一段一段、踏みしめて上る。
ビルの谷間に差し込んでくる淡い光。
次第に影を払拭していき、明るい世界へと誘う。
まるで、地獄の底から這い上がっている感覚。
暗く荒んだ日の当たらない闇を抜けて、慈愛にあふれた月の光を浴びる。
上りきったところは、気持ちが穏やかになれる空間。
孤独であり諦観のなかに生きていることを教えてくれた場所。
それは、唯一自分だけの救いを見出したせい。
April Fools' serenade
長閑でうららかな気候のせいか、ことさら時間の流れがゆるやかに感じる。
日々身をおいていた殺伐とした事柄から遠ざかっているためかもしれない。
彼女に会ってから2週間ばかり。
自分の全てを託したせいではないが、心の中で一区切りつくことはできた。それは事態がどう転ぶかわからない不安を秘めていたけど、彼が唐突に行動を起こすとはまず考えられなかったから、以前と変わらぬ日常の中にいる。
いざという時の身支度は、初めて白い衣装を纏った時にできていた。
精神的にも現実的にも。
無論、組織に対して正体がバレた時の対抗策に過ぎなかったが、警察に対しても有効。
"クロバカイト"の存在をいつ消してしまっても問題はない。
ただ厄介なのは、人の心。
自分が消えれば悲しむ人たちがいるのは自惚れなんかではない。
だから、気が進まないのに懺悔のように付き合っている。
「ちょっと、快斗ったら!人ごみに紛れて帰ろうとしたって駄目だからね!」
「そうだぜ、黒羽。オレたちだって観念してんだから大人しくしろよ!」
「まったく!オンナの買い物は長いからなー」
口々にまくしたてるクラスメイト。
4月からはクラス替えでバラバラになるからか、ほとんどが出てきていた。
元クラスメイトの一件以来、皆一様に落ち込んでいたが今では話題にのぼることも少ない。回復力の早さは若さゆえだろう。そうやって、自分のことも忘却していくのかと思うとちょっとは楽になる。
「ね、快斗!どっちが似合う?こっち?それともこっちかな?」
ファンシーショップの店先に並べられている帽子を手にとり、聞いてくる幼馴染。似合っているほうを指差しながら答えていると、神経に障る気配を感じた。
そして、掛けられる声。
「ちょうどいいところで会ったわ。今、あなたの家に行こうとしていたの」
振り返って見なくても、彼女だとわかる。
何の用があるのか、再び出向いて来たのは意外といえば意外。返事を返す間もなく、この前と同様さっさと踵を返す。
「快斗?!」
「悪い。今度、埋め合わせはするから」
今度があるかどうかはともかく、そう言うしかなかった。
湯気の立つコーヒーを前に向かい合うのも、この前と同じ。
「今日は、何を頼まれてきたんだ?」
前置きなど必要なく、早速切り出す。
「あら、私自身の用で来てはいけなかったかしら?」
「オレは二度と近付かないと言った。信じる信じないは別にしても、それで用は済んでいるはずだろう?」
「いいえ、全く。だってあなた、さっさと帰ってしまうんですもの。話は何一つできなかった」
彼女の話したいことなど、彼に対する牽制以外の何があるというのか。それとも、単に彼からの伝言を焦らしているだけなのか。
「この前も今日も彼は関係ないわ。頼まれたなんてウソ」
「………」
「私に頼むぐらいなら、自分でどうにかしているヒトよ。私があなたに会いたかったの」
「何故?」
「取りあえず、彼が怪我をしてあなたがどう思っているのかを知りたくて」
「それで?」
「罪悪感でいっぱいだったのが嬉しかった」
クスクスと笑い出す彼女。大切なヒトを傷つけられ苦しめられれば、その原因も同じ目にあわせたくなるものだろう。
「あなたは、幸せを願ったことはある?」
嬉し気な顔を真剣さに変えて。突如、問われたことを反芻する。
幸せを願う―――――もちろん、恋したときから彼の幸せを願い続けている。
「ああ」
「それは誰の幸せ?」
「………」
何を言わせたいのだろうか。
誰のなんて、普通は自分自身の幸せを考えるものだろうに。
「自分の幸せなんか願ったことはないでしょう」
「まさか…」
「いいえ。あなたは幼い頃から何も望まず物事を達観してきたような人。だから、自分の人生に簡単に見切りをつけられる。最初から全てを諦めて、幸せになろうなんて考えもしない―――私にはわかるわ」
同情?いや、違う。わからない。
何を意図している…?
「もし、自分と重ねて見ているのなら間違いだ。君とオレとでは違いすぎる」
「どこが違うのかしら?ああ…確かに、私に比べればあなたの罪状はかわいいものかもね」
「逆だよ。過失犯と故意犯では大きな隔たりがある」
切れ長の瞳を眇めて、微笑んでくる。
「私のこと、調べたのね。結構だわ」
「興味を煽られただけだ。常識ではとても考えられないことだったから。クスリの存在を知れば自ずと君のことはわかった」
「まぁ、そういうことにしといてあげるわ。でもね」
からかうような口調から一変する。
「あなたと私はとても似たようなモノよ。私は守るべき大切なヒトをもてて、とても幸せなの。だから、あなただって同じく幸せになれるの。諦めることなんかしないで」
「…なにを言っているんだ?」
彼女は、彼を傷つけたオレを断罪しにきたはずだ。
命にも代えがたく大切に想っている人をあんな目にあわせたオレを。
「私は工藤くんが誰よりも大切。だから、彼の幸せを願っているわ。それはあなたも同じよね」
「……バカな…そんなことあるわけないだろう」
「だったらどうして罪悪感なんてもつ必要があるの?ここまで自分を責めることも追い込むこともないはずよ」
ゆるぎない瞳。否ということを許さない。どうして、こんなことを言うんだろうか。
わからない。わからない…。
「手に入らないからと、最初から諦めないで。幸せになる資格はないからと、全てを捨ててしまわないで。あなたには、人を幸せにする力はあるのよ。だから、自分自身が幸せになることを考えて」
「何を…言ってるんだ…?」
「大切な人の幸せを願うばかりじゃなくて、自分の手で幸せにしたいとどうして思わないの?」
「だから、なにが言いたいんだ。君の大切なヒトが、この前どんな目にあったのか忘れたのか?今、目の前にいるこのオレのせいでどんな怪我を負ったか…」
「あなたのせいじゃないわ。少なくとも、もう一人の方には要因はあるけれど」
「………」
「あれは、彼自身がしたことよ」
「え…?」
混乱をきたした頭では、まるで状況が理解できない。
彼女はこんなひとではないはずだ。彼を傷つけた者には容赦ないのに、どうして責める言葉ひとつ言わずにこんなことを…?
「この前も、このことを聞いてほしかったの。そして、あなたに自分自身の幸せと向き合ってもらいたい」
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02.04.01
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