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 四角い部屋。
 右側には外が見える窓。
 左奥には廊下への扉。
 
 ひっそりと、いつも部屋の隅にいる彼女。
 朝夕の決まった時間、予告をしてから来る医師と看護婦。
 
 それが、今のオレの世界を形成しているもの。
 
 
 時折、ゆっくりと時の流れる静かな世界を打ち破る者たちがやってくる。
 雑然とした騒々しい気配は、いつも彼女がいない時に入り込む。
 ヤツらは、"オレでない"オレの知り合い。
 だから、オレは"オレではない"と訴えてくる。
 間違った存在、本来の姿のエラー。早く消えて、元に戻れ。
 ヤツらのことを知らないオレは、認められないモノ。
 
 苦しくなる。ひどく、息が詰る。
 でも、一時我慢しさえすれば過ぎ去る嵐。
 彼女が追い払ってくれるから、投げつけられる言葉も圧し掛かってくる視線も、耳を閉ざして目を塞いでいればいい。
 
 「大丈夫よ」
 
 そう彼女が言うのだから、オレは何もおかしくない。
 体は痛くて、ガタガタしているけど。きっと、他はどこも壊れていない。
 だって、彼女は"オレではない"オレを知っているのに、オレのことをちゃんと見てくれているから。
 
 
 オレは、この四角い世界にいればいい。
 扉の外は、アノ騒々しい気配でいっぱいだから出て行きたくはない。
 かつてオレが持っていたものなんて、ここにいる限り必要ないはずだから。
 頭の中は真っ白で何もわからない。
 何がヘンなのか、何を失っているのか、何を思い出さなければいけないのか。オレには何もわからないから。
 
 
 それに、ここには白い月がある。
 夜、窓から差し込んでくる光に包まれれば、ひどく安心する。
 
 
 
 
 これまでも、この先も、今この時さえも。
 深い闇に閉ざされている中で、あたたかくてやさしい光はオレを確かな存在として照らし出してくれているから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 amnesia
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 月が降りてきたのかと、思った。
 
 
 瞼を刺激する朝の光に満ちているから、月の光は届かない。
 でも、髪を梳く温もりは確かな感覚を伴なっていて、月と同じ優しさをもっている。
 きっと、夢をみているのだ。
 それだけ月に焦がれて、その優しさを欲し、昼間でさえ感じていたいと願っているため。
 
 不意に、気付いた。
 自分は、月が好きなのだ、と。
 
 なんだか、しっくりくる。
 あやふやな中に立っていて、月に照らされないと自分自身を確認できないというのに。
 体の奥底から沸き起こってくるあたたかなモノは、かつての自分が持っていたものだと。何もわからないはずなのに、わかってしまった。
 
 ああ、オレはこんなに大切なものを失ったのか。
 こんなに大好きだったものがわからなくなったのか。
 
 悲しくなった。悔しくなった。
 でも、オレの中から抜け落ちてしまったのに、側にいてくれることが嬉しくなった。
 この狭い世界の中に、入ってきてくれたから。ずっと、側にいてくれる。
 
 
 そう喜んだのも束の間。
 飛び込んできた騒々しい気配―――嵐が突如やってきた。
 
 いつも追い払ってくれて、荒らされた世界を修復してくれる彼女はいない。
 でも、月は離れず側にいて守ってくれている。だから、大丈夫。なにも恐れることはないと思ったけれど。
 
 
 離れていく。
 ぬくもりが消えて、遠ざかっていく。
 世界にひとりぼっちで取り残される感覚に、怖くなった。
 
 行かないで。
 離れないで。
 側にいて。
 
 咄嗟に手を伸ばす。
 痛みで思ったように動かないのが酷くもどかしい。でも、上手く指先が引っ掛かってくれた。
 
 こっちを見て。
 
 聞こえたのか、ゆっくりと振り返ってくれる。
 安らぎに満ちた夜の闇を凝縮した、藍色の瞳。月の穏やかな光と、同じ波動をもつ眼差し。
 やっぱり、月だ。
 眩いばかりの美しさも、惹き付けてやまない引力も、月と同じ。
 瞳にちゃんとオレを映してくれるけど、やさしく見つめてくれるのは"オレ"を知っていたからこそのもの。
 
 オレは月が好き。
 "オレでない"オレも、月が好きだった。
 だったら、月はどうなのだろう…?
 月のことを何一つわからなにのに、それでもオレを見てくれる?このまま映し続けてくれる?
 ……どうして、何も言わないのだろう。
 オレは偽者だと、間違いだと言うのかな。
 このままのオレを許してもらえないなら、そしたらどうすればいいのだろう…?
 こんなにも心が引き寄せられるのに、それなのに何故なにも思い出せない…?
 
 
 「ご…めん……わから…ないんだ…」
 
 
 どう…反応するのだろう…。
 振り払われる?!……あ、あ…良かった…まだ、いてくれる。
 包み込んでくれた手は、とてもあたたかい。
 やわらかな瞳がすぐ側まで来てくれて、真っ直ぐに見てくれる。
 
 もしかして…聞こえなかった…?
 それとも、言った意味が通じなかった…?
 だから、やさしいままなのか…?
 どう、しよう…。
 
 
 「…なにも……わからなくて……だから……」
 ……オマエが誰であるか、わからない。
 
 
 声に出せなかったけど…でも、今度はきちんと伝わったはず。
 今度こそ、手を振り払われるかな…。
 側にいてなんて、きっと言ってはいけないこと…今のオレには、言う資格なんてない。
 でも、離したくはない…!お願いだから、このままここにいて…!
 
 
 
 「…いや、わかってくれたよ」
 
 
 なんて…心地いい、声。
 手のように、眼差しのように…やさしくあたたかな声。
 
 
 「ちゃんと、"オレ"をわかってくれた」
 
 
 あぁ…好きだという以外、なにもわからないけれど…。
 どうして、こんなにやさしい微笑みをみせてくれるのだろう。
 
 
 「ありがとう」
 
 
 どうして、礼を言ってくれるのだろう。
 どうして、こんなに穏やかに触れてきてくれるのだろう。
 指先に落ちてくる、唇。
 気持ちよくて、嬉しくて。
 全身から、力が抜けていく。
 ありがとう―――それは、オレの言葉。
 なにもわからないオレのことを、きっとオレ以上にわかってくれている。
 "オレでない"オレのことも、きっと誰よりも知っていたのだろう。
 
 なんだか、ほっとしたら眠くなってきた。
 イヤだ…せっかく、月が側にいてくれるのに…このまま寝たら…いなくなる。
 
 
 「どこにも行かないから。ゆっくりお休み」
 
 
 うん…いてくれるなら、ぐっすり眠れる。
 オレの世界をやさしいものに変えてくれたから。
 狭くて寂しいと思っていたけど、とても心地よくて気持ち良いところになったから。
 
 
 髪を梳いてくれるあたたかな、手。
 知っている。
 覚えている……覚えて、いる?
 
 もしかして、思い出しているのかな。
 そうだ…体温は少し低いけど、でもあたたかさしか運んでこないんだ。
 細くて、長くて、しなやかで。
 触れてくるのも好きだけど、見るのも好きで…指を絡ませるのも、好き。
 それから、こうやって、ずっと握り締めていたいと思っていたんだ。
 
 この手があれば、もうどんな嵐がきても平気な気がする。
 離さないでいてくれたら、世界の扉を開けて出れそうな気がする。
 
 
 目が覚めても、月は側にいてくれるから。
 もう手の届かないところに、戻りはしないから。
 
 
 きっと、大丈夫。
 
 
 
 
 
 
 
 ≫next  02.08.27
 
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