涼 子  【0】
 思わず笑みがこぼれてくるような晴天。

 藤崎涼子の心もまた、この空のように晴れやかだった。
 先週引っ越してきたこのマンションで、新しい生活を始めたばかりの涼子は、日常のさ
さいなことひとつひとつに、しみじみとした幸せを感じていた。
 真新しい家具を磨き、太りぎみの夫のために栄養のバランスのとれた食事をつくり、洗
いたての白いYシャツにアイロンをかける。そんなたわいもないことが、涼子にとっては
たまらなく楽しかった。
 心からうれしそうに家事をこなす初々しい新妻が、一回り年の離れた夫にはかわいくて
しょうがないようだ。毎晩、独身時代には考えられなかったほど早い時間に帰宅しては、
涼子の手料理に舌鼓を打っている。
 ――修司さん、お仕事大丈夫なのかしら……
 涼子の心配通り、仕事の鬼と呼ばれていた藤崎は、職場ではやっかみ半分に「幼い女房
に骨抜きにされた」とからかわれていた。
 短大を卒業してすぐに結婚した涼子は、制服を着たらそのまま高校生で通ってしまうの
ではないかというくらいに、若々しいというよりはむしろ幼い。夫と並んで歩くと親子と
間違われることもしばしばだった。
 肩のあたりで切りそろえられた艶のある黒髪と、小動物のようにクリクリと動くつぶら
な瞳が印象的だ。本人は太めだと気にしている体型も、いかにも柔らかそうで男から見れ
ば即座にむしゃぶりつきたくなるほど魅力的である。涼子の父の部下であった藤崎が一目
で夢中になったのも無理はなかった。
 厳格な両親の元で育ち、小学校からお嬢さま女子校に通っていた涼子は、見た目だけで
なく心もまだどこか少女の面影を残している。学生時代に男と関わる機会など皆無に等し
く、藤崎の猛烈なアプローチに初めは戸惑ったものだった。それでもいつしか大人の優し
さと男らしさを兼ね備えた藤崎に惹かれていき、交際半年でのスピード結婚とあいなった。

「こんないいお天気で、お布団干さなきゃうそよね……」
 いそいそと寝室に行き、真新しい羽毛布団を両手で抱える。うっすらと残った夫の残り
香に、思わず頬が染まる。
 その熱を冷ますように顔を左右に振り、布団を抱きしめてパタパタとベランダに出る。
サンダルをひっかけて手すりのところに布団を置いたところで、下からしゃがれた声が聞
こえてきた。
「おはようございます、奥さん。精が出ますね」
 見下ろすと、冴えない初老の男がこちらを見上げて手をあげている。
「おはようございます。いいお天気ですね」
 このマンションの住み込みの管理人、澤田孝仁の姿を認め、にっこりとひだまりのよう
な微笑みを浮かべながら挨拶する涼子。
 人から悪意を向けられたことのない涼子は、自分のまわりの人間はみないい人だと信じ
きっているふしがある。何を考えているのかわからなくてどうも薄気味悪いと、あまり評
判の芳しくないこの男の、自分を舐めるように見るギラついた視線にも、まったく気づい
ていない。
「ええ、ほんとにいい天気だ……奥さん、ここでの暮らしにはだいぶ慣れました? 何か
困ったことがあったら、この澤田までなんなりと言って下さいよ。すぐに飛んでいきます
から」
 澤田のどこか恩着せがましい口調もまったく気にならず、親切な管理人だとうれしく思
いながら言葉を返す。
「ありがとうございます。そうさせていただきますわ、頼りにしてます」
 ニコッと笑って軽く会釈してから、涼子は薄いピンク色のスカートをはためかせて部屋
の中へと戻っていく。

 瑞々しい後姿を見送る澤田の頭の中には、真っ黒い欲望が渦巻いているということを、
涼子はまだ知らなかった。



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