夜の雨  







僅かに顔を出していた月は、分厚い雲に閉じ込められた。
ほどなく、頬をかすめた雫にため息が出る。

「……少し預からせてもらう、か」

拳のなかの石を、ハンカチーフで丁寧に包んで胸のポケットへと押し込む。
その少しの間にも雨は強さを増してきて、真っ白い衣装に染みを作っていく。
視界は悪くなる一方で、闇と相まって世界から切り離された感覚さえ生じさせる。

こんなときに頭に過ぎるのは愚かなことばかり。

一体こんなところで何をしているのだろう、とか。
いつまでこんなことを続けなければならないのだろう、とか。
苦しくても辛くても、誰にも何も言えずに。いずれは、うらぶれて死んでいくものなのか、とか。

かぶりを振って、雨の雫とともに思考を追い払う。
白い衣装が重く感じるのは、雨に濡れているからだと言い聞かせて。
誰も来そうにない気配を確かめてから、怪盗の姿を解いた。


理由もなく、気が重くて。
歩くのですら億劫な感じ。

どこまでもどこまでも闇の中、行く先には不安と未知なるものしかない。
でも、そんなのは自分だけではない。
誰だって、生きている限りは悩むべきことだ。

「ああ…そっか…」

ふと、思い至った。
雨に打たれて、冷たくて寒くて。
それに紛れてしまった感情を見つけ出す。

寂しさ。

たったひとりだということが、どうしようもなく哀しかっただけ。
誰のぬくもりも知らないことを、雨の冷たさが思い出させたのだ。
欲しくても、求めても。自分には決して手に入らないものだから。


「…?」

真夜中、大通りからのわき道。近道になるそこを少し進んだ時だった。
目の前に、ぼんやりとしたものが浮かんでいた。
近付いていくにつれ、何であるかがわかる。

白かっただろう肌は、分からないほど泥に汚れて。
やわらかだったろう毛並みは、バサつき荒んでいて。
やせこけた体は、どれだけ必死で生きてきたかが知れて。

きっと、ひとりぽっちで頑張ってきたのだろうけれど。
誰も助けてくれることなく、結局は踏みにじられた小さな命。
体をまるめて死ぬときですら、たったひとりで。

自分と重ね合わせて見るのは、この仔猫にとっては失礼なハナシだ。
だが、冷たいアスファルトの上で死んでいる自分の姿を見てしまった気がした。


「…おいで」

屈んで、そっと包み込み胸に抱える。
流れ落ちる血とあたたかさの残る体躯に、まだ間もないことがわかる。
せめて、冷たくなるまではこうして抱いていてやりたいと思った。


きっと、自分も。
こんなふうに死ぬのだろう。いつかはわからないけど、ひとりぽっちで。
でも、たったひとりでいいから死に姿を見て欲しい。
白い怪盗の死を。
そうすれば、この世に生きた証となるから。


願わくば、たったひとりがあのひとであるように。
そして、命あるときは触れることが許されなかったぬくもりを教えてもらいたい。





























朧に姿をみせていた月も、とうとう分厚い雲に飲まれてしまった。
予想通りにポツポツと冷たいものが落ちてくる。


雨に濡れるのは好きじゃない。
脆弱な体だと、否が応でも知らしめられる結果になるし。
誰かのために流されている涙のように思えるから。

誰か……それは、命を奪われて死に行く者。

いくつもの現場でいくつもの死を見てきた。
憎まざるを得ない人物にも、死を哀しむ者がいて。
犯人からどんな憎悪を向けられても、死を悼む気持ちほど心を痛めつけられはしない。

死は怖い。
でも、死そのものが怖いわけでも、自分が死に近いところにいるからでもなくて。
怖いのは死がもたらす感情。

死が引き金になって、起こってしまう殺人。
死を哀しむあまりに、自分を殺してしまう人。
悲しくて苦しくて、辛くて……激しいまでの感情を生み出す死は、恐ろしい。

そして、恐ろしくも羨望している。


自分が死んだとき、哀しんでくれるひとはいるだろうか。
誰かの涙を見るたびに、胸を掠めてしまう。
考えることからして、もう答えは出ている。
誰も泣いてくれそうにないからこそ、答えを求めてやまないのだ。

殺された人のために、自らの手を汚しても厭わないほどの強い想い。
死んでしまった人と同じところに行きたいと願うほどの頑なな想い。
羨ましいと思う。
そんな想いを抱かれ、抱けることが。そんな激しい感情に支配される心が。




雨に濡れて次第に重たくなる服にどうにも耐えられなくなって、手近なビルの軒先へと逃げ込む。

『目の前に死体があるっていうのに、顔色ひとつ変えないね』
『どんな思いで殺したかなんて、冷血漢にはわからないだろうな』
『完璧すぎて生きてる人間って感じがしない。お前に感情はあるのか』

浴びせられるコトバになんか一々傷つきはしないけれど。
自分が他人からどんな目で見られているか知るには充分。
だから、決して得ることができない涙。
それを見せ付けるように降る雨はどうにも我慢できない。

自分が死ぬ時は、きっとひとりぽっちで。
誰も、悲しみも嘆きもしない。
存在自体がどうでもよかったという風に。


「…仕方ない」


実際、誰にも心を動かされないのに。一方的に他人に求めるのは間違いだ。
寂しいなんて思わないことすら、涙を得る資格がない顕れ。


「?」

突如、雨音だけの世界を打ち破るブレーキ音が響く。
軒先から少し顔をだして見ると、1ブロック先の角に車が止まっていた。だが、すぐに発進する。
煙る視界の中、一体なんだったのかと車を見送って、ぽつんと小さなものが取り残されているのに気付いた。

「あ…」

何が起きたのか理解できたが、足はちっとも動かない。
ぴくりとも動かないそれに、もう命が尽きていることがわかったから。
点滅を繰り返している傍らの街灯だが、流れ出る血を照らし出していた。

失われた命。
こんな雨の降る、寂寥に充ちた夜に。
小さな小さなかたまりに、まだまだ死ぬべき命ではなかったと知れるけれど。死は、いつだってどこにだって舞い降りるもの。

いつかくる未来を見た気がした。
芥のように、誰にも気にも留めてもらえない。
どうでもいい存在の、どうでもいい死。

それでも、この仔猫と自分とは違う。
少なくとも、こんな自分でも仔猫の死を痛いと思えるから。涙は流せないけど、ちゃんと死んだことに気付いている。




雨に濡れて冷え切っていた体は、目の当たりにしてしまった死でさらに凍えてしまった。それでも震えを抑えながら雨の中、仔猫のもとに踏み出そうとして―――止めた。

闇のなかに人影があった。
傘もささずに、自分と同じように全身はぐっしょりと濡れている。
死を穢れと嫌う者はいるから、行き過ぎるのを待っていようとしたが。
その人は、儚いかたまりに目を留めてゆっくりと屈みこんだ。そして、躊躇せずに手を伸ばす。

「おいで」

安らかな眠りに導く、やさしい声。
愛しいもののように、胸に抱いて。
これ以上雨に濡れない様シャツのなかに入れて、雨の中に消えていく。


ほんの少しの間の出来事。
知らず知らずの内に、胸元を鷲掴んでいた。

ほのかな明かりが灯した、やわらかな眼差し。
透明な雰囲気に、彫りこまれたような端正な面立ち。
どこまでも静かで気配を感じさせなかった人。

両手で抑えている胸は、激しく脈打っている。
訳がわからなくて、息はできないほど苦しい。


あの手が欲しいと思った。
あんなふうに、やさしく抱きしめてもらえるならば。
命が尽きる瞬間に、何の未練も感じはしないだろう。


「死神…」


闇の使いのようなヒトだったから。雰囲気も気配も、何もかもが。
そうだったらどんなにいいか。もう誰かを羨むこともなくなる。
彼が迎えにきてくれて、悼むように抱きしめてくれるのだから。
流されることのない涙を切望する必要なんてこれっぽっちもなくて。
思えば思うほど、決して有り得ない非現実を信じようとする自分がいる。


願わくば、命の果てるときまでこの幸せな夢を見続けられるように。
そして、何にも動かされることのなかった心が、あの人のためにあったのだと思いたい。





end 
02.06.19 

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"請雨"


  
■story







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