「すみません、あの」

見慣れた金茶色の頭が見えないかともう一度、それから僕は仕方なく薄暗い体育館に足を踏み入れる。

「何だあ?」

三、四人の三年と思しき人達が車座に座って、靴紐を解いていて、どうやら部活は終わってしまっているようだ。今日は一緒に帰ろうって言い出したのは彼で、実質帰宅部の僕は彼の部活が終わる迄PC部で時間を潰して、なかなか来ないからわざわざ体育館シューズを取りに教室に戻って、ホコリっぽいグラウンドを突っ切って来たというのに。

「あの、一年生はもう・・」
「1年?」

怪訝そうにこっちを向く。・・・さすがバスケ部だけあって、背だけは無駄に。座高だけかも知れないけれど。

「あーー待てよ。ボール磨いてんのが居たっけ」
「もう帰ったんじゃねえの?」

一人がだるそうに立ち上がって、ジャージのポケットを探る。

「んにゃ、オレ鍵持ってんもん。まだ油売ってんじゃねえの」
「さっき井岡と金本帰ってったぞ」
「何ーーー、じゃ、開けっぱなしじゃねえかよ」
「あいつらに用事か?」

帰ったのならいいです、と僕は踵を返そうとして、足許で炸裂した金属が床にぶつかる音に飛び上がりそうになる。

「矢野か高石か・・・誰か居るだろ、鍵渡しといてくれや」
「ちゃんと閉めて帰れってな、誰もいなかったら、悪いけどさあ」
「顧問の机の上置いといてくれたらいいから」

顧問って誰だよ、少し、いやかなりむっとしたけど、先輩にボール磨きを言い付けられたのならそれは高石のせいじゃないと気を取り直し、僕は屈んで鍵を拾い上げた。

「どこですか、場所は」

部室かな、部室なら二、三度行ったことが。

「なんだよ、知らないのかよ」
「まあ、そう言うなって。1年じゃねえか。倉庫、ここの二階の廊下ぐるっと行ってな、右っ側だ」
「はい」
「悪りいな、鍵だけでも頼むわ」
「オレらもー帰るし、挨拶とかいいから」

・・・高石には気の毒だけど、この先輩についていってもあまり上には行けないんじゃないかと思いながら、僕は鍵を手に階段へと向かった。





『体育用具室』とプレートのあるドアをノックすると、聞き慣れた声が返ってきて、ほっとしたのがまた腹立たしい。

「高石、居るのか?」
「あ、はい。もう少しで終わりまーす!」
「・・僕だけど」

自然と声が低くなる。・・・やっぱり忘れてたって訳か。

「一乗寺!?」

細めに開けたドアの向こうで何かが(ボールを磨いてるっていうんだからボールだろう)ボタボタと落ちる音がした。

「開けるぞ」
「待って、今・・」

今、何だって言うんだ、明かりもつけないで。見られちゃ困ることでもしてるのか?暗い室内に一歩踏み出した僕は丸いものに乗り上げて、見事にひっくり返った。

・・・そこらじゅうにボールが転がってるだろう事はわかってたのに。

「わ、大丈夫?」

それ見たことかと言わない所がまた腹が立つ。ひっくり返ったまま、無言で鍵を差し出す。段々目が慣れてきたのか、開いたドアからの光のせいか、ホコリの舞う室内の様子が知覚されてくる。黴臭い匂いと、ゴムの匂い、それから洗剤らしき香料の。

「あー。皆帰っちゃってた?」

高石が屈み込んで僕の手から鍵を受け取った。ちゃりんと微かな、それから一瞬触れて去っていく指が少しざらついていたようなのは気のせいだろうか。

「ついねー、夢中になっちゃって。ボールってすっごい汚れてるんだよ、この溝とか、ぶつぶつだとかの間がさ」

下から見上げると、人間の顔って随分間抜けに見えるものだと思う。

「洗剤ってすごいよね、タオル真っ黒になっちゃってさ、このぶつぶつの間って元々黒いんだと思ってたら・・」

やっと青いと知覚されてきた目が少し眇められる。

「・・どうしたの?」

ここで問題になってくるのは、彼が本当に約束を忘れてるのか、何かの演出として忘れている振りをしているかで・・そんなことどうでもいいじゃないかとは思うのだけど。それが大事な事のように思うのは、やはり僕がかなり彼に会いたいと思っていた証拠のようで、なんだか悔しい・・ので言葉が出ない。約束の事を口に出すと責めてしまいそうで、かといって偶然こんなところまで来る咄嗟の言い訳も思い付かない。

「一乗寺?」

高石が屈み込む。差し出したままだった手がボールの上に落ちて弾む。膝のところにさっき乗り上げたボールがまだ挟まっていて、我ながら間抜けな格好だ。

「まだかかるのか?」
「別に、いつやめてもいいんだけど・・」

かなり上の方にある小さな窓から弱々しい光がさして、埃と一緒に照らし出される輪郭が後光みたいだ。ちらっと上目使いに、おそらくはドアを確認して、高石は膝をかかえるように座った。

「ほんと、どうしたの?」
「・・手伝おうか」
「いいんだってば」

上半身を起こそうとして押しとどめられる。

「高石」
「なんかシュール」

なんだそれ、と言おうとした唇が塞がれ、反射的に上がった腕がぶつかったボールが転がって別のボールにぶつかったんだろう、反動が伝わってくる。

「高石、ドア」

意図を見透かされていたようで照れ隠しにぶっきらぼうに、そうなんだ、こういう事は僕達には日常茶飯事で・・。会えば大抵は人目を盗んでこうして触れ合っている。『一緒に帰ろう』っていうのはつまり、そういうことなんだ。







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