その時、視界に飛び込んできたのは真っ白い光。
このまま落ちていけばどうなるか。
打ち所が悪ければ命はないとか、無事でいられても体はただではすまないだろうとか。
冷静な意識は瞬時にそんなことをはじき出したけど、恐怖はなかった。
ただ、大切な彼との約束を破ってしまう――――そのことだけが頭の中を占めていて。
叩きつけられた衝撃や襲いくる激痛に、意識が奪われるのを必死になって抵抗した。
ようやく"恋"へと踏み出したのに。
日の下で、彼は逢ってくれるのに。
何もかもを曝け出して真実をくれるのに。
心の叫びに応えてくれた、彼にとっては未来を賭ける程の決心が必要だったはずの約束。
「待っている」と、あんなにやわらかな声で囁いてくれた。
それなのに、こんな事態に陥ってしまった自分。
裏切ってしまうことが恐ろしくて、約束を破ってしまえば彼がどう思うかが怖くて。
叩き割られたような頭の痛みも、体がバラバラになってしまいそうな痛みも。
意識を失えば感じないですむのに、伸ばされた彼の手を引っ込められることの方がずっと痛くて。
霞む意識を保つために持てうる力を全て注いで、見開いた瞳。
飛び込んできたのは、十六夜の月。
何故か、ほっとした。
あぁ…きっと彼はわかってくれる…―――何をわかってくれるのかはわからないけど――そう思うと、全身から力が抜けていって。
心配することも不安になる必要もない気がして。
真っ白い闇に飲まれていくのでさえ、彼の腕に包まれている感覚さえして。
ゆっくりと、目を閉じた。
次に目を開いた時には、きっと―――――。
amnesia
12
「――――わかったわ。彼らをそこの公園に連れて行けばいいのね」
「ああ、ヤツらしか認識できないから君は大丈夫だ」
「別にそんな心配してないわ。それで、頃合を見計らって電話するのよね?」
誰もが慄然としてしまう微笑みを称える志保だが、快斗は同じように口元を歪める。そして語尾に含まれたことに頷いた。
「そう。判断は君に任せるよ」
「あんまり怖くて電話をかけられないくらいに取り乱してしまうでしょうから、大分時間を要するわね」
「君はか弱い女性だから」
「当然よ。で?彼らを呼び出すのかしら?」
「いや、もう来てる」
「え?」
仕掛けた罠にかかるべき獲物を呼びつけるのも自分の役目かと問うた志保は、意外な答えに驚く。
「行動パターンは単純だから、昨日と同じ頃に来ると思った通りだ。もう片方も少し前に来た」
「それじゃ、工藤くんは…」
「君が側にいると思っているから近づけないでいる。それに鍵がかかってるから、入れない」
「そう、だったら丁度いいわね」
「あ、…あ……」
不意に志保から視線を外して、快斗は階上へと顔を向けた。眉を顰めたかと思うと、身を翻して階段を上がっていく。
「どうしたの?!」
「気配が…部屋から出てきている!」
「なんですって…っ」
突然の行動に呆気に取られていたのも束の間、志保も快斗の後を追う。
眠っている間のほんの数分だけのつもりで、快斗は傍を離れた。深い眠りに起きる気配のないことを確かめた上で。
本当なら事の結果は自分で見届けるべきところを、志保に託したのも傍を離れることで不安な思いをさせたくなかったからだ。なのに、あれほど外を恐れていた新一に、部屋から出て行かせる程の不安を与えてしまったなんて。失態ともいうべき事態に快斗は焦る。
とにもかくにも、階段を全力で駆け上がる。
新一の状態が気になるけれど、今は心を乱す輩がすぐ近くにいることの方が重大で、急かす心のままに足を動かす。
「!」
聞こえてきた声は快斗が予測した最悪の状況に陥っているのを示し、思わず舌打ちしてしまう。
あと半階分で行き着くと、踊り場を曲がるや否や飛び込んできた光景。
追い詰められたように階段の淵に立ち、伸ばされた手を叩き落とした拍子に。
危ないと声を掛ける間もなく、勢いのついた体は宙を舞って。
刹那、快斗の脳裏には4日前の出来事が過ぎる。
見せられ続けた、悪夢の源。
忘れ去られて自分たちの関係が終わったと、絶望を生んだ原因。
そして、愛しいひとに苦痛を強いて心を閉ざさなければならないようにした全ての発端。
繰り返される現実に、悪夢まで繰り返されるような気がしてぞっとする。
だが、受け止められないなんて頭にはなかった。
間合いを見計らって手を広げると、落ちてきた体が衝撃を受けないようにやわらかく受け止める。そして、しっかりと抱きしめた。
腕の中のぬくもりに、ほっと息を吐く。
急激に高められた緊張も一気に解れ目の前にある細い肩に額をつける。一呼吸ついて、身じろぎもしない新一に気付く。
抱きとめられた態勢で仰け反った顔は真上を向いたまま。蒼い瞳の先には眩い光を放つ電球があった。憑かれたような表情で、視界が焼けるのも構わずにじっと見つめている。
階段から同じように落ちることで、フィードバックすることでもあったのか。それとも、ギリギリの精神状態に深い傷を刻んでしまったのか。
嫌な予感を必死に抑え、心を平常に保とうと努力する。
「…どうした?」
自分に意識を向けてくれることを祈りながら掛けた声。
応えるように光から眼差しが移るけれど。今度は快斗の顔を凝視した。
「どうした?」
真っ直ぐ見つめてくる瞳のなかに異常な輝きはなく、安堵のままに快斗の声も固さがなくなる。
やさしく細められた藍色に、新一は瞳を揺らした。
「い…なかった…から……どこにも…いなく…て…っ…」
「ゴメンな、悪かった」
言葉に出すことで、先ほどまで襲われていた不安を振り返したのか。快斗の腕の中で体を反転させると、震えだした指先でしっかりと肩に縋りつく。
快斗がそっと頭を撫でると、首筋に顔を埋めて全身を預けてきた。
「工藤くん…っ!大丈夫なのっ?!」
激しく肩で息をしながらようやく追いついた志保は、階段の途中で抱きしめられている新一に思わず目を瞠る。
快斗は細い身体を抱き上げながら、心配ないと視線で応え、前方へと志保の意識を促した。
新一たちのいる位置と頭上の階段の縁にいる者たち。
快斗の鋭い視線と合わせて、瞬時にして志保はここで起こったことを知る。もし、快斗が間に合わなかったらと思うと、それこそ生きた心地がしなくて凍て付くばかりの眼差しで服部と白馬を見上げた。
自分たちが引き起こしたとも言えることに茫然自失としていた2人も、背筋を駆け抜ける寒気にさすがに正気づく。
しかし、呆然とした状態を助長したのは階段から落ちたことよりも、眼前で繰り広げられたことにあった。
「く…く、どう…なんでそないなヤツに抱きついてんねん…っ!?」
「キ、キミはッ…どうしてこんなところにいるんですかッ!?」
「静かに。場所をわきまえろ」
叫ぶような大声を嗜め、快斗は階段を上る。だが、意外なところで意外な者に対面した白馬は激昂を納められるはずがない。
「工藤くんの記憶がないのをいいことに…っ…彼に近付くなんてどういうつもりなんですかッ!!」
「コイツのこと知ってんのか?!じゃあ工藤とは…」
「いええ!工藤くんとの接点なんてまるでないひとですよ!唯一あるとすれば、それは…っ」
「静かにしなさいって黒羽くんは言ったでしょう。聞こえなかったの?」
冷え冷えとする声の志保に、2人はビクリと身を竦ませた。それを邪魔とばかりに脇に押しのけると、快斗と視線を交わす。
「あ、貴女も騙されているんですよ…っ。だって、黒羽くんは…ちょっとっ!どこに行くんですか?!」
「せや、あないなストーカーに…っ!あっ、待ちいや!!」
すっと前方に差し出された腕に邪魔されて、角の向こうへと消えていく快斗を追ってはいけない。腕を振り払っていこうにも、志保を相手にできるはずがなくて。
「どこって部屋よ。工藤くんは怪我して入院してるのよ。ここは病院なの。そのくらいわかっているでしょう」
「当たり前やんかっ!せやから見舞いに…」
「そんなことより、黒羽くんを工藤くんに近づけるなんて…傍にいさせるなんて危険なんですよっ!どいて下さい!早く引き離さないと…っ」
「本当にどうしようもない人たちね。病院で騒ぐなんて非常識な上に――なんですって?私が騙されている、と言ったのかしらね」
怒りを顕わにされるよりも何の感情も伺えないほうが余程恐ろしい。白馬も服部も志保の逆鱗に触れたことを遅まきながら自覚する。
「こんなところで騒がれて私まで恥をかきたくないの。いらっしゃい、外でじっくり聞いてあげるから」
そっとベッドの上に横たえると肩口に埋めていた顔は自然と離れるが、新一は首に回した手を解こうとはしない。
きつい姿勢のせいでバランスを壊さないよう快斗はベッドに座ると、引き寄せられるままに新一の顔を覗き込んだ。
元の世界に戻ったからか表情は落ち着いていて、とても静かな瞳で見つめてくる。
「なに…?」
さっきまでの激しい動揺がなかったかのような静寂に満ちた表情。それには、快斗の心のほうが落ちつかな気にザワザワと騒ぎ始め、沈黙に耐えかねたように声を掛けた。
途端に2、3度瞬きをすると、新一の手が首筋を滑ってくる。
顎の線から、鼻梁へと。輪郭を確かめるように指先で触れ、眉間から額、眉と移っていく。
目を閉じると軽やかな動きで指が降りてきて、目元をなぞり頬から唇に行き着く。
ぬくもりが通った後に瞼をゆるりと開けると、自身の指先をじっと見ている新一がいた。今だ快斗の唇にあって、何度も何度も形をたどっている。
覚えのある仕草だった。
口付けを強請る時に。声に出しては言えない時に。
何より自分からではなくて、して欲しい時に。
一度だって抗えたこはない。何より我慢をする必要性などなく、いつだって強請られるままにした。
それは今も同じ。
新一が日常を取り戻してからだと―――そう自制を強いたことはどうでも良くなる。
目の前で美しく色づく、まるで誘うようにうっすらと開かれた唇があって、どうして口付けてはいけないのかとさえ思って。
快斗は心の欲するままに、唇を重ねた。
沸き起こった階下の騒がしさや慌しく鳴り響くサイレンの音など気にさえならない。
愛しい想いだけに支配され、只管にお互いの持て得るものを与え合うような口付けに夢中で。
今まで交わした口付けはお互いがお互いに引き付けあうために、奪いあうようなものばかりだったから。
思えばこれが心を通わせあってから初めてのキス。
まるで味わったことがない甘美さとお互いの心に溶け合うような感覚に、快斗は新一が安らかな寝息を立てるまで離すことができなかった。
今だに続く喧騒も、ひどく満たされた表情で眠る新一の妨げになどなろうはずもなく。快斗にしても雑音にさえ感じない程心地よさに酔った。
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