明日香は、目の前に広がる、緑の芝生を敷き詰めた美しいテニスコートを見つめていた。
コートの周りのスタンドには、いっぱいに入ったギャラリーが、これから始まるファイナル・・・決勝戦の開始を待っている。
「明日香!大丈夫?!」
彼女の親友・・・幼馴染の洋子が、顔いっぱいに笑顔を浮かべながら聞いてきた。
「うん・・・大丈夫!絶好調だよ!」
明日香も笑顔で応えた。彼女は、遠くを見るような目で、もう一度コートを見つめた・・・・『ついに、ここまで来たんだ。世界で二人しか立つ事の出来ない、決勝戦のセンター・コートに・・・。』明日香は思った。
居酒屋の若い店員が、店に置いてあるテレビの画面を見ていた。テレビ画面には、世界選手権の行われる緑色の芝生を敷き詰めたセンター・コートが映し出されていた。
「明日香・・・とうとうここまで来たな・・・。」
テレビを見ながら、思わず呟いていた。
「お兄ちゃん、オーダー!」
客の声に、
「はい!只今!」
店員は、呼ばれたテーブルに歩いて行く。
明日香は、その大きな瞳でテニスコートを見つめていた。彼女の脳裏に、突然2年前の出来事がよみがえってきた・・・そう、彼女の運命を変えてしまった、あの日の出来事が・・・。
センター・コート
(第1話)
作:逃げ馬
「みなさま、当機はまもなく着陸いたします。座席の背もたれ、テーブルは、元の位置に戻して、今一度シートベルトを・・・。」
旅客機の客室に、アナウンスが流れている。大塚正紀は、自分の座席のベルトを確認していた。
彼は、高校一年生の15歳。子供の頃から、テニスをしていたが、今年、世界ジュニア選手権の日本代表として、両親と一緒にアメリカに遠征をしていた。
正紀は、期待通りに大活躍をして見事に優勝してしまった。テニス界では選手層が薄いと見られていた日本代表の優勝に、世界各国から取材に来ていた報道陣は驚いた。
「しっかり練習を積めば、2年後には世界選手権の本大会のコート・・・上手くすれば、決勝のセンター・コートに立てるかもしれないな。」
正紀の父親が笑いながら言った。
「そんな・・・あまりプレッシャーになるようなことを・・・。」
母親が笑いながらたしなめる。そんな2人を、正紀は、苦笑いしながら見ていた。
「みんな、あそこを目指しているからね・・・そんなに簡単には立てないよ・・・。」
「だからこそ価値があるんだ・・・あのコートは、テニスプレーヤーにとって特別な場所だからな。」
正紀の父親が、真剣な目で正紀を見つめている。正紀は、にっこり笑って頷いた。
コクピットでは、パイロットが着陸準備をしていた。
機長と副操縦士は、マニュアルを見ながらスイッチを手早く操作していく。
突然、コクピットに警報音が響き渡った。副操縦士は、モニターを見ると顔から血の気が引いていった。
「機長!第一エンジンに火災発生!!」
副操縦士の声は、驚きのあまり裏返っていた。
「第一エンジン停止!」
「停止します!」
機長の指示で、副操縦士は第一エンジンを停止させると自動消火装置を作動させた。機体が少し揺れる。機長は、巧みに操縦桿を操り機体を安定させた。しかし、
『ビーーーーッ』
再び警報音が鳴り、計器板には、赤いランプが点滅している。
「機長!第2、第3エンジンの出力が落ちています!!」
副操縦士が、真っ青な顔で叫んでいる。
機体は、不気味に振動し、傾いていく。機長は、必死に操縦桿や、エンジンのスロットルレバーを操作して機体を安定させようとしていた。
「メーデー!メーデー!コントロール!こちら、グローバル・エア200便!エンジンの出力が低下!機体のコントロールができない!」
機長は、顔面蒼白になって叫んでいた。
客室は、パニックになっていた。着陸のアナウンスが流れてから、突然、機体が激しく揺れ、振動が大きくなってきている。
「どうなっているんだ!!」
乗客が騒ぎ出していた。客室乗務員が、必死に客を落ち着かせようとしている。
正紀は、不安そうな顔で両親を見つめていた。両親も不安そうな顔で、正紀を見つめている。
突然、機体が大きく傾いた。客室内に、悲鳴が起きる。次の瞬間、轟音とともに、旅客機は海上に墜落した・・・。
大阪・城南大学付属病院
病院には、次々に救急車が到着していた。
救急隊員たちは、救急車から救助された乗客たちを寝台車に乗せると、処置室に次々と運び込んで行った。
中尾英明は、城南大学医学部の外科学の教授だった。彼は、医学に関する知識は旺盛で、遺伝子治療に関しても日本の第一人者と言われていた。今日は、病院で外来の診察をするために来ていたのだが・・・飛行機事故の事は、テレビのニュースを見て知った。すぐにこの病院に負傷者が運ばれてくるだろうと判断して、医師や看護婦達に受け入れ準備を指示していた。彼自身も、長身の体に白衣を着ると、処置室に向かった。
処置室は、まるで戦場のようだった。どの負傷者も重傷だった。医師や、看護婦達も必死に治療をしようとしていたが、次々に乗客達が死んでいく。中尾も必死に対応していたが、乗客達は、運ばれた時にすでに亡くなっていたり、治療中に亡くなっていった・・・。
「先生!お願いします!!」
中尾は、同じ医局員の白井に呼びかけられた。救急隊員2人が、寝台車に負傷者を乗せてやってきた。横に、白井が青い顔をして立っている。
中尾が負傷者に駆け寄った。
「重傷です!まだ息はあります!」
救急隊員が中尾に向かって言った。負傷者の顔を見て、中尾は思わず呟いた。
「正紀君じゃないか・・・。」
運ばれてきたのは、大塚正紀、彼の娘、洋子とは幼馴染で、よく彼の娘と一緒にテニスをしていた。
中尾は、正紀の状態を見ると白井に向かって言った。
「すぐに手術室へ!!」
正紀は、寝台車に乗せられて手術室に運び込まれた。手術台に寝かされると、すぐに手術が始まった。中尾が、メスを握り執刀する。
しかし、正紀の状態は、さすがの中尾にも手の付けようのないような状態だった。骨は砕け、内臓は墜落の衝撃で激しく傷ついて出血が止まらない状態だった。それでも、懸命に中尾は執刀した。
長時間の手術は終わった。中尾は、頭に被っていた帽子を剥ぎ取るように脱ぐと、手術室の前に置かれたベンチに崩れるように腰をおろして頭を抱え込んだ。
「先生・・・。」
白井は、声をかけることが出来なかった。二人の前を、正紀を乗せた寝台車が、看護婦に押されながら病室に移動して行った。中尾は、黙ってそれを見送る。
看護婦の一人が、中尾たちに声をかけた。
「先生、お疲れ様でした。控室に食事を用意してあります。どうぞ。」
「君・・・他の負傷した乗客たちは・・・?」
中尾が、俯きながら聞いた。
「・・・お亡くなりになりました・・・。」
「そうか・・・みんな・・・助からなかったか・・・。」
中尾は、絞り出すような声で言った・・・自分の無力さを感じているのだろう。
「このままでは、彼も・・・。」
中尾が、唸るように言った。
「先生!あの治療法を使いましょう!それしかありません!!」
白井が、中尾に向かって言った。
中尾は、上目遣いに白井を見ると、
「それは・・・・出来ないよ・・・。」
そう言って、よろよろと立ち上がると控室に歩いて行った。
深夜、中尾は、正紀が収容されている集中治療室に向かった。暗い廊下を歩いて中尾は、集中治療室に入った。ベッドには正紀が、包帯でぐるぐる巻きになって横たわっている。脇に置かれているモニターには、正紀の心電図や血圧などが表示されている。
「あ・・・先生!」
付き添っていた白井が、立ち上がると中尾に近づいて、手に持っていたカルテが挟まれたボードを渡そうとした。
「大塚君の状態です・・・このままでは・・・。」
中尾は、素早くボードに付けられたデータに目を通した。その顔の表情が曇る。
「やはり・・・手術では無理なのか・・・。」
「先生!彼の命を救うのは、やはりあの方法しか!」
白井が、必死な表情で訴える。
「何を言い出すんだ!まだ、あれは実験段階なんだぞ!もし使えば・・・彼は、彼でなくなってしまうんだぞ!!」
中尾は、言葉を荒げた。
「しかし・・・彼の命は助かります!僕達は医者です!患者を救う手段があるのに、何を躊躇うのですか!!先生!」
「手段があっても、その許可を貰う人がいないのだぞ!彼の両親は、あの墜落事故で死んでいるんだ!」
「それなら、責任は僕達で負えばいいじゃないですか!患者を救うのが、医者の使命ですよ・・・先生!」
「・・・おまえは・・・若いよ、白井・・・。」
中尾は、苦しそうに笑った。中尾も、もちろん正紀の命は救いたい・・・しかし、そのために正紀が負うリスクを考えると、中尾はその治療法を使えなかった。
この時期、中尾達の研究グループは、長年の研究から体の破壊された組織を活性化させて治療する遺伝子治療法を一応成功させていた。しかし、その遺伝子は、ある副作用を持っていた・・・人の人生を変えてしまうほどの・・・。
突然、心電図のモニターから出てくる音のリズムが変わった。心拍数が乱れている。
「いかん!」
中尾が声をあげた。白井はモニターに駆け寄った。
「先生!!」
白井が悲痛な声をあげた。
『ピーーーッ』
心電図が、フラットになった。
「心停止だ!カウンター・ショックの用意!!急げ!」
中尾は叫んだ。中尾が両手で正紀の胸に、心臓マッサージをはじめた。たちまち、中尾の顔から汗が玉のように噴き出した。
白井が走り出す。すぐに、看護婦と一緒にカウンター・ショック(電気ショックを心臓に与える事で再び心臓を動かす蘇生装置)の準備をしていく。
「先生!準備が出来ました!」
白井の声に、中尾は心臓マッサージを止めて、二つのコードの付いた、丸い端子を手に持った。
「行くぞ・・・。」
中尾が声をかけると、白井と看護婦は、ベッドから離れた。中尾は、正紀の体に電気の端子を接触させた。
『ドンッ』
大きな音がすると、正紀の体がベッドから跳ね上がった。
『ピッ、ピッ、ピッ。』
心電図に反応が現れる。
「フーッ・・・何とか凌いだな・・・。」
中尾が呟いた。
「先生・・・このままでは・・・。」
白井が強張った顔を、中尾に向けて見つめている。中尾は、ベッドに横たわる正紀を見つめていた・・・やがて、中尾は深呼吸をすると白井に向けて、
「白井・・・あれを用意してくれ・・・。」
呟くように言った。
白井は、中尾の横顔を見つめていた。白井の見ている中尾の顔は、思いなしか青白く見えた。
「・・・わかりました!」
白井は、部屋を出て行くと、中尾の研究室に走った。
やがて、白井がアンプルと注射器を持って集中治療室に戻ってきた。
「先生、どうぞ!」
金属製のトレーが、部屋の明かりを反射している。その上に、何の変哲も無い透明な液体の入ったアンプルと、小さな注射器が載っている。それを見つめる中尾の顔は、強張っていた。
中尾は再び、脇に置いてあるモニターを見つめていた。そこに示されている数値は、患者が危険な状態である事を示している。心電図のリズムは乱れていた。いつ、心停止を起こしてもおかしくない状態だった。
中尾は大きく息をついた。アンプルを切ると、注射器にその液を入れた。白井は、黙ってその動きを見つめている。正紀の腕を消毒する中尾。中尾の左手に感じる正紀の腕は、冷たくなってきていた。
中尾は注射器の針を腕に刺そうとするが、その腕が止まる。顔に苦渋の表情が表れていた。
「先生・・・・!」
白井が叫んだ。
中尾は意を決したように、針を刺すと、注射器の中の液体を正紀の腕に注射した。
「もう・・・後戻りは出来ないな・・・。」
中尾は、顔に汗を浮かべながら呟いた。
やがて、心電図が落ち着き、血圧なども元に戻り始めた。
「先生、効果が現れてきました!やりましたね!!」
白井は嬉しそうに言ったが、中尾の表情は、晴れなかった。
「慎重に、状況を見ていてくれ・・・。」
そう言い残すと、集中治療室を出て行った。
大阪、あるマンションの一室
髭面の、体格のがっしりした若い男が、暗室の中で写真を現像していた。ラジカセからは、ニュースが流れている。アナウンサーが、冷静な声でニュースを読んでいた。
「・・・墜落事故を起こした旅客機の乗員乗客380人のうち、379人の方の死亡が確認されました。現在、残る一人の方の捜索が続けられています。行方不明の方のお名前は・・・。」
男は、現像をした写真を現像液を入れたトレーから引き上げると、乾燥をさせるためにクリップで吊るしていく。写っているのは、世界ジュニア選手権のコートでプレーをしている正紀の姿だった。
男は、フリーカメラマンの黒田正弘、歳は25歳と若いが、世界各国を回って写真を撮り、様々なコンクールで賞を取っていた。
写真のジャンルもこだわっていなかった。インドネシアでの民主化運動。ボスニア紛争、スポーツ、風景写真、自分でこれはと思ったものは、どんどん撮影していた。
黒田は、手を止めて吊るしてある写真の一枚を見た。正紀がフルスイングでラケットを振り、ボールを捕らえている写真だった。
「こいつも・・・世界を目指せたのになあ・・・。いつ、人生の最後が来るかわからないよな。」
黒田は、暗室を出ると、リビングルームに入った。マイルドセブンの箱を振ると、一本取り出して火をつけた。
東京、出版社
「失礼します!」
一人の若者が、ドアを開けて部屋に入って来た。
「高村進一郎。本日付で“スポルト・ジャパン”編集部勤務を命じられました!」
細面の顔に、180cmを超える長身の男だ。その彼が直立不動で一礼している。しかし・・・誰も彼を見ていなかった。編集部のスタッフ達は、みんながテレビ画面を見つめていた。
「どうしたのですか?」
高村が聞くと、
「あ・・・すまないな。ちょっとニュースを見ていたものでな・・・。」
編集長が、頭を掻きながら高村に謝っている。
「何かあったのですか?」
「エッ・・・知らないの?!」
女性編集部員の中島が小柄な体を仰け反らせながら、高村を見上げるように言った。
「旅客機が墜落して、その飛行機にテニスプレーヤーが乗っていたの。ジュニアの男の子だけど、将来有望だったのよ。まだ、行方不明らしいけど、あれじゃあねえ・・・。」
中島が、視線をテレビに戻した。高村もテレビに目をやった。そこには、空港近くの海に突っ込んでバラバラになった旅客機の残骸が映っていた。それを見ると、誰も生き残れないと高村は思った。
翌日、城南大学病院
「お父さん!正紀君がここに・・・。」
廊下を歩いている中尾に向かって、ショートカットの髪を靡かせながら、少女が走って来た。
中尾の娘、洋子だった。洋子は、城南大学付属高校の一年生、正紀の同級生だった。
「シーッ!」
中尾が、人差し指を口元にやって、洋子を制した。
「テレビでも、何も言わないだろう・・・正紀君の事は隠しているんだ・・・。」
「なぜ?!・・・助かっているのなら言ってもいいんじゃあ・・・。」
「こちらに来なさい・・・。」
中尾は、洋子を連れて集中治療室にいる正紀の所に行った。
正紀は、まだベッドで昏睡状態のままだった。しかし、呼吸は落ち着いている。普段と変わらない寝顔だった。
「お父さん・・・正紀君、助かったのね!」
「ああ・・・助かった・・・。」
しかし、洋子の見つめている中尾の正紀を見る表情は、厳しいままだった。
「お父さん・・・いったい正紀君に・・・何があったの?」
「洋子・・・正紀君は・・・・もう以前の正紀君ではないんだ。」
「どういうことなの?!だって正紀君は、ここにちゃんと・・・。」
「落ち着きなさい!」
中尾は、取り乱しそうな洋子に向かって優しく言った。
「正紀君は、ここで手術を受けたが、もう既に手の付けようのない状態だった。」
中尾の脳裏には、昨日の手術室の状況がよみがえってきた。
「手術が終わった時には、もう正紀君の死は避けられない状態だった・・・しかし・・・お父さんは、正紀君を助けたかった。それで、お父さん達の研究していた治療法を正紀君に使ったんだよ・・・。」
「それに・・・何か問題が・・・。」
中尾が静かに、洋子に説明を始めた。洋子の顔は、みるみるうちに青ざめていった。
数日後、正紀が目を覚ました。
正紀は、まだ頭が、ボーッとしていた。周りを見渡すと、白い壁が目に入った。そして、体に感じるベッドの感触。記憶をたどっていくと・・・。
「そうか・・・僕は、助かったんだ・・・。」
『カチャッ』
病室の扉が開いた。視線を移すと、そこには白衣姿の医師と、彼の幼馴染、中尾洋子が立っていた。
「あっ・・・良かった!気がついたの?」
洋子が、にっこり笑いながら言った。
「洋子・・・僕は・・・。」
正紀が、ベッドの上に起き上がった。しかし、体がおかしい。耳に柔らかい髪がまとわりついてくる。胸には重みを感じていた。髪を触ろうとして手を動かした。しかし、その腕は、見慣れたテニスで鍛え上げられた彼の腕ではなかった。その腕は、白く細い・・・まるで女の子のような腕だった。
「これは・・・。」
正紀の体が震えだしていた。
ベッドの横の壁に掛けられていた鏡に視線を移すと、そこに映っていたのは、男物のパジャマを着た、サラサラのロングヘアーの可愛らしい女の子だった。その女の子が、不安げな眼差しで、鏡の中からこちらを見ている。乱暴にパジャマを脱ぎ捨てると、今までまっ平らだった逞しい胸に、まるでグラビアアイドルのような、大きな二つの膨らみが出来ていた。肌は、白く滑らかだ。ウエストは細くなり、抱きしめると折れてしまいそうに思えた。
正紀は、はっとした。股間に白く細くなってしまった手を当ててみた。何も感じなかった。男の頃にあった物は消えうせて、まっ平になってしまっていた。正紀の震えは止まらない・・・歯が、ガチガチと音を立てている。
「正紀君・・・。」
洋子が瞳を潤ませながら、こちらを見ている。
「洋子・・・僕はいったい・・・。」
「正紀君、私から説明するよ。」
白衣を羽織った医師がベッドの横に立った。
「久しぶりだね、大変だったね・・・。」
「洋子の・・・お父さん?」
正紀が呟くように言った。その声は、もうすっかり澄んだ女の子の声に変わっていた。
「そうだよ・・・久しぶりだね・・・。」
中尾は、にっこりと笑った。
ベッドの横に置かれていたパイプ椅子に腰掛けると、中尾は、旅客機墜落事故から、正紀の身に起きた事を説明した。大破した機体から、救助隊が乗客を助け出した事。そして、乗客が次々と亡くなり、正紀の両親も亡くなった事。正紀自身、骨や内臓の損傷が著しく、通常の手術では助からない状態だった事。
「それでも、私たちは君を助けたかった。最後の手段として遺伝子治療を君に施したんだ・・・。」
「遺伝子治療・・・?」
「そう・・・君の体の中に注射した遺伝子は、細胞を活性化させて、傷ついた細胞を修復する能力を高めてくれる。だから、瀕死の状態だった君の体も、短期間で健康な状態まで回復できたんだ・・・しかし、その遺伝子治療法には副作用があってね・・・。」
中尾は、少し息をつくと、正紀の顔を見つめながらゆっくりと言った。
「・・・男性の染色体を、女性のものに書き換えてしまうんだ・・・。」
正紀の顔は、青白くなっていった。
「それじゃあ・・・僕は、もう男ではないの?!」
正紀は、震える声で中尾に聞いた。
「ああ・・・レントゲンも撮ったが、完璧に女性の体になっている・・・細胞も取ってみたが、遺伝子も女性のものになっていたよ。」
「そんな・・・それじゃあ僕は・・・。」
正紀の言葉は、最後まで聞き取れなかった。言葉の最後は、泣き声にかき消されてしまった。
「正紀君・・・。」
洋子が、ベッドの横に駆け寄った。洋子の目にも涙が浮かんでいた。やさしく、小さくなってしまった正紀の肩を抱く洋子。
病室には、正紀の泣き声がいつまでも響いていた。
数日後
正紀は、病室でテレビを見ていた。
テレビでは、飛行機の墜落事故のニュースを流していた。乗っていた380人のうち、379人の死亡は発表されていたが、彼が生きている事は、まだ発表されていなかった。さっき、その事で洋子に尋ねると、
「そんなこと発表すると、マスコミが押し掛けてくるわよ!」
と言って笑われてしまった。
「準備は、できた?!」
洋子が病室に入ってきた。彼女は正紀を見ると、腰に手を当てながら言った。
「うーん・・・少しは女の子らしいかっこをした方がいいんじゃないの?」
今、正紀はTシャツとジーンズ、長い髪は帽子で隠し、大きくなった胸は、さらしを巻いて、押さえて隠していた。
「僕は・・・女の子じゃないよ!」
正紀は、頬を膨らましながら洋子を睨みつけた。しかし、洋子にはそんな正紀が、彼女と同世代の可愛らしい女の子にしか見えなかった。思わず笑いが出てしまう。
「なんだよ・・・。」
正紀は、洋子に背中を向けると、かばんの中に荷物を入れていった。
洋子は、正紀の背中を見つめていた。正紀の後姿は、すっかり変わってしまっていた。肩幅はすっかり狭くなり、その肩から腰にかけてのラインは、丸みを帯びて、ウエストはキュッと締まっていた。臀部は大きくなって、男物のジーンズのお尻はいっぱいに膨らんでいた。
「正紀君・・・すっかり女の子の体になっちゃったんだね・・・。」
洋子は呟くと、瞳に涙が浮かんできていた。
「さあ・・・準備が出来たよ!」
正紀は、カバンをベッドの上に置いた。
「う・・・うん!!」
洋子は、慌てて涙をぬぐった。
ドアをノックする音が聞こえた。正紀が返事をすると、ドアが開いて、洋子の父、中尾英明教授が病室に入ってきた。
「準備は出来たかい?」
「はい・・・。」
正紀が答えると、中尾は、カバンを右手に持った。
「よし・・・行こうか。」
中尾は、正紀と洋子を連れて部屋を出ると、廊下を歩いて行く。
「おじさん・・・ちょっと待って。」
正紀は、中尾を待たせると廊下を走って行く。洋子も、正紀について行った。
正紀は、ナースセンターに入っていくと、看護婦達に退院の挨拶をした。
「正紀君、良かったわね・・・これからいろいろ大変でしょうけど、頑張ってね!」
婦長が、正紀を励ました。そして、洋子を見ると、
「洋子ちゃん、正紀君の事、お願いね!」
洋子は、こっくりと頷いた。
二人が、中尾のところに戻ってきた。
「それじゃあ、行こうか?」
中尾は、二人を連れて病院を出て行くと、駐車場に停めていたセルシオのトランクに荷物を積むと、運転席に座った。エンジンをかけると、中尾の自宅に向かって車を走らせた。
両親を失って、自らも女の子の体になってしまった正紀を、これからどうやって生活させるのか?中尾は考えた末に、自ら正紀を預かって、一緒に生活する事にしたのだ。
セルシオは、滑るように街中を走り抜けると、中尾の自宅に着いた。
「さあ、着いたよ!」
中尾に促されて、正紀は、中尾の家に入っていった。中尾の自宅は、その役職どおり、立派な家だった。中尾は、数年前に妻が病死したため、今は洋子と二人暮しだった。
「こっちよ!」
洋子は、正紀の荷物を抱えて、階段を2階に上がっていく。廊下を歩くと、ドアを開けて部屋に入っていった。
「ここが、正紀君の部屋よ。」
洋子の言葉に、正紀は部屋を見回した。
窓には、パステルカラーのカーテンが掛かり、ベッドには、可愛らしいベッドカバー。洋子の家には、子供の頃から出入りしていたが、この部屋の雰囲気は・・・。
「ねぇ・・・これって・・・。」
「うん・・・可愛らしいでしょう!私のコーディネートだよ!」
洋子が、ニコニコしながら言った。
「僕には、少し可愛らしすぎるんじゃあ・・・。」
「何言っているのよ!」
洋子が笑い出した。
「そんなに可愛い女の子になっているんだから、もう観念しなさい!」
洋子の言葉に、正紀は顔を真っ赤にして、下を向いてしまった。
「荷物を置いたら、お風呂に入ってしまってね!」
そう言うと、洋子は、ニコニコしながら部屋を出て行った。
「フ〜ウ・・・。」
正紀は、天を仰いでため息をついた。
正紀は部屋を出ると、階段を下りて浴室に向かった。
脱衣所でTシャツを脱ぎ捨ててさらしを取ると、すっかり大きくなったバストが揺れる。ジーンズとトランクスを脱ぎ捨てて洗濯機の中に入れると浴室に入った。
浴室の扉を開けて中に入ろうとした正紀は、立ち止まってしまった。
正面の姿見に、ロングヘアーの美少女が映っている。それは、まぎれもない今の自分の姿だった。
正紀は後ろ手に扉を閉めて、姿身の前に立った。
鏡に映っている今の正紀は、かつての男性アスリートの面影は消えうせていた。身長が180cmもあった、男の正紀に比べて、今の女の子になった正紀は、華奢に見えた。それでも、165cmくらいはあるだろう。体は、全体的に細い。体重は、40kgを少し超えるくらいだろう。
数日前まで、短く刈り込まれていた髪は、サラサラのロングヘアーになって、肩甲骨の辺りまで伸びている。顔は、かすかに正紀だった面影を残しているが、瞳は大きく、睫は長くなり、唇は、ふっくらとして赤くなっている。
首は、細くなり、男だった証の喉仏は消え去っていた。肩幅は、すっかり狭くなり胸には薄い胸板の上に豊かな膨らみがある。そこからウエストに向かって、体のラインはキュッと締まり、ヒップは、丸く上に向かってアップしている。股間には、男の頃の面影は無い。太ももから細く引き締まった足首に向かって体のラインが続いている。その美しい脚線美、足の長さは驚くほど長かった。そのプロポーションは、まるでグラビア・アイドルのようだ。正紀も、漫画雑誌などのグラビアを見て、水着姿のグラビア・アイドルの素晴らしいプロポーションに驚いたものだが、自分がその体になってしまうと・・・。
「何てことだ・・・。」
正紀が呟いた瞬間。
「入るよぉ・・・。」
突然、浴室のドアが開いて、洋子が入ってきた。タオルで胸の辺りを隠してはいるが・・・。
「おい!・・・洋子!ちょっと・・・。」
驚いた正紀の声が、浴室に響いた。
「え・・・いいじゃない!子供の頃は、一緒にお風呂に入っていたし、もう女の子どうしなんだから。」
洋子は、笑顔で正紀に言った。
「ちょっと待てよ・・・そんな事言ったって、僕は男・・・。」
「もう女の子でしょう!はい!そこに立って!」
洋子は、正紀の言葉に被せるように言うと、スポンジにボディー・ソープを含ませて泡立てていく。シャワーのノズルを右手に持った。お湯を出すと、正紀の体にかけていく。そして、スポンジで正紀の体を洗いながら、
「うわーっ、綺麗な肌だねぇ・・・。」
洋子に言われて、正紀は顔を赤くして、
「いいよ!自分で洗えるから。」
洋子の手から逃れるように体を動かした。白い肌の上を滑るように、丸い水滴が落ちていく。
「ダメよ!女の子は、きちんと体を洗わないと!」
洋子は、正紀を捕まえると、スポンジで正紀の体をくまなく洗っていく。洋子の腕が、正紀の大きな胸を洗っている。ビクッとする正紀。
「正紀君、胸が大きいね。Dカップくらいあるね。」
洋子に体を洗ってもらって、正紀は気持ちが良くなってきていた。こんな事は、以前には無かったが・・・。
洋子は、正紀の体を洗い終わると、今度は、正紀の長く綺麗な髪を洗い始めた。正紀は、洋子にされるがままになっている。シャンプーの匂いが、正紀の鼻をくすぐる。洋子は、優しく正紀の髪を洗ってやった。
「いい・・・女の子の髪は、大切だからね。男の子の頃のように乱暴に洗っちゃダメだよ。」
「うん・・・。」
洋子の言葉に、正紀は心地よさにうっとりしながら答えた。
洋子は、シャワーで正紀の髪や、体についた泡を綺麗に流してやった。
「はい・・・終わり!綺麗になったね。」
洋子に言われ、正紀はボーッとしたまま立ち上がると、バスタブの温かいお湯の中に体を沈めた。
バスタブの中から、正紀は洋子を見つめていた。洋子は、自分の体をボディーソープをつけたスポンジで洗っている。子供の頃には、洋子と一緒にお風呂に入ったこともあったが、まさか、高校生になってから一緒に入るとは想像もしていなかった。洋子の体は美しかった。身長は、今の正紀より少し小さいが、それでも160cmある。胸は今の正紀ほどは大きくない。しかし、テニスで鍛え上げられた体は、無駄な贅肉などついていない。ウエストや足も引き締まっていて、そのスタイルは、まるでモデルのようだった。
「洋子・・・。」
正紀は、呟くように言った。
「なあに?」
「おまえ・・・本当に綺麗だな・・・。そんなに綺麗だと今まで気付かなかったよ・・・。」
正紀の言葉に、洋子はにっこり笑った。
「ありがとう!でも、今の正紀君もすごく綺麗だよ!」
洋子が答えた。その言葉を、正紀はボーッとした頭で聞いていた。
「そうか・・・僕も綺麗なんだ・・・。」
正紀は、そのまま意識が遠のいていった。
正紀が目を覚ました時には、自分の部屋のベッドの上にバスタオルを巻いて寝かされていた。
「気がついた?ビックリさせないでよね!」
洋子が、苦笑いをしながら言った。
「どうしたの?お風呂でのぼせるなんて?」
洋子の問いに、正紀の頬が赤くなった。黙ったままの正紀。
「さあ、起きて!服を着なきゃあ・・・。」
洋子に促されて、正紀は立ち上がった。洋子は、正紀の手を引いて自分の部屋に連れて行った。
洋子は、クローゼットの引出しを開けた。そこには、女の子の下着。色とりどりのショーツやブラジャーがぎっしり詰まっている。洋子は、その中からブラジャーとショーツを選んで正紀に手渡した。
「これって・・・。」
正紀は、バスタオルを体に巻いたまま、手には薄いピンク色のブラジャーとショーツを持っている。
「下着だよ。」
洋子は、「何を言っているの」というような顔をして正紀を見ている。
「だけど、これは洋子の下着だろ!」
「うん・・・でも、友達と一緒に買いに行って、見栄でサイズが大きいのを買ったの。今の正紀君の体になら合うはずだよ。」
洋子がニコニコしながら言った。
「でも・・・僕は・・・。」
正紀は、困ったような顔をしている。手に持っている下着をしばらく見つめていたが、やがて、
「僕は、今までどおりTシャツとトランクスでいいよ・・・。」
洋子は、突然、正紀の体に巻かれていたバスタオルを剥ぎ取った。
「なにするんだよ!!」
正紀が怒った。咄嗟に胸と股間を腕で隠している。それを見ながら、洋子は微笑みながら静かに言った。
「いきなり女の子になってしまって、『女の子の下着を着ろ』と言われても嫌だろうけど、その体に一番合っているのは、やっぱり女の子の下着なんだよ。」
そう言うと、洋子は正紀に渡した下着を手にとると、正紀の前に立った。
「ねぇ・・・履いて・・・。」
洋子を見つめていた正紀は、しぶしぶショーツを手に取った。足を通して上に上げて行く。いつも履いているトランクスとは違って、大きくなったヒップにピッタリとフィットした。
「さて・・・。」
洋子は、正紀の後ろに回ると、ブラジャーを正紀の胸にあてた。
「ちょっと・・・。」
正紀が困ったような顔をしている。
「観念しなさい!」
洋子は、笑いながらブラジャーの肩紐を調節して、背中でホックを留めてやった。
「どんな感じ?いいでしょう?」
洋子が尋ねた。正紀は、自分の胸に視線を落とした。
「うん・・・。」
呟くように言った。どう見ても下着姿の女の子にしか見えない自分を見て、正紀の頬は赤くなっていた。
「正紀君の、下着や服を買いに行かないとね・・・。」
洋子の言葉に、正紀は、
「そんな・・・いいよ!」
とんでもないと言うように、首を大きく左右に振った。
「でも、いつまでもそのままって訳にも行かないでしょう?」
洋子が悪戯っぽく笑った。言葉の出ない正紀。
「まあ、あまりいじめてもね。」
洋子は笑いながら言った。
「今日は、もう寝ましょう!」
「ああ・・・。」
正紀もホッとしたように答えた。
「おやすみ!」
「おやすみなさい!ゆっくり休んでね。」
洋子の部屋を出ると、正紀は廊下を歩いて自分の部屋に入った。かばんの中から、ジャージを取り出すと、それを着てベッドにもぐりこんだ。やがて、ベッドからは軽い寝息が聞こえてきた・・・。
翌日、その日は、日曜日だった。正紀はスズメの鳴き声を聞いて目を覚ました。
カーテンを開けると、朝焼けの日差しが部屋に差し込んできた。正紀は、目を細めて夜明けの太陽をしばらく見つめていたが、やがて、カバンからスポーツタオルを取り出すと、タオルを首にかけて、足音をしのばせながら、階段を下りていった。
玄関で靴を履くと、静かにドアを開ける。
正紀は、久しぶりに一人で早朝の町に出た。まだ、早い時間なので、町には人影はほとんど見えない。時々、新聞配達のスクーターのエンジン音が聞こえるくらいだ。
正紀は、以前そうしていたようにジョギングをはじめた。まだ、女の子の体に馴染めていない正紀は、いつもと勝手が違って走り難かった。胸は重いし、体のバランスもなんだかおかしい。もっとも、女の子はみんなそうなのだろうから、普通にスポーツなどもしているのだろうが・・・。
正紀は、町の大通りに出た。歩道を、息を弾ませながら走って行く。 大通りには、たくさんの店があった。もちろん、まだ開いている店はほとんど無い。パン屋からは、香ばしい香りが漂ってくる。喫茶店も、店の扉を開いて、店員が掃除をしている。その前を、正紀は長い髪を靡かせながら駆け抜けていく。
正紀は、大きなホテルの脇を走っていた。突然、正紀は足を止めた。正紀の耳には、ボールの跳ねる音が聞こえていた。
『ポーン・・・ポーン・・・ポーン・・・。』
正紀は、フェンス越しにホテルの敷地内を見た。そこでは、ブロンドの長い髪を靡かせながら、若い外国人女性が壁に向かってラケットでテニスボールを打っていた。
『ポーン・・・。』
女性が思いっきり壁に向かって打った。ボールは勢いよく壁にあたって、正紀の方に跳ね返ってきた。咄嗟に、正紀はボールを取った。
「ごめんなさい!」
女性は、流暢な日本語で正紀に謝った。正紀は、女性に向かってボールを投げた。
「おはようございます。」
挨拶する正紀。
「ずっと見ていたようだけど、あなたもテニスをするの?」
女性は、歩いて来ると正紀の前に立った。彼女は今の正紀よりも身長は高い。175cm程だろうか?歳は、正紀より少し上に見える。正紀は、どう答えて良いか迷った。
「テニスは好きです。前にちょっとした事はありますが・・・。」
「じゃあ、少し付き合ってもらえるかな?こちらに来て。」
女性は、フェンスの扉を開けて正紀を呼び入れた。正紀は、少し躊躇ったが、女性について入っていった。
女性は、ラケットを持って正紀の前を歩いて行く。やがて、2人はホテルのテニスコートに来た。
正紀は、嬉しさと困惑の気持ちが入り混じった複雑な気持ちだった。
「はい!ラケットよ。あちらのコートに・・・。」
女性が、バッグからラケットを取り出して正紀に渡した。それを受け取った正紀の顔には、複雑な笑顔が出ていた。思わず俯いてしまう。
「どうかしたの・・・?」
女性が訝しげに聞いた。
「・・・いいえ・・・。」
正則は、顔を上げるとにっこりと笑った。コートに歩いて行く。
「どうぞ!」
正紀が言うと、女性は、軽くボールをサーブした。
正紀も、軽くボールを返した。『ポーン・・・。』ボールを打つ心地よい音が響く。
女性も簡単にボールを返してくる。正紀は、男性と女性の体のバランスの違いに戸惑いながらラケットを振り、ボールを返した。
女性は、ボールを左右に打ち分けはじめた。正紀は、何とかついていく。知らず知らずのうちに、正紀の闘争本能に火が点いていた。しっかり踏み込んでフォア・ハンドで思いっきりボールを打っていた。筋力が落ちたと言っても、勢いのあるボールが飛んでいく。
女性も驚いていた。体も細く小柄な女の子が、力のあるボールを打ち返してくるのだ。
「それなら・・・。」
女性は、呟くと正紀の打ち返したボールにスライスをかけて打ち返した。ボールは、コートの外に逃げていく。正紀は、何とか追いついて打ち返した。上手くコントロールされたボールが、コートの後ろ側のライン(ベースライン)ぎりぎりに決まる。驚く外国人女性。
「荒削りだけど、なかなかやるじゃない!」
正紀に声をかける外国人女性。正紀も、にっこり笑った。
『でも、このプレースタイル。何処かで見たことがあるなあ・・・。』
外国人女性は、そんなことを考えていた。
「オーイ!キャス!!そんなところで何をしているんだ!!」
ホテルの建物から中年の外国人男性が叫んだ。
「あ・・・いけない!時間だ。」
外国人女性が慌てた。
「ありがとう!また、機会があればテニスをしようね!」
そう言うと女性はバッグを肩にかけて、正紀に手を振りながらホテルに戻って行った。
正紀も、久しぶりにテニスで体を動かして、気分がすっきりした。
正紀が家に帰ってくると、
「どこに行っていたの?心配したじゃないの!!」
洋子が玄関に走ってくると正紀に向かって、ちょっと怒ったように言った。洋子の目が怒っている。
「ごめん、ちょっと早く目が覚めたので走りに行っていたんだ。」
洋子の前を、首からタオルをかけた正紀が歩いて行く。洋子が、頬を膨らませながら正紀を見つめている。
正紀は、後から付いて来る洋子を振り返ると頭を下げた。
「心配をかけて、ごめん!」
洋子は、にっこり笑いながら言った。
「意地悪をしてごめんね。でも、正紀君が、自分から外に出てくれてよかった・・・引きこもりになったら、どうしようかと思っていたから・・・。」
洋子が、少し目を潤ませている。
「心配してくれて・・・ありがとう!」
正紀は、笑いながら言った。再び廊下を歩いて行く。
「でも、この体だと走りにくいし、ラケットは振りにくいし・・・。」
正紀は、シャワーを浴びに浴室に入った。
「正紀君、テニスをしたの?!」
驚いて尋ねた洋子の言葉は、シャワーの水音にかき消された。
「正紀君・・・。」
洋子は、正紀が再びテニスをはじめてくれたことが嬉しかった。
朝食の食卓には、洋子の父親である中尾教授と、洋子と正紀が食卓に座ってトーストとコーヒー、ベーコンエッグとサラダの朝食を食べていた。
正紀は、今朝のジョギング中の出来事を、2人に話していた。
「・・・それで、その外国人の女の人とテニスをしたの?」
洋子が、驚いたような顔をして聞いた。
「うん・・・すごく上手い人だった。僕がテニスをした人で一番じゃないかなあ・・・とても女の人とは思えなかったよ。」
「あのホテルは、今、テニストーナメントでたくさんの選手が泊っているのよ。ひょっとして、それに出場するすごい選手だったかもね。」
そう言うと、洋子が明るく笑った。正紀はそれを見つめている。この洋子の明るい笑い声と笑顔に、今回の一件で、ともすれば気分が落ち込みそうな正紀は、ずいぶん救われていた。
「そうそう・・・今日は、テレビでテニスの中継があるよ。後で一緒に見ようね。」
洋子は正紀にニコニコしながら言った。
「うん、そうだね!あの人が出ていたりして。」
正紀も笑った。中尾教授は、2人をしばらく見つめていたが、
「それじゃあ、僕はそろそろ行って来るよ。」
そう言うと、席を立った。
「そうそう・・・洋子、お金はいつもの所に置いているからな・・・。」
「うん・・・わかった!行ってらっしゃい!」
洋子は、中尾教授を玄関まで見送りに行った。
リビングルームに戻ってきた洋子に、正紀は、
「お金って・・・どうするの?」
「正紀君も、新しく服とか下着が必要でしょう?今日は、日曜日だし、買いに行こうかなあと思って。」
洋子の返事に、正紀は少し驚いてしまった。
「いいよ・・・そんなのいらない!」
「ダメよ・・・その体に合う服が必要でしょう・・・。」
洋子に言われて、正紀は自分の体を見下ろした。ブカブカのTシャツとベルトできつく締めたジーンズ。そのお尻の辺りの中身はいっぱいになっている。
「わかったよ・・・。」
正紀は、蚊の鳴くような声で言った。
「さあ・・・それじゃあ、買い物に行こう!」
洋子が、ニコニコしながら正紀に言った。
2人は、朝食を終え、身支度を整えると、町に出かけた。
洋子は、ピンク色のキャミソールとジーンズ。正紀は、相変わらず、白のTシャツとジーンズだ。長い髪は、後でまとめてヘアーバンドで括っていた。
洋子は、正紀にもう少し“女の子らしい“格好をさせようとしたが、正紀は嫌がり「それ以上言うなら行くのを止める!!」と言ったため、しぶしぶそのままの格好で出かけることにしたが・・・。
二人は、町のデパートに来た。洋子が前に立って、デパートの中を歩いて行く。正紀は、その後ろをついて行くだけだ。やがて、二人は女性下着のコーナーにやってきた。正紀は、男だった時なら避けて歩いていたところに今、自分がいるのが信じられなかった。と同時に、目のやり場にも困っていたのだが・・・。
「すいません、あのぉ・・・サイズを測っていただきたいのですが・・・。」
洋子が、店員に声をかけた。
「はいはい。」
すぐに女性店員がメジャーを持って現れた。
「あ・・・私じゃなくて、この娘なんですが・・・。」
洋子が、正紀の方を指差した。
「はいはい・・・それじゃあ・・・。」
女性店員は、正紀を試着室の中に入れると、手早くサイズを測っていった。
「バストのトップが87cm、ウエストが56cm、ヒップが85cm・・・このサイズでいくと、ブラは、Dカップか・・・いいプロポーションね。羨ましいわ・・・。」
店員の言葉を聞きながら、正紀の顔は真っ赤になっていった。
「ハイ・・・これね!!」
洋子が、買い物かご一杯に色とりどりのブラジャーやショーツを入れて持って来た。
「おいおい・・・これ・・・?」
戸惑う正紀に、洋子が、
「だって・・・女の子は、これくらい必要でしょ?」
笑いながら言った。
「・・・。」
顔を真っ赤にしながら呆然と、かごの中の下着を見つめる正紀。
洋子は、正紀の下着を揃えると、次に、服を揃えようとしていた。
「もういいよ・・・帰ろうよ!」
正紀は、洋子に懇願するように言った。正紀にすると、このままでは自分が本当に女の子になってしまいそうな気がしていたのだ。
「ダメよ!そんな格好でいつまでもいれる訳ないでしょう!」
洋子が言った。
「正紀君には、どんなのが似合うかなあ・・・?」
洋子は、うきうきしながら洋服を選んでいる。
「お前・・・楽しんでないか?」
正紀は、顔を強張らせながら洋子に尋ねた。
「もちろん!!お買い物は女の子の楽しみの一つだよ・・・あ・・・これなんかいいな!」
洋子が、水色の可愛らしいワンピースを手に取った。
「ねえ・・・着てみて!!」
「ちょっと待ってよ!そんな女の子の服・・・。」
「だって、今は女の子でしょう?」
洋子がニコニコ、悪戯っぽい笑顔で正紀を見つめている。
「ハァーッ・・・。」
可愛らしいワンピースを手に持ったまま、正紀は大きなため息をついていた。
ワンピースを手に正紀は試着室に入った。正面の鏡が目に入る。そこには、ワンピースを手に持った、Tシャツ姿の美少女が写っていた。その姿を見てドキッとする正紀。しかし、それは、今の自分の姿だった・・・。
試着室のカーテンを閉めると、正紀はあらためて手に持っているワンピースを見つめた。
「これを・・・着るのかよ・・・。」
「着たの?・・・開けるよ?!」
外から、洋子の声がする。慌てる正紀。
正紀は、Tシャツを脱いだ。白いブラジャーに包まれた、豊かな胸の膨らみが揺れる。ジーンズも脱ぎ捨てると、意を決して、頭からワンピースを被るように着た。ワンピースから頭を出すと、長い髪を整えて背中のファスナーを引き上げた。再び鏡を見ると、そこには水色のワンピースを着た美少女がこちらを向いていた。ワンピースの胸の部分は、ふっくらと膨らみ、ウエストが絞り込まれて体のラインが綺麗に現れている。スカートの部分は、フレアーのミニスカートなっていて綺麗に広がっている。その下から綺麗な足が伸びている。今の正紀の体の魅力を充分に引き出していた。その姿を見る正紀は、否応無く自分が“女の子”である事を意識させられていた。
「こんなの・・・着れるかよ・・・。」
知らず知らずのうちに呟いていた。
「遅いなあ・・・開けるよ!」
洋子の声を聞いて、正紀は我に帰った。今の自分の姿を改めて見る。こんな姿を見られたら・・・。
「ちょっと・・・。」
正紀が言い終わる前に、試着室のカーテンが勢い良く開けられた。洋子が、カーテンの間から首を突っ込んできた。
「可愛いじゃないの!!」
ニコニコしながら正紀を見つめる洋子を見ながら、正紀は顔が真っ赤になっていった。
「そんなに・・・じろじろ見るなよ・・・。」
「そんな事言わないの!可愛いよ!!」
洋子はそう言うと、別の服を手渡した。水色のサマーセーターと、白いスカート。
「これ・・・着るの?」
服を手に持った正紀の顔が、強張っている。
「もちろん!!いろいろ揃えないといけないしね!」
「僕は、ジーンズでいいよ!」
「ジーンズも買ってあげるから!ネッ!!」
正紀は、しぶしぶ洋子が持ってくるいろいろな服をとっかえひっかえ着ていた。そして、鏡の前に立つたびに、今の自分が女の子の体だということを意識させられた。
「さて・・・帰りましょうか?」
洋子は、下着や服、靴まで買い揃えると、正紀と一緒に家に向かった。
「お茶でも飲んでいく?」
洋子が正紀に尋ねた。
「いや・・・今日はいいよ・・・。」
正紀は、あまりにいろいろな事がありすぎたのか、グッタリしていた。
二人が家に帰ってくると、
「あ・・・もうこんな時間!テレビでテニスが始まるよ!!」
洋子は、荷物を抱えたまま、廊下をリビングルームへ走って行く。テレビをつけると、二人は荷物を横に置いたまま、視線はテレビに釘付けになっていた。
「さあ・・・“ジャパンカップテニス”決勝戦、日本女子テニス界のアイドル、西山紀子が、全豪オープンの優勝者、アメリカのキャサリン・クルーズに挑みます!!」
アナウンサーが、興奮気味に喋っている。テレビカメラが、コートに入ってくる二人の選手を写している。観客の歓声がテレビのスピーカーから聞こえてきた。
「あ・・・この人・・・。」
正紀が突然、声をあげた。
「どうしたの?」
「この人・・・今朝、僕が一緒にテニスをした人だよ・・・。」
正紀が、テレビ画面に映っている外国人選手を指差している。
「この人って・・・正紀君、この人誰だか知っているの?」
「知らないよ・・・だって女子選手なんて・・・今まで気にした事なかったから・・・。」
洋子は、呆れたような目で正紀を見つめていた。
「このキャサリン・クルーズと言う選手はね。この前の全豪オープンを圧勝した選手なの。今、一番勢いのある選手なのよ!その人とテニスをするなんて・・・すごい事だよ!!」
「そうなんだ・・・。」
正紀は、再びテレビに視線を移した。テレビでは、試合が始まっていた。
クルーズのサーブでゲームが始まった。クルーズは、ボールをトスすると体のばねを生かして思いっきりボールを打った。凄まじい勢いのサーブが相手のコートに飛んでいく。相手の西山も、日本のトップテニスプレーヤーだが、全く動けなかった。
『フィフティーン・ラブ!!』
テレビから、場内アナウンスが聞こえてきた。正紀は、テレビでクルーズのサーブを見て、鳥肌がたっている自分に気が付いた。おそらく、サーブのスピードは時速180kmは出ているだろう。あのサーブでは、打ち返すことが出来たとしても、その後は・・・。
正紀は、テレビからの観客の歓声で我に帰った。試合は進んでいた。西山も、懸命にクルーズのサーブを返していたが、クルーズは強烈なスマッシュや、正紀とのテニスでも使ったスライスをかけたボールを打ち返して、西山を翻弄していた。結局、セットカウント2-0でクルーズが圧勝してしまった。
「すごい・・・。」
正紀は、呆然としている。クルーズの力強いテニスを目の当たりにしてショックを受けていた。テレビに映っているクルーズは、笑顔で力強く優勝カップを頭の上に持ち上げていた。それを見つめる正紀の心の中で、何かが芽生え始めていた・・・。
「ただいま!」
玄関から声がする。中尾教授が帰ってきたのだ。
「あ・・・お父さん!」
「おう・・・今帰ったよ。」
中尾は、リビングルームに入ってきた。正紀を見ると、
「正紀君・・・大事な話があるんだ・・・。」
中尾は、正紀の前のソファーに腰をおろした。洋子も正紀の隣に腰をおろすと、
「実は・・・正紀君のこれからについてなんだが・・・。」
中尾が、静かに話を切り出した。正紀は、真剣な目で中尾を見つめている。
「私達は、これからも君と一緒に暮らしたいと考えている・・・。」
中尾は、そこで言葉を切った。
「それで・・・何か・・・?」
正紀が尋ねた。
「女性の体になってしまった君は、これからの生活にいろいろと障害が出てくる。例えば学校、その後は就職、いろいろあるよね。今のままではいろいろ問題が起きてくる。それで私は、こういった物を用意したんだ・・・。」
そう言うと中尾は、アタッシュケースの中から封筒を取り出した。テーブルに封筒を置くと、正紀の前に押した。正紀は、封筒を手にとって中から一枚の紙を取り出した。
「これは・・・?」
驚く正紀、洋子も横からその紙を覗き込んだ。
「お父さん・・・これって?!」
「そう・・・戸籍だよ。」
中尾は静かに言った。
「でも・・・どうやって・・・?!」
洋子が尋ねると、中尾は、
「こういう仕事をしているといろいろな事があってね・・・そういう知り合いを通じて用意してもらったんだ・・・。」
正紀は、戸籍を見つめていた。『高原明日香、16歳、両親は1年前に死亡、住所は中尾の自宅・・・。』
「君は、私達の親戚の娘・・・架空の親戚だが・・・つまり、洋子の従姉妹と言う事になっている。君さえ良ければその戸籍を使って、これから私達と一緒に暮らしていってもらいたいのだが・・・。」
中尾は、優しい眼差しで正紀を見つめていた。
「ありがとうございます・・・よろしくお願いします・・・。」
正紀は、肩を震わして泣き出した・・・それは悲しさではない。中尾の優しさを感じて、久しぶりに家族の暖かさを感じて嬉しくなったのだ・・・。
「明日香か・・・よろしくね!明日香ちゃん!!」
洋子が笑いながら、正紀に言った。
「・・・止めろよ・・・まだ馴染めないよ・・・。」
正紀=明日香は、涙を拭きながら言った。
「そんな事言ったて・・・。」
洋子が口を尖らしながら言うと、
「まあ、いきなり言ってもね・・・そうそう、それじゃあ、この戸籍で学校も手続きしておくからね・・・。」
中尾は、笑いながら正紀に言った。
数日後
「明日香!早くしてよ。」
「そんな事言ったって・・・。」
明日香=正紀は、ドレッサーの前で呆然としている。ブレザーの制服姿の洋子が駆け寄った。
「しょうがないなあ・・・早く慣れてよね!」
ニコニコしながら、明日香に優しく言った。
明日香=正紀の綺麗な長い髪を優しくヘアーブラシでとかしていく。唇にはリップを塗ってあげた。制服の胸の赤いリボンを直してあげると、
「はい!OK!!行こうか?」
明日香=正紀は、自分の体を見下ろしていた。洋子の学校、城南大学付属高校の制服、紺色のブレザーと青いチェックのプリーツスカートを着て紺色のソックスを履いた自分の姿に戸惑っているのだ。
「洋子・・・僕・・・。」
困惑している明日香=正紀に、洋子は、
「大丈夫よ、そんなに可愛いんだから!行きましょう!!」
そう言うと、洋子は明日香=正紀の腕を引っ張って玄関を出て行った。
「行ってきまーす!!」
玄関から、洋子の元気な声が響いた。
2人の少女が、朝の町を歩いて行く。空は青く晴れ渡っていた・・・。
センター・コート(前編)終わり
こんにちは、逃げ馬です。
「ガールズ・ファイター」シリーズを執筆中から暖めていた、新しい長編作品「センター・コート」の第1話をお送りします。
この作品は、本当はウインブルドンテニスの期間中にアップしたかったのですが、いろいろありましたので、休養開けにアップという形になりました。
さて、女の子になってしまった明日香=正紀君、学校に行くことにはなったものの、いったいどんな学校生活が待っているのでしょうか?
この作品もGF同様、人間模様を重視していきます。でも、主人公達は高校生!
さわやかな作品に仕上げていきたいです! 逃げ馬初の、本格スポーツ小説…いろいろあると思いますが、よろしければ最後までお付き合いください。
では、また第2話でお会いしましょう!
尚、この作品に登場する個人、団体は、実在する個人、団体とは一切関わりの無い事をお断りしておきます。
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