春の道




3







遠くでボクを呼ぶ声がする。呼ばれてるのは分かるんだけど、何故だか声が出ない。喉が絞られてるみたいで、その声に応えることはままならない。ゆらゆらと夢と現を行き来しながら、心の中で分かってるよと応えていた。分かっているんだ、声にならずに返事を返す。もう起きるから……あと少しだけ。せめて5分待ってくれたら。なにせボクは、昨夜はなかなか寝付けなくて、ようやくうとうと出来たのは、丑三つ時を回っていた頃だったんだから。

「いい加減にしろ!」

乱暴に揺さぶられて、意識が無理やり浮上させられる。待って!頭がぐるぐるしちゃう。なんとか重い瞼を持ち上げたら驚いた。ものすごい形相の……っていってもあんま怖くはないんだけど、一乗寺くんが怒り心頭ってな顔つきでボクを睨んでる。ああ、人に起こされるの、なんか久しぶりだなんてぼんやり思う。はっきりしない頭を支える。

「あれ?今何時?」

枕もとの目覚まし時計を見るよりも早く、鋭い声が答える。

「7時30分!!!」
「なんだ、大丈夫。全然余裕―――」
「バカッ!」

突然視界が覆われた。薄暗くって、柔らかい暖かな世界。怒った一乗寺くんが、上掛けをボクの頭に被せたのだ。何が何だか分からないまま、上掛けを捲って一乗寺くんの後についてベッドを抜け出す。

「早く顔洗って、着替えて!」

言われるまま、洗面所で顔を洗って、それから部屋に戻って制服に袖を通す。ネクタイ首の周りに垂らして、カッターシャツのボタンを留めながら、鞄とブレザーを小脇に抱えてリビングに向かうと、君はぶつぶつ言いながら僕の後ろをぴったり付いてくる。ボクは、そんな他愛のない君の行動を案外気に入ってしまった。ネクタイに結び目を作りながら、君の顔をこっそり伺う。

「遅刻しちゃうよ。僕も寝過ごしちゃったんだけど、君が全然起きないから……」

心なしか拗ねたような口調。ボクはここにきて漸くはっきりと目が覚めたみたい。なんだか頬が緩んでしまう。こういうのってなんていうの?新婚みたい。なんてね、ボクも大概おめでたい。準備が整うのを待っていた一乗寺くんが、じりじりしてボクを急かす。

「もう出掛けられる?準備できた?」
「まあまあ……。朝ごはん食べてかない?」
「そんな時間ないだろ?!」
「ふふん、まあ、君は座っててよ」

ボクは、鞄とブレザーを椅子の上に置いて、いつものようにキッチンに立つ。諦めたように溜息を一つ吐いて、一乗寺くんは大人しく椅子に座った。ボクは、いつものようにカウンターの上にお皿を並べる。いつもと違うのは、お皿が2枚だって事。パンは軽くトーストする。冷蔵庫からクリームチーズとラズベリージャム。表面だけこんがり焼けたパンに、まずはクリームチーズ、そのうえにたっぷりとジャムを載せる。そしてボクは洒落たカフェのウェイター気取りで、君の目の前に恭しくお皿を置く。そしてミルクのコップも二つ、これで完璧。

「さあ、どうぞ。召し上がれ」
「……朝からすごく甘ったるいもの食べるんだな……」

一乗寺くんの冷静な言葉に、一気に現実に引き戻されて、ボクは肩を竦めて見せた。そしてチョイスする余地はないんだからって言いながら、甘ったるいパンに齧り付く。一乗寺くんを見たら、相変わらず生真面目な顔をして味わってる様子だった。

「悪くないでしょ?」
「うん、意外な取り合わせだけどね」

唇の端のジャムを気にして親指で拭う仕草に、一瞬目が釘付けになる。けれど、あんまり時間に余裕はないって事を思い出して、食べ終わるや否や追い立てられるようにボクは立ち上がった。一乗寺くんは、お皿を洗うつもりで袖口のボタンを外していたから、ボクは呆れた声を上げた。

「……食洗機に突っ込んどきなよ」
「明日からそうする!」

そして慌しく皿を洗い終えた一乗寺くんと、洗面台で二人並んでざっと歯を磨いて、鞄とブレザーを取りにキッチンへと向かった。鞄を抱えて振り返ったら、一乗寺くんは本当に泡を食った様子だった。自分の鞄をどこに置いたのか失念したらしい。慌ててボクの部屋に駆け込んで、鞄を取ってきた。いつも沈着冷静なのかと思ったけど、こんなに慌てることもあるんだ。すごい発見でもしたみたいな気になったボクの表情は、どこか面白がってる風にも見えたんだろう。一乗寺くんは、決まり悪そうに言い訳をする。

「人の家って勝手が分からなくて、まごついた」
「まあ、そうだよね」

一乗寺くんは、玄関で待っていたボクの胸元を注視して、何も言わずにネクタイを引っ張った。意外と慣れた風に手早く結び直される自分の胸元に目を落としていたそんなボクに、一乗寺くんはつんと顎をそびやかすような表情をして見せた。

「さ、急ごう!学校まで走り通しなんて嫌だからな」
「はは……いつかの春休みを思い出しちゃうね」

そう?って、君は澄ました横顔を見せる。もう沈着冷静ないつもの。少しだけ寂しく思ったボクは、そんな君の髪に手を伸ばした。つんっと一束掴んで引っ張って、君が嫌そうな顔してみせるのにひそかな満足感。走るのを嫌がった割りに、エレベーターから降りたら君は勢いよく駆け出すから、結局ボク等は学校までずっと走り通しになった。ボクの前で跳ねる黒い髪。振り返って後のボクを認めて、微笑む瞳。空気はものすごく乾いていて、春の海は太陽の光を照り返していて、強い風が木々の梢を揺らす。ああ、ボクはもう。ものすごく満ち足りている。





******
 




「よお!昨夜どうだった?」
「どうって……」

まるきり余裕で教室に到着して、椅子に座ると同時に大輔くんがボク達のところに近づいてきた。楽しかったよねえ?って、ボクは大輔くんに見せ付けるみたいに、一乗寺くんを振り返って微笑みかけた。一乗寺くんは一瞬驚いて、そのあと話を合わせてくれたけれど、その反応に僅かに躊躇が感じられて、ボクは軽い衝撃。

「どうって、大輔もご飯一緒に食べたじゃないか。あの後は普通にお風呂入って寝ただけだよ」
「えー?!そんだけかぁ?つまんねー」

お前が家来た時は、いっつも寝るのが惜しいくらいだよなあなんて大輔くんが言う。そのせいで次の日寝不足なんだと応える声。そのやり取りにほんの少しボクの心が疼いたような気がするけど、それはおくびにも出さずに、週末じゃないとそれきついよって付け足す。一乗寺くんは、一瞬だけボクの方を見て、それから言いにくそうに。

「うん、昨夜は、まぁ……割とぐっすり眠れたよ」
「……ごめん。踏んじゃったのは悪かったよ」
「踏んだぁ?」
「寝ぼけ癖があるんだなんて知らなかったよ」

あーあ、それを聞いて完全に面白がってる風な大輔くんの表情に、ボクは頭を抱えた。部屋がね……狭いんだよ。ボクの言い訳は完全にスルーの方向だったんで、ボクは大人しく前を向いて先生が来るまでじっと座っているしかなかった。でもさあ……大輔くん抜きで何か楽しい出来事でもあったなら、きっと大輔くんはものすごーく不機嫌だっただろうから、これくらいのほうがいいのかもね。仲良くふざけあう一乗寺くんと大輔くんの二人を横目で眺めつつ、ほんの少しだけ跳ねた前髪を無意識に押さえつけながら、窓の外へ視線をやる。今日もとても良く晴れていて、暑いくらいになるだろう。今日も学校の前の道を二人で辿り、明日も明後日も。それをぼんやりと夢想するのは、正直悪くなかった。そのせいで、いつのまにか教室に入ってきていた先生が出席を取っていたのも、気付かなかったくらいだ。







テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル