遅刻しそうになった僕は、後ろのドアから慌てて教室に入った。

「おはよー!」
「おはよう、高石君。」
「おはよ。」
「高石、遅いんじゃねーの?」
「ちゃんと間に合ったよー。」
「煩いさわねえ。早く座ってよ。始まるわよ。」

奥にそそくさ進みながら、すれ違ったクラスメート数名と言葉を交わし、やっと自分の席に到着したら、ぎりぎりのタイミングで始業ベルが鳴り渡った。ほぼ同時に前の扉がガラリと開かれ、先生が入って来る。この先生、いつも本当にぴったりの時間に入ってくるんだ。
教室の皆は、がたがたと席を立った。
僕が机に鞄を置くと、真ん前の席の人物が、ちょっと振り向き笑ってくる。
「おはよう、高石。」
胸の中にポッと温かい光が差し、頬が緩むのを感じながら、僕も小声で挨拶を返した。
「おはよう、一乗寺。」

「きをつけ、礼!」
係員の掛け声で皆同時に頭を下げると、再びがたがた椅子の音をさせて着席した。
先生は晴れやかに、教室の生徒達を見回す。
「今日から新しい課題に入る。教科書の57ページを開いて。『少年の日の思い出』、 まず最初に音読してみよう。じゃ、太田、君から始めて。」
「はい…」
指された太田君は立ち上がり、教科書を前に掲げ、篭った声で読み始めた。僕も早速教科書を開き、一緒に黙読しようとしたが、太田君の声は遠くて良く聞こえない。だって元々歯に物が挟まった様な喋り方をする上に、僕から一番離れた席にいるからだ。太田君の席は右一列目の最前席。僕の席は最左列の一番後ろで、つまり僕達は教室内を対角線で結んだ、端っこ同士に位置していた。
まあでも、はっきり言って、そんな事はどうでもいいけど。
僕はちらりと、前の背中に目を向けた。
君さえ僕の近くにいてくれるのなら。他のやつらがどこに座っていようが、そんなのどうでも。

「よし、そこまで。じゃあ次、山下。」
「はい。」
先生は、太田君の後ろにいた女子生徒を、次に指した。どうやら、前から順番に当てていくつもりらしい。
この調子だと、僕までは絶対に辿りつかない。この先生、意表を突く事なんてしないから安心だ。
僕はのんびり、机に付いた肘の上に顎を乗せた。山下さんはしどろもどろの甘い声で、漢字でいちいち突っかかり、先生に助けてもらいながらゆっくり読むので、僕の注意は散漫になってきた。
大体『少年の日の思い出』ならもう読んじゃった。鬼の様な母親だよね。ヘッセもかなり読んだしな。『郷愁』とかさ、ハンスとハイルナーのキスシーンがやっぱ、一番印象に残ったよなあ……なんて、あれ?何の話をしてるんだか。
そうそう、とにかく、僕は一回読んだら、しっかりと覚えている。そんなに何回も読まされなくてもいいって事。この先生、真面目で悪くは無いけれど、はっきり言って、授業は余り面白くない。兎にも角にも指導要項に従って、決まった事しかやってくれない。
もっと独創的で面白い国語の授業ってないのかな?
(ねえ、そう思わない?)
思いながら、視線が前に。
机に広げた教科書に目を落とす一乗寺君も、ちょっと暇そうに、片手を頬に当てている。そして右手で髪を掬い、耳の後ろに掛ける仕種。横の窓から差す朝日が、一乗寺君の黒く細い髪の毛に反射して、きらきらと眩しく光った。

僕はふと思い付き、机の中からメモ帳を取り出した。
一枚ちぎって、走り書き。
漢字の読み方を正している先生の目を盗み、手を伸ばしてちょいと突ついて、前の席に手渡した。一乗寺君は、何だ?という表情でちょっとだけ僕を振り向き、でも黙ってメモを受け取り読んだ。
メモにはこう書いたんだ。
『退屈じゃない? 天気良すぎるよね、今日。』
一乗寺君はふっと微かに微笑みを漏らし、鉛筆を手に取った。そして先生に注意しながら、僕にメモを返してくれた。僕の走り書きの下には、一乗寺君の奇麗に整った筆跡で
『うん、ホント。高石眠いのか?』
と書いてあり、僕はちょっと嬉しくなった。小さな紙切れを裏に返して、再びシャーペンを走らせる。
『眠いよー。だってさあ、この前の事考えてたら、昨日良く眠れなかったんだもん。』
前に回してじっと様子を伺った。頭を落とした一乗寺君は、僅かに考え込んでいる。

この前の事。

それは僕達二人だけにしか、分からない事だ。
先週の土曜日、一乗寺君は僕の家に遊びに来た。一乗寺君がお台場に引っ越して来てからは、もう毎日の様に会って遊んでいたけれど、先週の土曜日、僕達はついに、選ばれし子供達同志とか、同じクラスの親友なんて言うのを遥かに超えた、特別な関係になってしまったんだ。
僕は自分の唇で、一乗寺君の肌に触れた。彼の唇も含めた、色んな場所に触れてしまった。
死ぬほど胸をドキドキさせながら、大人がする様な色んな事を、時が経つのも忘れる程。夢中になってやってしまった僕達は、きっととてもマセくれた子供なのだろう。
でも僕達は幸せだった。

決めた様にふいと一乗寺君の鉛筆が動き出し、僕の胸が期待で跳ねた。戻ってきた紙切れに、素早く目を走らせる。
『僕だって、あれからずっと睡眠不足。』
つい口元が綻びてしまう。視線を前に上げると、愛しい僕の恋人は、ふうっと一回ため息をつき、肩を静かに落とした。その表情は後ろからは確かめられない。
でも僕の両目には、さくらんぼの様に可愛い口元を吊り上げて、恥ずかしげに微笑む一乗寺君の表情が、ありありと浮かんでいた。
僕は新たにメモをちぎると、小さな文字で書き込んだ。
『ここから見ると、君の髪の毛に朝日が当たって、とてもキラキラ輝いて見えるんだ。今朝シャンプーしてきたの? この前は君の髪、とっても香り良かったな…』
イスを突ついて合図を送ると、先生に見つからないように、こっそり渡した。
ふと横を向くと、暫くこっちを見ていたらしい隣人と目が合った。右隣りの高橋君は、いつも何となくぼーっとした、でも人の良いやつだった。誤魔化すように、僕がにこっと笑ってみせると、高橋もにっと笑い返す。お互い授業に退屈してるのは一緒らしい。先生に告げ口される心配は無さそうだ。
高橋君は下を向いて、僕の隠密行動なんかまるで興味無さそうに、爪を擦って遊び始めたので、僕はホッとして前席に目を戻した。 暫くメモに目を落としていた一乗寺君は、後ろからの視線を気にする様に、そっと片手で髪を撫でた。そして消しゴムを取り出した。

戻ってきたメモを見ると、僕が書いた字は消され、代わりに一乗寺君の返事が書かれてあった。
『朝起きたら、寝癖が付いてたから洗ってきた。これ先生に見つかったらヤバイぞ。』
どうやら発見されて読まれるのを懸念して、僕の文字を消したらしい。それとも、かなり照れてるとか? でも、一乗寺君の頭についた寝癖って、一体どんなんだったんだろ?
勝手に想像して、その余りの可愛さに、一人でこっそり吹き出した。視線がうっとりと、前席の黒い頭に注がれる。
愛しい愛しい僕の恋人。可愛くって優しくて、恥ずかしがり屋で、でも時々大胆で。
そして、とてもとても奇麗な肌をした……。
ふと思い付いた僕は、新たに紙を一枚取ると、メッセージを書き込み、前に回した。
『ねえ、ちょっと髪を上げて、君のうなじを見せてくれない? 大好きなんだ、君のうなじ。すごく色っぽくてさあ』
それを読んだ一乗寺君は、ためらっている様だった。
『駄目だよ、そんな。今、授業中だろ?』





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