~ Epilogue ~
現状を思い出そうと、額に置かれる手。
その指先が捉えた布の感触に、新一ははっとした。
「……オ…レ、は……」
包帯だと認識するのと同時に、記憶を失う直前の出来事が頭の中を駆け巡って。志保に問い掛ける眼差しを向ける。
行き成りのことで思わず立ち竦んでしまった志保に代わって、歓喜に満ちた声が室内を満たした。
「工藤ぉ!オレ、オレがわかるか?!」
「ボ、ボクのことわかりますよね?!」
襟首を掴まえられていることも忘れ新一の傍へ飛んでいこうとして、見計らって放された手のおかげでその勢いのまま見事に床に沈んでしまう。
「お前ら…」
折り重なるように倒れた服部と白馬に目を向けた新一は、包帯だらけの姿に息を吐いた。
「そ、か…あんなところで取っ組みあったら、ただじゃすまないもんな…」
「は…?」
「あ、の…?」
「でも、犯人を間違えたんだからそのくらいの痛み分けは当たり前か」
ほっとしたような表情を見せた新一は、直後にちゃんと真犯人を捕まえてくれたものと思っているからだ。
訳のわからないことに目を丸くする2人に、志保は震えそうになる声を抑えて助けにならない舟を出す。
「工藤くん、違うのよ。彼らのケガは真犯人に襲われたからなの」
「え…それって…?」
「あなたが犯人に突き落とされた時、すぐに駆けつけたにも関わらず犯人を見逃していたってことよ。おかげで事故扱いの上に、ずっと犯人は野放しだったの」
2人のおかげで階段から落ちたとはいえ、自分を襲ったことで図らずしも真犯人であると示した人物を捕まえたと思っていた新一に、床に蹲っている2人は釈明する余地もなく冷や汗をだらだらおとし始める。
「なんだって…?じゃあ、犯人を間違えたままどれだけ経って――」
言い掛けて、新一はギョッとした表情で飛び起きた。
寝起きのせいで幾分ぼうっとしていた顔は瞬時に引き締まり、いっぱいに見開かれた瞳は窓へと向けられる。
「今って…まさか、夜なのか…?!」
窓の外の薄闇は日の昇る前ではなく日の沈んだ後で、刻々と闇を深くしてゆく。恐る恐るといった風情で訊いた新一に、志保は目をしばたたかせながら頷いた。
「ええ、そうだけど…それが?」
「ど、どうしよう…っ」
「工藤くん?」
白い面からすっと血の気がひいたかと思うと、新一はベッドの上でオロオロし始める。
「まさか…まだ待ってるなんて…、いや…そんな…でも…っ」
「工藤くん?」
「宮野!宮野!オレの服っ!」
周囲を見回すものの、自分が着ていた服が見当たらず。パジャマのボタンを外しながら、志保へと要求する。
「服って…ちょっと何をしてるの?!」
「なにって着替えんだよ!早く行かないと…約束したのに…っ!」
「落ち着きなさい!今日は土曜日じゃないわ!」
「……え…?」
新一の腕を掴んで、意識を自分へと向けさせると。志保はゆっくりと悟らせるように告げた。
「あなたが金曜に出かけてもう5日経ってるの。今は水曜の夜よ」
「そ…んな……バカな……」
「仕方ないわ。頭の打ち所が悪くて記憶喪失になっていたんですもの」
「…記…憶…喪失…」
信じられない事実に、新一は顔を真っ青にして言葉を詰らせる。
志保は事件へと行く前の様子を思い出した。
からかってしまうほど浮かれて。とても幸せそうに頬を赤らめて。だから、秘密の恋人とデートの約束をしているのだと、ピンときたことを。
きっと、ふたりは初めて日の光の下で逢おうとしていたのだ。
すぐさま病院に駆けつけることのできなかった怪盗と、新一が約束を大切に大切に思っていたことを合わせれば簡単にたどり着く答え。
瞬きを忘れて泣きそうに歪められた瞳は、それを顕著に物語っている。
滅多どころか初めて見る新一の表情に、かわいいと思いつつも。志保はその心情を慮って、さっさと教えてやることにした。
「工藤くん。心配しなくても大丈夫よ。"彼"はちゃんとわかっているから」
「…み、やの?なんで…彼って…何を…」
「あら、覚えてないの?あれだけ甘えまくって看病してもらっていたのに」
「は…?」
楽しげに言葉を綴る志保に、新一は悲壮な表情を忘れて呆気にとられる。
「もう目も当てられないくらいにべったりとひっついて。彼の手を握って放そうとしないし、ご飯は口まで運んでもらわないと食べようとしないし」
「え?!え?!な、なに言ってるんだ?!一体なんのことだよ?!」
「全く、どこの新婚カップルかと思うくらい、見てるこっちのほうが恥ずかしかったわ。つい今までだって、彼に髪を梳いてもらいながら気持ちよく眠っていたのよ、あなたは」
にっこり笑って、志保は指差した。
示されるままに顔をむけて、開け放たれた扉に釘付けになる。
「…う……そ…っ」
影になって見えないが、そこにいるのが誰かなんて教えられなくてもわかる。
どうして今の今まで気付かなかったのか。それは快斗の気配があまりにも新一に馴染んでいて、空気のようにあって当然のものだから。
認識したのと同時に、新一はみるみる熟れたトマトのように真っ赤になった。
「工藤くん?」
「う…」
「う?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
耳の裏や項は言わずもがな指の先まで染め上げて、唐突に叫び声をあげるや否や。ブランケットを捲り上げて、その中に頭から潜り込んだ。
堰を切って流れ込んでくるのは、昨日からの記憶の波。
自分が記憶を失っていたことはよくわからなくても、傍にいてくれた誰かのぬくもりを執拗に求めた覚えはあって。その誰かが、約束を破ってしまった相手だなんて。
もちろん、彼でなければこんなに恥ずかしいと思うこともないけれど。彼だからこそ甘えまくったのだとわかっているのだけれど。
パニックを起こしてどうしていいかわからない新一は、取りあえず隠れてしまうことしか出来なかった。
「工藤くん…」
蓑虫のように丸まって耐え忍んでいる姿に吃驚しつつも、志保は微笑まずにはいられない。
きっと笑えば、益々新一が出てこれなくなるだろうとわかっても。この数日の苦しいことが一気に吹き飛んしまって心がとっても軽くて。再びこんなに楽しい気持ちになるなんて思わなかったから。
そして、なぜ快斗が帰ろうとしたのか、ようやく分かった。
新一がこうなることを予想していたから、混乱を助長し決まりが悪い思いをさせないためだったのだ。
空気の振動に、じっとしていた気配の動きを知る。
突然の展開についていけずに床にへばり付いていたはずの2人組は何時の間にか見当たらなくなっていて。視線の先の扉がゆっくりと閉まっていく。
感覚を逆立てて敏感なまでに快斗の気配を感じ取っていた新一もそれに気付いた。
引き止めるべきではないだろうが、それでもこのまま行かせていいものか。新一の高鳴る動悸の音まで聞こえてきそうな中で、志保が逡巡していると。
僅かな隙間から、やさしい声が届けられた。
「今度の土曜日、時間と場所はわかるよな」
それは、あの夜に交わした約束。
もう一度やり直そう―――伝わってくる想いに、新一はブランケットの下からしっかりと頷き返した。
「じゃあ、待っている」
end
02.10.16
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