこまで頑張ったんだから、良しとしてあげなさいよ。それに、気に病むことはないのよ。どうせ、すぐにどうでもよくなるわ。人としての感情がなければ、人間の記憶もただの記録に過ぎないのだから」

 青年は眠っている少女を見つめたままだった。

「行きましょう。これ以上このコの傍にいれば、私たちまで因果の渦に飲まれてしまうわよ」
 その声で青年は立ち上がった。女の悪魔は空気の味を確かめるようにペロリとその真っ赤な舌を出して宙を舐めた。

「もう次の『覚醒者』にむけて、因果が流れているわ。トルコなんかより、ずっと東みたいね。うふふ、きっと楽しい旅になるわよ」
 女は青年にその熱い唇で、軽くキスをすると、歩き始めた。

 青年は少女をもう一度だけ見つめ、
 やがて、背を向けて、歩き始めた。


****


 村の中心を、葬儀の棺が行く。
 両親と四人の兄姉たちは、その末娘の死を嘆いていたが、他の村の人間達は葬列が通る時こそ気の毒そうな顔はしても、どちらかといえば無表情だ。どの道、死は日常茶飯事のことだった。

 葬列は村はずれの墓地に、病で死んだ娘を埋葬し、村人達は引き上げて言った。
 父親ジャックは、悲しむ母親を置いて、一度子供を家に帰し、再び自分の妻を迎えに行くために墓地に向った。

 他所の子が死ぬのには慣れても、自分の子が死ぬのにはさすがに悲しかった。乳が出ないなか苦労して育てた妻のイザベルの落胆は察して余りあった。

 ふと、ジャックは道端に少女が座っているのを見かけた。村では見ない子だった。年のころは丁度、死んだばかりの末娘と同じぐらいだった。

 ぼんやりと雲を見ている少女を見て、ジャックは放っておけず、声を掛けた。
「おい、おめえ……道に迷ったのか……?」
 少女はジャックの方を向きぼんやりとジャックの顔を見て、それから首を振った。
「家族は、どうしたい?」
 少女はまたも首を振った。
「捨てられちまったのか?」
 ジャックがそう言うと、少女は少し考えたような顔をし、曖昧に頷いた。

 顔は薄汚れボロを纏っているが、一見、健康そうで、器量も悪くなさそうな少女だった。すぐにでも農作業を手伝わせることが出来そうなぐらいだ。それに、イザベルも喜ぶだろう。そう思ってジャックは言った。
「おめえ、ウチに来るか?」
 少女はぼんやりとジャックの顔を見た後、小さくこくりと頷いた。

「お前、名前はなんてんだ」
 ジャックの質問に、少女は小さな声で答えた。
「……ジーン」
 農夫ジャック・ダルクは怪訝な顔をした。
「なんだそりゃ。イングランド人みてえな名前だな」

 そういうと、少女は少し考え、言い直した。

「……ジャンヌ……」

 後に『オルレアンの乙女』と呼ばれる少女の、
 その悲運の人生を、知らないものはいない。



(Fin)

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