己の指が示した先。
ビクついていた気配が突如としてどす黒いものへと変化する。
罵声と共に向けられた、狂った目。
曝された真実に衝撃を受けた人々の間を抜け、飛び掛かってきた男。
その手には鋭く光る刃があって、暴言通りに狙いを定めた。
反応の遅れた者達が、あるまじき事態に叫び声を上げる。
恐ろしさによる悲鳴や制止のためのもの、そして自分へと向けられるもの。
けれど、足は動かない。
恐怖に竦んだのでも、気圧されたのでもなく。
迫ってくる切っ先に、視線も心も奪われて。
放たれる殺気さえ、ひどく心地よかった。
ただ、頭の中にあったのは゛彼゛に逢えるかもしれない、ということ。
「おいで」
耳から離れないやさしい、声。
刻み込まれたあたたかな、言葉。
ぬくもりを分け与えてくれる、手。
何より印象深いやわらかな、眼差し。
雨の夜の、たった数秒の出来事。
なのに、心の全ては奪われてしまった。
自分に対して向けられる憎しみや憤りでしか、推し量ることしかできなかった心――そこに宿る感情。
持ち得ないものだからこそ、何より顕著に発露される場である"死"を厭うてさえいたのに。
雨の煙るなか出逢ったひとは、あんなに怖かった"死"をとてもやさしいものへと変えてくれた。
やさしく、そしてあたたかいものに。
彼の消えた空間から、目を離すことはできなかった。
いつまでたっても胸の高鳴りは消えうせなくて。服地を鷲掴んだ手は、そのままの形で固まってしまって。
横から吹き付けてくる風雨には、雨宿りの意味もなく。雨に濡れて凍えた体を一層冷やしていった。
それでも、寒さより冷たさよりも感じるのは胸の奥から沸き起こってくる、得たいの知れないもの。
ドクドクと脈打ちながら体中を駆け巡る血流とともに、四肢の細部にまで行き渡る。
自分にもあたたかな血が流れていたのだと、そのとき初めて知った。
感情も心もなく、生きているのかどうかさえあやふや。人形と言われれば、その通りだとさえ思いもしたのに。
叫びたい気分だった。
大声で、自分は生きとし生きるものに名を連ねている、命あるものだと。
白み始めた空。
雨は何時の間にか止んでいた。
重く立ち込めていた暗雲はどもにもなく、空の切れ間からはうっすらと光が差す。
再び、時間が動き出した。
現実へと戻されて、彼のいる世界が閉じられてゆく。
遠く遠くに分たれて、ひとりで取り残された迷子のよう。
それでも、焦燥も不安もなにもない。
だって、オレには命があるのだから。冷血漢でも人形でもなく、ちゃんと生きている人間だから。
急激にだるくなって、重くなる肉体も。
ずきずきと痛む頭も、熱を発散している額も。
生きている証だと思うと、苦しい息さえ喜びだ。
命があるからこそ、生きているからこそ。
もう一度、彼に逢うことができるから。
ああ、やっぱり…。
暗く冷たい深淵に、沈みこんでいた意識。
ふと、そんな呟きとともに浮上してゆく。
右側。頭のすぐそば。
炎が灯されたように闇にぽっかりと穴があいている。そして、あたたかい。
これは、ぬくもり。
空気を伝って、ゆっくりと浸透してくる。
ああ、やっぱり…。
闇に溶け込んでいる、透明な気配。
間違いない。彼だ。
やっぱり、彼は来てくれた。
やっぱり、彼は感じた通りの存在だった。
見ていたのは幸せな夢ではなく、まさしく現実。
そう、とても幸せな現実。
いつか醒めるかもしれないと怯えるどころか、こんなにも早く逢えるなんて。
さあ、あのコトバを言って。
そして、そのあたたかな手をオレに差し向けてくれ。
なぁ…どうした?
どうして、動かない…?
なぜ、あの仔猫のように触れてはくれない…?
すぐ、そこにあるのに。
手を伸ばしたくても、ぴくりとも指先は動かない。
もう一度その姿を捉えたくとも、瞼は綴じ付けられたように開かない。
はやく、はやく。
はやくしないと。
お願いだから…はやく…!
アノ日の、アノ夜の終わりと同じ。
白み始めた闇は、残酷にも彼との世界を分っていった。
「…あ……っ…」
吐息とともに出た声は、ひどく掠れている。
声を上げすぎて枯れたように、喉はひりひりとした渇きを覚えた。
光のまぶしさに慣れても、なかなか視界ははっきりしてこない。2,3度瞬きをして何とか焦点があうと、頭上でキラキラとしているものに注意がいく。
光にあたって照り返している、ガラスの瓶。逆さに釣られ、半分ほど液体が入っている。
視線をおろしてゆくと、口の部分に差し込まれた管がずっと下へ続いている。
辿り付いたのは左手。管の先につけられた針が、肘の内側に刺さっている。
認識した途端、体のなかに流れ込んでくる異物感に気持ちが悪くなる。
固定してあるテープごと針を抜くと、ベッドから放り捨てた。
「…なんだ…よ、ここ…は…」
見たことのない天井。壁。ドア。
白一色の部屋、傍らに置いてあるものから場所は容易に推測できるけれど。
「……ああ…そっか…」
起き上がろうとしても、腹部に力が入らない。
圧迫するように巻かれているものから、自分の状態を思い出した。
ドン―――衝撃はそんな感じだった。
突進して、体当たりされるまで4、5秒ほど。
次第に大きくなった銀の光は、そのまま体のなかへと吸い込まれる。
瞬間、そこから燃え上がるような熱が生まれた。
「工藤くんっ?!」
「きゃぁぁーーっっ!!」
「と、取り押さえろ…ッ!!」
「救急車!救急車だっ!!」
刹那、止まっていた空間が動き出す。
耳を劈く叫びに、ついと顔をあげると。圧し掛かるように肩口に顔を埋めている男越しに、見知った顔がある。
コイツのせい。
予測した軌跡を通ったのに、予測した場所にこなかった鉄の塊。
間髪で羽交い絞めして、真っ青な顔に脂汗を滴らせているヤツ。
「警部はん…っ、手や!手を外させてやっ!!」
反射的に、耳元で荒い息をつく男を力いっぱい押しやった。
加わった力は均衡を崩す。
「あかんっ!!じっとして…ッッ」
それ以上近付かせないために後方へと引っ張っていたのが仇になって。ヤツをクッションにして男は床へと倒れこんだ。
赤い赤い、飛沫を浴びながら。
遮るものがなくなったせいで、服地はみるみる染まっていく。
左側の腹部から、左の下肢へ。生暖かいものでぐっしょりと濡れるのは瞬く間。
「ああ…ッしっかりしてくれ!」
「し、止血だっ!誰かタオルをっ!!」
「救急車はまだかっ!」
「工藤くんっ!!工藤くんっ!!」
蜂の巣をつっついたような喧騒と混乱。
幾つもの声とともに幾つもの手が伸びてくる。
体を支えるもの。傷を押さえるもの。まとわりついてくるそれらは、彼へと近付こうとするのを邪魔しているようで。振り払いたくてたまらない。
なのに、急激な失血に意識は朦朧として、手足は麻痺して動かない。
暗くなる視界は、足元の真っ赤な溜りを映した。
色の無くなった世界で、唯一鮮やかに輝やいて。
だんだん大きくなって、先へ先へと広がっていく。
まるで、彼へと続く赤い糸のよう。
そう思うと、何だかとても嬉しくなった。
嬉しくて顔が綻んでしまう。
「あかんっ!!しっかりするんやッッ!!」
「工藤くん!気をしっかりもつんだっ!!」
「工藤くん…っっ!!」
少し静かにしろ。みんなどこかに行ってくれ。
乱暴に体を押さえつける手も、うるさくわめきたてる声もオレはいらないんだから。
欲しいのは、彼のあたたかな手とやさしい声だけ。
「……失敗…したのか…」
浮かんだままを口にすると、現実がひしひしと感じられる。
彼に逢えると思ったのに。
抱きしめてもらって、ただその瞳に映してもらえると喜んだのに。
ゆっくりと、頭を右へ向ける。
闇を払う明るい光が差し込む窓と、ベッドとの間。
そこまで、彼が来てくれたような感覚があった。
傍らに立って、じっと見下ろしてくれたような、そんな気配を感じたけれど。
「……違った」
パイプ椅子が置かれて、つい今しがたまで誰かが座っていた痕跡がある。見覚えのあるショールは、彼女がよくひざ掛け代わりに使っているもの。
「せっかく……」
逢えると思った。ようやく願いが叶うと思った。
一体、何がいけなかったのだろうか。
こうやって助かるくらいの傷だったこととか。人が大勢いたこと。
それから……。
「……あぁ…雨が…降ってなかった、か…」
end
03.01.11
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