「良かったな。明日には退院できるって」

医師を送り出して戻ってきた彼が、言った言葉。

体はあんなに痛かったのが嘘のように、何も感じない。
具合も悪くないし、ここにいる理由がないのはわかる。
でも、呆然としてしまった。

彼がいれば、出ていけそうだと思ったのは昨日だけれど。
こんなにも早く出て行く時が来るなんて思ってもなかった。
この、四角い世界から。
時折嵐に見舞われるが、それでも安心していられる場所から、何があるかわからない外の世界へ。

あの、白い扉。

あの先で待ち受けるものは、もっと酷い嵐のはず。
怖くて恐ろしい、世界。
苦痛と圧迫を齎す人たちがいる世界。

何よりも、あの扉の向こう側でも彼はいてくれるのだろうか。


「大丈夫だ」


はっとして顔をあげると、やさしい藍色の瞳が間近にあった。
タオルを持った彼が、熱くもないのに額を伝う汗をぬぐってくれている。


「何も心配することはない。大丈夫」


向こう側でも、ずっと傍にいてくれるってことなのか。
月がよく見える部屋だから、降り立ってくれたのではなくて…?


「大丈夫。ちゃんといるから」


やわらかな微笑みに、体から力が抜けていく。
彼も、向こうの世界にいる―――そのことに酷くホッとした。


そして、気付いた。
あの扉から彼はこの世界へとやって来たということを。












amnesia 11  












心地よさ気に目を細めて、新一は心地よい手のぬくもりを受け入れる。
快斗の行為に驚くこともせずに、むしろ安堵した表情を見せてくれたから。つい、欲に走ってしまいそうになる。
何といっても目の前には仄かに色づく唇があって、誘われているとさえ思ってしまう。新一と逢瀬を重ねてからこの方、口付けたいと思えばいつだってその通りにしてきたのだ。
堪え性がないわけではないが、先ほど明るい光のもとで拝むことができた白い肌のこともあって自制心は切れやすくなっている。
快斗は穏やかな顔の下で苦笑しながら、早々に新一を眠りへと誘うことにした。

額から耳元を擽って、首へと。首から顎の線をたどって、頬へと。
次第に、指先が触れ合うくらいの微かなものへと変わる頃には、新一はゆるやかな寝息をたて始める。

「ゆっくり、おやすみ」

ブランケットを肩へと引き上げながら、吐息をぬすむようにそっと口の端にキスをする。
今は、意識のないときにしか許されないから。
思い出して欲しいと焦ることもなくなったせいか、快斗は幾分のんびりとした気持ちで現状を受け入れている。
新一の心が全て快斗に向けられているとはいっても、恋愛の領域でないことくらいわかっている。もう一度恋愛を始めるのは、新一が日々の生活をただの日常として捉えられるようになってから。
記憶を失う前と同じく、快斗には愛される自信も自覚もある。だから、時の流れるままに身を任せてもいいと思っていた。



「…………」

慌しい朝を彩る様々な音の中に、快斗は一つの足音を意識に止めた。
おどおどとして尚且つ擦るような足の運びは自ずと疚しさを伝えてくる。それが、昨日と同じものであるのは容易に知れた。

昨夕、志保を自宅へと帰したのは疲労困憊していたせいもあったが、今まで付きっきりだった彼女が新一の傍を離れることで犯人が行動を起こしてくると踏んだのだ。
しかも、付き添う必要がないくらい回復しているとなれば、記憶が戻るのもそう遠くないと思うだろう。即ち、自分の命運が尽き掛けていることに切羽詰まって、生きた心地がしないはず。
快斗としては、もうしばらくは飼い殺しのような状態に置いておきたかった。けれど、証拠の一端を掴んでいる高木が先に犯人にたどり着いてしまっては台無しになってしまう。

(事実を知るにはインパクトが強いほうがいいし、自分たちの間抜けさがよくわかるってもんだ)

新一の額にそっと口付けて、快斗は音もなく立ち上がる。
空気をも揺るがさずに扉に近付くと、思い切りよく開け放った。
突然の扉の消失に、寄りかかるようにして中をうかがっていた男は、前のめりに倒れながら室内に飛び込んでくる。

「…っ?!ぐ…っ」

咄嗟に叫びそうになった男の顔半分を手で覆って黙らせると、快斗はそのまま背後の壁へと押し付けた。
空いた手で静かに扉を閉め、抵抗すらできない男に冷たい眼差しを突き刺す。

「殺人なんて割に合わないことをしたからには、それなりの報いは受けるものだ」

眼差しと同様に冷たく響く声は、底知れない恐怖しか運んでこず。
男は抵抗することすら忘れて、ただ呆然と快斗を見つめ返すことしかできなかった。








漆黒の闇に差し込む、月の光。
ぼんやりとした意識はいつからそれを捉えていたのかわからなかったが、淡く輝く存在にほっとしている自分を知る。
同時に、どこか寂しくて物足りない気分になってしまう。

「…ぁ……」

その物足りない何かを埋めるように口を開くが、声は出ないまま。
自分でも何を言葉にしようとしたのかわからないが、音にならないそれが酷くもどかしい。
何度も何度も、形を求めるように唇を動かして。
感情を無理やり抑圧されたような苦しみに、耐えるように胸を押さえるけれど。どうにもならなくて、頑なに瞑っていた瞳を上げた。
月の光を視界いっぱいに留めて、苦しさを和らげようとする。

光に癒されていくのと同じ速さで、解けていく疑問。
この苦しみが、失ってしまったものを取り戻そうとする心の悲鳴だと知れた。

「…!」

何時の間にか、白み始めている闇。
淡い光は次第に消えかかっていて、留めるために手を伸ばすが掴めるはずがなく空を切る。
引き止めるには、声にだして呼ぶことだけなのに、口から漏れるのは虚しいまでの喘ぎ。
早く呼ばないと、引き止めないと。
そう思っても、胸の奥深くに沈んでしまったそれは、どんなに足掻いても言葉に――名前にならない。
心が引き裂かれんばかりの痛みが襲う。
感情は荒れ狂って意識が飲まれていく。
自分自身すら消えてなくなりそうな感じすらして。
消え行く光に、必死になって手を伸ばした。




「―――ッ!!」

カッと見開いた瞳に、天井に向けて突き上げている手が映る。
耳の奥はしびれていて、大きな声で目覚めたことに新一は気付く。
声を上げたのは自分なのに、何と言ったのかがわらない。そして、求めるように伸ばされた手のことも。
シーツの上に力なく下ろして、傍らに広がる空間が空虚なことにはっとなる。
呆然として、新一は飛び起きた。

「…い…ない…っ…なんで…?!」

快斗が来てから、ベッドサイドに置かれた椅子。
眠りから覚めたときはいつもそこに座っていたのに、空っぽで。夢の断片が蘇ってきた。

何もない空間に、ひとり取り残される恐怖。
あたたかくてやさしい存在を失ってしまう恐怖。

それに突き動かされた新一は、ベッドから出ると一目散に扉に走り寄った。
ノブに手を掛けるが、途中までしか回らない。

「鍵……」

掛けられている鍵のせいだと気付いて、ノブを握っていない手で解こうとして。鍵にかかった指は、それ以上動かなくなる。

ここにいる限りは、多少のことはあっても安全なのだ。
何もない自分が、唯一存在することを許されているような、そんな所。
孤独に対する恐怖と同等にある外界への恐怖。
新一は指が震えるのを止めることができない。
けれど。

「は…やく…しないと…行って…しまう…っ」

扉の向こうに何が在るかわからない怯えも、大切なぬくもりが今ここにないことの方が軽く凌駕してしまう。一刻も早く、この手に取り戻さないとどうにかなってしまいそうで。
一度大きく深呼吸して、新一は指に力を込めた。






入院病棟入り口にあるナースステーションの手前にある階段。人目に付かないように角からそっと顔をのぞかせて伺う男に背後から声が掛かった。

「なにしとんねん、そんなとこでこそこそと」
「し、失礼な!……君こそ何してんですか」
「うっ……」

同じく壁にへばりつくようにして立っている男に不審気に聞き返すと、言葉につまって明後日の方向に視線を彷徨わせる。
どちらからともなくため息がもれると、2人して廊下の奥を伺い始める。
ずらっと並んでいる白い扉。その一番奥が目当ての病室であるが、いつも刃のように研ぎ澄まされた彼女に阻まれてろくに見舞いをしたことがない。
時間帯から行けば、そろそろ彼女が病室から出て細々とした用を足す頃合で、傍を離れてくれるのを今か今かと待ちつづける。

「それはそうと、昨日は何してたんや。しつこく工藤につきまとってる割には見舞いを欠かすなんていい加減なもんやな、白馬」
「別に、毎日来ればいいというものではないでしょう。工藤くんの迷惑を顧みない君と違って、僕には遠慮というものがあるんですよ。服部君」

キッと睨み返しつつ、新一の拒絶に立ち直るための時間を要したなんてちらりとも匂わせない。
数秒睨み合った後、服部がおもむろに口を開いた。

「なぁお前、工藤の知り合いに…その、ちょっと工藤に似た感じの、格好つけた偉そうなヤツ、知ってんか?」
「は?なんですか、その人?」
「せやから、昨日来てたんや。ベタベタとイヤらしゅう工藤に触って、しかもねーちゃんは追い出すこともしいひんかったんやで」
「なんですって…?!」

つい上げてしまった声に慌てて口へと手を当てる。
昨日、激しく落ち込んでいて来なかったばかりに自分の知らないところでとんでもないことが起こっていたのに、白馬はショックを覚えた。

「で、でも…っ!工藤くんに似た感じなのなら、親戚か何かでは?だから、彼女は追い出さなかった…」
「まさか!工藤に親しい親戚がおんなら、オレはちゃんと知っとるわ!」
「何でもかんでも知っているわけではないでしょう?!」
「オレが工藤のことで知らんことはあらへん!」
「だったら、どうしてその人のことを知らないんですか!」
「せやから!工藤の記憶がないのをいいことに、ねーちゃんすらも騙しているんやないかって思ったんや!!」

昂ぶったまま上げてしまった声に、服部も白馬同様あわてて口元を押さえる。2人して周囲を伺いながら、先ほどの敵意など嘘のように顔を付き合わせた。

「確かに、ありえないことではないですね!」
「やろ。今の工藤はスキだらけやさかい、どんな悪いヤツが付け入るかわかったもんじゃないわ」
「彼女も看病で相当疲れていたから、つい騙されてしまったんでしょうね。工藤くんならストーカーの1人や2人いたっておかしくないですから!」
「とにかくここは、オレらでそいつの正体を暴いて警察に突き出さへんと!」

お互いしっかりと頷きあって、再び病室の方へと顔を向けるや否や。視界に飛び込んできた人物に目を疑った。
何かを探すようにそこら中に視線を彷徨わせて、ふらふらとした覚束ない足取りでこちらにやってくるのは、間違いなく見舞い相手。
寝巻きは着崩れ、しかも裸足のままという尋常ではない様子に、咄嗟に声を掛けるのも忘れて唖然としてしまう。


きょろきょろと周囲を見回して、前方に階段があることに気付いた新一はそちらへ向かう。おそらくここから下へと行ったのだと推測しながら。
焦る心は早く早くと急かすけれど、寝覚めたばかりの体はついていけずに何度かつまづきそうになる。壁に手をつきながら角を曲がって、ようやく下降する階段を目にしホッとする。
だが、突然行く手を遮られた。

「工藤!なにしてんや?!」
「工藤くん!どうしたんですか?!」

ようやく眼前にまで来た新一に、我に返った2人は慌てて駆け寄る。
声のあまりの大きさと"嵐"である2人に、新一はぎょっとして身を竦めるが。怯えと拒絶を含んだ瞳に気付こうともしない。
ただ、あまりにも頼りない姿に保護欲を駆られて、互いが自分の方へと引き寄せようとした。

「とにかくこっちこいや!」
「病室に戻りましょう!」
「…っ!」

迫ってくる手に掴まえられれば、もとの世界に引き戻される。大切な存在を取り戻そうとしている新一にとっては、脅威としか言いようのないもの。
後退して逃れても諦めずに追いかけてきて、触れられた腕を必死になって振り払った途端。

「ぁ…」

バランスを整えようとして足を踏みしてた先に床はなく。
振り払ったせいで勢いのついた体はそのまま空へと投げ出される。

「工藤っ!!」
「工藤くんっ!!」

咄嗟に掴まえようと伸ばした手は届かずに、落ちていく新一を見送るだけ。
しかし、新一は階段下に打ち付けられることはなかった。

広げられた腕の中へと、吸い込まれるように。衝撃もなくふんわりと抱きとめられる。
あたたかなぬくもりに一気に包まれた体は、無意識に強張りをとくと。耳元で、ほっとして吐かれたため息を聞いた。

「…っぶないな」

続けて聞こえた声は、新一の捜していたひとのものだった。






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02.10.08 


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