「はあ〜い」

聞きようによっては可愛らしく返事をして、高石は立ち上がってドアを閉める。僕は半身を起こして、傍らのオレンジ色のボールを手に取ってみる。NBAの試合なんかじゃ片手で軽々と扱っているけど、随分大きいんだ。手のサイズとの相対的な錯覚なんだろう。微かに洗剤の匂いと、ゴムの匂い。サッカーボールは合皮だからこんな匂いはしない。

「なあに?もしかして入部希望?」

ボールのひとつに腰を降ろして高石が笑う。

「まさか」

軽く投げたボールを受けた両手は、僕より大きい。それだけのことなのに。

「高石」

僕の声は妙な具合に掠れる。

「うん」

それだけで彼はわかってしまう。高石は僕にボールをおしつけて、そのついでのように僕の髪に唇で触れた。




一般的に言えば僕達は「つきあっている」なんてことになるんだろうか、こんな関係を一般的と呼べるのなら、だが。なのに名字で呼び合ってるのは、別にカモフラージュだとかそういう訳じゃなく、相手がそう希望したからだ。




オレンジ色で思い出す、西日のさす教室。僕がお台場に越して僕達は同級生となり、正確にはそうではないにせよ転校生気分も薄れて、僕が彼の冷笑癖と一風変わった親切に慣れ始めた頃。

高石は何とは無しに去り難そうに、日直の仕事を片付ける僕を机に腰掛けて眺めていて、その視線を意識してか、僕の手も止まりがちになっていた。

『一乗寺さあ、どうしてボクの名前呼んでくれないの?』

彼の言動が推し量り難いのは、迂回したかと思うと誰より鋭く切り込んで来るからで、唐突なこの質問も見事にまん中に来て、僕は言葉に詰まってしまった。

『まあ、わからないでもないんだけど。親しい子はさ、ほら、ボクんちのこと知ってるじゃない、だから』

そうなんだ、だから僕だって彼を名前で呼ぶのに何の異存もなかったのに、彼が僕を名字で呼ぶものだから、それもなんだかためらわれて。結局のところ、どっちつかずにできるだけ名前を呼ばずに済ませてきたのも事実だったのだけど。

『でも、それじゃ、キミを名前で呼ぶことになっちゃうでしょ。ヤなんだ、皆と同じだなんて』

皆、と彼は言ったのだけど、それが誰をさすのか僕は瞬時に理解した。僕にとって特別な誰かといえば、もちろん、それは。らしくない子どもっぽい嫉妬。僕は思わず笑ってしまう。

『笑わなくてもいいじゃない』

袖を引かれて覗き込んだ目は、珍しいビー玉みたいな影のある水色で、そういえば間近で見るのは初めてだとぼんやり眺めているうちに。

『一乗寺』

水色のビー玉はぼやけて消えて、それがひどく近付いた互いの顔のせいだと知覚されて、呼ばれたのだから呼び返さなければ、などという無意味な義務感から開きかけた口は動いてくれない。沈黙はごく短い時間だったのだろうけど、それまで意識してなかった窓の外のざわめきが聞こえて、誰も居ないとはいえここは放課後の教室で、そんなひどく陳腐な道具立てに耐え切れなくなって吹き出しかけたところで、ビー玉が視界に戻ってきた。

『いろいろ考えてはいたんだけど、笑われるとは思ってなかったなあ』
『僕だって』
『何?』
『そんな用事だなんて思ってなかったさ』

怪訝そうに、値踏みするように。僕達は互いの距離を測りあっていた。いつも見られていたのは知っていた。ただ、それは反対の意味だと思おうとしていた。僕はいつまで皆と大輔の間に立ちふさがる邪魔者なんだろうと。もちろんそれは期待していたという事なんだろう、僕だって誰かに妙な目で見られるのは初めてじゃない、むしろよくある事だったと言っていい。だけど君の胸の内に嫉妬なんてものを呼び覚ましていたなんて。あの高石タケルに特別だと思われていたなんて、そんな風に自惚れていいものなんだろうかと。

『まあ、普通は思わないよね』

淡々と、まるで落胆したかのような高石の口調に、僕は勝利をひとつカウントする。こんなのはおかしい。普通じゃない。何を持って、この状況を恋の告白のように受け取れると言うんだろう?けど、目の前にいる人物は、それを相殺するぐらいありきたりではなく。僕はおかしい、喉元にこみあげてくるのはただ甘いだけの、予感とも期待ともつかない、名付けようもない感覚だった。







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