それからしばらくの間、日々は平穏に過ぎた。
今までの人生の大半において感情を抑制することを自らに課してきたリーマスにとって、シリウスに対して友人としてしかるべく振る舞い続けることはそれほど難しくもなかった。何しろ、学生時代には何かにつけてリーマスの本音を引き出そうとしていたシリウスが、今はすこぶる協力的なのだから。むしろリーマスの方が、ぎこちなくなりがちなシリウスの態度を見て見ぬふりをしてやることが多かった。
だからと言って、二人の生活が気詰まりなだけのものだった訳ではない。
人が訪れることは滅多にないリーマスの家では、シリウスは脱獄囚であることを忘れて過ごすことができた。
日の光の下で過ごすことができるということは、明らかにシリウスの精神によい影響を及ぼしていた。彼は相変わらず無頓着なリーマスへの文句を言いながら、梯子を持ち出して屋根や雨樋の修理をしたり、実用植物しか存在しなかった庭に花を植えたりした。こうした日常生活に役立つ技能のほとんどは、ジェームズの両親が存命中にポッター家で教わったもので、それによって喚起される記憶は現在とのあまりの違いを見せつけるものだったけれど、シリウスは最近ではそれに呑まれずに平常心を保つ術を身につけたようだった。
だが、夜になると昼間のように全てが順調にはいかず、リーマスが気を回せばならないことが多くなる。
パターンは大体決まっていて、夕食の後にお茶を飲みながらとりとめのない話をしている時に、ふと話題が不穏当なものに逸れて行ってしまうのだった。
ああ、しまった……
そう思いながら、リーマスは怒った顔で自分をにらみ据えているシリウスと向き合っている。
最初は普通に話していたのだ。ハリーはどんな夏休みを過ごしているだろう、少しの間でもいいから彼をここに呼べないだろうか、ベッドは2つしかないから、交代で長椅子で寝るとして……そんな話を。
なのに、何がきっかけだったかシリウスが神妙な顔をして、
「もし敵に囲まれて、一人が敵を食い止め、一人がハリーを守って逃げなければならない状況になった時、残るのは俺だからな」
などと言い出すものだから、リーマスもつい難しい顔になって、
「いや、ハリーのためには君が生き残るべきだ」
と返してしまい、互いに譲らぬ膠着状態になってしまったのだ。
「シリウス、冷静に考えてくれ。ハリーにとって君は家族で、私は以前の教師であるに過ぎない。どちらがより大切かはわかりきったことだろう」
「だから、ハリーのために命を賭ける権利は俺にあるはずだ。おまえが逃げろ」
「それは君自身の希望だろう? ハリーにとって望ましいことが何かを考えるべきじゃないか?」
「子供の保護者として俺とおまえのどちらが優れているかときいたら、十人中十人がおまえだと答えると思うぞ」
「……まあそうかもしれないが、問題はそこじゃないだろう! ハリーにとって、君はたった一人の家族なんだ。君はハリーが成人するまで見守る義務があるはずだ。確かに今君は社会的に保護者としての責任を果たし得る状態にないかもしれないが、君の無実が証明されればその状態は改善される。君の不適切条件とはそういった性格のものだ。一方、私は」
「それ以上言うな。俺を怒らせたいのか?」
「事実を言っているまでだ。私は人狼だ。これは動かしようのない不適切条件だ」
「リーマス!」
そして、無言のにらみ合いが続いてもう何分が経過したのか。
リーマスが感情的になってしまったことを後悔し、何とか取りなそうと口を開きかけた時、
「確かに俺の希望に過ぎないことは認める」
シリウスが、不意に目を伏せて言った。
「だけど、俺はおまえに生きていてほしいんだ」
そう言うと、シリウスは立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
その歩調は特に早過ぎるものではなかったし、ドアも乱暴に閉められた訳ではなかったけれど、リーマスは不用意にシリウスの傷を深くしてしまったのを感じてその夜は落ち着かなかった。
そんな風にこじれてしまうことは滅多にないことで、二人の共同生活は穏やかなものだった。。
シリウスがアズカバンで受けた痛手は着実に癒えていっているように見えた。
少なくとも身体的な不健康さはもう残っていない。相変わらず痩せてはいるけれど病的なものではなく、行動を制限される生活の中でも筋力が低下しないよう気を付けているようだ。
問題は精神的な痛手であるが、彼はそれを極力表に出さないようにしていた。時折、ふとした瞬間に見せる暗い目も、すぐにいつもの彼らしい目の色に戻る。リーマスが、自分が頼りにされていないのかと寂しく思うくらいに、彼は自分だけの力で平静を保とうとしていた。その自制心はかなりのもので、あの騒々しくて癇癪持ちだった学生時代の彼が嘘のようだ。
そのくせ、しばらくリーマスの姿が見えないと不安になるらしく、辺りを探し回るようだった。それがわかったのは、地下室に貯蔵してある野菜を取りに行って戻った時、用もないのにキッチンをうろうろしているシリウスに遭遇したからだった。顔を合わせるとシリウスは明らかに慌てた様子で何やら言い訳をしようとしたが、リーマスは笑って持っていた林檎を差し出した。
だが、そんな生活は数ヶ月で終焉を迎えることになった。
きっかけはダンブルドアの訪問で、ヴォルデモートに対抗する組織の本拠地としてシリウスの実家を貸してもらえないかという申し出がされたのだった。シリウスは一も二もなく同意し、自分ができる限りの協力をすることを約束した。
数日のうちにシリウスは実家に移ることとなり、リーマスはまた一人の生活に戻ることを覚悟した。
「一緒に来てくれないのか?」
ダンブルドアが辞去した後、リーマスがシリウスに健康上の注意事項をいくつか告げていると、シリウスは急にそれを遮って言った。
「私は町中で暮らすには向いていないからね。もちろん、会合がある時には参加するけど」
見る見るうちにシリウスの顔が途方に暮れたような表情になっていく。だが、深く息をついて気を落ち着けると、彼は反論を始めた。
「ブラック家の防御は完璧だから、周りを気にすることなんてないぞ。満月の時だって俺がついてるし、脱狼薬も作ってやる」
「だけど、やっぱりここの方がいろいろと都合がいいんだ。当分定職につけそうもないから、薬草づくりでしのがなきゃならないし」
「そんなこと……」
言いかけて、その内容がリーマスのプライドを傷つけることになると判断したのか、シリウスは口をつぐんだ。
その替わり、捨てられた犬が最初に足を止めてくれた人を見上げるような目で、じっとリーマスを見つめる。
「……なるべく顔を出すようにするよ。君を一人にしておいたら、食生活が悲惨なものになりそうだからね」
ほだされてしまい、そう告げながら彼の頭を撫でようと手を伸ばしかけ、リーマスは慌ててその手を引き戻した。
お互いに必要以上に触れることは、申し合わせた訳でもないのに未だ禁忌になっていた。
to be continued