センター・コート

(第2話)

:逃げ馬

 


 朝の日差しの中を、二人の少女が歩いて行く。
 ショートカットの髪の少女は、元気に胸を張って歩いて行く。
 ロングヘアーの髪の少女は、少しオドオドしているようだ。周りが気になるのか、きょろきょろしながら歩いている。
 「洋子・・・僕、やっぱり・・・」
 明日香が、蚊の鳴くような声で洋子に言った。
 「どうしたのよ?」
 洋子は、立ち止まって明日香に尋ねた。
 「僕・・・やっぱり・・・」
 明日香がオドオドしながら洋子を見つめている。
 「おはよう、洋子!・・・あれ?一緒の人は・・・?」
 洋子の友達だろうか?色白な小柄な少女が二人に追いついてくると、声をかけてきた。驚いて飛び上がる明日香。心臓の鼓動が速くなって来ていた・・・やはり、自分が女装をして街を歩いている気がして仕方がないのだ・・・。
 「おはよう、真美!この娘は、高原明日香って言ってね、私の従姉妹なの。今日から、城南に転校して来たの」
 洋子が平気な顔で、自分を紹介するのを、明日香は驚きながら見つめていた。
 洋子は、明日香を見ると、
 「明日香、こちらは島田真美さん、私のクラスメイトで、クラブもテニス部で一緒なのよ」
 「よろしくね、高原さん」
 島田が、明日香に頭を下げた。
 「高原です。よろしくお願いします」
 明日香も、ぎこちなく頭を下げた。洋子は、明日香のぎこちない動きを見て、笑いをこらえている。
 「さあ、行きましょう!」
 3人は、一緒に城南大学付属高校の校門をくぐった。洋子と島田は、楽しくおしゃべりをしている。明日香は、そんな2人を見ながら、
 『よく、あんなにおしゃべりができるよなあ…僕なら、あんなに話題が続かないよ…』
 そう思いながら見つめていた。
 突然、洋子は島田に、
 「ごめんなさい!私、今日は明日香を職員室に連れて行かなきゃいけないの。悪いけど、先に行ってて!」
 「うん、また後でね!」
 島田も、洋子に手を振った。
 洋子と明日香は、島田と別れると職員室に向かった。
 「失礼しまーす!」
 洋子が職員室のドアを開けた。机の前に座っていた、若い女性が立ち上がった。背中まである長い綺麗な髪を靡かせながら、若い女性は二人の方に歩いてきた。
 「中尾さん、おはよう!こちらが、あなたの従姉妹の・・・?」
 「はい・・・高原明日香です・・・」
 明日香が、ぎこちなく若い女性に答えた。
 「私が、あなたの担任になります。柴田圭子と言います。よろしくね!」
 若い女性は、ニッコリ笑った。綺麗な笑顔だ。明日香は、その笑顔を見てドキッとしてしまった。
 『キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン・・・』
 チャイムが鳴り始めた。柴田先生は、机の上に置いてあった名簿や教科書を手に取ると、二人に声をかけた。
 「さあ、行きましょう!」
 職員室を出ると、3人は、廊下を教室に向かって歩いていた。柴田先生は、背筋をピンと伸ばして歩いている。真っ白なブラウスと、膝丈のグレーのタイトスカートが、柴田先生のプロポーションの良さをいっそう引き立たせていた。
 「おはようございます!」
 2人の男子生徒が、明日香たちとすれ違った。
 「こらこら・・・!」
 柴田先生が、笑いながら男子生徒の一人に近寄って行く。男子生徒の首に手をやると、
 「もぉ・・・ネクタイは、きちんと締めなさいよ!」
 そういいながら、柴田先生は男子生徒のネクタイを白く細い指で直してやった。
 「はい!OK!!じゃあね!」
 そう言うと柴田先生は、明日香たちと再び一緒に歩いて行く。男子生徒たちは、柴田先生を羨望の眼差しで見つめていた。
 「かっこいいね・・・」
 明日香は、洋子に囁いた。
 「そうでしょ!男の子からも、女の子からも人気があるの!」
 洋子も笑いながら言った。
 教室に着いた。先生がドアを開けると、ざわついていた教室の中が静まり返る。教室にいる全員の視線は、先生の後ろにいる明日香に集中した。顔を赤く染めて俯いてしまう明日香。洋子は、明日香にウインクすると、自分の席に座った。
 「今日から、このクラスに転校生が入ります・・・」
 柴田先生が明日香に手招きをした。明日香が先生の横に立った。
 「高原明日香さんです。今まで、病気で療養していましたが、今日からこの学校に転校してきました」
 「高原明日香といいます。わからないことばかりですが、よろしくお願いします」
 明日香は、簡単に挨拶すると、頭を下げた。顔を上げると、男子生徒の視線が集まっている。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかった。
 「席は・・・あの一番後ろの席ね」
 柴田先生が指を指した。その方向で、さっきまで一緒だった島田が小さく手を振っている。明日香は、机の間を一番後ろに向かって歩いて行った。机の上に、カバンを置いて椅子に座ると、前の席に座っている島田が明日香の方に振り返った。
 「一緒のクラスだったんだね。よろしくね!」
 「こちらこそ!」
 明日香も、ニッコリ笑いながら答えた。ふと、隣の席に目をやった。男子生徒が、こちらを見ていた視線を、スッとそらした。首を傾げる明日香。
 授業が始まった、一時間目は英語だった。柴田先生がそのまま授業をはじめる。
 『授業は、どこでも一緒だなあ・・・』
 明日香は、そんなことを考えていたが、一方では、こうして学校に来ることのできる嬉しさをかみ締めていた。

 授業が終わり、休憩時間になると、明日香は、男子生徒たちに取り囲まれてしまった。
 「高原さん、今まで病気療養していたということだけど・・・」
 「今は、どこに住んでいるの?」
 「好きなタレントは?」
 「クラブは、なにに入るか決めたの?」
 矢継ぎ早に男子生徒たちが聞いてくる。顔を真っ赤にして俯いている明日香。
 『なぜこんな事になるんだよぉ・・・』
 そう思いながら黙り込んでいると、
 「ちょっとちょっと、あなた達! 明日香が困っているじゃないの!」
 洋子が、男子生徒たちの後から声をかけた。
 「あ・・・中尾・・・」
 男子生徒の一人が声をあげた。洋子は、それにかまわず明日香の腕を掴むと、男子生徒たちの輪の中から明日香を引きずり出した。
 「おい! 中尾、それはないだろう!」
 「高原さん!」
 男子生徒たちが声をあげる。
 「御免あそばせ!」
 洋子は、笑いながら男子生徒たちに言うと、島田と一緒に、明日香を教室の外に連れ出した。

 3人は、校庭に出た。明日香は、ベンチに座り込んでしまった。
 「ありがとう・・・助かったよ・・・」
 明日香は、苦笑いをしていた。洋子は笑いながら明日香に言った。
 「でも、これであなたが可愛いというのがわかったでしょう?」
 「そんな・・・でも、男に言い寄られてもなあ・・・」
 明日香が言うと、それを聞いていた島田が、
 「なぜ?男の子にもてるのって良いじゃない」
 驚いたように言った。
 「え・・・うーん・・・」
 明日香が黙り込んでしまった。
 「ウフフフフッ・・・」
 洋子は、笑い出してしまった。
 「フフフフフッ・・・」
 島田も笑い出す、やがて、3人とも笑い出してしまった・・・。


 放課後、この日は、クラブが休みだという事で、明日香は、洋子と島田たちと一緒に帰る事になった。やはり、男子生徒たちから、
 「高原さん、一緒に帰ろうよ!」
 「学校の中を案内するよ!」
 という誘いがあったが・・・。
 「ごめん! 洋子たちと約束しているんだ・・・」
 明日香が答えると、男子生徒たちは、名残惜しそうに離れていった。
 教室を出て、3人は廊下を歩いて行く。校舎の外に出ると、島田が二人に言った。
 「帰りにクレープを食べていこうか?」
 島田がニッコリ笑った。可愛らしい笑顔だ。太陽の光に照らされたその肌は、驚くほど白かった。綺麗な長い髪が太陽の光を反射させてキラキラと輝いている。小柄な体のせいか、もっているカバンがやけに大きく見えた。
 「行く行く! ねぇ、明日香も行くでしょう!」
 「う・・・うん・・・」
 明日香は、しぶしぶ頷いた。洋子の目を見ていると、『行くでしょう!』と脅されているように思えたのだ・・・。『参ったなあ・・・そんな女の子みたいな真似したくないのに・・・』明日香は思っていた・・・。
 3人は、校門を出ると大学通りにあるパン屋にやってきた。この店は、店の横でクレープを作っていて、高校・大学の女子学生のたまり場になっていた。店の前のベンチでは大学生らしい女性が友人と話をしている。時々笑い声が起きていた。
 「おじさん、3つね!」
 島田が中年のおじさんに言った。
 「はいよ・・・今帰りかい? 今日は、早いね」
 「うん・・・今日はクラブがないから・・・」
 島田はニコニコしながら言った。おじさんは、クレープを手際よく焼いていく。3人は、各々好みのものをトッピングしてもらうと、ベンチに座っておしゃべりをはじめた。洋子と島田はクレープを頬張りながらおしゃべりをしている。明日香も、暖かいクレープを口に頬張った。『あれ・・・? クレープってこんなに美味しかったっけ?』明日香は、少し驚いていた・・・今までにも、洋子との付き合いで食べたことはあった。しかし、美味しいと思った事はなかったのだが・・・。
 「あ・・・西田君、今帰り?」
 洋子が誰かに声をかけた。明日香も顔を上げた。長身のブレザー姿の男子学生が歩いていた・・・それは、明日香の隣の席に座っていた男子生徒だった。
 「ああ・・・」
 西田は、気のない返事を返した。
 「これからバイト?」
 島田が笑顔で尋ねた。
 「ああ・・・それじゃあな!」
 西田は、明日香にちょっと視線を移すと、早足で歩いて行ってしまった。
 「あの人・・・僕の隣の席の人だよね・・・」
 明日香が島田に尋ねると、
 「うん・・・西田君って言ってね、中尾さんや、私と一緒にテニス部に入っているの・・・すごく上手なんだよ!」
 島田が言うと、洋子が続ける、
 「お父さんの体の具合が悪いので、学校が終わった後、居酒屋さんでアルバイトをしているんだよ!」
 「そうなんだ・・・」
 明日香は、早足で歩いて行く西田の後姿に目をやった。がっしりとした体格は、鍛え上げられたスポーツマンに見えたが、明日香には西田の背負っている影のようなものが見える気がした・・・。


 翌日・・・。
 「明日香!行くよぉ・・・!」
 玄関から、洋子の元気な声が聞こえてきた。
 「待って!!」
 制服姿の明日香が、階段を駆け下りてきた。
 「「行ってきまーす!!」」
 二人の元気な声が、玄関から聞こえてくる。リビングルームで新聞を読んでいた中尾教授の顔に自然に笑みが浮かんできていた。正紀=明日香が、変身後に普通の学校生活が送れるようになるのか、正直な所、かなり心配していたのだが、洋子のサポートもあって上手く行っているようだ。

 学校では、明日香の周りは、昨日と同じ状態だった。授業中でも、明日香には男子生徒から熱い視線が飛んでくる。休憩時間になると、明日香の机の周りは男子生徒に囲まれてしまう。その度に洋子や島田が明日香を連れ出しに来ていた。
 「高原さん、大変よねぇ・・・」
 島田が苦笑しながら言った。
 「何で・・・僕がこんな目に・・・」
 明日香も苦笑いしながら言うと、島田が、
 「高原さんは、いつもニコニコしながら、一方で何かあると下を向いて黙っちゃうでしょう・・・だから男の子達も気になるんじゃないかな?それに可愛いし、スタイルだって・・・」
 「え・・・そんな・・・」
 顔を真っ赤にして俯く明日香、それを見た島田が、
 「ほら・・・そういう風にね!」
 笑い出す2人・・・その前を西田が歩いて行く。
 「あ・・・西田君!今日はクラブに来るの?」
 島田が尋ねると、
 「ああ・・・今日は顔を出すよ!」
 そう答えた・・・西田は、島田の隣に座っている明日香に目をやった。会釈をする明日香、
 「じゃあな!」
 ぶっきらぼうに言うと、廊下を歩いて行った。
 「僕・・・何か悪いことを言ったりしたかなあ・・・」
 明日香が島田に尋ねると、島田は、
 「西田君は、いつもあんな感じだから、気にしなくていいわよ!」
 島田は、廊下を教室に向かって歩き始めた。明日香も着いて行く。
 「そう言えば、高原さんは、何処かのクラブに入るの?」
 「ううん・・・まだ何も・・・」
 明日香が答えると、
 「それなら、今日の放課後、テニス部の練習を見ていかない?ちょうど、中尾さんもいるし・・・」
 島田は、小柄な体を明日香の方に向けて言った。
 「いいでしょう?!」
 島田の笑顔を見ていると、明日香は何も言えなくなった。
 「うん・・・」
 明日香は、そう答えていた・・・。


 放課後、明日香は島田と洋子に連れられてテニス部の練習を見に行った。
 「あら・・・高原さん!」
 パステルカラーのスエットスーツを着た柴田先生が、明日香を見つけて声をかけてきた。
 「あ・・・先生!」
 「テニス部に入るの?」
 「いいえ・・・見学に来ただけです。先生こそ、どうして・・・?」
 明日香が尋ねると、
 「私は、女子のテニス部の顧問をしているの!」
 柴田先生は、そう言って笑った。
 「先生は、付属高校時代には、インターハイで準優勝をしたし、城南大の頃には、インカレで優勝したんだよ!膝の怪我が無ければプロになっていたでしょうね。今、プロでやっている西山さんに、大学時代には何度も勝っているんだから・・・」
 テニスウエアに着替えた洋子が、明日香に向かって言った。
 「・・・すごいですねぇ・・・」
 明日香が柴田先生を眩しそうに見つめている。
 「昔の話よ・・・」
 柴田先生が笑った。
 明日香は、テニスコートに目を移した。そのコートでは、男子部員が練習をしている。一人の部員に目が止まった。クラスメイトの西田だ。西田も、チラッとフェンスの向こうにいる明日香を見ると、ダイナミックなフォームでサーブの練習をはじめた。
 「あの人・・・かなり上手いんじゃないですか?」
 明日香は、柴田先生に尋ねた。
 「あ・・・西田君?上手いわよ・・・この夏のインターハイでは、男子の顧問の滝沢先生もかなり期待されているみたいよ!」
 「そうでしょうねぇ・・・」
 明日香は、呟くように言った。西田は、その長身を活かしたダイナミックなフォームでラケットを振ってサーブを打ち、相手のボールをボレーしている。
 『あいつは、これから強くなるだろうなあ・・・。』明日香は、そう思っていた。
 「高原さん!見ているだけじゃなくて、ちょっとやってみる?」
 柴田先生が、フェンスの向こう側から見ている明日香に声をかけた。
 「え・・・僕は・・・」
 戸惑う明日香。
 「いいじゃない!ちょっとやってみれば?」
 島田がコートの中から声をかけた。
 「さあさあ・・・」
 柴田先生が、フェンスの扉を開けて明日香をコートの中を入れた。
 「でも・・・この格好では・・・」
 明日香は、制服姿の自分の体を見下ろしながら言った。
 「大丈夫よ・・・」
 柴田先生は、明日香の体を見ながら言った。
 「体格も、私とそんなに代わらないようだし・・・行きましょう!」
 柴田先生は、明日香の手を引いて更衣室に連れて行った。初めて入る女子更衣室に、明日香はドキドキしていた。今までの自分なら決して入ることの出来なかった所だが・・・。
 「あなたの体格なら・・・」
 柴田先生は、自分のロッカーからスエットスーツを取り出した。
 「これでどうかな?」
 明日香は、空いているロッカーに、脱いだ制服を入れると、薄い緑色のスエットスーツに着替えた。長く綺麗な髪をヘアーバンドでまとめると、柴田先生から渡されたラケットを手に持った。
 「どうかな?」
 柴田先生が尋ねた。借り物のテニスシューズを履いてトントンと足を踏み鳴らした。
 「大丈夫です」
 明日香はニコニコしながら答えた。
 「・・・楽しそうじゃない!」
 柴田先生も、ニッコリ笑って言った。明日香は、少し顔を赤らめて、
 「いえ・・・そういうわけじゃあ・・・」
 しかし、明日香はワクワクする感情を押さえる事は出来なかった。自然に顔が笑顔になる明日香。
 「・・・さあ、行きましょう!」
 明日香は、柴田先生と一緒にコートに出た。みんなの視線が集まってくる。
 「あ・・・高原さん、テニスをするみたいだぜ!」
 「くっそー・・・スエットスーツかよ・・・テニスウエアを着てくれればいいのに・・・」
 「可愛いよなあ・・・」
 テニスコートの周りにいる男子生徒から、そんな声が聞こえてくる。明日香は、頬を赤く染めて下を向いてしまった。
 「高原さん、こちらのコートにおいでよ!」
 島田が明日香に声をかけた。洋子も一緒に手招きをしている。明日香は、柴田先生に促されて二人のいるコートに入った。
 「じゃあ、私と一緒に・・・」
 島田が、明日香に言った。
 「よろしくお願いします」
 明日香は挨拶をすると、島田と反対側のコートに入った。
 明日香が、ポジションにつくと、島田はアンダーハンドでサーブを打った。
 明日香も、綺麗なフォームで打ち返す。何度かラリーが続くと、明日香は、だんだん本気になってきていた。強いボールをコートの後ろ側のライン(ベースライン)ぎりぎりに打ち返す。島田は、追いつくことが出来なかった。
 「・・・すごいじゃない!」
 島田が驚いた表情で明日香を見つめた。洋子も驚いて明日香を見ていた。思わず笑みが出る。
 『明日香・・・すごいよ。前と変わらないじゃない!』
 頭の中で、洋子は叫んでいた。
 「よし!今度は私が!」
 洋子が、島田の代わりにコートに入った。
 「高原さん!今度はさっきみたいにはいかないわよ。中尾さんは、一年生の女子の中で一番上手いんだから」
 島田が、コートの外から明日香に声をかけた。
 『そうだろうなあ・・・』
 明日香も、頭の中で思っていた。洋子とは、子供の頃から一緒にテニスをしてきた。その実力はよく知っている。
 「さあ・・・来い!」
 思わず呟いていた。
 洋子はボールを上にトスすると、思いっきりボールを打った。すごい勢いのサーブが明日香に向かって飛んでくる。明日香は、鋭いダッシュで追いついてラケットを振った。『ポーン』ボールを打つ音がコートに響く。思わず、あたりにいたテニス部員達が、明日香たちのプレーに見入っている。洋子も鋭いボールを打ち返す。『明日香・・・すごいよ・・・』洋子は、明日香と一緒にテニスをしていて嬉しくなってきていた。明日香は、ボールを左右に打ち分けて洋子を揺さぶる。洋子も、ボールを高く打ち上げて明日香の後ろ側にボールを落とそうとした。明日香も、鋭いダッシュで後ろに走る。ボールに追いつくと強烈なスマッシュを洋子に向かって打った。ボールは洋子のラケットの下をすり抜けていった。周りからどよめきがおきる。
 「すごい・・・」
 島田が驚いている。
 「さすが、明日香だね!」
 洋子は、笑いながら明日香の方に歩いて行った。
 「高原さん、すごいじゃない」
 柴田先生が明日香の方に歩いてきた。
 「高原さん、テニス部に入らない?それだけの実力があるなら・・・」
 明日香は、手に持っている借り物のラケットを見つめていた。洋子も声をかける。
 「明日香・・・またいっしょにテニスをしよう!」
 洋子の言葉を聞いて、島田が、
 「あれ?・・・高原さん、前にテニスをしていたの?」
 首を傾げながら尋ねた。
 「え・・・うん!ちょっとね」
 洋子は苦笑しながら答えた。
 明日香は、柴田先生の方を見ながら答えた。
 「先生・・・よろしくお願いします・・・」
 柴田先生は、ニッコリ笑って頷いた。
 「明日香・・・」
 洋子が、明日香の背中をポンと叩いた。
 「一緒にがんばろうね!高原さん」
 柴田が右手を差し出した。その柔らかい白い手をギュッと握り締める明日香。
 明日香の大きな瞳が潤んできた。
 「どうしたの?」
 柴田が驚いて尋ねた。
 「なんでもないよ!・・・目にゴミが入ったんだ・・・」
 明日香は、泣き笑いをしながら空を見上げた。『ポーン・・・ポーン・・・』コートにボールを打つ音が響く。この日も、空は青く澄み渡っていた・・・。しかし、このとき明日香を見つめている男がいたことに、明日香は全く気付かなかった。

 翌日の放課後から、明日香は洋子や島田たちと一緒に、テニス部の練習に参加するようになった。
 「こんなの着れないよ!!」
 女子更衣室の中から、明日香の大きな声が聞こえてきた。更衣室の外にいた部員達は、驚いた顔をして更衣室のドアを振り返った。
 「だけど・・・テニスをするんだから・・・」
 既に着替え終わった洋子と島田が、困ったような顔をしてお互いの顔を見合わせている。
 洋子の手には、白いテニスウエアの入った紙袋が握られている。明日香は、スコートを手に持って困惑した表情をしていた。
 「こんなのを履いてテニスなんて・・・できないよ・・・」
 「大丈夫だよ・・・それに、明日香はスタイルだっていいし・・・きっとかっこいいと思うよ!」
 洋子は悪戯っぽい笑顔で言うと、明日香を着替えさせた。
 「何でこんな格好を・・・」
 明日香はぶつぶつと文句を言っている。
 制服を脱いで、上着を着替える・・・ブラウスに比べると、胸のラインがはっきり現れる。装飾のいっぱいついたアンダースコートを見つめる明日香・・・今までは、見ている立場だったのに、まさか自分が履く事になるとは思わなかっただけに・・・そんな明日香を洋子はニコニコしながら見つめている。洋子としては、明日香に早く女の子に馴染んで欲しかった。だからここまでするのだが・・・。
 「明日香!早く!!」
 洋子に促されて、仕方なく明日香はアンダースコートを履いて、スコートも履く・・・靴も、テニスシューズに履き替えた。長く綺麗な髪を後で綺麗にまとめた。白いスコートが、明日香の長い足をいっそう引き立たせていた。自分の体を見下ろす明日香・・・。
 「恥ずかしいよ・・・」
 明日香は、頬を真っ赤にしている。
 「すごくカッコいいよ!さあ、行こう!!」
 洋子は島田と一緒に、明日香の手を引いて更衣室を出ると、コートに向かった。
 「あ・・・高原さんだ・・・」
 「やっぱ、可愛いよなあ・・・」
 「スタイルいいじゃん!!」
 フェンスの向こう側の男子生徒や、コートにいる男子部員達の声が聞こえてくる。明日香は、自分の顔が真っ赤になっていくのがわかった。
 「洋子・・・やっぱりやめようよ・・・この格好じゃ、テニスをするどころじゃないよ・・・」
 明日香は、洋子のテニスウエアを引っ張りながら言った。洋子は、明日香を振り返ると、
 「なに言っているのよ!私達だってスコートを履いてテニスをしているのよ。別におかしくないじゃない・・・」
 「そんな事言ったって・・・」
 俯いてしまう明日香。
 「さあ、早くコートに入って!」
 洋子に促されて、明日香はコートに入った。その後ろに男子生徒たちが集まってくる。
 「やっぱり、高原さんは可愛いよなあ・・・」
 「その辺のアイドルよりよっぽど可愛いよ」
 「胸だって大きいみたいだし・・・」
 男子生徒の声が明日香に聞こえてくる。
 「冗談じゃないよ・・・僕はおまえ達のアイドルなんかじゃないぞ・・・」
 そう呟くと明日香は、後に目をやりながらラケットを構えた。
 『ポーン・・・』
 ボールを打つ音がコートに響いた。明日香が、はっとした時には、ボールは明日香の横を通り過ぎていった。
 「なにやっているのよ!コートに立ったら相手に集中しろって、前にあなたが言っていたじゃない!!」
 洋子が、ネットの向こう側で怒っている。洋子の言葉に、明日香も怒り出してしまった。
 「なに言ってるんだよ!こんな格好で、僕はテニスできないって、さっきから言っているだろう!」
 突然、彼らはおとなしい女の子と言うイメージを持っていた明日香が大きな声を出したので、男子生徒たちは驚いた表情で二人を見守っている。島田も、おろおろしながら二人を見ていた。
 「中尾さん・・・そんなに怒らなくても・・・高原さんも・・・」
 ようやく声を出して二人に言った。しかし、
 「そんなの関係ないじゃない!私は、その格好で実際にテニスをしているのよ? それなのに、あなたは出来ないわけ? あなたのテニスは、そんなものなの?! 周りが気になって出来ないようなテニスなの?!」
 洋子は。明日香に向かって笑った・・・洋子は明日香を挑発していたのだ。『これでテニスに集中してくれれば・・・少しは早く女の子の体に馴染んでくれるはず・・・』そう思っていた。
 「よし・・・もう一度来い!!」
 明日香は、鋭い目で洋子を睨みつけると、大きな声で言った。
 洋子が、もう一度サーブを打つ。明日香は、素早く反応すると、ボールのコースにスコートが捲れるのも気にせずに走って行く。次の瞬間、スコートが捲れるのも忘れて、腰を使ってフルスイングでラケットを振っていた。
 『ポーン・・・』
 ラケットがボールを捕らえる鋭い音が、コートに響き渡る。勢いのあるボールが、洋子のいる位置とは反対のコートの角に決まった。
 「さすがだね・・・」
 洋子は呟くと、もう一球サーブをした。勢いのあるボールが明日香に向かって飛んでいく。明日香も、思いっきり打ち返した。しかし、その時には既に洋子が、ネットの近くにまで来ていた。
 「まずい!」
 明日香もネットに付こうとした。しかし、既に洋子は、明日香の返したボールをボレーしていた。咄嗟に明日香もラケットを出していた。ボールを辛うじてラケットに当てる。勢いのないボールが、洋子に向かって飛んでいく。洋子は、今度は鋭い振りでボールを打った。ボールが明日香の足元を抜けていった。
 「やるな・・・」
 明日香は、俯いたまま笑いがこみ上げてきた・・・明日香もこの体に、かなり慣れてきていた。洋子は、本気でプレーしている。もちろん、明日香もそうだが・・・久しぶりに本気でプレーするテニスが、明日香には楽しくてたまらなかった。
 島田は、二人のテニスを見て驚いていた。
 「これって・・・2人とも本気・・・?」
 島田は、呆然と2人を見つめていた。
 「すげぇ・・・」
 男子生徒の一人が、フェンスの向こう側から、目を丸くして二人のプレーを見ている。
 「これって・・・」
 最初は、明日香が可愛いからと集まっていた男子生徒たちも、洋子と明日香の本気でプレーするテニスに魅了されていた。
 また、洋子がサーブをする。明日香は、サーブを打ち返すと同時にネット際にダッシュをして行った。洋子は、明日香の動きを見ると、高いロブ(山なりのボール)を打って明日香の後ろにボールを落とそうとした。明日香は、素早くボールの落下位置に戻って行く・・・。
 「面白そうな事をしているな!」
 2人を見つめる柴田先生に、精悍な顔立ちをした中年の男が声をかけた。
 「あ・・・滝沢先生・・・」
 柴田先生は、男に一礼した。男は、テニス部の男子をコーチしている滝沢先生だった。
 コートの中では、二人のラリーが続いている。それを見つめながら、滝沢先生は呟いた。
 「・・・あの高原という子を見ていると、高校生の頃の君を思い出すな・・・」
 驚いて滝沢を見つめる柴田・・・彼女も同じ事を考えていたのだ。
 「そうですね・・・」
 柴田も呟くように言った。
 「彼女・・・当然、インターハイに行かせるんだろう?」
 滝沢が、コートに目を向けたまま言った。滝沢の目は、明日香に向けられたままだ・・・。
 「そうするつもりです。じっくり育てれば・・・」
 柴田も、明日香を見つめていた。彼女は、明日香に高校生の頃の自分を重ね合わせていた。
 「あの子に・・・私の夢を・・・」
 突然、歓声が聞こえてきて、柴田は、我に帰った。明日香が、スマッシュを決めて、ボールは、コートの後ろにあるフェンスに当って転がっていた。
 「はい!そこまで!」
 柴田は、ようやく声を出して二人のプレーを止めた。
 「これが・・・明日香のテニスでしょう・・・やればできるじゃない」
 洋子は、肩で息をしながら、明日香に微笑みかけた。
 明日香は、洋子の言葉にショックを受けていた。
 『洋子のやつ・・・そのために・・・』
 同時に、自分が憎まれ役になっても、本来のプレーをさせようとした、洋子の友情が嬉しかった。
 「ありがとう!」
 洋子は、明日香の肩を叩いて笑った。二人の笑い声が、テニスコートに響いていた。柴田と島田は、微笑みながら2人を見つめていた。


 夏になった。明日香は、一年生ながらインターハイのメンバーに選ばれていた。
 大会の会場に着いた明日香は、島田と、洋子を相手に練習を始めた。久しぶりの公式戦に、明日香は少し緊張していた。
 「よう!・・・やってるな!」
 3人が、声のした方を見ると、ラケットを持った西田が男子部員と一緒に立っていた。
 「あら・・・西田君、これから練習?」
 島田が西田に尋ねた。
 「ああ・・・ちょっと体をほぐしておこうと思ってね」
 西田は、そう言うと明日香をチラッと見て、
 「それじゃあ、あまり張り切りすぎるなよ。」
 そういい残して、男子部員を促すと他のコートへ歩いて行った。
 「西田君は、明日香が気になるみたいだね・・・」
 洋子は、明日香に悪戯っぽい顔で笑いかけた。
 「なに言っているんだよ!」
 明日香は、とんでもないと言うように腕を振った。
 「だって、西田君は、いつも明日香の事を見ているよ」
 洋子が笑いながら言うと島田も、
 「いいじゃない!西田君は、難しいとこもあるけれど、いい人だよ!」
 「帰ったら、遊びに行く機会を作ってあげないとね」
 洋子が島田に向かって言うと、
 「うん・・・それがいいね。いいでしょう高原さん」
 「やめてよ!そんな・・・」
 明日香は苦笑をしながら言った。少し顔を赤らめると、
 「さあ、練習を始めよう」
 洋子と島田は、明日香の様子を見ると、笑いをかみ殺しながら練習を始めた。
 『ポーン・・・ポーン・・・』
 コートには、ボールを打つ音がいつまでも響いていた。

 試合が始まった。大会会場のテニスコートでは、熱戦が続いている。観衆もたくさんつめかけて、選手達に声援を送っている。
 その観衆の中に、“スポルト・ジャパン”の記者、高村進一郎がいた。高村は、上司からスポーツの取材に慣れるために、インターハイの取材記事を書くように言われていた。
 「あれ?・・・あいつは?」
 高村の前の方の席に、望遠レンズをつけた一眼レフカメラを構えている、髭面の男の姿が目に入った。
 高村は席を立つと、その男の所へ歩いて行った。
 「やっぱり、おまえか?!」
 「よぉ・・・久しぶりだな!」
 男は、黒田正博。高村とは大学の同期生だった男だ。大学時代から、カメラマンとして高い評価を受けていたが・・・。
 「何でおまえがここにいるんだ?」
 黒田は不敵な笑みを浮かべながら、高村に尋ねた。目は、カメラのファインダーから逸らさない。
 「スポルト・ジャパンの担当になったんでね。取材だよ」
 高村も、視線はコートに向けたまま答える。コートでは、女子のシングルスの試合が始まっている。客席からは歓声があがる。
 「ほぉ・・・おまえがよくあんな一流スポーツ誌の編集部に入ったな。大学時代もほとんどスポーツなんてしていなかったのに」
 黒田は、カメラで試合を追っていた。高村には顔を向けようとしない。高村も、黒田のそんな態度を気にはしていなかった。
 「会社だからね・・・人事異動はあるのさ!」
 「なるほどね・・・」
 黒田は、一人の女子選手のプレーに目がいった。パワフルなプレーとボールに追いつくスピードで、相手を圧倒していた。
 「この選手は確か・・・?」
 黒田は、その選手を何処かで見た事があるような気がしていた。
 「しかし・・・彼は・・・?」
 黒田は、カメラのシャッターを切っていた。シャッターを切る乾いた音がして、モータードライブがフィルムを巻き上げる音が響く。
 「高村・・・」
 黒田が呟くように言った。
 「なんだ・・・」
 「あの選手をよく覚えておけよ・・・後できっと強くなるぞ・・・」
 黒田に言われて、高村もその選手に目をやった。その選手は、相手の打って来たボールを、フォアハンドの強烈なスイングで打ち返した。ボールは、まるで生き物のようにコントロールされて、ライン際いっぱいに決まる。周りから歓声が起きた。
 「すごいな・・・」
 思わず声が出る高村。
 「インターハイ女子シングルスは、城南大学付属高校一年生の高原明日香さんの優勝です」
 場内アナウンスが流れると、歓声がひときわ大きくなった。明日香も手を上げて歓声に応えていた。
 「やっぱり、テニスは楽しいな」
 自然に笑みが出てくる明日香。
 「おめでとう!」
 島田が明日香に声をかけた。笑顔で島田と握手する明日香。
 「明日香・・・おめでとう! よかったね!」
 洋子が、目を潤ませながら言った。
 「ありがとう・・・嬉しいよ」
 明日香も思わず目が潤んできた。
 『あれ・・・これくらいで・・・なぜ・・・』
 そう思っていたが、感情を抑えることが出来なかった。いつのまにか明日香は、洋子と抱き合って涙を流していた。


 数日後、大阪に帰ってきた明日香たちは、再び練習に明け暮れる日々を過ごしていた。
 その日も、練習を終えた明日香は、島田や洋子と一緒に学校から帰っていた。
 帰り道に、いつものパン屋に3人は立ち寄った。
 「こんにちは!」
 島田が声をかけた。
 「いらっしゃい・・・おや、あなた達」
 奥から、おばさんが出てきた。
 「あれ? 今日は、おじさんはどうしたんですか?」
 洋子が尋ねると、
 「ああ・・・あの人ね。奥でパンを焼いているよ。それで?」
 おばさんは、3人に眼をやりながら言った。明日香を見つけると、
 「ああ・・・あんただね。インターハイで優勝したのは・・・」
 おばさんは、ニコニコしながら話している。
 「・・・おばさん、クレープを・・・」
 島田がおずおずと言った。おばさんの迫力に圧倒されているようだ。
 「ああ・・・ごめんね! アハハハッ!!」
 おばさんは、大笑いをするとクレープを焼き始める。しかし、口は止まらない。
 「あんたみたいに可愛くて、テニスが上手ければ男にもてるでしょう!」
 「え・・・?!」
 明日香は、唖然とした。咄嗟に、なんと応えていいかわからなかった。その時、
 「あ・・・高原さん!」
 後から声がした。4人がそちらを見ると、テニス部の男子部員、新谷が西田と一緒にこちらを見ていた。
 「よぉ・・・!」
 西田が笑顔も見せずに3人に声をかけた。
 「お疲れ様。西田君、これからアルバイトに?」
 明日香が尋ねると、
 「ああ・・・そうだよ」
 西田は明日香を見つめると、少し笑みを浮かべながら言った。
 「それじゃあな」
 西田は、そう言うと歩いて行く。
 「あ・・・高原さん、今度みんなで遊びに行こうね。それじゃあ!!」
 そう言うと、新谷は西田を追いかけていく。振り返ると、
 「きっとだよ!」
 そう言って手を振っていた。明日香も、小さく手を振り返した。西田も振り返って明日香を見つめている。
 「カッコいい兄ちゃんだね。あの子(明日香)の彼かい?」
 おばちゃんがニヤニヤしながら前に立っている島田に言うと、
 「違いますよ!!」
 明日香が大きく手を振りながら否定した。顔は赤くなっている。
 「へぇ・・・それだけ可愛いからねぇ・・・」
 おばちゃんは三人にクレープを渡していく。その時、奥から店主のおじさんが顔を出した。
 「おい・・・あまりお客さんに変な事を言うなよ」
 おじさんがたしなめると、
 「わかっているよ! あんたは早くパンを並べなさいよ!」
 おばさんが一気にまくし立てる。おじさんはしぶしぶ、パンを並べていく。
 「それじゃあ・・・私達はこれで・・・」
 島田が、洋子と明日香を促してパン屋を出ようとすると、
 「あらぁ・・・まだまだ話したいことがあるのに・・・そのお姉ちゃんにも聞きたいことがあるしねぇ。今日はじめて会ったんだから」
 そう言って、明日香を指差した。
 「まあ・・・またの機会ということで・・・」
 そう言うと、洋子は明日香の背中を押すように店から出た。
 クレープを持ったまま、三人はしばらく歩いていた。
 「あのおばさん、すごいね」
 明日香がため息をつきながら言うと、洋子が、
 「あのおばさん、いつもああなんだよ。おじさんにいつもガミガミ言って、みんなから噂話を聞いて言いふらすの!」
 そう言うと、島田と一緒に笑い出した。
 「それで、城南大学前の放送局と言われているの」
 島田が言うと、明日香も笑い出した。
 「そうかもしれないね」
 三人は笑いながら、夕焼けの照らす道を、駅に向かって歩いて行った・・・。


 1ヶ月がたった。
 その日は、テニス部の練習が休みだった。明日香は、部室で着替えた後、校舎の一角にある壁打ちをするためのコートで、壁打ちをしていた。ボールを打つ音が校舎に響いていた。
 「熱心だな」
 突然、後から声がして明日香が振り返った。壁に跳ね返ったボールが、明日香の足元で跳ね返ってコートの後に飛んでいく。明日香の後ろに立っていた人物が、ボールを受け止めた。
 「あ・・・西田君」
 明日香の後ろには、ブレザーを着た西田が、笑いながら立っていた。
 「インターハイで優勝をしたのに、練習のない日でも壁打ちか?」
 「うん・・・やっぱりテニスが楽しいからね」
 明日香は、タオルで汗を拭きながら笑った。西田は、明日香の笑顔を眩しそうに見つめている。
 「でも、西田君だってインターハイの男子シングルスで優勝でしょう? 人のことは言えないよ!」
 明日香が頬を膨らませて、ちょっと胸を張って言うと、
 「それは・・・そうだな」
 西田が、頭を掻きながら笑った。
 「どうだ・・・終わったのなら、一緒に帰らないか?」
 「・・・うん・・・着替えてくるから、ちょっと待っていてね」
 明日香は更衣室に入ると、ラケットをロッカーに入れて、着ていたスエットスーツを脱いだ。汗をタオルで拭くと、ふと手を止めた。
 「・・・シャワーを浴びたいけど・・・」
 更衣室のドアを見つめる明日香、その向こう側では、西田が明日香の出てくるのを待っている。明日香は、隣にある洋子のロッカーを開けた。デオドラント・スプレーを手にとると、体に吹き付けてから、洋子のロッカーに戻した。
 大急ぎで制服を着て、髪を整える。
 「お待たせ!」
 明日香は、更衣室のドアを勢いよく開けて飛び出した。西田は、何故か、いつもとは違う優しい目で明日香を見ていた。
 「じゃあ、帰ろうか・・・」
 西田と明日香は、2人で並んで歩き出した。突然、校舎の影から、サングラスをかけた髭面の体ががっしりした男が現れて、二人の前に立ち塞がった。驚く明日香、思わず身構える西田。
 「高原明日香さんですね?」
 男が、サングラスの奥から明日香を見つめながら言った。
 「そうですが・・・」
 「あんたは?」
 西田がムッとした顔で尋ねる。
 「ああ・・・申し訳ない。俺は、黒田と言ってカメラマンをしているんだ。今日は・・・」
 そう言うと、黒田は肩からかけているショルダーバックから、封筒を取り出した。
 「インターハイで撮った写真を持ってきたんだ・・・」
 そう言うと、黒田は封筒を明日香に手渡した。
 「それじゃあ・・・」
 黒田は、右手を上げると、歩き出した。
 「あ・・・あのう・・・?」
 明日香が声をかける。
 「また、ちょくちょく写真を撮らせてもらうよ!」
 黒田は、振り向きもせずにそう言うと、歩き去っていった。
 顔を見合わせる明日香と西田。
 「変わった人だな」
 西田が呟くように言った。
 明日香は、封筒を開けると中を覗き込んだ。中には、インターハイの予選から決勝まで、全試合の明日香の写真が入っていた。ラケットを振ってボールを捉えている写真、また、試合が終わって笑顔で相手選手と握手している写真などが入っている。その中に一枚・・・。
 「これは・・・?」
 明日香の顔が強張る。
 「どうしたんだ?」
 西田が、明日香の顔を覗き込むと、
 「なんでもないよ!」
 明日香は、封筒をかばんの中にしまいこんだ。
 二人が、校庭を歩いて行く。校庭では、野球部が練習をしている。元気な掛け声が響いていた。
 「西田君、いつも学校が終わるとアルバイトをしているの?」
 「ああ・・・うちの父さん、まだ若いんだけど、頑張りすぎて体を壊しちゃってね・・・」
 西田は、淡々と話している。明日香は、体の前でカバンを揺らして、西田の顔を時々見ながら、並んで歩いている。
 「仕事を休職しているからね・・・俺、一人っ子だから、母さんを助けないといけないから」
 「でも・・・クラブで練習をして、その後アルバイトなんて、体がきついでしょう?」
 明日香が尋ねると、
 「うーん・・・確かにきついけどね。俺には、いい気分転換になっているよ」
 西田は、明日香の顔を見ると寂しそうに笑った。
 『西田君・・・本当は、もっとテニスをしたいんだろうなあ・・・』
 明日香は、西田を見上げながらそう思った。西田のテニスを見ていると、練習を積めばもっと強くなれるのはわかっていた。しかし、西田の家庭の事情が、それを許さないのだろう。明日香はいつしか、俯きながら歩いていた。
 『カキーン・・・』
 金属音が、校庭に響いた。
 「オーイ! 危ないぞー!!」
 明日香と西田は、声の方向を見た。白球が2人をめがけて飛んでくる。
 「危ない!」
 西田が叫んだ。ボールは、明日香の手前でワンバウンドした。明日香は、バウンドしたボールを右手で受け止めた。野球部員が叫んでいる。
 「すいませーん! こちらに投げてもらえますか?」
 野球部員が、2人の方に走ってくる。明日香は、カバンを置いて振りかぶるとスカートが捲くれるのも気にせずに、野球部員めがけてボールを投げた。ボールは、一直線に飛んでいくと、野球部員のグラブに入って音を立てていた。
 『パシッ』
 グラブからの乾いた音が、校庭に響いた。野球部員と西田は、呆然と明日香を見つめている。
 「さあ、行こう・・・」
 明日香は、カバンを持つと、ニコニコしながら西田に言った。
 「あ・・・ああ・・・」
 西田も歩き出す。野球部員は、まだ、歩き去っていく二人を見つめていた。
 「すげえ・・・なんて肩だ・・・」
 野球部員は、グラブに納まっている白球を見つめた。
 『カキーン・・・』
 校庭に、金属バットの音が響いていた。

 「すごいな・・・」
 大学通りを歩きながら、西田が明日香に向かって言った。
 「何が?」
 「いや・・・高原は、野球かソフトボールでもしたことがあるのか?」
 「うん・・・子供の頃に、テニスと一緒に少年野球も・・・」
 「少年野球?」
 西田が驚いたように尋ねた。
 『しまった・・・!』
 明日香は、思わず目をつぶった。今、自分が女の子になってしまっていたことを忘れていたのだ・・・さっきからそうだったが。
 「え・・・うん、近所の少年野球の練習に混ぜてもらっていたんだ・・・」
 西田が笑い出した。
 「高原は、見かけに寄らずお転婆だったんだなあ・・・」
 明日香は、それを聞いて困った顔をしている。
 『お転婆だって・・・』
 自分が、男だという意識の抜けない明日香は、ちょっと頬を膨らましている。
 「今まで、高原は、おとなしいお嬢さんだとばかり思っていたよ」
 そう言うと、西田は大笑いをした。
 明日香も、クスクスと笑い出した。
 「僕は、お嬢さんじゃないよ・・・みんな、外見でそう思っているのかなあ」
 「高原は、おとなしい娘だって、思っている奴は、結構多いだろうなあ。男子の中では、人気あるぞ」
 明日香は、苦笑いをしている。
 「男にもててもなあ・・・」
 「なんだって?」
 「なんでもない!」
 頬を赤く染めて俯く明日香。
 「変な奴だなあ・・・」
 西田が、呆れたように明日香を見ながらため息をついた。思わず、2人とも笑い出した。二人は、並んで駅に向かって歩いて行く。夕日の光が、2人を照らしていた。


 春になった。
 高校二年生になった明日香たちは、テニス部の中心選手になっていた。
 明日香は、すっかりクラスや、テニス部の仲間達の中に溶け込み、明るい性格だったこともあって、男子生徒たちのアイドルになっていた。そして、嫌味のない性格は、女子にも支持されていた。
 その日の放課後も、明日香は学校のテニスコートでみんなと練習をしていた。
 『ポーン・・・ポーン・・・』
 コートには、ラケットでボールを打つ軽快な音と、みんなの掛け声が響いている。
 この時期、顧問の柴田先生は、男子の顧問をしている滝沢先生に提案して一つの決断をしていた。柴田先生は、コートに行くと、
 「高原さん!!」
 大きな声で明日香を呼んだ。
 「はい!」
 練習をしていた明日香は、返事をすると柴田先生のところへ走って行く。
 「なんでしょうか?」
 「あっちへ行きましょう?」
 柴田は、明日香をコートの脇にあるベンチに座らせた。
 「高原さん、あなたも2年生になったわけだけど・・・今年は、どの大会に出たいの・・・?」
 柴田先生の唐突な質問に、明日香は戸惑った。
 「え・・・今年も、インターハイに出て・・・」
 「そうね・・・」
 柴田は、優しく微笑んで明日香を見つめた。
 「高原さん・・・私、滝沢先生とも相談したんだけど、あなた、この夏にあるジャパンカップに出てみない?」
 「え・・・ジャパンカップって・・・プロの大会・・・」
 「そう・・・プロの大会よ」
 柴田は、驚く明日香を見てクスクスと笑っている。
 「でも、僕はまだ高校生です。それなのにプロが出る大会に行っても・・・」
 柴田は、優しく明日香を見つめている。そして、
 「あのね・・・高原さん・・・」
 柴田は、コートで練習している部員達の方に目をやりながら言った。
 「今の高原さんの実力なら、インターハイで間違いなく優勝できると思うの・・・でも、それでいいのかな・・・?」
 明日香は、何も言えない。
 『いったい・・・先生は何を言いたいんだ?』
 そう思っていた。
 「確実に勝てる試合に出るよりも、自分より強い人と試合をしたほうが、あなたも強くなれていいんじゃないかな・・・それに、今のあなたなら、きっといい試合ができると思うよ」
 明日香は考え込んだ。今の自分にそれだけの実力があるのか? 明日香には、自信がなかった。
 「やってみろよ!」
 突然、後から声がしたので、柴田と明日香は振り返った。ラケットを持ったテニスウエア姿の西田が立っていた。
 「脅かすなよ・・・」
 明日香が言った。西田は、それにかまわず、
 「出場してみろよ・・・強い選手と試合をして、自分の弱点を探してみるのもいいと思うぜ!」
 明日香は、2人の顔を見つめていた。やがて、力強く頷いた。
 「・・・出てみます」
 柴田と西田はゆっくりと頷いた。西田は、明日香の小さな肩をポンと叩くと、コートに向かって歩いて行った。
 「これからは、練習メニューを代えて、大会に向けて猛練習よ。頑張ろうね!」
 柴田の言葉に、明日香は力強く頷いた。

 帰り道、
 「明日香・・・すごい事になってきたね?」
 洋子が、嬉しそうに話している。
 「とんでもない事になったなあ・・・」
 明日香がため息をつくと、
 「大丈夫よ!高原さん、テニス上手だし思いっきり暴れてくれば?!」
 島田が言うと、
 「そうですよ・・・先輩のテニス、見ているとパワフルで憧れてしまいます。頑張ってくださいね」
 今年入学してきた、一年生の山本が明るく言った。大柄な体に似合わず、おっとりとしている少女だ。
 いつものパン屋に、島田を先頭に4人が入っていく。
 「こんにちは!」
 島田が言うと、おばちゃんが出てきた。
 「あら、いらっしゃい! あんた達、今帰り?」
 「おばさん・・・クレープ4つね!」
 洋子が言うと、おばさんはクレープを焼き始めた。
 4人は、クレープを受け取ると、ベンチに座った。おしゃべりが始まる。ようやく明日香も、女の子のおしゃべりにかなり慣れてきていた。
 「先輩・・・ジャパンオープン、楽しみですね!」
 山本が、明日香に言った。
 「簡単には、行かないよ・・・」
 明日香が苦笑いをしている。
 「でも、柴田先生も思い切ったよね」
 島田が言うと、
 「それだけ、明日香に期待しているということよね」
 洋子が言った。突然、
 「なになに・・・あんた達、何かあったの?」
 パン屋のおばさんが、4人の座っているベンチにやってきた。
 「先輩が、今度プロの出場する大会に出るんです」
 山本が言うと、
 「あらあ・・・すごいわね。じゃあ、テレビなんかにも・・・」
 「はい・・・出るでしょうねぇ・・・」
 山本が、答える・・・洋子と島田は苦笑いをしている。
 「すごいねぇ、あんた。今、女子テニスの選手では、西山って人が、いろいろな番組に出て芸能人みたいになっているけど、あんたの方が可愛いからもっと有名人になれるよ」
 「そうですよねえ・・・先輩! サインをもらって来て下さいね!」
 「僕は、有名人になりたいわけではないよ・・・」
 明日香は、山本に向かって言った。
 「何でよ・・・あんた、有名人になれば・・・」
 おばさんが言うのもかまわず、明日香は、
 「僕は、もっと強い人とテニスをしたいから、プロの大会に出ることにしたんだよ。別に有名になんかなりたくないよ」
 おばさんは、呆れたように明日香を見つめている。
 「あんた・・・変わっているわねぇ・・・」
 「おい!」
 店の方から声がした。おじさんがこちらを見ている。
 「いつまでそこで喋っているんだ」
 「いいじゃないの!お客さんの相手をしているだけよ!!」
 おばさんの返事を聞いて、4人が顔を見合わせた。笑いをこらえる4人。
 「ごめんね・・・あの人がうるさくて・・・」
 そう言うとおばさんは、名残惜しそうに振り返りながら店に戻って行く。明日香たちは、我慢をしきれずに笑い出していた。
 明日香は、ふと島田を見た。クレープをほとんど残している。
 「島田さん・・・どうしたの?」
 「え・・・うーん・・・今日は、疲れてあまり食べたくないの」
 「大丈夫?」
 洋子が心配そうに尋ねた。
 「大丈夫よ・・・さあ、帰ろう!」
 4人が立ち上がる。4人はおしゃべりをしながら歩いて行く。時折笑い声が、夕方の町から聞こえてきていた。


 夏がきた。
 大会が近づくに連れて、明日香の緊張感は、高まってきていた。
 その日も明日香は、朝早くから起き出すと、みんなを起こさないように静かに家を出た。いつものようにランニングをはじめる。さわやかな夜明けの町を、明日香は長い髪を靡かせながら走って行く。ホテルのテニスコートの横を走っていくと、
 『ポーン・・・ポーン・・・』
 思わず足を止める明日香。テニスコートでは、外国人の男女がテニスをしていた。
 「あれは・・・?」
 明日香がこちらを見ていることに気付いたのか。その女性はプレーを止めてこちらに歩いてきた。
 「久しぶりね」
 その女性を見て、明日香は緊張していた。
 「クルーズさん・・・・」
 その女性は、テニスプレーヤーのキャサリン・クルーズだった。明日香とは、1年前にも、ここでテニスをしていた。
 「クルーズさん、ウインブルドン優勝、おめでとうございます」
 明日香は、クルーズに挨拶をした。クルーズは、今年のウインブルドンテニスを圧倒的な強さで制している。テニス関係者の間では、今の女子テニス界に、クルーズと互角に戦える選手はいないとまで言われていた。
 「ありがとう!」
 クルーズは、明るく笑った。
 「どうして日本に・・・」
 「父が、在日米軍にいるから・・・ちょっと顔を見せにね」
 そう言うと、ちょっと真剣な顔を明日香に向ける。
 「あなた・・・今度ジャパンカップに出るそうね?」
 「はい・・・クルーズさんも?」
 「私は、残念だけど出ないけどね・・・」
 そう言うとクルーズは、テニスコートの方を見ながら、
 「どう? ちょっとやっていく?」
 明日香は、鳥肌が立っていた。世界のトッププレーヤーとテニスができる。緊張感が高まっていた。
 「お願いします」
 明日香は、フェンスの扉をくぐってテニスコートに入った。クルーズが明日香にラケットを手渡した。明日香は、コートに向かって歩いて行く。
 「おい・・・キャス・・・」
 クルーズのコーチが、おろおろしながら声をかける。
 「大丈夫よ、コーチ」
 クルーズは、ニッコリ笑うとコートに入った。
 明日香が先にサーブをする。
 『ポーン・・・』
 軽快な音がコートに響いた。
 クルーズが、フォアハンドのスイングで返してくる。鋭いボールが帰ってきた。明日香もダイナミックなスイングでボールを打つ。ラケットにボールが当った。
 「クッ・・・!」
 思わず声が出る。インターハイなどで対戦した選手のボールに比べると、はるかにボールが重い。ラケットが押されるようだった。ボールがクルーズのコートに帰っていく。クルーズは、今度はバックハンドでボールを返した。明日香もボールに追いついてラケットを振る。
 『ポーン・・・』
 鋭い音がコートに響く。
 クルーズが明日香と反対側の方向にボールを打った。明日香も、スピードを活かして追いつく。しかし、打ち返したボールはネットに引っ掛かって音を立てていた。
 「さすがにボールが重いな・・・」
 明日香は、呟いていた。思わず手のひらを見つめる。まだ、腕がしびれているように思えた。
 今度は、クルーズがサーブを打つ。
 「しっかり見てなさいよ」
 そう言うと、クルーズはボールをトスして思いっきり打った。ボールは、唸りを上げて明日香を襲う。明日香は、咄嗟にラケットを出していた。ラケットがボールの勢いに押される。打ち返したボールは、ネットに引っ掛かっていた。
 「これが・・・プロのサーブ・・・」
 明日香は、呆然としていた。
 クルーズが明日香の方に歩いてきた。
 「スピードは、すごいわね。ボールを見る動体視力や反射神経も・・・」
 そう言うと、クルーズは、首をかしげた。
 「でも・・・まだパワー不足かな・・・」
 明日香は、俯いてしまった。クルーズとプレーをすると、自分の力不足がよくわかったのだ・・・。
 クルーズは、ニッコリ笑った。
 「よし・・・一緒にプロでプレーする相手だけど、一つプロデビューのお祝いをあげようかな?」
 そう言うと、クルーズは、コートに戻って行った。
 「サーブを打って!」
 明日香がサーブをすると、クルーズが打ち返す。
 「これは・・・」
 クルーズは、明日香にあることを教えようとしていた・・・。


 ジャパン・カップテニスが開幕した。
 明日香は、1回戦からプロを相手に快進撃を続けていた。観客も、明日香のダイナミックなプレーと、可愛らしさに魅了されていた。
 その観客の中に、スポーツ誌“スポルト・ジャパン”の記者、高村進一郎がいた。
 「よう・・・おまえも来ていたのか?」
 振り返ると、大きな望遠レンズをつけた一眼レフカメラを首から下げた、黒田が立っていた。
 「よう!」
 高村もニッコリ笑った。黒田は、高村が座っている席の横の階段に腰を下ろした。
 「取材か?」
 黒田が尋ねた。
 「ああ・・・そうだ」
 高村は、缶コーヒーで喉を潤した。コートでは、熱戦が続いている。
 「女子シングルスに、去年のインターハイで優勝した、高原が出ているな」
 黒田の言葉に、高村は、
 「ああ、そうだな2回戦も勝っていたな。しかし・・・」
 「しっかり追いかけていろよ。面白い事になるかもしれないぞ!」
 ニヤリと笑ってそう言うと、黒田は観客の間を縫って歩いて行った。


 明日香は、初出場ながら順調に準決勝にまで勝ち進んでいた。
 「絶好調ね」
 柴田先生が笑顔で言った。
 「はい・・・でも、緊張しますね」
 「本当? 楽しんでいるみたいだけど」
 洋子が悪戯っぽい笑顔で言った。明日香も笑い出す。
 「うん・・・強い人とテニスをするのは楽しいね」
 「次は、日本のトッププレーヤー、西山さんだね」
 洋子が言った。その時、一人の女子選手が3人の前を歩いて行く。話題の主・・・日本の女子テニスプレーヤーの第一人者。西山紀子だった。西山は、周りに記者たちを連れて歩いていた。西山は、柴田を見つけるとニッコリと笑った。
 「久しぶりね。怪我をしてプロになれなかった人が、こんな所で何をしているの?」
 西山のあまりの言葉に、明日香と洋子は息を飲んだ。
 「高校の教え子が出ているからね」
 柴田先生が、西山に向かって言う。その表情は、いつもの優しい表情だった。
 西山は、明日香に視線を移した。
 「インターハイで勝ったくらいで・・・プロの大会は、そんなに甘くないわよ」
 そう言い捨てると西山は、記者を引き連れて歩いて行った。
 「そうですよね・・・高校生の大会で勝ったくらいで、西山さんにはとても敵わないよね・・・」
 中年の記者が西山に笑いながら言った。
 「もちろんよ・・・」
 西山も、笑いながら歩いて行った。
 「なによ・・・あれ・・・ひどいことを!」
 洋子は頬を膨らましながら言った。
 「あいつは、“ファインダー”の記者をしている竹村だな・・・」
 3人は、声のした方を見た。一眼レフカメラを首から下げた黒田と、高村が立っていた。
 「黒田さん・・・」
 明日香が言うと、黒田は会釈をした。
 「こいつは、“スポルト・ジャパン”の記者をしている高村・・・俺の大学の同級生だ」
 そう言うと、高村を3人の前に出した。
 「高村です。よろしく!」
 高村が、ひょこりとお辞儀をした。3人も高村に会釈をした。
 「“ファインダー”って写真週刊誌の?」
 洋子が尋ねると、黒田は、
 「ああ・・・芸能人のスキャンダルや、事故の写真。電車の中で広げて読むのが恥ずかしくなるような雑誌さ。あいつは、よく芸能人を追いかけて、そんな写真を撮っているよ」
 黒田が、あきれたように言っている。
 「西山って選手は、確か、“ファインダー”を出している出版社の社長の姪だったはずだぞ」
 高村の言葉に、
 「あの男らしいよ・・・取り入って出世したいんだろう!」
 黒田が吐き捨てるように言った。
 「先生・・・あの、西山さんと、何かあったのですか?」
 「え・・・?」
 柴田は明日香の質問に、首を傾げて考えると、
 「前は、よく試合でやりあってたからね・・・嫌われているかも!」
 柴田先生の答えに、みんなが笑い出した。
 「よーし!」
 明日香の元気な声に、みんながそちらを見た。
 「先生に教えてもらったように、思いっきりテニスを楽しんできますね!」
 明日香の明るい笑顔に、柴田先生は頷いていた。


 試合が始まった。
 西山には、観客の男性から、応援の声が飛び交っている。
 柴田先生と洋子は、記者の高村と一緒に観客席に座っていた。
 「すごい応援だな・・・」
 高村が、周りの男性たちを見ながら呟いた。
 「西山さんは、テレビのバラエティー番組や、雑誌なんかにも出て有名ですからね」
 洋子が言うと、
 「それが、テニスに必要なことなのか・・・すぐに答えが出るわよ」
 柴田先生が、二人に微笑みかけた。うなずく洋子。高村は、不思議そうに柴田先生を見ていた。
 『・・・と言うことは、高原が勝つということか?』
 高村は首をかしげた。彼も駆け出し記者とはいえ、去年のインターハイで明日香を見てから、いろいろ取材を重ねてきた。しかし高村は、今の明日香と西山には、まだまだ実力に差があると思っている。
 『高原は、まだ高校生の大会で勝っただけだが・・・』
 そう思いながら、コートに目をやった。
 試合は、西山のサービスで始まった。明日香は、西山の打つボールを右へ左へとコートの中を走って拾う。観客は、西山有利と思って大歓声だ。しかし・・・。
 「明日香のペースですね」
 洋子が、柴田先生に笑いかけた。
 「わかる?」
 柴田先生も微笑む。
 「・・・?」
 高村は、訳がわからないと言うように、首を傾げるとコートに目を戻した。
 「なるほどな・・・」
 黒田は、カメラマン席から試合の様子をカメラのファインダーの中で追っていた。
 ファインダーから見る西山は、押し気味に試合を進めているように見えても、明らかに苛立っていた。それに対して、明日香にはまだ余裕がある。
 西山がスマッシュを打った。しかし、ボールは音をたててネットに引っかかった。悔しさでラケットを上から下に向けて振る西山。
 結局、西山は第一セットを落としてしまった。

 西山は、戸惑っていた。
 「なによあの娘! 拾うだけで、何もしないなんて・・・」
 コートのどこにボールを打っても、明日香はその長い足で、俊足を活かして追いついて打ち返してくる。攻めているつもりの自分が、知らず知らずのうちに追い詰められていた。西山は、精神的に明日香に追い詰められてきていた。
 スポーツドリンクで喉を潤すと、西山は大きなため息をついた。

 「ふう〜っ」
 大きなため息をついて明日香は、タオルで汗を拭くと、髪を直した。
 今のところ、明日香は試合前の柴田先生の指示どおりに守りに徹していた。
 ボールを拾って相手のミスを誘うことで、試合をこちらのペースにしていた。
 「さて・・・そろそろ行きますか・・・」
 明日香はベンチから立ち上がった。第2セットでは、クルーズに教えられたことを試すつもりだった・・・。

 「あの娘も、かわいいよな?」
 洋子の近くに座っている男の子が、友人に話している。
 「ああ・・・スタイルもまるでモデルみたいだなあ・・・」
 羨望の眼差しで明日香を見る男の子たち。それを見て、肩を震わせながら笑いをこらえる洋子。

 第2セットが始まった。
 西山がボールを明日香のコートめがけて打つ。
 「さっきみたいには、いかないわよ!」
 西山はネットに付こうとして走って行く。
 明日香は、両手でラケットを構えると、スコートが捲くれるほど腰を使ってフルスイングした。
 「ダブルハンド?!」
 観客席で驚く高村。カメラマン席では、ファインダーを覗く黒田の腕に力が入る。シャッターを押すとモータードライブがフィルムを巻き上げる音が響く。ボールは、西山の差し出すラケットの下をくぐりぬけて行った。観客からどよめきが起こり、やがて大歓声に変わっていった。
 「すごい・・・」
 呆然とする高村。
 にっこり笑いながら、ファインダーから明日香を追いかける黒田。
 「あの娘もいいなあ・・・」
 竹村は、カメラを構えると、明日香を撮り始めた。
 明日香はフォアハンドでも、バックハンドでも両手でラケットを振っていた。今までより力強いスイングができた。
 明日香は、その長く美しい脚でコートを走ると、ダイナミックなフォームでラケットを振っている。観客は、そのプレーに魅了され、いつしか明日香の応援をしていた。
 西山は、焦っていた。ずっと格下だと思っていた明日香に、いつしか圧倒されている。
 「このままでは・・・」
 明日香の強烈なスマッシュを、何とか打ち返す。しかし、明日香はすでにネットに付いている。
 「・・・?!」
 驚く西山。明日香は西山のボールをボレーした。ボールが西山と反対方向のライン際で弾んだ。歓声が起きる。
 「やったー!」
 喜ぶ洋子。柴田先生は、優しい目で明日香を見つめている。
 明日香は、西山に握手を求めてネット際で手を差し出した。西山も明日香に手を差し出して握手をした。その顔は憮然としている。握手を終えると西山はさっさとコートから出て行った。取り巻きの記者たちも、西山の険しい顔を見るとさすがに声がかけられない。西山は、そのままロッカールームに姿を消した。

 「面白い娘ね・・・」
 スタンドの一角から、ショートカットの金色のきれいな髪の、長身のスマートな女性が明日香を見つめながら言った。
 「どうだ・・・マルソー・・・決勝で彼女とあたるぞ」
 白髪頭の少し小太りの男が、その女性を見つめる。その目は、心配そうにマルソーと呼んだ女性を見ている。
 「大丈夫よ、コーチ・・・」
 その女性は、にっこり微笑んだ。そして視線をベンチでバッグにタオルやスポーツドリンクを片付けている明日香に向けた。
 『あの娘・・・まさか・・・』

 肩から大きなバッグを下げた明日香が、控え室に引き上げてきた。通路でたちまち記者にもみくちゃにされる。
 「すばらしい試合でしたね」
 「日本のトッププロに勝った感想を」
 「今まで全くの無名でしたが、いったいなぜなのです?」
 質問攻めにあっている明日香と記者の間に、誰かが割り込んできた。洋子だ。
 「決勝進出おめでとう!明日香!」
 「ありがとう!」
 明日香も思わず笑顔になる。二人は抱き合って喜び合った。カメラのフラッシュの光が、二人を照らし出す。
 「素晴らしかったわ・・・」
 柴田先生が、右手を差し出す。明日香と握手を交わすと、肩に手を置いて労った。
 「決勝は、フランスのソフィア・マルソーとですね」
 「ウインブルドンの準優勝者との試合ですが・・・」
 明日香は、ちょっと首を傾げると、
 「胸を借りるつもりで頑張ります」
 そう言って笑った。
 明日香は、質問を続ける記者を振り切って洋子たちと控え室に入った。
 「ハア〜ッ・・・」
 明日香がため息をついた。
 「突然注目されて、大変ね」
 洋子が笑い出した。柴田先生は、優しく微笑んでいる。
 「決勝の相手は、強いけどあなたのテニスを楽しんでらっしゃい!」
 「マルソーは、ウインブルドンでクルーズと戦った選手ですよね」
 洋子が言うと、
 「世界ジュニア選手権では、女子の優勝選手だよなあ・・・」
 明日香が呟いた。洋子が明日香のほうに向き直る。その頬は膨れている。
 「クルーズを知らない人が、何で女子ジュニアの優勝選手を知っているの?」
 「え・・・それは・・・」
 明日香が赤くなって下を向いてしまった。洋子と柴田先生は笑い出した。やがて、3人の笑い声が控え室の外に聞こえてきた。外で待っている記者たちは、お互い顔を見合わせて首をかしげていた。


 決勝戦
 明日香は、控え室でテニスウエアに着替えると、綺麗な長い髪を後ろでまとめた。洋子と島田、そして柴田先生が見守る。明日香は準備を整えると、3人に振り返った。
 「思いっきり、楽しんでらっしゃい!」
 柴田先生が、力強く言うと、明日香も、先生の目を見つめながら頷いた。
 「頑張れ!明日香!!」
 洋子が言うと、明日香は黙って頷く。その顔は思いなしか青白い。
 「しっかりして!あなたのテニスをすればいいのよ!」
 柴田先生が、明日香の肩に手を置いた。それでも、明日香の表情は硬い。島田は、黙って明日香を見守っている。その白い両手は、胸の前で握られている。
 「キャッ!!」
 明日香が突然、可愛らしい悲鳴をあげた。スコートが捲られた。あわてて両手でスコートを抑える。後ろを振り返って立っている人を睨み付ける明日香。
 洋子がケラケラ笑いながら立っていた。
 「なにをするんだよ!」
 明日香は、顔を真っ赤にして怒っている。明日香の両手は、スコートをお尻の上で押さえつけている。
 「少しは堅さが取れたかな?」
 洋子が笑いながら言うと、
 「あ・・・」
 明日香は、ますます顔が真っ赤になって行った。
 柴田先生や、島田が笑い出す。控え室は4人の明るい笑い声で包まれた。
 「さあ、行ってらっしゃい!」
 「はい!」
 明日香は、元気に控え室を出て行った。


 決勝戦が始まった。
 マルソーは、パワフルなスイングで明日香を圧倒していた。明日香も、西山との試合から試しているダブルハンドのスイングで応戦している。決勝戦は、激しいポイントの取り合いになっていった。
 第一セットは、マルソーが取ったが、第二セットは明日香が取った。ウインブルドンの準優勝者を相手に互角の試合を繰り広げる明日香に、観客は沸き返っていた。
 「やるな・・・」
 黒田は、写真を撮りながら笑みを浮かべていた。
 高村は、試合内容を素早くメモに書きとめている。その目は、コートにいる二人の選手から離さない。
 「明日香・・・すごい・・・」
 洋子は、呆然とコートを走る明日香を見つめている。島田は、胸の前で両手を組んで明日香を見ている。
 「がんばって・・・高原さん・・・」
 知らず知らずのうちに呟いていた。
 「よお・・・」
 後ろからの声にみんなが振り返った。
 「西田君、明日香の応援に来てくれたの?」
 洋子が驚いて尋ねた。彼女たちの後ろには、西田が立っていた。西田は彼女たちの横まで来ると、通路の階段に腰をおろした。
 「ああ・・・同じ部の人間が出ているからな・・・決勝くらいは応援に行こうと・・・」
 歓声に言葉の最後はかき消された。明日香とマルソーが、ベンチからコートに向かう。
 『ここまでは、互角だったけど・・・』
 柴田先生が、明日香とマルソーを見比べながら考えていた。
 『彼女には、まだ足りないものが・・・』
 第三セットが始まった。明日香のサーブは、マルソーに簡単に拾われて、逆にマルソーの豪快なストロークに翻弄されていた。
 『さすがは、ウインブルドンの準優勝者・・・』
 明日香も、必死にボールに追いついて打ち返すが、次第にポイントの差が開いていった。最後には、もうボールを打ち返す力が残っていなかった。打ち返したボールが、音をたててネットに引っかかった。歓声が起きる。
 明日香は、ネットに向かって歩いて行くと、右手を差し出した。
 「ありがとうございました」
 「楽しかったわ・・・」
 マルソーとがっちりと握手をした。
 「あなた・・・前に私と会ったことは・・・?」
 「え・・・いいえ、ありませんが・・・?」
 明日香はドキッとした。彼女が男だったときに、マルソーとは世界ジュニア選手権の表彰式で一緒に表彰を受けていたのだ。
 『あぶねえ・・・』
 明日香は冷や汗をかいていた。
 表彰式で、マルソーと並んでカップを受け取る。マルソーは、一緒に並んでいる明日香の腕を持って、一緒に観客に手を上げさせていた。歓声が一際大きくなる。
 『やっぱり・・・テニスは楽しいな・・・』
 明日香は、テニスをできる喜びを噛締めていた。


 翌日、明日香が学校に行くと・・・。
 「高原さん、おめでとう!」
 「テレビで見たよ。試合・・・すごかったね」
 「びっくりしちゃったよ!!」
 たちまち教室で、クラスメイト達に囲まれてしまった。
 「ありがとう・・・」
 明日香は、真っ赤になって顔を下に向けてしまった。
 放課後、クラブでの練習を終えた明日香は、いつものように洋子や島田たちと一緒に帰っていた。
 「おーい!高原さん!!」
 振り向くと、新谷と西田が走ってきた。
 「一緒に帰っていいかな?」
 新谷が明日香に向かって言うと、
 「もちろんよ! ねえ・・・明日香?」
 洋子が、明日香に向かってウインクした。
 「うん・・・」
 明日香は、チラッと西田のほうに目をやると、頬を少し赤くしながら頷いた。
 島田を先頭に6人はいつものパン屋に入って行く。
 「こんにちは!!」
 島田が声をかけると、店の奥からおばさんが顔を出した。
 「いらっしゃい・・・あら!!」
 おばさんは、明日香の姿を見ると、顔一杯に笑みを浮かべて店に出てきた。
 「ねえねえ、あんた、テレビ見たわよ! あんな大きな外国人を相手にまあ・・・」
 明日香は、おばちゃんを見ながら苦笑いをしている。
 「おばさん・・・クレープ6つね」
 山本が笑いながら言った。
 「ハイハイ・・・。」
 おばさんは、クレープを焼き始める。しかし、口は止まらない・・・。
「 あんたねぇ・・・あのテレビによく出ている西山って人に勝つくらいだから、本当に強いんだねぇ・・・」
 「はあ・・・」
 明日香は、困惑した表情だ・・・後ろを見る明日香。新谷と西田は、後ろで笑いをかみ殺していた。
 「それでぇ・・・あんたもテレビなんかに出たりするの?」
 「いえ・・・僕はそんなことはしませんよ!」
 明日香は、とんでもないというように首を振った。
 「またぁ・・・そんなに可愛いのに勿体無い!」
 おばさんは、焼きあがったクレープを一人一人に渡していく。
 「それでね・・・」
 まだ、話し足りない様子のおばさん。しかし、
 「さあ、高原さん、向こうに行こう!」
 新谷が、苦笑いしながら明日香の腕を引っ張った。明日香たちが、ベンチに向かって歩いていく。
 「あら・・・ちょっと! ねぇ! 待ってよ! まだ話が・・・」
 明日香たちは、笑いながらベンチに来た。
 「はあ・・・すごいなあ・・・あのおばさん!」
 山本が、笑いすぎて目から涙を流している。
 「本当ね」
 洋子も、指で涙をぬぐっていた。明日香も、苦笑いしながらクレープを口に頬張る。
 「そう言えば・・・」
 島田が口を開いた。
 「この夏、みんなで遊びに行ってないよね。どこかに行こうか?」
 「海が良いと思いまーす!」
 山本が右手を上げると元気よく言った。
 「それは良いね。みんなで行こうよ!」
 新谷も話に乗ってきた。
 「なあ、西田。おまえも行くだろう」
 「え・・・でも、バイトもあるしなあ・・・」
 西田は、新谷に向かって言った。チラッと明日香にも視線を投げかける。
 「明日香は行くでしょう?」
 洋子が明日香に尋ねる。
 「え・・・・?」
 「見てみたいなあ・・・高原さんの水着姿!」
新 谷が言った。戸惑う明日香。
 『そうか・・・海に行くと言うことは・・・』
 明日香の笑顔がしだいに強張っていく。
 「ねぇ・・・見てみたいでしょう?」
 洋子と新谷が盛り上がっている。
 「冗談じゃないよ。水着だなんて」
 「いいじゃない! 海に行くんだから」
 洋子が明日香に笑いかけた。
 「今度の休みは、水着を買いに行こうねぇ・・・明日香ちゃん」
 「観念しなさい!」
 島田も笑っている。誰も助けてくれない。明日香は絶望感に包まれていた。
 「はあ・・・」
 大きなため息をつく明日香。あたりは、みんなの笑い声に包まれていた。
 

 日曜日、明日香は、洋子や島田と一緒にデパートに出かけた。
 「さあ・・・行きましょう!」
 洋子が明日香の手を引っ張ってデパートの中を歩いていく。その後ろから、島田がくすくすと笑いながらついて行く。
 3人は水着の売り場にやって来た。色とりどりのワンピースやビキニの水着が並んでいる。
 「高原さんは、どんな水着が好きなの?」
 島田が、いろいろな水着を見ながら明日香に尋ねた。
 「え・・・?」
 固まる明日香。洋子がビキニの水着を手に戻って来た。
 「これなんかどうかな?」
 洋子は、明日香の胸のあたりに水着を合わせている。明日香は、慌ててしまった。
 「こんなの・・・着れないよ!」
 「え・・・なぜ? 高原さんはプロポーションがいいし、似合うと思うわよ」
 島田も乗り気になっていた。
 「そんなあ・・・」
 情けない顔の明日香。洋子の持っている水着を見ると、大きなため息をついていた。


 翌週の日曜日、明日香は洋子や西田たちと海に海水浴に行った。
 「本当に・・・これを着るの?」
 更衣室で、明日香がバッグから水着を取り出して呆然としている。
 「あたりまえでしょう? それとも裸で泳ぐ?」
 洋子がケラケラと笑っている。
 「先輩・・・スタイル良いんですから、もっと自信を持ってくださいよ」
 山本が言うと、
 「もう・・・諦めて着替えなさい!」
 島田も笑っていた。明日香は、ため息をつきながら、しぶしぶ着替えている。
 そんな明日香を、3人は笑いをかみ殺しながら見つめていた。
 4人が更衣室から、砂浜に歩いてきた。
 「おーい! こっちだよ!」
 新谷が、パラソルの下で手を振っている。
 新谷の声に、辺りにいた男達は、まず新谷を見て、そして歩いてくる4人に視線を移した。カラフルな色のビキニを身につけた明日香に視線が集中する。
 『そんなに見るなよ・・・だからビキニなんて着るのは嫌なんだよ』
 明日香は顔を真っ赤にしながら、新谷と西田の待つパラソルへ歩いていった。
 「・・・」
 西田と新谷は、明日香に見惚れて声も出なかった。
 「そんなに見るなよ・・・」
 明日香が、顔を真っ赤にして俯いている。
 「可愛いよ・・・」
 西田が、海に視線を移して呟くように言った。
 「ありがとう・・・」
 明日香が言った。なぜか、胸がドキドキしている。
 『あれ・・・どうしたんだろう・・・』
 胸に手を当てる明日香。
 「せんぱーい! 泳ぎに行きましょう!!」
 山本が、波打ち際から明日香たちを呼んでいる。
 「明日香! 行こうよ!!」
 ビーチボールを持った、ワンピースの水着に身を包んだ洋子が、明日香に言った。
 「うん・・・島田さんも行こうよ」
 「私はいいわ。行ってらっしゃい」
 島田はにっこり笑うと、パラソルの下でジュースに口をつけた。その顔は、青白く見えた。
 「島田さん・・・大丈夫?」
 「大丈夫よ。心配しないで!」
 島田はニコニコしながら言った。
 「ほら・・・みんな待ってるよ」
 明日香は、島田に促されてみんなの待つ、波打ち際に行った。
 れは、明日香にとって久しぶりの楽しい時間だった。以前にも友達と泳ぎに来たことはあった。しかし、飛行機事故の後、体が女の子の体になってしまってからは、いつしか、あまり外には出なくなっていた。友達と一緒に太陽の下で遊べる。それは、明日香にとっては久しぶりに味わう楽しい時間だった。
 「楽しそうだな」
 西田が、明日香に声をかけた。
 「うん・・・久しぶりに来たからね」
 明日香は、少し遠くを見るような目をして言った。
 「やっぱりみんなで遊びに来ると楽しいね。テニスをしているときも楽しいけどね」
 明日香の笑顔が、西田には眩しかった。
 「あれ・・・?」
 空を見上げる西田。いつのまにか、空が曇り始めていた。
 「みんなのところに戻ろう」
 西田はそう言うと、明日香と一緒に砂浜に向かって戻り始めた。
 『ゴロゴロゴロ・・・』
 「やばい・・・急ごう!」
 しかし、辺りはあっという間に激しい夕立になった。
 「うわー! 早く!!」
 海から上がると明日香と西田は、ビーチパラソルのところまで走った。しかし、みんなの姿はなかった。
 「あれ・・・みんなどこに行ったんだろう?」
 明日香が、周りを見回す。しかし、周りにたくさんいた人達も姿が見えなかった。
 「みんな、雨宿りしているんだ・・・ほら、あっちは空が明るいだろう。すぐに雨はやむよ」
 西田は空を指差すと、周りを見回した。
 「あそこで雨宿りしよう!」
 西田は、明日香の細くやわらかい腕を握ると、雨の中を砂浜に立てられた小屋に向かって走り出した。明日香も走る。二人は、小屋の庇の下に入った。
 「あ〜あ・・・参ったなあ・・・」
 西田が、空を恨めしそうに見上げている。
 「洋子や島田さん・・・どこに行ったんだろう・・・」
 「多分、どこかの海の家の中だろう・・・この雨じゃあ、探しに行くわけにも行かないよ・・・」
 「そうだね・・・」
 明日香は、膝を抱えてうずくまっていた。
 「寒いのか・・・?」
 「ううん・・・平気だよ・・・」
 明日香と西田は、海の方を見つめたまま黙り込んでいた。雨はいっそう激しくなり、海が見えなくなるほどだった。
 「西田君・・・今日は、アルバイトに行かなくて良かったの?」
 「ああ・・・本当は、今日もバイトだったんだけどな・・・せっかくの機会だし、休みをもらったんだ」
 「そう・・・大変だね。毎日アルバイトと練習では・・・」
 明日香が、西田の横顔を見つめながら言った。
 「そうでもないよ・・・前にも言ったけど、親父を助けるために、バイトをしているけど、それだけじゃあつまらないしね。テニスは好きだし、いい気分転換になるよ」
 西田は、明日香を見つめると、笑いながら言った。
 「それに・・・」
 「それに?」
 明日香は首を傾げながら尋ねた。
 「クラブに行けば、高原がいるだろう」
 「え・・・?」
 驚く明日香。西田は、ゆっくりと明日香の小さな肩に手を置いた。
 『やばい!!』
 明日香は、心の中で悲鳴をあげていた。しかし、体の方は、目を閉じていた。
 二人の唇が重なり合った。明日香の心臓の鼓動が早くなる。耳の奥が痛くなるほど緊張していた。
 二人の唇が離れていく。西田の目は、明日香を見つめている。明日香は、頬を真っ赤にして下を向いていた。まともに西田の顔を見ることができなかった。
 「ありがとう・・・」
 西田が優しく言った。
 「・・・」
 明日香は、黙って頷いた。心の中では、男の心が悲鳴をあげていた。
 『違うだろう! 何やっているんだよ!!』
 明日香の男の心の自尊心が叫んでいる。
 「あ・・・雨がやんだね」
 西田が、空を見上げている。
 明日香も、空を見上げた。あれだけ激しかった雨がやみ、真っ暗だった空が明るくなり、水平線の辺りでは日が差し始めていた。
 「そろそろ、みんなのところに行こうか?」
 「うん・・・」
 明日香と西田は立ち上がると、みんなが待っているはずのパラソルの所へ戻って行った。
 明日香は、顔を上げて歩くことができなかった。俯いて歩いていた。
 『なんで・・・なんで僕が男とキスなんてしなきゃいけないんだよ・・・』
 そう思っていながら、キスをしているときには、心の中に、ウットリとしているもう一人の自分がいた。それが、自分には信じられなかった。
 「あ・・・明日香!」
 洋子の声がした。顔を上げる明日香。パラソルの下には、洋子や島田、山本と新谷も戻って来ていた。
 「もう・・・二人とも心配したわよ! あの雨の中どこに行っていたのよ・・・」
 島田が、頬を膨らませながら尋ねた。顔が真っ赤になって俯く明日香、さっきの事を思い出したのだ。
 「ああ・・・向こうの小屋の軒下で雨宿りをしてたんだよ」
 西田が言った。
 「そうだ・・・明日香。みんなにアイスを買ってこようよ」
 「そうだね・・・それがいいよ」
 そう言うと同時に、洋子と島田は明日香の手を引っ張って売店に向かった。
 「ねぇ、明日香。西田君と、何かあったの?」
 「え・・・? なんで?」
 「だって、高原さんさっきからおかしいわよ?」
 洋子と島田から、挟み撃ちを受ける明日香。たちまち顔が真っ赤になっていく。
 「どうしたの?」
 島田が、明日香の顔を覗き込む。
 「キスでもされたかな?」
 洋子の言葉を聞いて、明日香は耳まで真っ赤になっていった。
 「え・・・そうなの?」
 島田が驚く。
 「違うよ!」
 そう言うと、明日香は売店まで走っていった。
 今の明日香は、まだ自分が男だと思っている。しかし、一方で、西田が気になって、キスをされて喜んでいる自分がいる。自分で自分の気持ちが理解できなかった。
 売店に着くと、みんなのアイスクリームを選んで3人で持って帰った。みんなでアイスクリームを食べている時も、明日香は、西田をまともに見れなかった。
 「さて・・・帰ろうか」
 「そうだね・・・」
 もう、夕日が海に沈み始めていた。みんなで片付けをすると、明日香たちは家路に着いた。帰り道に、明日香は一言もしゃべらず、黙り込んでいた。駅に着くと、
 「楽しかったね」
 洋子が明るく言った。
 「また、みんなで行こうな」
 新谷も、ご機嫌だった。
 「また誘ってね」
 島田も言った。
 「・・・」
 明日香は、黙り込んでいる。
 「それじゃあ・・・」
 西田が言うと、
 「うん・・・またね・・・」
 明日香は、洋子と一緒に歩き出した。ずっと俯いたままで歩いていく。西田は、その後姿をずっと見送っていた。


 「ただいまー!」
 洋子と明日香が家に帰ってきた。
 「お帰り! 楽しかったか?」
 中尾教授が、リビングから歩いてきた。
 「うん・・・ちょっと雨に振られたけどね。ねぇ・・・明日香?」
 「うん・・・」
 明日香は、俯いたまま二人の脇をすり抜けていく。
 「ちょっと疲れちゃった・・・おやすみなさい」
 明日香は、そのまま階段を登って、2階の自分の部屋に入っていった。
 「何か・・・あったのか?」
 中尾が、洋子に尋ねた。
 「ちょっと・・・行ってくる」
 洋子は、階段を登ると、明日香の部屋のドアをノックした。
 「明日香? 入るよ」
 部屋の中から返事はない。洋子は、ドアのノブを回すと、静かにドアを開けた。
 部屋の中は、真っ暗で窓から月の光が差し込んでいた。明日香は、帰った時のTシャツとジーンズを着たまま、ベッドの横で膝を抱えてフローリングの床に座っていた。顔は、俯いて膝につけるような格好なので、洋子には見えなかった。
 「明日香・・・?」
 洋子は声をかけたが、明日香は答えない。洋子は、ゆっくり歩いて明日香の横に座った。
 「ねぇ・・・何があったの?」
 洋子が優しく尋ねた。突然、明日香が肩を震わせた。
 「明日香・・・?」
 明日香は泣いていた・・・涙が、窓から差し込む月明かりでキラキラと光っている。洋子は、優しく明日香の小さな肩を抱いてあげた。
 「西田君と、何かあったの?」
 「・・・明日香・・・・僕、変なんだ・・・」
 「どうしたの?・・・気にすることないよ。何でも話して!」
 「・・・僕・・・今日、海で西田君にキスをされちゃった・・・」
 真っ赤になって俯く明日香。肩が激しく震えている。
 「え・・・?」
 洋子は、少し驚いた。明日香が西田と・・・察しはついていたが、いざ本人の口から言われると驚いてしまった。
 「いいじゃない。なぜ・・・」
 「だって、僕は男だよ! なぜ男と・・・」
 明日香が顔を上げて、洋子を見つめた。綺麗な瞳からは、大粒の涙を流しつづけている。
 「それだけじゃないんだ・・・」
 「どういうこと?」
 「・・・キスをされた時・・・」
 「キスをされた時・・・どうしたの・・・?」
 洋子は、静かに言った。今日の明日香は、少し興奮している。もちろん、キスをされて興奮するのはわかるが、いったいなぜ?
 「・・・頭の中に・・・もう一人の自分がいて・・・」
 明日香は、顔を上げて洋子に顔を向けた。
 「・・・その頭の中の僕は、西田君にキスして欲しいって・・・目を瞑ってキスをされるのを待っているんだ・・・」
 明日香は、声をあげて泣き出した。
 「・・・変だよ・・・僕は男なのに・・・なぜ・・・」
 俯いて肩を振るわせ続ける明日香。
 洋子は、明日香を優しく抱きしめた。洋子の腕の中で、明日香は涙を流しつづけている。
 「明日香・・・」
 洋子は、すぐには言葉をかけられなかった。洋子は、いつしか明日香をいつも自分と同じ女の子だと思うようになっていた。しかし、現実には明日香の心は、男の子のままだった・・・。その明日香が、女の子の心を持ち始めて、その自分に怯えている。
 「明日香・・・」
 洋子が、ようやく明日香に声をかけた。
 「明日香・・・変じゃないよ。今の明日香は、女の子なんだから・・・。」
 洋子は、明日香の綺麗な髪をなでながら、優しく語り掛けていた。
 「・・・そんな、僕は・・・」
 「男の子・・・と言いたいかも知れないけど、今の明日香の体は、女の子の体・・・心も、いつまでも男の子のままでいるとは限らないでしょう。むしろ不自然よ。」
 「不自然?」
 「そう、不自然よ。女の子の体なのに、男の子の心のまま・・・その方が変じゃないのかな? 今の明日香は、その体に適応しようとしているんじゃないのかな?」
 「・・・」
 明日香は考え込んだ。明日香にも、洋子の言いたい事はわかっていた。しかし、彼女はそれを認めたくはなかった。自分は男・・・一年経っても明日香には、まだこだわりがあった。
 「変わっていく自分を受け入れてもいいんじゃないかな・・・もし、男の子のままだったとしても、時間がたてば人間は変わっていくんだよ。たとえ女の子になっちゃったとしても、正紀君は、正紀君でしょう? 自分の過去が無くなっちゃうわけじゃないんだし・・・」
 そう言うと、洋子は悪戯っぽい笑顔で明日香の顔を覗き込んだ。
 「違うのかな? 正紀君?」
 明日香は、洋子の瞳を見つめていた。明日香は、ゆっくりと頷くと、
 「・・・まだ、割り切れないけどね、なるようにしかならないのかな・・・」
 「自然に受け入れればいいのよ。今の明日香は、女の子なんだから・・・そうだ!」
 「どうしたの?」
 「明日香・・・私、今夜はここで寝ていいかな?」
 「え・・・?」
 「一緒に寝たことなんて、子供の頃にちょっとあっただけでしょう? 久しぶりにいっしょに寝て、いろいろ話をしようよ・・・ね!」
 明日香は、少し困ったような顔をしたが、
 「うん・・・」
 「それじゃあ、早くお風呂に入っちゃおうよ」
 そう言うと同時に、洋子は明日香の腕を引っ張って部屋を出て行く。お風呂から出ると、二人は明日香の部屋で布団を並べておしゃべりを始めた。話はなかなか終わらない。窓から差し込む月明かりが、二人を照らしていた。


 翌日、東京のある高級レストランで、中年の男と若い女性が一緒に食事をしていた。
 「これ・・・どういうことなの?!」
 女性が、テーブルの上に一冊の雑誌を放り投げた。中年の男が、右手で頭を掻いている。
 「いや・・・その・・・」
 「あの娘を載せ過ぎよ!」
 テーブルの上の“ファインダー”誌を指差しながら、大きな声で男に詰め寄る。
 開かれたままの“ファインダー”のカラーページには、『女子テニス界のニューアイドル登場』の大きな文字が躍っている。
 「・・・どの雑誌も載せそうだったんでね。仕方ないのですよ・・・うちだけ載せない訳にも行かないので・・・」
 竹村は、困ったような顔をして言った。それを聞いている西山の顔は、見る見るうちに頬が膨らみ、赤くなっていく。
 「いや、私は西山さんを載せたかったのですが・・・」
 「あたりまえでしょう! こんな、まぐれで決勝まで行ったような娘を載せるなんて、どうかしているわよ!」
 そう言うと、西山はテーブルの上に置かれていたワインを一気に飲み干した。
 「あんな娘が、私より注目されるなんて・・・許せない!!」
 吐き捨てるように言う西山。
 竹村は、小さくなりながら、それを見つめていた。


 午後、城南大学付属高校では、いつものようにテニス部の練習が行われていた。
 コートからは、元気な掛け声が響いている。校門から、白いファンカーゴがテニスコートに向かって走っていく。運転席では、サングラスをかけた黒田がハンドルを握っている。助手席には、大柄な体の若い男性が座っている。テニスコートの脇に車を停めると、黒田は大きな荷物を持って車を降りた。助手席から男性も降りてきた。
 「久しぶりだなあ・・・」
 男性は周りを見回すと、テニスコートのフェンスに向かって歩いて行く。
 「よぉ! 圭子!!」
 女子の練習を見守っている柴田先生に向かって、男性は声をかけた。
 「あ・・・俊介君。どうしたの? 連絡してくれれば良かったのに」
 「久しぶりにこっちに帰ってきたんでね。ちょっと遊びに来たんだ」
 「こちらにおいでよ」
 柴田に言われて、男性はフェンスをくぐり抜けてコートの脇に立っている柴田のところへ歩いていく。
 「久しぶりだな!」
 柴田に向かって男性が笑いかけた。
 「向こうでは、ずいぶん頑張っているようね」
 柴田も、にっこり笑った。
 「おまえだって、なかなか良い選手を育てているそうじゃないか」
 そう言うと、男性はコートで洋子を相手に練習している明日香を指差した。
 「あの娘か? マルソーを相手に互角に試合した娘は」
 「そうよ」
 「うーん・・・」
 男性は、明日香を見つめている。明日香は、ダイナミックなストロークでボールを打つ。洋子が、左右に打ち分けると、軽快なフットワークでボールを追っていた。
 「まるで、高校時代のおまえを見ているようだな」
 そう言うと、男性は笑った。
 「あれ? あの人、プロテニスプレイヤーの竹内俊介だよ」
 明日香が、洋子に向かって言った。
 「え・・・本当だ! なぜ柴田先生と・・・?」
 二人は、柴田先生のところへ走って行った。
 「「先生!」」
 二人が同時に声をかけた。
 「あらあら・・・」
 柴田先生が笑い出した。明日香と洋子は、男性に向かって頭を下げた。男性も笑顔で頭を下げる。
 「先生、この方は?」
 洋子が尋ねると、
 「この人?」
 柴田先生は、男性と顔を見合わせて複雑な笑みを浮かべた。
 「こちらは、知っているわよね。プロテニスプレーヤーの竹内俊介さん。私の高校時代の同級生なの」
 「それだけか?」
 竹内が笑いながら尋ねると、
 「それだけよ。他に何かあるの?」
 柴田先生が笑い出した。
 「先生・・・怪しいなあ・・・」
 いつの間に来たのか、島田が笑いながら立っていた。
 「島田さん、大丈夫なの?」
 柴田先生が、少し心配そうな顔で言った。
 「はい、ご心配をおかけしました」
 「島田さん、どうかしたの?」
 明日香が尋ねると、
 「さっき、ちょっと貧血を起こしてね」
 島田が苦笑いをしている。
 「それじゃあ、俺は滝沢先生に挨拶してくるよ」
 竹内が柴田先生に言うと、
 「あ・・・じゃあ、後でちょっとテニスをしようよ」
 「おまえ・・・膝は大丈夫なのか?」
 「最近は調子がいいから大丈夫よ」
 「わかった。それじゃあ後でな」
 竹内は、校舎の方に歩いていった。
 「先生・・・竹内さんとは・・・」
 島田が尋ねると、
 「だから、同級生よ」
 柴田先生が笑い出す。
 「高原君」
 声の方向をみんなが見ると、大きな荷物を抱えた黒田が立っていた。
 「黒田さん、こんにちは」
 「今日は、君にこれを持ってきたんだ」
 そう言うと、黒田は大きな荷物の梱包を解いていく。中からは、ジャパンカップのコートでラケットを振る明日香の写真パネルが出てきた。
 「うわー・・・」
 いつの間に来たのか、覗き込んだ新谷や山本が感嘆の声をあげた。
 「高原さん・・・すごく綺麗」
 島田が呟くように言った。
 明日香は、大きな瞳をさらに大きくして写真に見入っていた。それが自分の写真だからではない。その写真からは、写っている人間の息遣いや、ラケットがボールをはじき返す音が聞こえてきそうだった。
 「すごい・・・」
 ようやく明日香が声を出す。
 「さすがは黒田さんの写真ですね」
 柴田先生が言うと、
 「いや・・・それほどでも、まだまだですよ」
 黒田は、写真パネルを梱包しなおすと、明日香に手渡しながら、
 「これ・・・君に上げるよ。またいい写真を撮らせてくれよ」
 「ありがとうございます」
 明日香は、大きな写真パネルを抱えながらお礼を言った。
 テニスコートには、ボールを打つ軽快な音が響いていた。


 秋になった。
 テニス部では、3年生が引退するので、新しいキャプテンを選ぶことになった。
 「それでは、男子の新キャプテンは、西田晃一君に決まりました。では、女子の新キャプテンを・・・」
 「高原先輩が良いと思います」
 山本が手を上げて言った。
 「私は、島田さんが良いと思います」
 洋子が島田を推薦した。
 「え・・・私?」
 驚く島田。
 「そうだね・・・島田さんは、今までクラブを全然休まなかったし、後輩の面倒見も良いし・・・適任だね」
 明日香が頷きながら言った。
 「でも・・・私は・・・」
 色白の顔が赤く染まる島田。
 「では、女子のキャプテンは、島田真美さんで意義はありませんか?」
 「「「「「はーい!!」」」」」
 全員が手を上げた。驚く島田。
 「頑張ってね! 島田さん」
 「頑張れ・・・真美!!」
 明日香や洋子、女子の部員達が島田を励ます。その時、島田の顔に現れた影が、明日香は気になった。


 秋も深まる頃・・・明日香は、国内のプロの大会に出場した明日香は、圧倒的な強さで大会を制した。
 可愛らしくて、テニスの実力も凄いとなるとマスコミもほってはおかない。
 マスコミは、センセーショナルな見出しで報道をしている。
 『テニス界の新星』
 『天才美少女プレーヤー』
 『もう国内に敵はなし』
 テレビカメラも、明日香を追い掛け回していた。明日香は、日常生活にまで入り込んでこようとするマスコミが嫌でしょうがなかった。
 その日も、クラブに参加している明日香を、テレビや雑誌のカメラマン達がコートのフェンスに張り付いて撮影しようとしていた。
 「嫌だなあ・・・」
 明日香が、顔を曇らせる。
 「良いじゃないですか、先輩! 注目されているんですから。どんどん目立てばいいんですよ」
 山本が明るく言った。
 「僕は、注目されるためにプロになったんじゃないんだけどなあ・・・」
 そう言うと、明日香はコートに入ってラケットを構える。
 『ポーン・・・』
 軽快な音がコートに響いて島田がボールを打った。ボールが明日香のいるコートに飛んでくると、明日香が豪快なストロークで打ち返す。後ろからカメラの音が一斉に響く。明日香はイライラしていた。島田が打ち返してきたボールを、明日香はネットに引っ掛けてしまった。
 「君達、誰の許可を得てそこにいるんだ?」
 フェンスの向こう側で声がした。滝沢先生と柴田先生がマスコミの人達と話をしている。
 「私達は・・・」
 答えに詰まるカメラマン達。
 「この学校の校門には、“関係者以外の立ち入りを禁じる”と書かれていたはずです。取材は、きちんと許可を得てしていただきます」
 柴田先生が、きつい口調で言うと、一人の男が食って掛かった。
 「何言ってんだ! 俺達はな、読者の“知る権利”を助けているんだぞ! 読者のために、あんたたちも協力しろ!」
 食って掛かったのは、“ファインダー”の竹村だった。
 「“知る権利”は、取材者の身勝手まで許しているわけではないでしょう? 協力はしますが、きちんとこちらに連絡してください。今日のところはお引き取り願います!」
 滝沢先生が、毅然と言った。記者達も、しぶしぶ帰り支度を始めた。
 「覚えていろよ!」
 竹村は、吐き捨てるように言うと、黒塗りのリムジンに乗り込んで走り去った。校門で、ファンカーゴとすれ違った。ファンカーゴはコートの脇に走って来ると停まった。中から、黒田と“スポルト・ジャパン”の高村が降りてきた。
 「こんにちは!」
 黒田が滝沢と柴田に挨拶をした。
 「黒田さん」
 コートから、明日香の声がした。
 「よぉ・・・ちょっと写真を撮らせてくれないか?」
 「いいですよ」
 明日香も笑顔で答えた。
 「“スポルト・ジャパン”の高村です。今日は、高原さんの取材に伺ったのですが・・・」
 周りを見回す高村。記者達が車に撮影機材などを積み込んでいる。
 「何かあったのですか?」
 「いえいえ・・・高村さんは、学校が取材許可を出してますからね。どうぞ・・・ただし、部員の邪魔にならないようにお願いしますね」
 滝沢先生が苦笑いしながら言った。
 高村と黒田は、テニスコートのフェンスの中に入って来るとベンチに腰掛けた。
 「こんにちは、黒田さん」
 島田が、タオルで汗を拭きながら黒田に笑いかけた。
 「よぉ・・・新キャプテン! 頑張れよ!」
 サングラスをかけたまま笑いかける黒田。
 「ありがとうございます!」
 島田は汗を拭くと、高村に会釈をしてコートに戻って行った。
 「礼儀正しい娘だなあ・・・」
 高村が感心して言った。コートに戻った島田は、明日香と洋子を相手に練習をしている。
 「後輩の面倒も良く見ているよ・・・いいキャプテンになるだろうな」
 そう言うと、黒田はレンズを通して明日香を追っていた。明日香がスイングをするたびに黒田のカメラからシャッターを切る音が響いていた。

 「黒田さん、高村さん、お疲れ様でした」
 練習が終わると、明日香達4人が、二人に挨拶をした。
 「ああ・・・ご苦労様!」
 高村が答えた。
 「黒田さん、また、写真を見せてくださいね」
 島田が言うと、
 「ああ・・・また持ってくるよ」
 黒田は、ファンカーゴの運転席に座りながら答えた。
 「そう言えば・・・」
 洋子が首を傾げながら、
 「黒田さんが今まで撮った明日香の写真・・・どの本にも載ってないですよね」
 「そうですよね・・・なぜなんですか?」
 山本も首をかしげた。
 「それはね・・・」
 黒田が車のキーを捻ってエンジンをかけると、遠くを見るような目をして、「僕は写真を撮る時にストーリーを考えているからね・・・もっと高原さんが強くなってから発表するよ」
 そう言うと、明日香に向かって、
 「いろいろあるようだけど・・・頑張れよ!」
 そう言うと、ドアを閉めた。
 「それじゃあ、またな!」
 黒田は、窓から手を振りながら車を発進させた。
 「またね!!」
 明日香たちも手を振った。
 「本当のプロだな・・・あの黒田さんは・・・」
 後ろからの声に、明日香たちが振り返った。
 「西田君・・・」
 「一緒に帰ろうぜ・・・」
 西田が笑った。明日香も笑う。
 秋の夕暮れが迫る町を、5人がおしゃべりをしながら帰っていった。


 その年の暮れ・東京
 「これ、どうなっているのよ!!」
 高級イタリア料理レストランで、竹村は、西山紀子に詰め寄られていた。
 横には、西山の付き合っている男だろうか? 若い男性がおろおろしながら二人を見ている。テーブルには、いろいろな雑誌が置かれている。西山を激昂させたのは、高村が書いた“スポルト・ジャパン”の記事だった。
 『女子テニスの期待のホープ』という見出しで、明日香のこれまでの対戦成績が書かれていた。その後、『彼女は、これまでの試合の中で大きな進歩を遂げている。彼女のすばらしいところは、試合の中での適応力の高さだろう。彼女を指導している柴田コーチは、彼女をこの後は、来年春の“パシフィック・カップ”に出場させるつもりだと答えてくれた。そこで日本選手中一位になれば、夏の世界選手権に出場が可能になる。彼女が、いまや世界のトップに君臨する“女王”キャサリン・クルーズと対戦するのを楽しみにしている人も多いだろう。その日は以外に近いかもしれない・・・』
 「この記事・・・いったい何よ! まるであの娘が出ると決まったような書き方じゃない!」
 「いやあ・・・私が書いたわけじゃないんでねぇ・・・この記事は、TS出版の高村という若造が・・・」
 「TSと言えば、一流出版社じゃない! その出版社の出している雑誌がこんな記事を書いているのよ! 知らない人が読んだら納得しちゃうじゃない!」
 西山が雑誌を指差しながら言った。彼女は、マスコミの利用方法を良く知っていた。出版社の社長の姪という立場をうまく利用してここまで登りつめたのだ。
 「あの娘の弱点を探しなさい!」
 西山が命令口調で言った。
 「何でもいいの・・・弱点を探してそれを書きなさい! 気が散ってあの娘の集中力がなくなれば充分勝てるわ」
 そう言うと、西山はにっこり笑ってワインを飲んだ。竹村と若い男性は恐ろしそうに西山を見つめていた・・・。



 年が明けて初の練習になった。
 「ウウ・・・寒い!」
 ウインドブレーカーを着た明日香が、ラケットを持ってコートに立った。
 「寒いねぇ・・・」
 島田が腕をこすっている。
 「キャプテン、顔色が悪いけど大丈夫?」
 「大丈夫よ・・・それに、楽しみにしていたし」
 そう言うと、島田は笑った。
 「さあ、始めましょう!」
 明日香たちが練習を始めた。ボールを打つ音がコートから響く。
 「弱点なんか・・・あるのかよ・・・」
 車の中から、竹村がカメラを持ってコートの方を見ている。竹村は、あれから明日香の過去を調べようとしたが、高校入学以前の記録が、不思議なことに見つからなかった。戸籍には両親の記録もあるのだが、実際には見つからない。明日香の回りも探ってみたがスキャンダルになりそうなことは見つからなかった。
 やがて、練習が終わった。部員達が着替えて家路についていく。
 「高原さん、帰ろう」
 島田が言うと、
 「ごめんね、今日はちょっと寄り道するの」
 「え・・・怪しいですねぇ!」
 山本が笑う。
 「違うよ・・・ちょっと病院に・・・」
 「え・・・高原さんもどこか悪いの?」
 島田が心配そうに尋ねた。
 「ううん・・・定期検診だよ」
 そう言うと、明日香は迎えに来たタクシーの方へ歩いていく。
 「またね!」
 明日香は手を振るとタクシーに乗った。タクシーが走り出すと、黒塗りのセドリックが後ろを追いかけて行った・・・。

 病院に着くと、明日香は外科病棟へ歩いていった。
 「外科病棟? あの娘・・・どこかを故障しているのか?」
 竹村は、いかにも見舞い客といった素振りで病棟に入って行く。
 「やあ・・・明日香君、お久しぶり」
 診察室で白井医師が明日香を迎えた。
 「こんにちは。今日は中尾先生は・・・」
 「ああ・・・先生は学会に出ているんでね。今日の検診は僕がするよ。」
 白井はそう言うと、明日香に必要な検診をしていく。竹村は、外のベンチに座って診察を待っているという素振りで中の様子をうかがっていた。
 「異常はないですね・・・もうすっかり安定していますね・・・」
 白井が、カルテに記入している。明日香に向き直ると、
 「“スポルト・ジャパン”読みましたよ。世界選手権を目指すんだって?」
 「いえ・・・そんなに簡単には出れないですよ。強い人も一杯いるし」
 「頑張ってよ! 君が頑張ってくれれば、僕達もうれしいから!」
 そう言うと、白井は笑った。
 明日香が診察室を出て行った。白井は、まだカルテを書いている。
 「先生! お電話です」
 「はい!」
 白井が席を立つ。診察室の外から中の様子を伺っていた竹村は素早く中に入ってきた。カルテを覗き込む竹村・・・その内容に驚く。
 「あの娘・・・男か?!」
 竹村の頭の中に、去年の飛行機事故のことがよみがえった。あの時、一人だけ生死不明の少年がいた。
 「弱点を見つけたぞ・・・いや・・・弱点どころか」
 竹村はニヤリと笑ってポケットからコンパクトカメラを取り出すと、カルテを写し始めた。人の気配がしたので、写すのを止めて外に出る。素知らぬ顔で病院の外に出た。白井が部屋に戻って来た。カルテを片付けると椅子に座った。
 「次の方、どうぞ」


 翌週、
 「おはよう!」
 病院の医局に白井が現れた。
 「先生! 大変です!!」
 看護婦の慌てぶりを見て、
 「どうしたんだ・・・まったく」
 「これを見てください!」
 差し出された“ファインダー”を見た白井の顔から見る見るうちに血の気が引いていった。
 『期待の美少女テニスプレーヤーは、実は男だった!!』
 『偽りの美少女!』
 明日香の写真と、どうやって手に入れたのか、男だった頃の正紀の写真が見開きページに載っている。そして、次のページにはカルテの写真も・・・。
 「しまった!! あの時か!」
 人の気配を感じたが、あの時写真を撮られていたんだ。白井は、後悔していた。震える手で電話を掴むと、ボタンを押していく。
 「もしもし・・・中尾先生ですか・・・?」
 白井の声は、震えていた。


 学校に行く途中の西田は、コンビニで“ファインダー”を何気なく手にとった。中を読んでいるうちに腕が震え始めた。
 「そんな・・・あいつが男だなんて・・・」
 ショックを受ける西田。


 明日香は、いつものように洋子と一緒に学校に向かっていた。
 「高原さん! 大変よ!!」
 島田が前から走ってきた。
 「おはよう! 島田さん。どうしたの?」
 「校門の前に、ものすごい数のマスコミが・・・」
 島田は肩で息をしていた。顔色が悪い。
 「真美・・・大丈夫?」
 洋子は、島田の肩に手を置いて顔を覗き込んでいる。
 その時、
 「あ・・・いたぞ!!」
 大きな声がした。声のした方向を見る明日香。そして明日香は見た。たくさんの男や女が、殺気立った顔でこちらに走ってくる。
 明日香は、不安な眼差しでそれを見つめていた。



 センター・コート(第2話) 終わり



 こんにちは! 逃げ馬です。
 すっかり遅くなってしまいましたが、「センター・コート」の中編をお送りしました。
 プロデビューを果たした明日香。仲間達にも恵まれて楽しい日々を過ごしてましたが、思わぬ落とし穴にはまってしまいました。それも、本人は注目されるのを望んでいないのですから、災難としか言えない訳で・・・。
 さあ、これから明日香たちは、このマスコミの攻勢をどう切り抜けていくのでしょう。そして、明日香がかつて男だったと知った西田は・・・?
 また、よろしければ第3話に、またお付き合いください。
 さて、第2話で初登場の柴田先生と竹内俊介君。実は、このHPの短編小説のページに掲載している“思い出の彼方に・・・”に登場しています(^^) よろしければ、そちらもご覧くださいね!
 では、第2話に最後までお付き合いいただいてありがとうございました。


尚、この作品に登場する団体、個人、大会名などは、実在のものとは、一切関係のないことをお断りしておきます。

2001年9月 逃げ馬

 


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