天使も踏むをおそれるところ





13


『ボクはまた夢中遊行している』




黒い波が寄せて返す。ここは知ってる。前に来たことがある。そうだ、ボクだって自分でゲートを開けられたんだ。忘れちゃってたな、だってアレは。ボクはヒカリちゃんを助けたつもりで、でもそれは全然意味なくてさ。カウントしたくもない、どっちか言うと忘れたいことだったから。

何もかも灰色、垂れ込めた雲は風雲急を・・なんてことなくて、舞台の背景画みたいにぴくりとも動かない。何かおかしい、前とは違う。あのざわざわした感じ、禍々しい存在感がまるで無い。自分の手を見る。グレイのスケルトンのフィギュアのようだ。ボクはここには存在してない、だからなのかな。次元の隙間、位相のずれ、何とでも呼んでいいよ、どっちみちわかんないから。自分の足を見る。今日穿いてたのは・・バッシュだった。ていうか、最近そればっか。なのに。

もう一度手を見る。お腹を見る。グレイがかって透けてはいるけど、白いTシャツ。上に着てたシャツはどうしたんだ?身体を叩いてみる。遠くで鈍いこだまが聞こえたような気がした。波打ち際、黒い小さなかたまりが見える。どこからも光の射さない、なのにぼうっと明るい灰色の空。実体をもっているように見えるそれにも影なんて見当たらない。

『・・・・ケンくん』

近寄って、自分の声が出たことにびっくりする。

いいんだ、見えてなくても。ううん、その方が。もしこれが位相のずれとやらがつくり出した、彼にとっては本当の空間だったら。

『ここは・・デジモンワールド?』

返事はない。気配に気付いた?びくりと肩を震わせて辺りを見回してる。

『ねえ、ここはどこなの?』

海に目をやる彼の髪が風で持ち上がる。ボクには感じられない空気の動き。これは、たぶん夢じゃない。ボクに都合のいいものは何もない。ボクはここには存在していない。前にゲンナイさんがヒカリちゃんを通して見せてくれた映画みたいなやつ、あれなんだ。

『これからだ。これからが僕の本当の冒険なんだ』
『ここは・・』

闇の力の支配する空間だと思ってた、けど。闇の力にはこっちが押しつぶされてしまいそうな存在感があった筈だ。ヒカリちゃんを追って行った世界には密度の濃い湿って淀んだ空気、おぞましいものではあったけれどはっきりと生命の気配があった。ここにはそれすらない。

『デジタルワールド・・そう、デジタルワールドだ』

呟いて、首の後ろに手をやる。まだ生々しい傷跡。そこだけが生命を持っているかのように蠕動して見えるのは錯覚だろうか。ううん、そうじゃない、内側からぶじゅぶじゅと黒い泡が固まりかけのマグマみたいに、それから。

『ケンくん・・』
『今度は失敗しない』
『今度は・・って』

答えはない。二、三歩足を踏み出す。頼り無い砂の感触。

『ボクたち、間に合わなかった?ううん、早過ぎた?』

何が起こったんだろう、三年前の夏にボクたちは呼び出され、紋章をゲンナイさんに預けた。どんな危機がデジモンワールドに?何も知らされないまま、ボクたちのパートナーたちは進化する力を奪われた。それだけだと、危機は回避されたのだと単純に思っていた。自惚れていたと言ってもいい。

ケンくんが立ち上がる。ポケットからデジバイスを取り出す。

『今度は、絶対に』

あれは、デジバイスだけどデジバイスじゃない。D-3と後に光子郎さんに名付けられることになる、楕円に近い形状の。

黒いそれを目の前の海にかざして、ケンくんは乾いた小さな声で笑った。



まばゆい光がD-3から一直線にほとばしる。目を庇う為に上げた腕の向こう、逆光の中ケンくんの服が変化する。ボクたちがゲートをくぐる時のあの現象、白いシャツとグレイのズボンが黒っぽいマントに覆われて、その姿は少しずつ小さくなり・・・。



爆風に飛ばされるみたいにボクの身体は後ろへ後ろへと、きつい冷たい風、むき出しの腕に当たる砂。痛いよ、もう、ボクはここに存在しないんだから、夢の中なんだからこういうのは無しでしょ、思わず目の前の温かいものを掴む。どさりと投げ出されて、二、三度転がって、頬に当たるのは草かな、目も開けていられない風が不意に止んだ。




「もういいだろ?離せよ」

弱々しい声に顔を上げると、さっきの図書室のままの一乗寺くんが降参するように腕を上げていて、ボクはその上に乗り上げるような格好になっている。握っていた手首を地面に押し付けて体勢を立て直す。指の関節に食い込む砂の感触。

「キミ、それ・・」

ボクの指が食い込んでる手首は、あたりまえだけど手のひらに続いていて、関節が白くなるくらいきつく握られているのはD-3、ボクのポケットにも入ってる、選ばれし子供の必需アイテムだ。

「離せ、重い」

ゴメン、と口の中でつぶやいて、ボクはのろのろ身体を起こす。砂の中に膝が沈んで身動きしづらい。

「ここ・・は?」

聞くのもバカらしいけど、不機嫌そうに手首をさする一乗寺くんの沈黙が、それからさっきの夢というか何というかがボクのろくでもない癇癪を鎮めてくれたみたいで、バツの悪い気分を振り払おうとボクはぐるぐる辺りを見回す。さっきと同じ灰色の空は台風の前ぶれみたいな雲が舞台の書き割りのように張り付いていて、これは夢の続きなのかな、でも目の前の彼は汗ばんだ腕に砂粒をくっつけた『一乗寺くん』だ。

「これで満足だろ」

うなだれる黒い頭、汗で束になった髪が風に揺れてる。

「ここは・・似てる、ね。キミが・・」

後の言葉が続かない。キミがデーモンを封印したあの場所、ヒカリちゃんを呼んでたあの場所、似てるのは確かなんだけど。












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