天使も踏むをおそれるところ 11 一瞬何のことだか、それからボクはそんなことないよ、というつもりで頭を横に振って見せたけど。淡々と、ボクの言う事なんて耳に入っちゃいないといった様子で一乗寺くんは続けた。 「君はあれがまた起こると思ってるんだ。君達は知ってる、闇が何度でも力を持つのを経験したから。本宮達はもう終わったと・・」 言葉を切って、首の後ろに手を当てる。 『奴らはまたやって来る』それはそうなんだ、そんなパターンのフィクションはゴマンとあるんだ。だからあの世界でも同じ事が起こってしまう。でも、それは。 「・・一乗寺くん」 真っ黒な沼のような目。そんなものに闇の象徴なんか見てやしない。ボクが見ていたのは。問い掛けるように、沼が揺れる。なんて説明すれば?ボクが見ていたのは君のその、大輔くんにしか見せない笑顔だとか、あの時ボクの下でばたつかせていた細い手足の感触や、敵を前にして震えながらも決然としていた様子、決してボクを見ようとしない横顔、そんな事を今話したとしたって・・・とんだ茶番だ、この道具立て全部が。 「そんなつもりじゃ・・」 ボクが彼を見ていたのは事実だけど。・・気付かれたってわけか。 「いいんだ。当然の事だから」 一乗寺くんの指が画面の悪魔の輪郭を辿る。年老いて干からびかけた、戦って倒す必要なんかないみたいな。これが彼のセルフイメージなんだろうか。世界を救っても罪の意識は拭えない?ボクは今も彼を責めてると思われてるんだ。 「ずっとボクを疑ってたの?」 バカみたいだ。少なからずボクは今の状況に浮かれていた。なんの事はない、敵情視察って訳か。一乗寺くんは首を横に振った。 「君を、ってわけじゃない」 「じゃ、どうして」 「聞かれたんだ、まだあの海が見えるのかって」 誰に、って口だけが動いて止まる。答えなんてわかりきってる。窓からの光が陰って、じっとりとボク達を包んでいた暑さが消える。 「で、本当のところ、どうなのさ。見えるの?」 仕方なくボクは口火を切る。影になった顔はボクに笑いかける事なんかなくて、例えボクが好意を示したとしても大輔くんの位置を得るのは到底不可能な事なんだ。ボクは一乗寺くんを自分勝手な夢の中でしか知らず、一乗寺くんはボクを知ろうだなんて夢にも思わないだろう。一乗寺くんは無言で目を上げる。 「いいよ、言いたくないんなら」 触れて欲しくないのなら、どうしてボクなんかを呼び出したりしたんだろう。大体ボクがいくら陰湿ないじめっ子だとしても、学校だって違う彼をからかう為にわざわざこんな自由研究を選ぶだなんて本気で思ってるんだろうか。 「一乗寺くん?」 答えはなくて、真っ黒な謎めいた目が探るようにボクを見ているだけだ。こういう物の感じかたは「危ない奴」のひとつの指標になってる。なんでもかんでも自分に引き付けて考えてしまうんだ。なんだっけ、被害妄想じゃなくて・・。思えば彼は以前からそういう徴候があって、例えばボクとヒカリちゃんが「闇」がどうこうって話してたりなんかすると、飛び上がりそうになってこっちを見てたっけ。こんな目で見られたら落ち着かないっていうか。何か秘密裏に求められてるんじゃないかなんて思っちゃうよ。はい、ヒカリちゃん、その通りです。キミと同じくボクもお節介なんだ。 「済まない、ルネッサンスを飛ばしてしまってた」 「は?」 「イタリアじゃダメだろうな、少し下ってフランドルかスペインに君のテーマに合いそうなのがあるかと・・」 声が少し震えてる。ボクはページを戻す手を慌ただしく押し止めた。 「ちょっと待ってよ、何か言いたい事あったんでしょ?」 「何も・・」 「だって、キミ」 その為にここへボクを呼んだんじゃなかった? 「君のテーマについて思い違いをしてたみたいだから」 冷房のせいかな、冷たい指先、冷たい声音。押さえ付ける手に力が入る。そんな言い逃れが通ると本気で思ってるわけないでしょ、思わせぶりな仕種、まるで女の子だよ、いや、もっと質が悪い。彼はボクの気を引こうなんて微塵も思ってやしないんだろうから。 「離せよ」 ボクの手の下で五本の指が小さな魚みたいに緩慢に跳ねる。 「この絵。キミはなにか思う事があった訳でしょ」 整理してみよう、彼はボクたちにまた闇に取り込まれてしまうんじゃないかと疑われてるかもしれないと思ってる。その中で特に敵意を持ってそうなのはボクだと思ってる。それで?それから? 「特になにも」 「ウソ」 「ただ、君の役に立てるかと」 「ボクを疑ってたのに?」 「疑ってたのは・・」 後が続かないのはまだこだわってるせいなの?大輔くんの前じゃ、あんなに屈託なく笑えるくせに。ボク達の手の下で大天使が戦ってる。メールの文章にあったように、有り得ない位簡単に卑怯な位優勢に。実際にはこんな簡単じゃなかった事は判ってるんだろうに、一乗寺くんの頭の中ってどうなってる訳かな。手の下の指が生暖かくなって、そういえばヒカリちゃんに言われた事がある。手の暖かい人は心が冷たいんだよ、って。だとしたら、さぞかし氷みたいな手をしてるんだろうな、あの人はさ。 「タケル君?」 印刷された紙のべたべたした感触。到底大輔くんのようになんて、その次だってその次の次にだって。一乗寺くんがボクに好意を持つ事なんてないんだ。彼はただ自分に向けられたかもしれない悪意に反応しただけ。好意には無関心なのにね、そういえばちょっと煽られただけで突っ掛かって。 「何がおかしい!」 吹き出したとたんに緩んだ指の隙間から抜き出した手を労るように抱えて、一乗寺くんがボクを睨んだ。 「ゴメン。キミを笑った訳じゃないんだ」 『ネコまっしぐら』なんて言葉が浮かんじゃったものだから。何の事はない、もし一乗寺くんがボクに何か求めてるとしたら、それは好意なんかじゃなく。 「ばれてたんだなあって。あ、勿論キミがまたあんな風になっちゃうだなんて思ってないよ」 一乗寺くんがボクを見る。自分の考えが的を得てたってのが満足?元々ボクなんて仮想敵国のひとつに過ぎない。それならボクはその役を演じるのが親切ってもんじゃない。 「もう、あんな事にはならない・・約束する」 「キミの事はいいんだよ」 顎の下で指を組んで、意味ありげな語調で。そうだよ、ボクは乗りやすいんだから。 「ああいった事は繰り返すんだ。それはボクらには止められない。闇の力が増大するのにはきっとサイクルがあって」 「サイクル?」 「そうだよ」 自信ありげに言うものだからキミは不審げな顔をする。何ページかめくると沢山の悪魔やモンスターたち。天使なんかよりずっと沢山の。 「人の心の闇が集まって?」 「うん」 さすがだね、でもほんとは違うんじゃないかってボクは思ってるんだ。『奴らは時々帰ってくる』っていうのはホラー小説のお好みのテーマだから。その方が続編なんかが作りやすいってね。ただし、続編に碌なのがないっていうのも事実だったり。一作でやめときゃよかった、なんて作品は幾らでもある。それでも皆飽きもせずお話の続きを欲しがるんだよ。 「繰り返し描かれる悪魔や死神はペスト等の疫病を現しているらしいんだけど」 「ボクはデータの話を・・」 「僕だってそうだ」 分厚い紙をめくる指。色鮮やかな神話の登場人物達。 「ネットの情報は二次的なものでしかないんだ」 一乗寺くんが続ける。 「RPGのモンスターたちは皆どこかで見たような姿をしている。SFに出てくる怪物も誰かが目撃したというエイリアンも」 「皆同じ、想像の産物・・何かの象徴ってわけ?」 視線を画集にあてたまま、一乗寺くんは頷いた。 「君もそう言ってただろ?僕は・・だからここで」 ぐるりと部屋を見渡す。おそらくほとんど誰も利用しないだろう、仰々しい古びた文献の数々。 「調べてた・・・んじゃないかと思ったんだ。デジモンたちのルーツや、基本的な性質がどこから来たのか。それから」 「それって、きみが・・」 あの名前を出すのが適切かどうか、ボクは言葉を濁して一乗寺くんを伺う。彼の口からその名前が出るのをどこかで楽しみにしている自分がいたりするのに、我ながら呆れながら。 一乗寺くんは黙ってしまう。肯定のつもりなんだろう。ボクは天井に目をやって、気に障るだろうことは承知の上のどっちつかずの笑い声を上げた。 「すごいな、ボク、同じ事を考えてたって訳だ、あの…」 「ふざけるなよ」 「ふざけてないよ」 「僕は真面目に…」 「聞くよ、真面目に何を?考えてるの?悩んでる?何を?もう終わった事でしょ?」 あーイライラする。矢継ぎ早にボクは、自分が言われてイヤだった言葉を一乗寺くんにぶつける。終わった事なんだ、もし繰り返すとしても同じ事にはならない。そんなつまんない事になんかなったりしない。むしろ。 余計にひどいことに、物語が破綻して、前の物語がぶちこわしになる位に。 大輔くんの隣で幸福に笑ってるはずのキミがどうしてこんな話を蒸し返すのか。灰色の海が見えたのはキミだけじゃないのに。ひとりでずっと闇に向かう思いを暖めてた?こんな気持ちの悪い絵なんか見ながら。その答えは?暗黒のタネはキミに何をもたらしたんだっけ? そうだよね、悪いことばかりじゃなかった。最後はハッピーエンド、だった筈じゃない。だってキミは自分を取り戻した上に大輔くんまで手に入れたんだもん。 「恐れてるよ。当たり前だ。君も言った通り、ああいうことは繰り返されるかもしれないし、防ぐ手立てなんてないのかもしれないから」 よく言うよ、他人事みたいに。呆れちゃってもいい?キミのそういう態度ってホント・・わざとらしくて、それに引っ掛かるボクがホントにバカみたいで・・笑っちゃうよ。 「そうじゃない、キミは怖がってなんかない」 オーケイ、いいじゃない。ぶちこわしにしようよ。 |