春の道
4 「今日はどうするの?パソコン部に顔出していく?」 帰りの会が終わって、すぐさまボクは一乗寺くんの机のところに行った。ボクがわざわざそう聞いたのは、彼の放課後の予定が気に掛かったから。現にパソコン部には入部以来一度顔を出しただけで、その後彼が活動している様子は無かった。一乗寺くんは、帰りの支度をする手を止めて、ボクを見上げた。 「うん、家庭の事情って事でしばらくお休みもらってるから」 ああ……そうか。泉部長は、とても良く気が回る。そうだよね。部活どころじゃないよなあ。じゃ、まっすぐ帰りますか。一乗寺くんとボクは、並んで少し歩き出した。でも、しばらく歩いて立ち止まると、彼は言った。 「今日は、家の片付けをしてから伺うよ。少しだけでも、段ボールを片付けておきたいから。」 「……そっか」 二人っきりの気まずいひとときってのを覚悟していたのに、ちょっとだけ肩透かし。 「じゃ……ご飯の時間になったらおいでよ」 そこでボク達は別れた。昇降口から、埃っぽい大気の中に身を踊らせる。強い風に、校庭の砂が巻き上げられていく。サッカー部がボールを追いかけているのが見えた。あの中のどれかが大輔くんだ。走ってる何人かの姿を目で追いながら、ゆっくり歩いて校門を過ぎる。春の海は少し波が高くて、潮の香りは鼻孔をくすぐる。ボクはまっすぐ家に帰って、昨夜の寝不足を少しばかり解消するつもりでいた。春眠暁を覚えず。この季節には、どこかしら人を怠惰にさせる何かが潜んでる。このところ、家に帰るといつも部屋を開け放して、篭った空気を抜くのが毎日の習慣になっていたけれど、今日はその必要がなかった。帰宅したら、まだ早い時間にも関わらず、久しぶりに母さんが家に居た。何やらキッチンで働いてる。ボクを見て笑みを見せて、冷たいウーロン茶を出しながら言う。 「あら今日は一人?賢くんと一緒なのかと思ってたわ」 仕事が不規則でほとんど当てにはならないものの、一乗寺くんが泊まることは母さんには了解をもらってたんだ。手の中の冷たいコップを弄びながら、ことさら平坦な声でボクは答えた。 「片付けしてから来るってさ」 「なら、手伝いに行きなさいよ」 母さんの言う事はいつも正論で、それに逆らう気なんて、ボクにはさらさらないんだ。一人より二人の方が、早く片付く。ボクだって、手伝いに行こうかって言葉を、一度ならず飲み込んだくらいだ。ただ、誰も居ない部屋の中で、二人っきりの時間をうまく消化する自信がなかっただけ。そしてボクは、結局追い出されるみたいな格好で、一乗寺家のマンションの前に立っていた。 「それにしても、ものすごい量だな」 大量の段ボール箱を前にして、ボクは誰に言うともなく呟いていた。リビングもキッチンも手付かずのまま、テーブルやソファなんかの大きな家具が配置されているだけで、放っておかれている。そこは、無人の静けさに支配されていた。生活の匂いってものが皆無で、何もかもが混沌としていて、以前の彼の家にあった、整然とした秩序は微塵も感じられなかった。その傍らを通り過ぎて、奥の部屋に通される。 「何もお構い出来なくてごめん」 取りあえず、当座に必要な物だけでも……って、君は部屋の片付けに戻った。一乗寺くんの新しい家に来たのは、実を言うと今日が初めてだった。ボクは落ち着かない気持ちで、新しい部屋の間取りを眺めていた。前の彼の部屋には、作り付けのロフトベッドがあったけど、今度の部屋は普通のベッドが部屋の大半を占拠している。いくつかの箱の前で屈んでいた君は、服はクロゼット、小物は机周りに整然と並べている。見てるだけじゃなんなので、ボクは手近にあった段ボール箱に手を掛けた。開けた箱の中には、なんといくつものトロフィが入っていて、思わずボクは感嘆の溜息を漏らしていた。その中の一つを慎重に掲げて、まじまじと間近で見つめた。彼の以前の栄光の証であった物。ボクが興味を示しているのが何なのか、という事に気付いた一乗寺くんは、僅かな苦笑いと共に近づいて来た。そしてボクの手からそれを受け取り、元のように箱に仕舞いこみ、箱の蓋をしっかりと閉めた。そして流れ作業のように、おもむろにクロゼットの一番奥に押し込んだ。それからボクを見て、気まずい笑みを見せる。その顔を見ていたら、触れられたくない何かに不用意に手が触れてしまったような、そんな感触をボクは覚えた。 ねぇ……これは聞いちゃいけない事かもしれないけど。君は、いまやすっぱりとすべてを諦めてしまったようだけど、それを後悔した事はないのかな?過去の栄光も結局捨てる事も出来ないで、奥深くに封印してしまった君。時々は思いだして、それらをもう一度眺めたりするんだろうか?こう言うと、君は嫌な顔をするかもしれない。前ほどの技術は失われたにしても、君は何か続けたかったものはないの?例えばサッカーは、君を引き留める力は無いのかなぁ。大輔くんは、未だにあきらめきれないみたいだよ?君と一緒にプレーするって誘惑に、抗しきれずにいる。君は、ボクの取り留めのないおしゃべりを最後まで黙って聞いていた。ボクの視線の無言の圧力に、君はおもむろに口を開く。 「じゃあ聞くけど、君はなぜバスケを続けなかったんだ?」 「ボク?」 「言いたくない理由があるなら答えなくていいけど」 強い目がボクを見つめている。お互いを隔てる空間に、火花が散っているのが見えるような気がした。ピリピリとした緊張感に奮い立つ。実はボクは、君とのこんなやり取りが嫌じゃなくて、むしろ好ましいとさえ思ってる。普段穏やかに、目立たないように、自分を抑えてるけど、こうしてボクの前でだけ君の負けん気が頭をもたげてきて、青白い炎みたいなのが、瞳の奥でちらちら揺れる。そんな様子を見ると、ボクは無性に胸掻きむしられて、堪らなくなる。 「分かった……言うよ」 ボクはね、怪我とかそういう理由でバスケが出来なくなったんじゃない。でも、もうバスケをしてても、今は辛いばかりなんだ。始めた頃は楽しくて、練習すればするほど上達していくのが分かって、それからずっとボクの生き甲斐の一つだった。チームじゃずっとレギュラーだったし、自分に求められているものが何なのか、充分分かってるつもりだった。要点をかいつまんで話してるうちに、忘れようと努めた出来事が脳裏にまざまざと蘇る。あの時はボクだって傷ついたんだ。 直接のきっかけは、小学校卒業を間近に控えた引退試合での出来事だった。それまでずっと補欠だったメンバーが、その試合で活躍してそれを最後にバスケを辞めるって言い出した。そいつはバスケが好きで、人一倍練習をする奴だったんだ。たまたまレギュラー枠に入るほどの腕が無かったんだけどね。結局どうなったかと言えば、チームのメンバー全員が、そいつに花を持たせてやろうって思ったんだよね。ボクはそういうエセ人情話ってのがだいっ嫌いでさ。あんまりそのあたりの事を詳しく言うのも何だか……まあ、良くある話なんだけどね。結論から言うと、そいつはその引退試合の後もバスケを辞める事は無くて、ま、今も楽しくバスケを続けているよ。 ボクは話してる間中、君の瞳の中の綺麗な火花を見つめてた。その花は、話しをしている間にも、色を変え形を変え、そして話し終える頃には消えてしまっていた。それが、ボクにはすごく残念で堪らなかった。ねぇ……ボクは、もう一度その花を見る為に、何をすればいいのかな?沈黙が重い。いつもだったら線引きして、それ以上踏み込むなんて真似は、ボクはしない。でももうボクだって、言いたくない事言っちゃったし、取り澄ました君の顔を、整然と系統立てられた精神世界を、突如乱してみたくなったんだ。君の場合はどうなんだろう?サッカーなんて、バカらしくなった?以前みたく、思うようにボールを操れなくなった?君の顔色を見る。特別どうって事もなさそうな無表情。聞かせてよ、本音。大輔くんの必死のアプローチを、知らん振りし続ける訳。ボクは、過去の出来事をすっかり吐き出し終わって、むしろ心は平静だった。我ながら、ここまで立ち直りが早い事を意外だと思った。ボクはただ、今は君の言葉を聞きたいだけだったから。 |