うるさくて、うるさくて。

耳を塞ぎたくても、静かにしろと怒鳴りたくても。
どうしても体は侭ならない。

頭が壊れそうな激痛に、余計な苛立ちまで加わって。
何かに縋らずには居られなくなって。
吸い寄せられるように仰ぎ見た、モノ。


途端に心が落ち着いていく。
苛々させていた騒々しさは、どこかに消えて。
全身を覆っていた痛みは、もう感じない。


真っ暗な闇に輝く白い月。


光が照らしてくれる限り、大丈夫だと思った。












amnesia 4  













「工藤くん、食事よ」

看護婦が運んできたトレイを受け取った志保は、ベッドに備えつけられているテーブルへと置く。
体を起こす手助けをしようとするけれど、伸ばした手が新一に触れることはなかった。

「いらない」

端的な返事とともに向けられた視線。
志保の行動を制するのに、充分な威力がある。

「点滴だけでは体力が落ちるわよ」

重ねて勧めても、首を振って返される。
これ以上は無駄だと悟った志保は、トレイを持って部屋を出た。ドアを閉めたところで、知らず知らずに大きなため息が漏れる。

「…情けないわね」

そんな自分に叱咤して、廊下の脇に置かれている配膳用のワゴンにトレイを載せると踵を返す。
白い廊下を突き当たりの部屋まで戻る。
扉の前に立つと、目の高さにプレートがある。

『工藤新一様』

この名札を確かめて、慌てて駆け込んだのはつい2日前であるが、もうずい分経つような気がしている。
疲労のせいもあるのだろうが、新一とともに過ごす時間が苦痛で早く過ぎ去って欲しいと思っているからに他ならない。
現に、部屋へと入るためにドアノブを回すのすら根気がいる。
今の新一には、このプレートに書かれている名前がまるでイミを成していないことが酷く痛くて。

「ダメね…こんなカオじゃ…」

辛くて苦しいのは、自分ではない。
志保は、ドアノブから手を離すと開きっぱなしになっている非常階段のほうへと足を向けた。






それは、誰もが待ち望んでいた瞬間だった。


志保が博士とともに駆けつけたとき、顔見知りの刑事らや探偵らが鎮痛な面持ちで詰めていた。
どうしてこんなことになったのか、そんな疑問をぶつけるよりも何より。命に別状がないと告げられたことに心底安堵した。
ただ痛々しいまでの姿が、そこにいた者たちと同様な表情を志保にもとらせた。
簡素なベッドに寝かされた華奢な身体。取り巻く薬品の匂いが、一層儚く脆いもののように見せて。
頭部や、青い診察服の合せから覗いている包帯もその一旦を担っていて。
青白い顔色は、本当に生きているのかと疑う程。
だから、息を潜めて見守っていた。
彼の蒼い瞳が開かれる時を。



「あ…!」

皆一斉に、息を呑んだ。
長い睫が揺れて示された覚醒の兆候。
ゆっくりと、あがっていく瞼。
待ち望んだ、蒼い輝き。

しかし。

ほっとした息の吐かれるなか。
志保だけは、ぞっとした。
輝きのなかに、見知った色は何一つなかったから。

「おお!気付いたか、良かった!」
「意識が戻らなかったらどうしようかと思ったよ!」
「どこか痛いとか、苦しいとことかあるかい?」
「ほんま、心配かけさせんなや!」
「とにかもかくにも良かったですよ!」

喜びに溢れた声に、返される反応はない。
ただ、無機質な瞳が一瞥しただけ。
感情の宿らないカオと、黙したまま冷ややかに見つめられて。パニックに陥ったのは、少し前まではしゃいでいた者達の方。

「し、新一?!ワシがわからんのか?!」
「キミは階段から落ちたんだが…思い出せんかね?!」
「工藤くん…名前、自分のことは…わかる、よね?」
「そんなアホな!俺が誰か言ってみいや!」
「僕のことは…僕のことくらいわかりますよね?!」

誰がどんなに言葉を掛けても、頑なともいえる視線を向けるだけで否定も肯定もしなかった。
高いところから落ちて、強かに頭を打ちつけた結果の記憶喪失。
有り得ることだけに、信じられない事態ながらも受け入れるしかない事実。






「ホントに…信じられないわよね。最近…あんなに笑うようになっていたから…よけいに…」

知り合った頃は、他人に対して打ち解けるようなところはまるでない人だった。頑なで人には一歩も二歩も距離をおいて接するし、必要以上には絶対に近寄らない。
まるで世を儚んでいるのかというくらいに、干渉をしなければさせもしないし。読書と事件以外の何かを率先して行うということもなく。
生きる目的、楽しみ、喜び――――そのどれもが欠如しているのかとさえ思わせていたけれど。
本当は、花がほころぶ前の蕾だっただけのこと。
自分を知らず、世を知らず。固く内へと閉じこもって、外部の変化に最小限の反応を返す。
それが、春の暖かな陽光に誘われて、見事なまでの開花を見せた。
何より顕著だったのは、感情表現。
最近はとみに素直で、まさに咲き誇っているとも言えるものだったのに。

にこりともしなければ、不機嫌さを露にすることもない。
冷ややかな眼差しで、他人との間に見えない壁を作っている。それは外敵から身を護るためのテリトリーの構築のようで。
実際、新一は全身で他人を警戒していた。
当然といえば当然。右も左もわからない世界に、突然放りだされたのだから。周囲の人間全てが敵に見えても仕方ない。
食事を口にしようとしないことも、志保にはわかる。
誰とも知れない者が作ったものなど、食べられるはずがない。
医師が薬を使うときも、栄養補給の点滴をするときも。理に叶った説明を求め、自分自身が納得できて初めて受け入れるぐらいだ。

思い浮かぶのは、事件に行く直前の新一の姿。
あんなに楽しそうで、幸せそうなカオは見たことがなかった。
あんまりな浮かれ具合に、困らせて恥ずかし気に頬を染める様を存分に愉しむことすらしたというのに。
それだけ、志保に対して心を開いてくれていたのだ。
もしかしたらもう二度と、こちらまで幸せになる微笑みを見ることはできないかもしれない―――そう思うと、堪らなく遣る瀬無くなってしまう。
けれど、そんな状況より何より志保は新一自身を慮る。


ふと届いた騒がしさに、志保はぼんやりと眺めていた外の景色から院内へと視線を戻した。
雑然とした気配が伝わってきて、慌てて身を翻す。
「ちょっと目を離すと、これだわ」
吐き捨てるように呟いて、階段の踊り場から廊下へと足を踏み入れたとき。新一の病室の前に人影を見た。
すらりとした、幾分背の高い男。
志保の気配に気付いて、声を掛けられる前に足早に去っていく。
「……誰かしら」
背中しか見えなかったが、記憶のなかに適合する者はいない。
追いかけて問い質すべきか。しかし、病室内のほうが気になったし、たまたま居合わせただけなのかもしれないからと志保は意識を切り替えた。



「ほら!これ、この事件!思い出さんか?俺と工藤にとっては絶対に忘れられん事件なんやけどな!」
「そんなものより、工藤くん!僕と誓い合った将来を思い出してください!一緒に探偵としてやっていこうと…」
「何言ってんのや!どさくさまぎれにとんでもないこと言うなや!」
「おや、僕は本当のことしか言いませよ。負けているからと言いがかりはつけないで下さい」

病院であることも、怪我人の前であることも構わずに、争いはじめる2人に志保は甚だ怒りを覚える。
とりわけ、自分のことがわからずにそうとは表面的に伺えなくとも混乱している新一に対して、強制ともとれる態度は許しがたい。
自分たちのことを思い出して欲しくてたまらないのだろうが、新一の精神状態が普通でないとどうしてわからないのか。

「そんなことあらへんわ!な、工藤!こんなヤツのことなんか全然わからへんもんな?」
「君こそ、工藤くんにわざわざ思い出してもらう必要なんてないですよ!第一、僕のことだけわかってさえもらえば…」

返答を求めるように、詰め寄って。応えを返してもらいたくて伸ばされる手。
触れる直前で、志保は叩き落とした。

「あなたたち、勝手に病室に入ってこないでちょうだい」

鋭い視線で睨まれて、圧倒的な迫力に縮み上がる。しかし、服部白馬ともに食い下がってくる。

「せやかて姉ちゃん!工藤に記憶を戻してもらわへんと、俺どうにかなってしまいそうがな」
「工藤くんにしても早く記憶を取り戻したいでしょうし!こうして興味のあることを話していると自然に戻ってくることだって…」
「彼は嫌がっているでしょう」

ベッドに横たわる新一は、彼らをちらりとも見ていないが。仔猫が毛を逆立てているように、警戒心剥き出しで神経を研ぎすましている。
しかし、自分達がそんな態度をとられるなど思っていない輩は、素直に頷くはずがなかった。

「そんなんあらへんよな!工藤!」
「そうですよ!ねぇ、工藤くん!」

どんなに耳元で声をあげても、視線を合わせない新一に焦れて。強引に自分のほうへ向かせようと再度、伸ばされる手。
途端にビクリと身を竦ませて、まだ痛む体にも関わらず届かないところへと逃げ退った。

「く、どう…」
「くどう…くん…っ」
「ほら、わかったでしょう。さっさと出て行きなさい!」

目の当たりにした激しい拒絶に呆然としている男達を、志保は強引に外へと放り出す。
しっかりと鍵をかけて、ベッドサイドへと戻る。

「もう大丈夫よ、安心して」

怒気を押さえ込んで静かに告げると、少しだけ新一の体から力が抜けた。
瞳の中に瞬いていた怯えもなくなり、志保はほっとする。
四十六時中、気の休まることのない状態。
このままでいいはずがないが、どうしようもない。

志保自身も、いつまでこの状況に耐え切れるかわからない。
ただ救いとも言えるのは、警戒をしつつも問い掛ければ短いながらも新一は返事を返してくれること。
そして、側にいても嫌がられないことだった。






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02.07.13  


  
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