本当に全てを失ってしまったのか、それを確かめに行った日。
病院の入り口ですれ違った男がいた。
診察に来たのでも、見舞いに来た風体でもない。
やや俯き加減に足早に去っていく様子が、ひどく神経に触った。
自分が犯罪者だからか、罪を犯したものには敏感な性質だ。
だが、いつも相手にしているような者達と比べればひどく矮小だったから、微かに意識に留めただけ。
何より、その時は目の前に突きつけられた現実が信じられなくて、絶望の淵を歩いていたから。一々気にしてなんかいられなかった。
それが、前に進んでいくために心に区切りをつけようと決心した途端、意識に引っ掛かっていた小さな棘が疼きだした。
些細なことでも見逃せば命とりになる。
そんな怪盗としての心持のせいか、気になり出すと止まらなくなった。
病院専門の窃盗犯とかそこらのチンピラ風情なら、ここまで気になりはしない。
思い出してしまうほどに印象が残ったのは、目つきの嫌らしさのせい。
病院にいる愛しいひとは、時に自分の犯した罪を棚にあげて逆恨みに走る卑しい者たちの標的になることがある。
だから、もしかしたら入院して弱っているところを狙ってきたのかもしれない。
事実であって欲しくはないと思いながらも、可能性としてはあり得ることだった。
amnesia
8
廊下の気配は、記憶の中のものと同じ。
そうでなければいいと願っていた快斗は、見事に裏切られた。
だが、快斗が側にいるのだから、汚らわしい輩の指一本だとて新一に触れさせるつもりはない。
きっと、今までは志保が側につきっきりだったから近付くことが叶わなかったのだろうが、焦ってどんな強硬手段に出るかわかったものではない。
「まてよ…焦ってる…ってことは…」
ふと、思い至ったことに快斗は眉間を険しくした。
気配も殺気も消すことができない、いかにも素人。室内から聞こえた音に簡単にビクついて逃げ出すような小心さ。だが、苛々した精神状態から垣間見える切迫した雰囲気。
そして、新一が頑なに握り締めていた――今は快斗の手の中にあるモノ。
急速に思考が稼動する。
ここ数日、錆付いて愚鈍になっていたのが嘘のように。
答えは呆気なく弾き出された。
「…なんでこんな簡単なことを…見落としていたんだ…」
深いため息は自嘲にまみれる。
情けなさと怒りが体中を駆け巡るが、伝わってくるあたたかさに快斗は冷静さを取り戻していく。
失っていたかもしれないぬくもり。
想いに囚われて現実から逃げていた自分の愚かさを悔いるよりも、無事でいてくれたことを快斗は只管に感謝した。
コンコン。
力を最小に加減して叩かれた扉。
気配から志保であることはわかっていた快斗は、扉が開かれるのを黙ってみていた。
隙間から顔を覗かせて、入っていいかと目配せてくる。
頷くと、静かに室内へと入ってきた。
他人が側にきても、快斗がいれば新一は目を覚まさない。
警戒していた人物にさえそうだったから、志保が眠りの妨げになるわけがなかった。けれど、自分の気配が新一に馴染むのを待ってから快斗へと近寄ってきた。
「随分、顔色がよくなったわね。やっぱり眠りに勝る療養はないわ」
その言葉から、快斗はろくに新一が眠ることもせずに始終緊張を強いられていた状態だったことを知る。
糸が切れたように眠りに落ちたことからも、新一の疲弊がどれだけ限度にあったかを思い知らされる。
「それに、あなたが側にいるからでしょうね」
穏やかな寝顔から、視線を快斗に移して。
告げられた言葉に、快斗も志保へと顔を向けた。
「何故?」
端的ながらも、そこには幾多の疑問を含ませている。
何故、部屋から追い出さなかったのか。
何故、新一とふたりっきりになんてさせたのか。
何故、先ほど「彼はいいのよ」と言ったのか。
何故、新一が快斗に心を許していることを認めているのか。
人見知りが激しく、他人を自分の領域に踏み込ませない新一が、全幅の信頼をおいていると言っても過言でないのを、快斗は知っている。
そして、志保はその信頼に全身全霊で報いる覚悟をもっていることも。
新一に害をなす人間を許しはしないし、おいそれと近づけることもしない。他人と容易に打ち解けないくせに無防備なところがある新一だから、余計に志保のガードは固い。初対面ならまず間違いなく敵視してくるはずなのに。
「工藤くんは、誰彼ともなく心を許したりしないわ。特に今の状況では、医師以外の誰にも触れさせることはしなかった。あなたがどんな人であろうと、彼が救いを求めたんですもの。私はあなたの存在が有り難いと思いこそすれ、邪険になんてしないわ」
だから、新一から引き離すようなことはしなかったのだと語る。
快斗には、何も出来ずに見守るしかできなかった志保の苦しみが手にとるようにわかった。
しかしそれでも、彼女が何より大切にしている新一を、身元も知れない自分に任せたことは納得しかねる。しかも、何時間にもわたって。
そんな心情がわかってか、志保は言葉を続けた。
「さっきは私も少しばかり興奮していたから、どこの誰ともしれない人と工藤くんをふたりきりにさせるなんてことをしてしまったわ。でも、よくよく考えてみたら私、あなたのこと知っていたのよね」
「…知っていた?」
月夜の逢瀬はふたりだけの秘密。
新一がいくら信頼しているとはいえ、志保に話すようなことをするはずがないし、快斗も工藤邸を訪れるときは細心の注意を払って忍び込んでいたから、誰かに見られたことは決してない。
それなのに、志保は快斗の何を知っているというのか。
「まぁ、あなたのことを知っていたというより、あなたという存在を知っていたというべきかしら」
「存在…?どうして?」
「そうねぇ。右耳の裏、襟足、腰の中央、それから左の肩甲骨…心臓の裏ってとこかしら」
志保は、意味ありげな目つきで面白そうに笑いながら告げる。
その示されたところに当然の如く思い当たって、快斗は苦笑した。
「心当たり、あるでしょう?」
「ああ…なるほどね。見えないところだから、気付かずに君に…」
「ええ。工藤くんの態度からして、恋人がいることはわかっていたわ。でも、それらしい人なんてまるで見当たらなかったから、ずっと不思議だった」
笑っていたのが嘘のように、志保の瞳は鋭く射抜かんばかりに睨みすえる。対して、快斗は平然と受け止めた。
激しい威圧感を前面に押し出せば誰もが居たたまれなくなって席を立たざるを得なくなるにも関わらず。快斗の感情は乱れることもなく、ただ静かに見つめ返すだけ。
「面白くないわね。小姑いびりも効かないなんて。でも、工藤くんが好きになるのだから一筋縄でいくようなかわいい性格なんてしていないわよね」
ふっと肩から力を抜いて、言葉とは裏腹に穏やかに言う。
それが快斗にはとても意外だった。こんなに簡単に自分の存在を容認できるなんて。
もしかしなくても、志保は快斗の正体を勘付いているというのに。
「どうしてと、聞いていいかな?」
「簡単よ。工藤くんがいつも楽しそうに心待ちにしていたことはたった一つだけ―――怪盗さんの予告日。それと恋人とを結びつけるのは早計かもと思ったけれど、怪我をして入院したのに来ないなんて普通の恋人同士じゃないって思い当たるでしょう。そして、ようやく現れたあなたは…」
「どう見ても、マトモには見えない」
「あなたが隠そうとしていないからじゃない―――私はね、工藤くんを守れるのだったらどんな人だって構わないの。もちろん、幸せにできるということが前提条件だけれど」
「…ありがとう」
ポーカーフェイスを外して、快斗は志保に微笑んだ。
「ところで、あなた料理はできる?」
「は?」
突然ふられた事柄に頭を捻っていると、白いビニール袋を差し出される。中には色々な食材が入っているのが見て取れて、今すぐここで作れと言われていることを悟る。
「どうして?」
「ここの食事は全く食べようとしないのよ。このまま点滴を続けていけば胃が受け付けなくなるから後々が大変でしょ。あなたが作れば食べると思うの」
「君が勧めたのに食べなかった?」
「え?…ええ、そうよ」
質問の意図がわからないながらも答えた志保から袋を受け取ると、新一と繋いでいる手をそっと解く。
時間的にもやや昼時をまわったくらいで、病室を訪れた志保の目的が知れた。
「そこにミニキッチンがあるわ」
すぐ傍らの衝立の奥、示された先へと袋の中を覗きながら快斗は立ち上がる。パックされたご飯やミルクや野菜といった中身からして、胃に優しい雑炊が志保の考えたメニューらしい。
「あら、その指輪…あなたの?」
「それには触らないほうがいい」
ベッドサイドのテーブルの上に今までなかった銀のリングを見つけて、志保は取って見ようとするが、止められる。問うように見た快斗が、新一の右手へと視線を流したのにピンとくるものがあった。
「工藤くん、ずっと右手は握り締めたままだったわね。まさか、これを…?」
「そう。それは、指に嵌めてある個所に力を込めると、針が飛び出すようになっているトリックリングだ。当然、針の先には薬物を塗布する」
「どうして…そんなものを…」
「この件に関わっている刑事を呼び出してもらえないか?」
「事件のことを知りたいのなら…まだそこでウロウロしている人がいるけれど」
呼んで来ましょうか?――扉へと向きかけた志保に、快斗は首を振る。
「事件のあらましなら知っている。だから、ヤツでは役に立たない」
「…ま、さか……」
大よそのことなら志保だって知っている。
何もわからなくなった新一に、思い出してもらいたい輩が直前のことを懸命に話しているのを聞いていたし、目暮からの説明も受けたから。
不意に先日の光景―――病室内を伺うようにして佇んでいた男の後姿―――がまざまざと思い出される。
「わかったわ」
皆まできかなくても、志保には快斗の言わんとしていることが飲み込めた。
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02.08.31
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