夜闇に紛れてロンドンの上空を飛び、人気のない一角に降り立つ。
複雑に張り巡らされている封印の魔法を、呪文を唱えるだけで淀みなく解いていきながら、シリウスの表情は次第に険しくなっていく。
十五年以上足を向けることのなかった生家は、おそらくは彼にとって良い思い出などほとんどない場所だった。
中が荒れ放題で記憶を呼び起こすものが少なかったのはかえって幸いだったろう。シリウスはしばらく呆然とした表情で辺りを見回していたが、やがてリーマスを振り返るとわずかに笑顔を見せた。
「これじゃあ寝る場所もないな。明日から毎日掃除だ」
「そうだね」
リーマスも穏やかに微笑み返す。
ゆっくりと歩を進めていたシリウスは、ふとある扉の前で足を止めた。
扉を開けて中に入り、奥へと進んでいくシリウスに、リーマスも何も言わずついて行った。
外からのわずかな光で少しは視界がきいたが、部屋の中はほとんど何も見えなかった。窓はないか、鎧戸が閉められているのだろう。それでもシリウスは淀みなく足を進める。
「明かりをつけてくれないか、リーマス」
シリウスが突然足を止め、リーマスはその背中にぶつかりそうになった。
「明かり?」
「俺は今杖がないからな」
リーマスはうなずき、杖の先に小さな明かりを灯した。
その明かりで、すぐ前が壁であることがやっとわかった。壁にはタペストリーが掛かっている。何の模様なのかすぐにはわからずじっと見ていると、シリウスがすっと指を伸ばして一点を指した。
「ここに俺の名前があった」
「え?」
そこには不自然に四角く切り取られた痕があった。その周りを見て、やっとリーマスはそれが家系図であることに気が付いた。
「十六歳の時に親と大喧嘩して、もう二度と帰らないって宣言して家を出た。たぶん、その時に名前が消されたんだろう。なのに、その俺がここに戻って来ることになるなんて、何が起こるかわからないものだな」
そう言ってタペストリーを見つめるシリウスの横顔は静かだった。
それでも、リーマスは彼の目にまた暗い色が宿るのを見て取り、彼の腕をつかんでここから引き離したい衝動にかられる。
だがそれは自分には似つかわしくない行動だろう。ただの友人として彼の横にいる自分には。
リーマスは衝動を抑え込んで平静を保ち、シリウスが自分からタペストリーに背を向けるまで待っていた。
それから二人はとりあえず厨房だけは汚れを取り除き、軽い夕食をとってから眠ることにした。
季節柄寒くはなかったので、今日のところは床のカーペットが比較的まともな場所を選び、荷物を枕にして横になった。寝室を掃除するほどの元気は残っていなかったし、寝る場所に関しては二人とも拘りがない。もっとひどい場所で眠った夜だって数え切れないほどあった。
リーマスは横になってすぐ眠りに引き込まれた。思ったより疲労していたようだ。
だが、誰かに呼ばれたような気がして目が覚めた。
重い瞼を開けて見たが、周囲はまだ暗い。朝が来た訳ではないらしい。気のせいかと思って目を閉じかけた時、もっとはっきり声が聞こえた。
「……ーマス、リーマス!」
「シリウス!?」
リーマスはそれがシリウスの声だと気付くなり、すぐに身を起こした。
シリウスは少し離れたところにうずくまっていた。両手で頭を抱え込むようにし、苦しげなうめき声が噛みしめた唇の間から漏れる。
「どうした!? しっかりしてくれ、シリウス!」
抱え起こすと、シリウスは何かを振り払おうとしているかのように首を振った。それから、もがくような仕草で伸ばされた手がリーマスの腕をつかんだ。
ゆっくりとシリウスが目を開く。
「……リーマス?」
「ああ。大丈夫かい? 何処か痛む?」
シリウスは首を横に振り、自分で身を起こそうとしてよろけ、リーマスの肩に額を押し付けた。
「すまん。すぐに治るから……」
「……うん」
何となく事情を察し、リーマスはシリウスが寄りかかりやすいように体勢を立て直し、彼の背を支えた。
呼び起こされた辛い記憶が織り合わされた、最悪の悪夢。
恐らくはアズカバンの後遺症だ。この場所に戻って来たことで精神的に疲労したため、その症状がぶり返したのだろう。
幾度か深呼吸を繰り返し、シリウスは大分落ち着いたようだった。それでも何となく離れがたく、リーマスは彼の背に手を当てたままでした。
「心配かけて悪かったな。もう、こんなことはないと思っていたんだが……」
「気にするな。それより、もう少し眠った方がいい。もっとちゃんと寄りかかっていいから」
「余り眠りたくはないな……」
そう言いながらも、シリウスはリーマスの肩に頭を預けて目を閉じた。
「明日はちゃんと掃除をしてベッドで寝よう。横着してこんな硬いところで寝るから悪い夢を見たんだ。ああ、それを言うなら、私の肩も充分硬いね。でも、冷たくはないだろうから少しはマシだろう?」
「……リーマス」
努めて明るい声で、シリウスの気を紛らわせようとしゃべっていたリーマスの言葉をさえぎって、シリウスが低い声でリーマスの名を呼んだ。
「おまえが死ぬ夢を見た」
「……」
リーマスは突然の言葉に何も返すことができなかった。
シリウスはそのまま言葉を続けた。
「アズカバンで何度も見た夢だ。独房の前におまえが現れる。手にナイフを持っている。俺はおまえが俺を殺しに来たのだと思って、目を閉じる。でも、顔に生暖かいものがかかるのを感じて目を開けると、おまえが血溜まりの中で倒れている。俺は手を伸ばすけど、おまえには届かない。俺は……」
「夢だよ、シリウス」
リーマスはシリウスの言葉を遮り、両腕で彼の肩を包んだ。
友達らしく振る舞おうと気を付けることなど、もうどうでもよくなってしまった。このぬくもりで少しでもシリウスが慰められればいいと思う。そしてそれ以上に、傷ついたシリウスをただ見ていることに自分が我慢できなかったのだ。
「私はアズカバンに行くような勇気はなかったよ。君が見た夢のようなことは起こりようがない。それに、君は私のことを良く考えすぎだ。私はそんな機会を与えられたら、きっちり君を殺して仇を討つつもりだったよ。自殺するようなかわいげはない」
「ああ、わかってる。目が覚めた後なら、幾らだって理由付けができるんだ。顔に血がかかった記憶は、ピーターがマグル達を吹き飛ばした時のものだ。血溜まりの中に倒れているおまえは、満月の後の叫びの屋敷で見た。わかっているのに、夢を見ている時はそれが現実に思える」
シリウスはぐったりした体をリーマスの肩に預けたまま、片手で目を覆った。
「アズカバンでこの夢を繰り返し見ていたら、もうおまえは生きていないんじゃないかと思えてきた。俺がおまえを信じ切れなかったせいで、おまえを一人きりにしてしまった。俺のせいで……」
「もういいよ、シリウス。私はこうして生きている。君が自分を責めることはない」
「……すまない。つまらないことを言った」
シリウスは身を起こそうとするように身じろぎしたが、リーマスは彼の肩から腕を離さなかった。
「そんなことはないよ、シリウス。私達はもっと弱音を吐き合うべきなんだと思う。前は、それを我慢し過ぎて失敗したんだからさ」
シリウスが驚いた顔で見上げてくるのに、リーマスは何でもないことのように笑ってみせた。
「だってそうだろう? 私達は自分だけの力で何とかできると思い込んでいて、結果として見事に失敗したんだ。私達はもっと、お互いに頼るべきだった。もうお互い、怖いもの知らずの若者じゃないんだから、プライドは捨てて助け合おうじゃないか。さしあたって、君は悪夢を見たときは私をたたき起こしてくれていい。それで君が安心できるなら、ちょっとくらいの寝不足は大したことじゃないさ」
シリウスはしばらくあっけにとられた表情でリーマスを見ていたが、やがて、ややぎこちなくだが笑顔を浮かべた。
「じゃあ、遠慮なくそうさせてもらう。だけど、きっともうあの夢は見ないだろうと思うよ。おまえは生きてるって実感できたから」
それから、シリウスはまたリーマスの肩に頭をもたせかけて目を閉じた。
「でも、それならおまえももっと俺に頼ってくれなきゃフェアじゃないよな……」
そんなつぶやきの余韻が消えた後、穏やかな息遣いが聞こえてきてシリウスが寝入ったのがわかった。
それを確かめてから、リーマスは返事を返す。
「フェアじゃないってことはないよ。君が戻ってきてくれただけで私には充分だ」
何となく離れるきっかけを失ったまま、リーマスもいつの間にか眠ってしまい――
翌日、リーマスの片腕が使い物にならなかったことは言うまでもない。
to be continued