いつの頃からだっただろう。見えない傷跡が疼くようになって、ああ……とうとう夢も終わりに近づいて来たんだなと、僕は悟った。最後まで僕の中に巣食う闇と共存していくつもりだった。それが可能だと思っていた。僕は子供だったし、そう確信させてくれる仲間も居たから。僕にも未来を夢見る資格があるのだと、仲間達は思わせてくれた。穏やかな日常を送り、笑ったり多少は泣いたり。あるいは、いくつかの困難を経て、失敗を乗り越えて成長していく。僕は明確な根拠がないにも関わらず、僕の親友や仲間達と、このまま一緒に同じ道を辿っていけると信じていた。例の場所の、僕にとっては懐かしくもあるおなじみの、僅かな違和感に再び気付くまでは。




今朝もまた、夢に魘されて跳ね起きた。ここのところ、一足早い夏を思わせる暑い日々。朝から気温は急上昇している。僕は汗びっしょりになって、でも夢の余韻に、体の震えが止まらなかった。そっと項に触れる。悪夢の断片が僅かによぎる。ほんの僅かな欠片であるにもかかわらず、それらが僕を苦しめる。そしてそれは確実に、種の活性化を意味していた。間違いのない事実に、僕は打ちのめされた。重い体を引きずって浴室にたどり着き、頭から冷たいシャワ−を浴びて、少しだけ冷静になったところで僕は考えた。 なんとしてでも抑えこまなくては。僕を信じてくれる両親、仲間、そして親友、それぞれの顔を順繰りに思い浮かべた。彼等を悲しませたくない。それよりも何よりも、自分がまた種に打ち負かされる弱い人間なのだとは思われたくない。過去に犯してしまった過ちを思い、僕は自分自身の身体を抱きしめた。以前の僕を、絶望の淵から掬い上げてくれた人を思う。死をもって償いをする気でいた、馬鹿な僕の目を覚ましてくれた。その大輔はといえば、ここ最近はしばらく部活に掛かりっきりで、話らしい話をしたのは、もう二週間ほど前になる。ほんの二週間だ。大輔にも自分の生活がある。いつまでもあの頃のように、僕の事で煩わせるつもりはない 。それなのに僕は、自分の無力さに挫けそうになる。こんなにも自分は弱いのかと思い知り、僕は失意の内にも自らを憐れんだ。いまだに僕は、庇護を必要としているんだろうか?大輔が居なくちゃ、生きていかれないとでも言うように?そんな訳は無い、そしてそうであってはいけないと自身に言い聞かせる。冷たい水は髪の先を伝って、僕の視界を遮る。目を瞑って頭を振って、僕は嫌な考え事を振り切った。僕はまだ大丈夫だから。誰に言うともなしにそっと呟いた。そうしたら、鏡の中情け無い顔が、それは本意なのかと問いたげな視線を向けてきた。赤い目はじっと僕を見ている。




そして僕は、いつもと変わらぬ毎日を送る。本当は、変わらない訳じゃない。いつもと同じだって思い込もうとしてるだけ。僕が何かをやろうとすれば、過去の亡霊が立ち現れて僕を悩ませる。思い返せば、重苦しい記憶に押しつぶされそうになる。忘れてはいけない、しかし思いに捕らわれたままでは息が出来なくなる。だから、なるべく僕は亡霊を刺激しないように、目立たず静かに生きてきた。そうやって細心の注意を払って来たつもりだったのに、亡霊は再びその姿を現し、いつのまにか僕の真後ろで息を潜めていた。そして、それはいつか……きっと気付かれてしまう。僕を受け入れてくれた仲間達に。闇の気配は僕を色濃く包み込み、僕の魂ごと根こそぎ奪おうとする。まるで溺れるみたいに空気を求めて喘いで、闇に飲み込まれまいともがいていても、その事を微塵も表にあらわしちゃいけない。僕を信頼してくれて、仲間に引き入れてくれたみんなを裏切るような真似は、絶対にしたくない。それでも、隠しても隠しきれない闇の気配が、うっすらと僕の全身を包み込んでしまう。そして、その気配を、敏感な彼には気付かれてしまうのだ。




学校の教室で、放課後の校庭で、他の誰かと談笑している時でさえ、僕は彼のことを意識してしまう。ある日突然みんなの前で、僕の正体を暴かれてしまうんじゃないだろうか?……だから僕はいつも、彼の顔色を伺っておどおどと過ごしていた。彼は、クラスではいつも穏やかに微笑んでいて、クラスメイトのほとんどは彼のことを好きなのだろう。彼の周りにはいつも誰かしら集まっている。それなのに、ほんの数秒、僕と彼の視線がかち合う。時間にすれば本当に僅かな数秒、高石は確かに一瞬だけ、真っ直ぐに視線を合わせてくる。そして……僕は息が止まりそうになる。心臓は早鐘を打ち、冷や汗が流れ、足から力が抜けて立っているのさえやっとの状態。そして、そんな僕の動揺を知ってか知らずか、僅かに彼の表情に変化が現れる。そのたび、僕は覚悟を決める。最後の審判を待つみたいに。ああ、君の目を誤魔化せる手段を僕は持ちえていない。公明正大な君の正義の前に、僕はただ頭を垂れてその時を待つ。僅かに交わすほんの少しの君とのコミュニケーション、やさしげな微笑み。だけど青い瞳の奥には、覗いても底が見えない程の深淵がぽっかりと、僕を飲み込もうとでもするかのように。目を逸らした僕は、心の片隅でどこか冷静に思う。どうか、僕を打ちのめす時には、素早く的確に。なるべくダメージが少なければそれに越した事は無いのだけれど……。僕を未だに信じてくれ ている仲間の前でだけは、出来れば醜態を晒したくない。しかし僕は、相反するもう一つの感情を持て余してもいた。取り繕うとする僕の欺瞞を、綺麗さっぱり暴いて欲しい。それが出来るのは、きっと彼以外には居ない。一見すればとりたてて変わった事も起きない退屈な毎日と、何の変哲も無い日常を終わらせたい。要するにそれは、僕の身の破滅をも意味していた。




恐れているのに、目が離せない。怖いけど、逃げる事なんてまるで不可能だ。足から、腕から力が抜けて、僕の手を掴んでいる彼の綺麗な瞳を、ただぼんやり見ていた。僕を絡めとる視線から、もはや逃れる事も出来ないままに。いつになく真剣な表情で、高石は僕を掴まえてしまった。文字通り掴まえられてしまった僕は、次の瞬間に高石に抱きしめられていた。その瞬間の困惑と、心の奥底で芽生えた説明不可能な感情の欠片。その小さな熾火はみるみるうちに大きく広がり、訳が分からないままに僕は、こうしているのは悪くないかもしれないと思えるようになった。その姿勢のままで、無言の数秒。僕の額に押し付けられた唇は、驚くほどやさしく柔らかくて、僕はもはや全身の力が抜けていくのを感じていた。一体僕たちは何をしてるんだろう。そしてこのまま、何をしようとしてるんだろう。いったんは忘れていたのに、僕は、再び激しい鼓動を意識する。高石と対峙するたび、感じる感情の昂り。間違いなく僕は、自覚も無い時分から彼を恐れていたのであろう。口を開けば、心臓が飛び出てしまいそうだ。目の前がチカチカする。苦しい息の下、気が付けば唇が触れ合っていた。予想もしていなかった事なのに、僕がその時感じていたのは、嫌悪でも驚愕でもなく、同じ体温を持つ柔らかな皮膚感覚が与えてくれる心地よさだけだった。そして、それからすぐに、僕は何も分からなくなった。











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